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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  104

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 「室さがしなんて、大体こんな工合のものなんですよ」
 蜂谷良作と伸子はセイヌ河の古本屋通りへ向ってゆっくり歩いた。
 「たった二日歩いたぐらいで飽きたんじゃあ、室さがしは出来ない」
 「飽きなんかしないけれど……」

 つまりは、現在いるところがあるからだ、と伸子は思った。
 伸子は、けんかしたあとも、夜はきちんとホテルへ帰って、そこで寝た。
 ペレールから伸子が歩いてホテルへ戻るのは大抵夜の十時か十一時で、マネージャーの親爺はその時刻に、帳場にいることもあり、いないこともありだった。

 いたにしても、伸子が正面のしゃれた模様入りのガラス扉をあけると、そこから入って来るのが伸子だということをとうに知ってでもいたように、決して入口に顔を向けず、帳簿つけのようなことをやっていた。

 伸子の荷物が往来にほっぽり出されることもなく、七階の屋根裏部屋を伸子のカギであけたとき、先ず目をやる枕の上の白い猿のおもちゃにも異状はなかった。
 だからと云って、彼らが伸子を出て行かせようとしていることは同じだった。
 マネージャーの細君である非常に肥った女が、捲毛をたらした頬に愛想笑いを浮べて、ある朝、伸子のそばへよって来た。

 「こんにちは、マドモアゼル」
 「こんにちは」
 マダムとつけるべきところだろうが、伸子にはそう云えなかった。
 「マドモアゼル、お部屋は見つかりましたか?」
 「いいえ」
 それをきくと細君は、自分の胸の厚さでおすようにして伸子をエレヴェーターのものかげへひきよせ、指環のはまっている片手を伸子の腕の上において、ひそひそ声で半ばおどすように云った。

 「マドモアゼル、おわかりでしょう?
  お部屋を早くおみつけなさい。
  わたしは、毎日、うちのひとをなだめているんですよ、
  あのかたは教育のあるマドモアゼルなんだからって」
 「ペレールに住んでいるわたしの家族が十月末にはパリから出発します、
  それと同時に、わたしも引越しましょう」

 「おお!
  マドモアゼル、それは、わかっていますよ」
 アパルトマンの門番からでもききだしているらしく、ほんとにそのことは知っているくちぶりだった。
 「でも。
  今月末!」
 細君は息を吸いこんだまま伸子を見つめて、かぶりをふった。
 「マドモアゼル、部屋をおさがしなさい。
  あなたがいい方だということは、わたし、よくわかっているんです。ね?
  よございますか?
  マドモアゼル」
 それは、いい子だからねとくりかえして、いやがる使いに娘を出そうとするおふくろの言葉のようだった。



        七

 伸子の部屋さがしの中途で、両親がジェネワへ立つ日が来た。
 前の晩、おそくまで多計代の手伝いをして、つや子の部屋に泊った伸子が目をさましたとき、窓の外に雨が降っていた。

 こんな天気で立てるのかしら。
 伸子はそう思った。
 多計代は和服だから、雨降りだと不便なばかりでなく、また気分がわるくでもなるのではないかと思った。
 本来ならば、おととい、親たちはジェネワへ行っていたはずだった。

 朝十時の列車にのる予定で出た泰造と多計代とは、ペレールの住居で伸子とつや子が、もう汽車にのりこんだだろうかと話しているところへ、不機嫌な顔を並べて戻って来た。
 多計代の気分がわるくなって、どうしても出発できなくなったのだった。

 泰造は、病弱な妻をつれて旅をしているためにおこるそういう不便にはなれて来ていても、多計代が云った何かのことで、ひどく傷つけられているらしく、
 「伸子、おっかさんを見てやってくれ」
 びっくりして出迎えた娘たちにそう云ったなり、やっと客室の長椅子にたどりついた多計代の方は見ないで、外出してしまった。

 体のなかに苦しいところがあって、しゃんとかけていにくいらしく、多計代は肩をおとして、片手を長椅子のクッションの上につきながら、もう一方の手で、ものうそうに帯あげをゆるめた。
 伸子は、できるだけいそいで、その帯あげをとき、袋帯をほどき、その下の伊達巻や紐類をゆるめた。
 おはしょりがゆるんで派手な訪問着の前褄がカーペットの上にずりおちた。

 つや子がいれて来た熱い緑茶を、ゆっくりひとくちずつのみながら、多計代は、
 「お前がたのお父様ってかたは、いったいどこまで見栄坊なんだろう」
 苦しさはそこにあるという風に、多計代は息をきらしながら云った。
 「わたしの健康より、浅井さん夫婦に気がねをする方が先なんだから、あきれたもんだ。
  どんなに偉いのかしらないが、さきは、若い人たちじゃないか」

 浅井夫妻は、国際連盟関係でジェネワに駐在している人々であり、泰造にとってはもともと儀礼的な知人でしかなかった。
 その人たちが、出迎えたり、ホテルの世話をひきうけてくれていることについて、人に迷惑をかけまいとする泰造が、出来るだけ予定を変更したがらなかったこころもちは、伸子に察しられた。

 伸子は、多計代のそういう言葉にあいづちをうつ心持がなかった。
  足が冷えないように白い足袋の足の下にクッションをおき、寝室からもって来た羽根ぶとんで、動くのも大儀そうな多計代の体をくるんだ。

 「ベッドに入っていらした方がいいんじゃない?」
 しばらくして伸子がすすめると、多計代は故意に顔をそむけるようにした。
 「さあさあ、とんだ御厄介をかけてすまなかったね、
  伸ちゃんも行くところがあるんなら、さっさと出かけておくれ」
 「…………」

 みんなが苦しむのは、多計代の不健康よりも、こういうこじれかただった。
 多計代の体がわるいことについて、家族のみんながもっている同情や心づかいの優しいこころに、多計代はいつも自分からつっかかってとげをたてた。
 「病気が事務的に解決できるものなら、わたしだって、何もこんなに苦しみやしない」

 なか一日休養して、けさ、ようやく出直しの出発だというのに。
 窓の外にふる雨を見ながら、伸子は身じまいをした。
 そして、廊下へ出ると、寝室から浴室へ行こうとしている泰造に出会った。
 「おはようございます」
 「ああ、おはよう」
 「雨ね、お父様」

 泰造は、白い短い髭のある上唇を、むくりと動かすようにして、
 「ああ」
 めずらしく、ぶっきら棒な返事だった。
 「だまっているんだ。
  また問題がおこるから」
 伸子によけいなお喋りをするな、ということなのか、それとも、うるさいから俺はだまっているんだ、というわけなのか。
 どっちにしろ、それは伸子に、普通でない泰造の気分を感じさせた。

 浴室に入ってドアをしめる父親のうしろつきを、廊下にたって伸子はじっと見送った。
 おととい、多計代から傷つけられた泰造のこころもちは、いやされていないのだ。
 伸子は、まだ仕度されていない食堂へ行って、ぼんやり立っていたが、やがて、寝室のドアをノックしてあけた。
 多計代はもう起きていて、電燈をつけた鏡に向って髪を結い終ったところだった。
 雨が降っていることについては、多計代は何とも云い出さなかった。

 食堂のヴェランダからは、雲の低いパリの空がひろく見はらせ、目の前のヴェランダはすっかり濡れているのだから、多計代にも雨がふっていることはわかっているにちがいない。
 伸子のはらはらする気持は、多計代をジェネワ行の列車の車室にかけさせてしまうまで、休まらなかった。

 みんなが気をそろえて、天気のわるいことにはふれないで自分をたたせようとしている。
 そこにこだわって、多計代がおこりだすことはあり得たし、そういって多計代がおこれば、伸子は自分として何と云いつくろうのか知らなかった。
 浴室へゆく廊下で泰造のああ云った言葉がなければ、伸子は、母の顔を見た最初に、あいにく雨ね、というたちなのだったから。

 格別の苦情も云わず、それかと云って旅だつ楽しそうなところもなくて、両親が並んで乗っている列車が発車してから、伸子は寂しいきもちで、モンソー・エ・トカヴィユまでタクシーを駛《はし》らせた。
 十時半にホテルへ磯崎須美子が来るはずになっていた。

 十一月はじめにマルセーユを出帆する太洋丸で日本へかえる須美子は、伸子とおちあって百貨店プランタンへ子供の旅仕度のための買物に行く手筈にきめてあったのだった。
 ロンドンできめた予定どおりに運べば、同じ船で、泰造、多計代、つや子も帰国するわけだった。
 パリへ来てから、多計代の健康上、シベリア経由をすすめられて、佐々の方は、まだきまらないままである。

 ホテルへ着いてみたら、須美子のノートがのこされていて伸子が留守だから、一足先にプランタンへ行っている、子供部に居ります、とある。
 思いがけない行きちがいで、伸子は、びっくりしながらカウンターの上の時計を見あげた。
 ここの時計はもう十時四十五分になっている。
 どうしてこんな時間になったろう。

 列車は十時発車ということで、発車と同時に伸子はリオン停車場前からタクシーにのったのに。
 途中に四十分かかったとは信じられない。
 しかし、伸子がおくれた証拠には、約束どおり十時半にここへ来た須美子のノートがのこされているのだ。

 パリで子供を亡くし、つづいて良人の恭介に死なれ、二人の骨をつれて日本へ帰って行く須美子との約束をないがしろにしたような成行を、伸子はそのままにしておけなかった。
 プランタンへかけつけて、二階の子供もの売場をさがして行くと、いいあんばいに須美子の一行が見つかった。

 須美子は、恭介が急に亡くなったときからいる中年の看護婦に、下の子供を抱いてもらって来ていた。
 いそいで陳列台の間を近づいてゆく伸子を認めると、須美子は手にとりあげていた白い子供ものを下において、
 「ああよく!」
 と云った。

 「おいそがしいのに、ごめんなさい」
 ブルターニュ生れらしい、実直な看護婦が、抱いている子供の体のかげから、
 「こんにちは、マドモアゼル」
 というのに答えながら、伸子は、少し息をはずませた声をおさえて、
 「ごめんなさい、行きちがってしまって。
  両親がジェネワへ立つのを送っていたもんだから……。
  でも列車は十時に出たはずなのに、どうしておくれたのかしら」

 「あなたに忙しい思いをおさせしてわるうございましたけれど、わたしは、うれしいわ、
  来て下すって」
 須美子は、伸子の手をとったまま、唇をひらかないほほえみを泛べた。
 恭介が亡くなってから、ほほえみらしいものを浮べた須美子の顔を伸子は、はじめて見た。

 須美子は、そこで、看護婦の腕にだかれている子供のいまの小さい体に合うような、そして、いくらかあとまで使えるような形や布地の下着を注意ぶかくいくつか選び出した。
 それから別の陳列台のところで、歩けるようになったときのために可愛い白鞣の靴を一足買い、船のなかで使うために桃色の子供用毛布とフードつきのマントを買い求めた。

 ちゃんと計画を立てて、須美子は買うべき物を選び、布地の丈夫さについてはときどき看護婦と相談した。
 あたりまえのなりをしていて、普通のパリのおばさんのように見える看護婦は、須美子から相談をうけると、世帯もちのいい女らしくその布地を指の間でためしたりして親身に相談にのっている。

 あらゆる角度から、女の購買欲をそそりたてるマガサンでの須美子の買ものぶりは、伸子を感服させ好意を誘った。
 須美子にはものを買うにも、ほんとに須美子らしいつつましさと清らかさがあって、山とつまれ、色とりどりに飾られた品物の山の中から、正直な小鳥が、自分にいるものだけを謙遜に嘴《くちばし》でひき出すように、おちついて選びだすのだった。

 「お疲れになったでしょう、こまかいものばかりいじっていて」
 須美子は子供品売場から出ながら云った。
 「もうひとところ、つきあっていただかなければならないんですけれど。
  鞄売場はどこかしら……」

 六階の鞄売場はプランタンのほかの売場より人気がなくて、棚の上まで大小さまざまのトランクの金具が光り、鞣や塗料の匂いがただよっているなかに男の売子が立っていた。
 須美子は、ゆっくりとそこを見て歩いた。
 「手に下げられるような形の鞄の方がいいと思うんですけれど」
 船室で使うスーツ・ケースがいるのかと思ったが、須美子のさがしているのはそういう種類のものでなく、婦人向の気のきいた手まわり入れでもないらしかった。

 「何というんでしょう、両方へくちが開く鞄がありますでしょう、すこし深くて。
  昔からある形だと思うんですけれど」
 陳列の間をさがして歩く須美子の足どりにも、眼つきにも、子供売場での須美子とちがった熱心さがあらわれていて、ほかの型ではどうしても彼女の役に立たないことが、はっきりしている風だった。

 「きっと、はやりの型じゃないんでしょうね」
 根気よく売場を隅々までひとまわりして、おしまいに棚の上の方でやっと須美子の求めているらしい形の鞄が発見された。
 「ああ、あれですわ、そうらしいわ」
 須美子は、背広を着た若い店員に、その鞄をおろさせた。
 茶色皮で、どちらかというと野暮くさい両開きの鞄を台の上へおいて須美子は丁寧にうち張りと縫めをしらべ、幾度も鍵のしまり工合をためした。

 そうしながらも、須美子はその鞄の容積を気にして内外から調べる様子だったが、その結果彼女は、もう一つ同じ型の鞄を買うことにした。
 「とどけさせるの?」
 伸子がきくと、
 「もてますでしょう、看護婦さんがいますし、どうせタクシーですから……」
 軽いけれども嵩《かさ》ばるカバンを両手に下げて、須美子は、やっときょうの買物の予定はすんだ、という表情になった。

 伸子たちはプランタンのなかの食堂で、あまりおいしくもない昼食をすました。
 そして、十四日の午後二時に須美子のデュトのうちへ行く約束をして、百貨店の前からタクシーにのった須美子の一行とわかれた。
 佐々の両親がパリを立つのもいずれ月末のことになっているし、双方の出発の日がせまらないうちに、伸子は須美子のために小さい計画を思いついたのだった。

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