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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  102

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 伸子はやがてディヴァンの上へおきなおり、のばした脚の上にスーツ・ケースをのせて、その上でモスクワの素子への手紙をかきはじめた。
 「この前書いてから、たった六日しかたっていないのに、
  ここでどんなことが起ったか、あなたに想像できるかしら」
 伸子は、磯崎恭介死す、という電報をうけとった夜の情景から、恭介の葬式の日の模様を素子にしらせた。

 恭介の葬式が行われたペイラシェーズの式場の様子は、六月に素子がまだパリにいたとき、恭介の上の子供が亡くなって、素子もよく知っているわけだった。
 「お葬式の日は、こんども雨でした。
  子供さんの葬式の日、雨はふっていたけれども、
  あれは若葉にそそぐ初夏のどこか明るい雨でした。
  さきおとといの雨は、つめたかった。
  もうパリの十月の時雨でね、
  ペイラシェーズの濡れた舗道にはマロニエの落葉がはりついていました。

  須美子さん、看護婦に抱かれている小さいあの白い蝶々のような赤ちゃん、
  そのほかわたしを入れて八九人の人のいるがらんとした、
  礼拝堂のパイプ・オルガンは、こんどは恭介さんのために、鎮魂の歌を奏しました。
  正面扉についている小さいのぞき窓のガラスは、再びルビーのように燃え立ちました。

  パイプ・オルガンが、ゆたかな響を溢らして鳴りはじめたとき、
  わたしは、隣りにかけている須美子さんの美しい黒服の体が、
  看護婦に抱かれている子供のそばからも離れ、
  もちろん、わたしたち少数の参会者の群からも離れて、
  恭介さんとぴったり抱きあいながら、
  徐々に徐々に翔《と》び去って行ったのを感じました。

  わたしにそれがわかるようでした。
  それから、須美子さんがのこった妻として、
  また悲しい雑事のなかに覚醒することを余儀なくされて、
  そのとき、それがどんなに彼女にとってむずかしいことだったかも。
  須美子さんは、でも、ほんとに立派に、苦しいこれらの瞬間をとおりました。

  『骨の町』の柱廊のはじへ雨がふきこんで、あすこは濡れていました。
  子供のお骨のしまってあるとなりの仕切りに、恭介さんのお骨がしまわれて、
  その鍵が、須美子さんの手のなかにおかれたとき、わたしの脚がふるえました。
  一人の若い女が、外国で、こういう鍵を二つ持たなければならないということは、
  何たることでしょう。

  須美子さんはたいへん独特よ。
  この不幸を充実した悲しみそのもので耐えている姿は、高貴に近い感じです。
  あのひとには、何てしずかな勁《つよ》い力があるのでしょう。
  わたしの方が、まごついたり、当惑したり、よっぽどじたばたです。
  きのうデュトへ行ったら、須美子さんは、わたくし帰ることにきめました、
  と、いつものあの声で云いました。
  須美子さんが日本へ帰るということは、片方の腕に生きている赤ちゃんを抱き、
  もう一つの腕に二つの御骨をもってかえるということなのよ。

  この四日間ばかり、あなたがパリにいたらと思ったのは、
  わたしだけではなかったろうと思います。
  わたしのように役に立たないものでも、須美子さんには必要だったのだもの。
  でも、いい工合に、実務的な面では親切に扶《たす》けてあげる、
  若い方があるらしい様子です。
  いまの須美子さんに対して、人間であるなら親切にしずにはいられません」

 伸子は、そこまで書いて、しばらく休み、それから千種という男からきいたニュースにふれた。
 「正直に云って、ペレールの人たちが、このことについて知っていないのは、
  おおだすかりです。
  でもわたしたちは、それについてもっと知りたい。
  知っていなければうそだと思うんです。
  日本の状態として、ね。
  そちらではきっと具体的にわかっているでしょうけれど」
 そう書きながら、伸子は、こんな事情は蜂谷良作には、いくらかわかっているかもしれないと思った。

 素子の手紙へは、それをかかなかったが。
 「こんなに幾重ものことで心をつかまれているわたしだのに、
  マダム・ラゴンデールったら、きょうの稽古の間に、二度も、あなたは街へ出て、
  カフェーをのみたいと思いませんか、ってきくんですもの!
  テキストのどこにも、そんな問答はありはしないのよ。
  マダム・ラゴンデールは、ほんとにただそういう会話の練習をしているだけだ、
  という表情で、質問をくりかえしました。

  わたしは、二度ともノンで答えました。
  わたしは、それをのぞんでいません、て。
  心の中で笑いだしたくもあり、腹も立ち、よ。
  この女教師は『非常に《トレ》親切な《ジャンディ》』日本婦人たちの、
  先生というよりも、おあいてのような関係にいるのね、きっと」
 伸子は、そこでまたペンをとめた。

 ペレールのものが、シベリア経由で帰ることにきまれば、伸子は当然素子に、たとえ一日だけにしろ、モスクワで世話をたのまなければならないわけだった。
 その上、もうじき雪がふり出すであろうシベリア横断の間で食糧に不自由しないように、とくに果物のかかされない多計代のために、十分ととのえた食糧籠の心配もして貰わなければならない。

 伸子自身がパリから動こうとしないで、そういう世話だけたのむとしたら、素子はそれを、どううけとるだろう。
 伸子には自信がなかった。
 この問題は、ほんとに決定してから、素子へ長文電報をうってもおそくないときめた。
 ところが次の日、伸子にとって思いがけない不愉快な事がおこった。

 朝九時すぎ、伸子がいつものようにペレールの家へゆこうとして屋根裏部屋からエレヴェーターでおりて来て、ホテルの玄関にさしかかったとき、うしろから、
 「アロール、マドモアゼール」
 鼻にかかった大声でよびとめるものがあった。ふりかえると、肉桂色のシャツの上にチョッキを着て、厨房の監督でもしていたのか、ひろい白前掛をかけたホテルのマネージャーだった。

 男は、玄関のホールにあるカウンターのうしろへ入って来て、その前に立ちどまった伸子と向きあった。
 「マドモアゼール、あなたは、いつ部屋をあける予定ですか」
 いきなり、粗末な英語でそうきいた。

 伸子ははっきりした期日をきめずペレールのうちのものが出発するまでと思ってそのモンソー・エ・トカヴィユ・ホテルの七階に寝とまりしているのであったが、そういうききかたをされるのは変なことだった。
 「なぜ、あなたはそれが知りたいんですか」
 伸子は、相手の不確な英語と自分のよたよたした英語とがからまりあって、おかしい事態をひきおこさないようにと、ひとことひとことをゆっくり発音し、できるだけ文法にも気をつけてききかえした。

 「いつ、あなたは部屋をあけますか」
 あっさりと学生風な身なりをしている伸子の顔の上にじっと眼をすえて、同じ言葉がくりかえされた。
 男のその眼の中には、日ごろ客たちに向ける愛想よさのうらをかえした冷酷ないやな感じがあった。
 「まだきめていない」
 答えながら、伸子はカウンターにずっと近よった。
 「しかし、あなたのその質問は、普通、ホテルのマネージャーとして、
  客に向って試みない質問ですよ」

 それに答えず、ぶっきら棒に、
 「あなたは、うちの食堂で食事をしない」
 そう云った。
 一度昼食をたべたことがあったが、ここの料理は、こってりしたソースで肉や魚の味をごまかしてあって、伸子の気にいらなかった。
 「それは別の問題です。あなたのホテルは、ホテルでしょう?
  食事付下宿《パンシオン》じゃない。
  入口には、ホテル・モンソー・エ・トカヴィユとありますよ」

 五十がらみの男の胆汁質な顔に、むらむらした色がのぼった。
 「わたしたちは、あの部屋からもっと儲けることができるんです」
 話は露骨で、強引になって来た。
 丁度ホテルは午前九時から十時の朝飯の刻限で、カウンターのすぐ横にある狭い食堂の中には、女客の方が多い泊り客たちが食事をしていた。

 カウンターのところで始ったおかしな掛け合いが、すっかりその人々に見えもすれば、きこえもする。
 エレヴェーターへの出入りも、一旦カウンターの横を通らずには出来なかったから、伸子は、そこでいわばさらしものめいた立場だった。
 伸子は、たくみにおかれた自分のそういう位置を意識するよりもよりつよく、白眼のどろんとしたマネージャーのおしかぶせた態度に、反撥した。

 「あなたは、おそろしく率直です」
 伸子は、ちっとも自分の声を低めないで云った。
 マネージャーの男は、伸子に向ってほとんど怒鳴っている、と云っていいぐらいの大声をだしているのだった。
 「あなたのホテル経営法は、どういう性質のものだかわかりました。
  しかしね、わたしはホテルの室代としてきまった料金を払っています、
  一〇パーセントのティップを加えて。
  わたしは豪奢な客ではなくても、あなたのホテルにとってちゃんとした客です」

 「わたしどもは、もっとずっと多く、あの部屋から利益を得ることができるんだ」
 まるで、カウンターのまわりに動いている人々に、自分のうけている損害を訴えかけでもするように視線をおよがせながら、マネージャーは大仰にこめかみのところへ手をあてがった。
 「あなたのような若い女のくせに、わたしに損をさせるもんじゃない!」

 これは途方もない、云いがかりの身ぶりだった。
 「わたしに責任はありません。あなたが食事つき下宿《パンシオン》と、
  入口にかき出しておかなかったのは、お気の毒です」
 「別のところへ部屋を見つけなさい。
  もっとやすいところへ。
  やすいところへ」
 フランス人に特有な両肩のすくめかたをして、男は伸子にわからないフランス語のあくたいをついた。

 「あなたが部屋をあけなければ、あなたの荷物を、道ばたへ放っぽり出すから!」
 伸子は腹だちを抑えられなくなった。
 「あなたにそうする権利があると信じているなら、やってごらんなさい。
  やって《ジャスト》、ごらんなさい《トライ・イット》!
  わたしどもは、その結果を見ましょう。
  フランスは法律のない国ですか?」

 やっと男はだまった。
 「わたしの承知なしで、あなたは何一つすることは許されません、荷物にさわることも、
  室をひとに貸すことも」
 おこりきった顔と足どりで、伸子はさっさとホテルの玄関を出た。

 戸外には、天気のいい十月の朝の、パリの往来がある。
 小公園のわきをとおってペレールへの横通りへ曲りながら、伸子は、だんだん腹だちがおさまるとともに、あのホテル全体に対するいやな気持がつのって来た。
 伸子が云いあらそっているとき、わざとゆっくりカウンターのわきを通りすぎながらきき耳をたてていた男女や、必要以上ゆっくり食堂に腰をおろしていた連中の顔の上には、自己満足があった。

 学生らしい身なりをしていて、ろくな交際もないらしく、一人で出入りしている若い女、ホテルに余分な一フランも儲けさせない女。
 そんなこんなで、マネージャーにいやがらせを云われている女。
 小綺麗なモンソー公園の近くに、その名にちなんだしゃれた唐草模様ガラス扉をもっている小ホテルのカウンターでくりひろげられたのは、バルザックの小説のような場面だった。

 伸子は、たかぶった自分をしずめるためにペレールの家の前を通りすぎて、ペレール広場まで行って、そこからもどって家へ入った。
 ペレールの食堂では、泰造と多計代のジェネワ行きについて、その小旅行につや子をつれて行くか、行かないかの相談最中だった。

 「どうします?
  つや子」
 泰造らしく、末娘の意見をきいている。
 その調子のどこかに、重荷を感じている響があった。
 手荷物の多い多計代一人が道づれでも、税関その他での心労が、六十歳をこした泰造には相当こたえるらしかった。

 「たった四五日のことだから、こんどは留守番しますか、
  姉さんにでもとまってもらって……」
 つや子にしても、またジェネワへ行って、中途半端な自信なさで大人ばかりの客間から客間へひきまわされることは、気づまりらしかった。
 つや子は、
 「お留守番する」
 と答えた。

 「伸ちゃん、泊ってもらえるんだろうね?」
 「ええ……できると思うわ」
 「おや、何だか御不承知らしいね」
 みんなにはだまっているが、けさのホテルでのことがあるから、伸子は、四五日こっちへとまるとしたら、と、ホテルの荷物がどうにかなってしまわないかしら、と思ったのだった。

 「よくてよ、安心して行ってらっしゃい」
 何かおこれば、おこったときのことだと伸子は心をきめた。
 「じゃあお父様、そうきまったんなら、切符をお願いいたしますよ」
 泰造は間もなく外出し、多計代は、ゆうべよく眠らなかったといって寝室へもどった。
 親たちの留守、姉とだけ暮すということが気にいったらしく、つや子は機嫌よく、客間の隅にかたよせてある絵の道具をもち出した。

 カンヴァスの上にはつや子の性格のあらわれた強いタッチで、前景に露台のある並木越しの風景が描きかけてある。
 ブルヴァールをへだてた遠くに、赤白縞の日よけをさし出した一軒のカフェーがここから見えていて、つや子の絵の中にそこも入れられているのだった。
 「お姉さまあ、こっちへ来てみない?」
 「うん」
 「ねえ、いらっしゃいよう」
 「ちょっと待って」
 片づけられた食堂のテーブルのところから伸子を気軽に立ち上らせないのは、やっぱり、けさのごたごたの、いやなあとあじだった。

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