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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  85

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 モスクワで和一郎と小枝の結婚について多計代からの知らせをうけとったとき、伸子には、二人の結婚が多計代に承諾されたということさえ意外のようだった。
 和一郎にたのまれてモスクワへ立って来る前の晩、人気ない洋風客間で彼が小枝と結婚する決心でいるということを立ち話したとき、多計代は何と云ったろう。
 多計代は、娘の伸子の顔にさぐるような視線をすえて、そんなこと言っていたかい?
 とそのひとことに、はっきり不承知をふくませた。

 和一郎のおくさんなんて!
 そのとき多計代は、小枝が夫を扶けて発展させるたちの女ではない、あんまり享楽的だ、と云った。
 そういう話を、弟にたのまれるままにひきうけて母に告げる伸子を、多計代は、煽動しないでおくれ、ときびしい声でとがめた。

 三月に式をあげて、五月下旬に両親やつや子とフランスへ出発して来た和一郎と小枝との結婚は、伸子がモスクワで単純に思っていたように、とうとう若い二人も、がんばりぬいた、というだけの愛嬌のある婚礼ではないらしかった。
 和一郎や小枝としては、二人が結婚するということだけをがんばったつもりにちがいなかった。

 けれどもその要求は、多計代がどうしても外国旅行をしようと決心したについての老巧な計画性と、微妙にからみ合わされ、若い二人にとっては、ひとぎきだけ華やかな海外への新婚旅行として、まとめあげられてしまった形だった。

 和一郎は、憤懣にたえない若い男の口元の表情で、むきだしにそのいきさつを姉に説明した。
 「小枝を小間使いにするためだってことがはじめっからわかれば、
  僕、決して、あのとき結婚するなんて云い出しゃしなかったんだ。
  のばして平気だったんだ。
  その点、僕、小枝にほんとにすまないことをしたと思っている」

 ホテルの小部屋で、寝台に並んでかけて話している和一郎のわきで、彼がそういうのをきくと小枝はさっと顔をあからめて涙ぐんだ。
 そして、何か云おうとしたが、やめた。
 結婚式についても、いずれ外国から帰ってのち改めて、ということで至極手軽にすまされたし、花嫁の結婚支度も、双方の親の話しあいで予算の三分の二はこんどの旅行の費用として、現金で泰造にわたされたということだった。

 「それで、それだけのお金は、あなたがたが持っているの?」
 伸子は、自然そういうことまで訊かないわけにいかなくなった。
 「それが、そうじゃないんだ。
  一緒くたになってしまっているんだ。
  僕たち二人なら、出るたんびにタクシーにのるわけじゃないし、
  一流のレストランへ行きたいわけじゃないし、倹約に、能率的に、
  若いものらしくつかえるんだ。
  今のまんまなら、結局、総額は頭わりで、不合理きわまるのさ。
  おやじにだって、そんなことぐらいわかりきっているはずなんだ」

 若い二人は、船の上でも、パリへついてからでも、少額ずつ小遣いをあてがわれているだけだ、ということを、伸子は、その晩の話しで知らされたのだった。
 段々話が深く具体的になって行くにつれて、伸子は苦しくなった。
 そして、ことのいきさつ全体に恥しさを感じるのだった。
 和一郎と小枝の結婚を承認するということを、こんどの旅行へ結びつけた親たちのやりかた。

 伸子のきもちからみると、どことなくすっきりしない小枝の婚資のつかいかた。
 そと目に派手で、内実、それほど充実したものでない佐々の家の風からおこる無理、というより伸子に云わせれば、いやしさと知らない中流的ないやしさで、ごたついている一家の旅姿を、伸子はせつなく思うのだった。

 泰造の、いわゆる英国紳士らしい常識、良い判断とよばれているものが、このいきさつに関して一向はたらきをあらわしていないようなのも、新しく伸子を考えさせることだった。
 泰造はすっかり、多計代の企画にしたがっているだけのように思える。
 保が死んだ失望と歎きは、泰造の心もちを、そんなにうちくだいてしまったのだろうか。
 多計代のいうなりにする、ということの中に何か泰造の言葉にあらわさない保への供養があるのではないだろうか。
 ナポリで、上陸しない船の上から街の灯を見て泰造が泣いた、というみんなの話は、伸子の胸をさしとおした。

 みんなの病的に過敏にされている感情と、泰造の神経のつかれが感じられて。
 話したかったことを、ともかく話しきったという様子で、タバコをふかしはじめた和一郎に、長い沈黙ののち伸子はぽつり、ぽつり云った。
 「何しろ、うちはむずかしいうちなのよ。
  小枝ちゃんだって、姪とお嫁さんと、
  こうまでちがうもんだっていうことは思わなかったでしょう?
  佐々のうちには、たしかに特別つよく特徴があらわれているんだけれど、
  つまりは日本の旧い家族というものの考えかたよ、ね。
  それに日本の中流というものの経済的な貧弱さよ、ね」

 デュトに住んでいる画家の磯崎恭介とその美しくて忍耐深い妻の須美子が、故国の親との間にもっている辛い関係にしろ、佐々のうちでもめている事情の別の一面なのだった。
 「外国へ出ると、誰でも一応日本のいろんなことから自由になったように思うし、
  自由にしていいはずだと思うから、矛盾がひどくわかって来るんだわ。
  自分の国で窮屈な思いをしている国の人ほど、外国へ出ると、
  外国は自由だと思ってのびようとするのよ。

  だけれど、ここでだって、
  セイヌ河からみもちの若い女の溺れた死骸が毎日あがっているのよ。
  新聞でみてるでしょう?
  木炭ガスで自殺している貧しい親子があるわ。
  あなたがただって、もうどうせここまで来てしまっているんだもの、
  できるだけ智慧をはたらかせて、
  生活のいろんな面のなかから自分たちの方針を立てて行かなくちゃ。

  いま、和一郎さんが腹を立てているのも、もっともだけれど、だって、
  怒るために、何もパリまで来たわけじゃないんでしょう。
  ねえ、小枝ちゃん」
 「わたしは、正直なところ、お兄さまがおこるのさえ、やめて下すったらと思うの。
  わたし、背中のぬけるぐらい、平気なのよ。
  すこしの間恥しいのを辛抱すれば、それでいいんですもの」

 船で、小枝が夜の服に着かえてから、多計代の和服の帯をしめる。
 暑い船室でのその仕事は、せっかく身じまいした小枝に汗をかかせて、薄い、きれいなレースや何かの夜の服の背中まで汗をにじませることがある。
 和一郎は、そういう小枝を見ると、不機嫌になるのだった。

 「和一郎さん、それは御亭主のエゴイズムというものよ」
 伸子は、気のつまる話の末に、くつろぎたくて、
 「そりゃ、小枝ちゃんみたいに、きれいな若い奥さんをもてば、
  汗をかかせている姿なんか見せたくないでしょうけれどね」
 と、すこし笑った。

 「小枝ちゃんの、いいところよ。
  そういういいところで、和一郎さん、もしかしたら、
  あなた小枝ちゃんの御亭主になれているのかもしれないのに」
 しかし、和一郎は、むっとしている顔つきをゆるめず、白眼の光る視線で伸子をちらりと見た。
 「僕は、そういう自分の気分で、小枝のことをいうんじゃないんだ。
  小枝だって、僕の気もちを、姉さんにそういう風に話すなんて変だ。
  僕は、おっかさんの、あの荷物がいやなんだ」
 伸子の顔にも緊張があらわれた。

 和一郎は、保の分骨がはいっている錦のつつみものをさしているのだった。
 パリへついてからずっと、それは、いま二人とも出かけていないアンテルナシオナールの泰造と多計代の室の、奥に並んだ二つの寝台の間におかれている枕テーブルの上に飾られてあるのだった。

 「僕たちにしろつや子にしろ、みんなおっかさんは気の毒だと思って、
  それぞれにやって来ているんだ。
  そうでも思わないんなら、ここまで来るもんか。
  それだのに、おっかさんときたら、ちょっと何か満足することがあると、
  そういうことは何でも彼でも、『彼』のおかげにするんだ。
  僕たちがやったことでもだよ。

  そして僕たちは、あらいざらいの気にくわないことの張本人にされる。
  生きてるものが、そんなに死んだものの犠牲にされるなんて、あることかい?
  そんなに『彼』がいいんなら、おっかさんは何だって、
  袋をもったりタクシーを止めたりすることだって『彼』にさせればいいんだ」
 和一郎が、多計代の携帯品である錦のつつみをきらう原因は、ただ保の肉体についての思い出からばかりではないのだった。

 「僕は、ホテルの女中でも、あれを何かと間違えてなくしちゃいでもしたら、
  かえっていいと思ってるくらいだ」
 つや子は、一人ぼっちで誰もいないひろい両親の室へ臥ているのをいやがって伸子、素子、和一郎、小枝とつまっている室の、一つのベッドにはいっていた。
 若い四人は、つや子を眠ったものと思い。

 そう思ったというよりむしろそこにつや子がいるのを忘れて話していた。
 和一郎のはげしい語気に、たれ一人口をきくものがなくて、ひっそりしたとき、伸子はふと、ベッドのなかでつや子が泣いているのに気づいた。
 伸子は、思わずはっとした。

 目で、ほかのものの注意をつや子のベッドの方へ向けさせた。
 「つや子ちゃん、ごめんね」
 伸子は立って行って、白い掛けものに顔をかくして泣いているつや子の、少女らしく汗ばんだ肩を撫でた。
 「みんなであんまりいやな話ばかりして、泣けた?
  大丈夫よ。ね。
  いちど話して、これから、気もちよくやるようにするんだから」
 つや子は、伸子の頸に片方の腕をまきつけて、伸子の顔を涙でびっしょりになっている自分の顔にすりつけた。

 そして、しゃくりあげながら、
 「そうじゃないの、そうじゃないの」
 とささやいた。
 「いいの、お兄さまが、みんな話すの、うれしいの。
  このひと、ほんとにどうしていいかわからなかったんですもの。
  保ちゃんみたいに死んでしまえば、お母様は、
  このひとも可愛がってくださることと思っていたんだもの」
 伸子は、だまってきつくつや子の体をだきしめた。
 伸子の眼にも涙があふれた。



        五

 うちのものがパリへ来てから、その日はじめて伸子は父の泰造と二人きりで外出した。
 ひるすこし前にいつものように親たちのとまっているホテル・アンテルナシオナールへ伸子が行くと、めずらしく泰造がまだ室にいて、手袋を買わなければ困ると云っているところだった。
 「だって、あなた、この暑さに。
  手袋なんて」
 小規模な上に、設備の不十分なホテル暮しで、じき七月十四日のパリ祭をむかえようとする都会の暑気を多計代は凌ぎがたく感じはじめているのだった。

 「こっちの習慣で、夏でも正式の訪問には、
  手袋をもっていることになっているんですよ」
 「おやおや。
  はめるためじゃなくて、持っているための手袋なんて。
  暑いのに御苦労さまだこと」
 多計代は、そういうパリの習慣をおかしがるように、また、年をとっても外国の習慣には従順であろうとしている泰造を、おしゃれだと思っている眼で、娘をみて笑った。

 「丁度伸ちゃんが来たから、一緒に行ってお買いになったらいいじゃありませんか」
 そのとき和一郎も小枝も外出してしまっていた。
 それでも多計代が、伸子に出かけていい、というのは、気分のいい証拠だった。
 「じゃ、そうしよう。
  じき伸子はかえしますからね」

 男子の正式な訪問用手袋などというものを、どこで買っていいのか、伸子も知ってはいないのだった。
 ちゃんとした百貨店で、ちゃんとしたものを買えばいいのだろう。
 そう思って、伸子は売子の一人は必ず英語のわかるトロア・カルチエへ泰造と行った。
 泰造は、そこで鹿皮の手袋を、二種類買った。
 トロア・カルチエの前の歩道のマロニエの樹かげにたたずんで、泰造は、
 「さて、どうしますか?」
 と伸子に云った。

 これは泰造のくせだった。
 東京で、伸子が泰造の事務所へよって昼飯を一緒にたべたりしたあと、泰造はいつもこれを云った。
 そして、伸子の予定をきいた上で、そのまま別れることもあったし、どうせ、次の約束までにはまだ時間があるから、と伸子に便利なところまで車で送って来てくれることもあった。

 いま、パリの繁華なブルヴァールのマロニエの下で、
 「さて、どうしますか?」
 と、いつもながらの父の云いかたをきいて、伸子は何だか胸が急にいっぱいになるような、まごついたような心持になった。
 「お父様は?」
 娘としての習慣から、伸子はひとりでにそうききかえした。

 パリで、はじめて父と二人きりで外に出ているという条件は、その日の外出のはじめから伸子をいくらかふだんと違うこころもちにさせていた。
 伸子には、父にゆっくりと隔意なく訊いて見たいようなことがいろいろあるのだった。
 こんどのヨーロッパ旅行について、父のもっている全体の見とおしについて。
 それから、和一郎夫婦の処置について。

 それほどまとまったことでなくても、とにかく何かにつけて、おちおち父と話しているような落付きさえないホテル暮しの毎日が、伸子には苦しい。
 四十日の航海の間、絶えずしっくりと行かなかったらしい和一郎夫婦とのことが、泰造を苦しませていないわけはないだろうし、現在、和一郎が益々両親夫婦に反撥して、神経をたてている、それが父親である泰造に何も感じさせないこともあり得ないと思える。

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