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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  77

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 すると、その顔も伸子が伸子であることを間接に認めたらしく、視線にかすかなほほ笑みの影をうつした。
 その表情で、顔は一層写真にある父笹部準之助の顔だちに近くなるのだった。

 伸子は風に吹かれるように異様な心持につつまれた。
 ベルリンのこの人ごみで、伸子をこんなに衝撃する笹部準之助の顔が、つまりは顔だちばかりのもので、生の過程そのものは二度と父であり得ない息子のものだということは、何ときびしい暗示にみちた現実だろう。

 その顔が、いま伸子の見ているところでどことなく気弱そうに人波にもまれ、ある瞬間には見え、次の瞬間にはまたかくされて、見えがくれしている姿も、伸子に人生というものを感じさせずにいない。

 伸子は、あんまり父そっくりな顔だちをもって生れた笹部準之助の息子にいたましさを感じた。
 彼は彼の顔からにげ出すことは出来ないのだ。
 その顔は、ベルリンにいようとロンドンへ行こうと、そこに日本人がいて、その日本人が笹部準之助という名を知っているかぎり、写真を見おぼえているかぎり、この親の立派な顔だちをうけついだ青年のぐるりに一応は、父の文学への連想によって調子のつけられた環境がつくられてしまうにちがいないのだ。
 どんな力で彼はその境遇から身をふりほどくだろう。

 あくる日、プラーゲル広場の角のカフェーで川瀬たちと落ちあったとき、伸子はドイツ銀行の人ごみの間で見かけた笹部準之助の息子のことを彼らにはなした。
 「ああいう人はあなたがたと、ちっともつき合わないの?」
 「まあ別世界だね」
 大きい眼玉をうごかして川瀬勇が返事した。
 「ああいう連中は、どこへ行っても、ちゃんと、とりまきってものがあってね。
  いわばお仕着せの人生なんだ」

 「そんなもん、蹴っちまったらいいじゃないか、ばかばかしい」
 むっとした口元で素子が云った。
 「かんじんのおやじは、牛鍋が御馳走で、あれだけの仕事をのこしたんじゃないか。
  そのことを考えりゃいいんだ」
 「子供の時分から、何のかの、とりまきに馴れて育ったものは、
  やっぱりそれがないと淋しいんだろう。
  それに、はたもいけないさ、てんでに目下俗人に堕しちまっているもんだから、
  あの顔をみると、いやにセンチメンタルになって、
  笹部準之助の作品をよんだ、
  自分の若かりし日を回顧する気になったりするのが多いんだから。
  それが所謂相当の地位にいるからなお毒なのさ」

 ベルリンには、伸子や素子のように、短い滞在の間、あれにも、これにも触れようとしているもののほかに、また、ドイツ銀行の人ごみで偶然見かけてもう二度と会うこともなさそうなこういう笹部のような名流子弟もいるわけだった。
 互に知らないベルリン在住の日本人の、ほとんどすべての顔をそこの主人は知っている一つの場所があった。
 それは「神田」という日本人のやっている土産店だった。


        十二

 津山進治郎は、ベルリンで出会った伸子の心の日々にはこういういきさつもあり、同時に、モスクワの一年四ヵ月というそこでの生活から彼女がここへもって来ているいろいろの生活感情がある。
 という事実にとんじゃくのないところがあった。

 伸子たちが会うときは、とかくいつもくたびれているソフト・カラーがものがたっているように、金の使いかたのこまかい津山進治郎は、女づれでも、塩豚とキャベジを水っぽく煮たようなベルリンの小店の惣菜をふるまった。
 津山進治郎は世間でいうりんしょくからそうなのではなくて、彼のやりかたには、万事万端、何か一つのことを激しく思いこんでいて、わきめもふらずそれを追いこむことに没頭している人間の、はたにとん着ない馬力とでもいうようなものがあるのだった。

 大柄のがっしりした体に灰色っぽい合服をつけ、ソフト・カラーで太い頸をしめつけている津山進治郎は、すこしねじれたように結んでいる、くすんだ色のネクタイをゆすって伸子たちに云うのだった。
 「とにかく日本人はドイツのやりかたをもっともっと本気で研究する必要がある。
  大戦後のあのドイツが、どうです、もうそろそろ英仏を追いぬきかけて来ている。

  クルップだって、ジーメンスだってイー・ゲーだって。
  これは世界有数な染料工場ですがね。
  おどろくべき発展をとげている。
  レウナの窒素工場と云えば世界最大のものだが、これなんか、御覧なさい。
  現在生産しているのは肥料ですよ。

  ドイツの農業を躍進させたのはレウナだという位だが、
  一旦ことがあればこの大工場が、そっくりそのまま強力な軍需工場に転換するような、
  設備をもっている。
  日本でもだいぶこのごろは生産の合理化っていうことが云われて来ているらしいが、
  どうして!
  どうして!
  ドイツのやっていることにくらべれば、おとなと子供だ。
  まあ、それにしろ云わないよりはましですがね」

 そして、津山進治郎は、伸子たちにもっとすすんだ説明をした。
 「御婦人のあなたがたには無関係なことだろうが、これというのも、
  ドイツが戦後、高度なトラスト法をとるようになって、はじめて成功したわけです。
  トラスト法というのはね。
  『わかれて進み合してうつ』という有名なモルトケ将軍の戦術を、
  産業上に応用した独特の方法なんです」

 こういう話のでたのは木曜会員の一行がベルリンの下水工事を見学し、解散したあとのことで、津山進治郎、伸子、素子の三人がその辺の小店で昼飯をたべたときのことであった。
 津山進治郎の話がすすむにつれて伸子の眼は次第にみはられた。
 しまいにはくいいるような視線で彼のきめの粗い、ほこりっぽいほどエネルギーにみちた顔を見つめた。

 伸子は、しんからおどろいたのだった。
 資本がますます独占されてゆく形として第一次大戦後のドイツにトラストが発展して来ている。
 それは世界平和の危険として注目されているのに。
 ドイツの少数の企業家たち、軍需企業家たちが寡頭政治で独裁権をつよめて来ているからこそ、ドイツの大衆の固定的窮乏と云われるものが生じているのに。

 伸子が、おどろきと、好奇心を動かされたのは、津山進治郎が、トラストというものを、ほんとに彼の説明どおりのものとして。
 モルトケ将軍の戦術という側からだけ理解しているらしいことだった。
 何につけても、ドイツの再軍備の面に関心を集中させている津山進治郎は、ドイツが国をあげてこの次の戦争には是が非でも勝とうと復讐心をもって準備している、そのあらわれとして、トラストも説明してきかせるのだった。

 彼の話をきいていると、トラストやコンツェルンというものは、ドイツの軍国主義から発明されて、ドイツにしかないものであるかのような錯覚があった。
 石炭液化とか人絹工業のように。

 でも、伸子がよんだり聞いたりしてもっている知識や実例のどこをさがしても、トラストは、資本主義の経済のしくみそのものからおし出されて来る資本集中の過程だった。
 そうでないなら、どうして、こんにちのヨーロッパの経済を動かしているものは僅か三四百人の実業家であると云われているのだろう。
 三四百人の軍人であるとは云われないで。

 産業合理化はドイツの国内に進んでいるばかりでなく、製鋼その他は国際カルテルにまでひろがっているということを、津山進治郎は「新興ドイツ」の制覇として話すのだった。
 おそろしく素朴で、しかも自分の云っていることにゆるがない確信をもっている津山の話しぶりは、世界経済についてよく知らない伸子をも、ますます深くおどろかした。

 「じゃあ、津山さんも、
  またああいう戦争がおこった方がいいと思っていらっしゃるの?」
 「いいというわけはないが、どうみたってドイツとして、このままじゃすまんでしょう」
 「どこが相手?」
 「そりゃ、ドイツにとって伝統的な敵がある」

 それは、フランスというわけだった。
 「むこうだって、このまんまの状態が永久につづくとは思ってはいない。
  国境に、あれほど大規模な要塞建造をやろうとしているじゃないですか」
 フランスに対してばかりではなく、ドイツの一部には、国境の四方へ憎しみの目をくばっている人々がある。
 それは伸子もわかっていた。

 でも、
 「もう一遍戦争すればドイツはきっと勝つと、きまってでもいるのかしら」
 「そんなことは、時の運だ」
 いかにも伸子の女らしいこわがりと戦争ぎらいをおかしがるように、津山進治郎はこだわりなく大笑いをした。
 「ドイツとしちゃ飽くまで勝つべくやるのさ。
  それが当然だ、そして十分の可能性がありますね」

 「へんだわ」
 伸子が若い柔かな体ごとそこへ坐りこんだような眼つきになって津山を見つめた。
 「そんなことしたって、
  やりかたがもっともっと残酷になって行くばっかりじゃありませんか。
  土台を直そうとしなけりゃ……」

 一九一八年十一月七日、ドイツの無条件降伏のニュースがつたわって、酔っぱらったようになったニューヨーク市の光景が閃くように伸子の記憶によみがえった。
 ニューヨークじゅうの幾百というサイレンが、あのときは一時に音の林を天へ吹きつけた。
 ウォール街《ストリート》を株式取引所の横道へかつがれて来たカイゼルの藁人形に火がつけられ、その煙が流れる往来でニューヨーク市民は洪水のような人出によろけながら笑って、叫んで、紙ぎれをぶつけあって、見も知らない男女がだきあって踊った。

 夜じゅう眠らないでニューヨークの下町に溢れた群集は、どの顔も異様な興奮で伸子にとってはみにくくおそろしかった。
 征服欲の満足と歓喜で野蛮になっている群集の相貌というものを、伸子はそのときはじめて見たのだった。
 それからひきつづき伸子は心のうちに深い疑問をめざまされたものの目色で、次第に虹の色をあせさせながら実利の冷たさにかたまってゆく人道主義的な標語と、ニューヨーク・タイムズにあらわれる兇猛な辻強盗《ホールド・アップ》の増加と、ヨーロッパから着く船ごとにエリス・アイランド(移民検疫所)へおくられるおびただしい戦争花嫁と戦争赤坊の写真を見たのだった。

 伸子が痛感したのは、世界大戦について最も厳粛な感想をもっているのは、必ずしも平和克復という舞台の上でいそがしくしゃべっている人々ではないということだった。
 夫や愛人や父をもう二度とかえらぬものとして戦死させた家族の思いは、大戦を通じてその富を益々ふくらませた「永遠の繁栄」の、厚かましいほどの溢れる元気とは、おのずからちがったしらべをもって戦後というものを生きている。
 そのことを伸子は感じずにいられなかった。

 得意と、偽善に気づかない一人よがりで生きているものへの反感が、伸子の場合には自分の育った家庭の空気への反撥ともつれ合った。
 佃と結婚するようになって行った伸子の気もちは伸子自身がそれほど自覚していなかったにしろ、もえる大気のように不安定にゆれていた一九一八年の秋からのちの雰囲気ときりはなせないものだった。

 「わたしは戦争ってものは、むごたらしいものだと思うの」
 なお苦しげなまなざしを津山の眼の中にすえたまま伸子がつづけた。
 「そして、悪いことだわ。
  一番わるいことは戦争で得をする人間に限って、
  決して自分で戦争しないですまして来ていられた、ということよ。
  津山さん、そうお思いにならない?

  そして、戦争なんて、ほんとにひどい間違ったことだっていうことを、
  決して正直に認めようとしないことだわ。
  むき出しの資本主義の病気だのに。
  愛国心だの、正義だのって。
  何て云いくるめるんでしょう」
 伸子はつきささるような口調になって行った。

 「もし、まだ戦争がしたりないっていうんなら、こんどこそ、
  あなたのおっしゃる『モルトケ戦術』で儲けている人たちだけの間で、
  やってもらいましょうよ。
  結局、自分たちの儲けのためにやる仕事なら、
  その人たちの間だけでやるがいいんだわ」
 そう云ったとき、伸子はテーブルの下で、痛いほど靴のつまさきをふみつけられた。

 伸子はさとった。
 素子が合図をしたのだということを。
 気をつけて口をきけ、そう警告しているのだということを。
 津山進治郎は、伸子のいうことをだまってきいていたが、やがて相手の話から一つも本質へ影響をうけないものの平静さで、
 「あなたのような考えも、或は正しいかもしれんさ。
  しかし理想だ」
 意外なようにおだやかな語調で云った。

 「あるいは、現代の人類がまだそこまで進歩していないのかもしれない」
 「そうは云えないと思います。
  だって、ソヴェトがあってよ。
  社会主義は、とにかく、もうはじめられているのよ。
  それだのに、世界じゅうは、一生懸命それを認めまいとしているのじゃないの、
  それはなぜなの?」

 重い大柄な体のつくりのわりに額は低く、濃い生えぎわが一文字に眉へ迫っている津山進治郎の顔には、伸子の言葉でどういう表情の変化もあらわれなかった。
 彼は、おちついて、
 「そりゃ、まだ社会主義ってものが一般法則になっていないからだ」
 と云った。
 「例外は、いつだってありますよ。
  しかし例外は一般法則ではないんです。
  そうでしょう?
  ロシアはああなっても、よそはよそで、まだ別の方法を信じているし、
  それで成りたってゆく条件をもっているんだ。

  だから、より普遍な法則の中で行われる生存競争には、
  その方法でもって勝たねばならんというわけですよ。
  ドイツはヨーロッパの中の『持たざる国』なんだから」
 そして、伸子は津山進治郎から、ドイツ軍備の内容をきかされた。

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