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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  73

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 やがて津山進治郎が、雑談の中止を求める意味で手を鳴らしながら立ち上った。
 そして、格式ばって講演者としての伸子を紹介した。
 津山進治郎にとって伸子はベルリンで初対面した母方のまたいとこであったが、津山進治郎はそういう個人的な点にはふれないで、小説をかく佐々伸子、日本の民間婦人としてはじめてソヴェト生活を経験して来たものとして紹介した。

 「このたび各国視察旅行の途中、ベルリンに来られたのを機会に、
  今晩は一席ソヴェト同盟の医療問題について、話を願った次第です。
  御清聴をわずらわします」

 それをきいて、伸子は思わず心の中でつぶやいた。
 「そんな医療問題なんて、わたしこまっちゃう」
 津山進治郎が木曜会の例会に伸子をよんだとき、彼はそんないかめしい専門の区分はつけて話をするようにとは云わなかった。
 おおまかにソヴェトの生活について、ということだった。
 伸子はそれならば、とあながち自分にできないこととも思わなかったのだった。

 何だか心やすさのない室内の空気だったわけも、伸子にのみこめた。
 小説をかく佐々伸子が、ソヴェトを見て来たというだけでベルリンの専門家に医療問題を話すときかされれば、軽い反撥もおこるだろう。
 話のきっかけがむしろそこにつかめた気持で、伸子は案外自然に口をひらくことができた。

 何よりも、自分には、医学上の専門のことは何もわかっていないこと。
 従って、伸子としては実際に見聞したソヴェト、主としてモスクワの日常生活の有様を、ありのままに話して参考になればと思っているという点を明瞭にした。
 伸子はソヴェトの工場やそこで見た医療設備のこと、労働組合と健康保護の関係、母子健康相談所やレーニングラードの母性保護研究所の仕事、労働者、特に婦人労働者の保健のために職場で行われている一分体操や休養室の細かい注意、海岸や温泉地につくられている休みの家の様子などについて話した。

 座談的な伸子の話は、おさないような云いまわしながら、どの一つをとっても、それはみんな彼女が心を動かされて自分の眼で見て来ているものであり、ソヴェト生活の現実から生々しくきりとられて来た、誰にもわかる報告なのであった。
 話がすすみ、まざまざとした印象がよみがえって描写されてゆくにつれて、伸子は心の自由をとりもどした。

 話している伸子にも聴きての感興が集中されてゆくのが感じとられる刹那もあった。
 最後に、伸子は自分が肝臓炎でついこの四月まで、三ヵ月も入院していたモスクワ大学附属病院の生活を話した。

 いかにもソヴェトの病院らしい事実は、ナターシャのことだった。
 熟したはたん杏のような頬っぺたをして、ずんぐりした身持ちの看護婦ナターシャと伸子とが、どんなに滑稽に車輪付椅子のまわりで抱きあいながらもごもごしたか。
 患者である伸子が、それについてどんな癇癪を起したか。
 やがて、身持ちのナターシャが、健康で美しく働いているのを見たり彼女と話したりすることが、伸子の病床生活の一つの歓びとなったいきさつについて、ナターシャはコムソモールカであり、モスクワ大学医科の労働者科《ラブ・ファク》二年生であることをも添えて伸子は新鮮に話した。

 「みなさまは、あちこちで立派な病院をどっさり御存知でございましょうし、
  御自分でそういう病院をおもちかもしれません。
  よく訓練された看護婦というものも珍しくおありになるまいと思います。
  けれど、このナターシャの看護婦としての生活ね、わたくしは女ですから、
  やっぱり深く感銘いたしました。

  ドイツの人は音楽好きと云われますけれど、このナターシャたちのように、
  国立音楽学校のバリトーンの学生の若い細君が、
  大学附属病院の看護婦だというような組合わせは、あんまりないでしょうと思います」

 四十分あまり、変化をもって話しつづけて来た伸子は、そこで絶句した。
 ナターシャのことまで話して来るうちに、伸子の心にいろいろの思いが湧いた。
 めいめいが偉くなることを目的としているような従来の医学の道について、その本質をくつがえす一言を呈したい気持になって来た。

 頭上から強い光をうけているせいで断髪の頭や、ゆるやかな頸から肩への輪廓が緊《しま》ってなお小柄に見える伸子は、影を絨毯の上におとしながら、首をかしげてちょっとの間黙って考えていた。

 適切な表現が見つからなかった伸子は実感のままを率直に、
 「わたくしが最もつよく感じたのは、ソヴェトで医学は、
  ほんとにすべての人の生活をまもるために役立てられようとしているのです。
  もちろんまだいろいろ不備な点はあって、たとえば、
  歯医者が下手で痛いという漫画が出たりもして居りますけれど、
  それにしろ、医学は、どんどん生活のなかへ普及して居ります。

  すべての国で医学が、そういう本来の働きを発揮できるように、
  お医者さまというものが、ほんとに苦しんでいる人間の燈台となれるように、
  そういう社会がつくられてゆくことが、
  医学の側からも求められていいのだと思います」

 そう結んで、また一二秒だまった。が、ぽつんと、
 「わたくしの話はこれでおしまい」
 一つお辞儀をして伸子は席に復した。
 三四十人ほどの聴きての間から、儀礼的でない拍手が与えられた。
 あきらかに、伸子の話は、自然さといきいきした事実とによって、ききてに人間らしい感銘を与えたのだった。

 「や、御苦労さまでした」
 色の黒い太い頸に、うすくよごれの見えるソフト・カラーをしめた津山進治郎が立って挨拶した。
 「具体的で、得るところがあったと思いますが、
  例によって、どうぞ諸君から自由に質問を出して下さい」
 伸子があんまり素人だから、専門家であるききてとしては、かえってききたいことがないのだろう。
 ややしばらくはタバコの煙があっちこちからあがるばかりであった。

 その沈黙をやぶって、伸子の右側にいた六十がらみの人が、チョッキの前でプラチナの時計の鎖をいじりながら、
 「どういうもんかね、これで。
  いまの話で、社会的な面はどうやらわかったようなもんだが」
 と、そこへ伸子にわからないドイツ語をさしはさんで、
 「そっちの方面は低いんじゃないのかね」
 臨床の大家といわれる医者によくあるように少し鼻にかかった声でゆっくり、じかに伸子に向うというのでもなく云った。

 この額の四角い半白の人は、伸子が話しはじめたときから終るまで、腕組みをして椅子の背にもたせた顔を仰向けたなり目をつぶっていた。
 「どうですか、佐々さん」
 幹事の津山が、伸子には横柄に感じられたそのひとの間接の質問をとりついだ。

 「あっちの、医学そのものとしてのレベルは、どうです?
  現在はやっぱり相当のものだと思いますか」
 「?」
 伸子はのみかけていた番茶の茶碗をテーブルの上において、顔の上に意外そうな表情をむき出しながら津山から一座の人々へと目をうつした。

 「わたしにそんなことをおききになるなんて。
  ソヴェトの研究や発見の報告は、
  いつも世界の学界へ報告されているんじゃないでしょうか。
  ドイツの医学雑誌では、ソヴェトのものはのせないことになっているのかしら」
 伸子は、この言葉の皮肉な効果を全く知らずに云ったのだった。

 音楽の都のウィーンでは、ソヴェト音楽をしめ出していた。
 ドイツでの学会というようなところでは、似たようなことがあり得ないことでもないと思ったのだった。
 ところが、伸子の単純な問いかえしに答えて発言する人は誰もなかった。
 みんな黙っている。

 その黙りかたが何だか妙だった。
 話しがすんで、いくらかゆとりのできた伸子は、いぶかしがる視線で、部屋の奥にかたまっている人たちの方まで見た。
 そっちの壁には、ドイツの趣味で紫がかった水色タイルで飾られたカミン(煖炉の一種)が四角くつきでていた。

 その左右のくぼみへ椅子をひきつけて、若い人々が云い合わせたようにその隅にかたまっていた。
 その一番隅っこのところで、三十三四の一人のひとが、カミンへ肩と頭とを軽くよせかけた楽な姿勢で腕組みして居た。
 その人は組合わせた脚をゆるくふりながら、唇をしめたまま微笑していた。

 伸子の視線がその微笑にとめられた。
 それは智慧のあらわれた微笑であり同時に批評をたたえている微笑だった。
 その表情が暗示するものがあった。
 伸子は視線をもどして、勿体ぶって間接に質問した人や自分がそこでかこまれているテーブルのぐるりの人々を見直した。
 どっかりと自分たちをテーブルのぐるりに落つけている人々はみんな概して年配であった。

 カミンのところにかたまっている後輩たちが、当然彼らのためにその場所をあけておくものときめてそこへかけているような人々だった。
 ベルリンの木曜会なるものの性格が伸子に断面を開いたような感じだった。
 ここも一種の学界みたいなのだろう。
 先輩後輩の関係やら会員同士にもいろいろと面倒くさい留学生らしい感情があるのだろう。

 その木曜会のしきたりにとって、伸子のもの云いの簡明率直さはおのずと笑いを誘うようなところがあるだろう。
 伸子に質問している人が、格式にかかわらず、学問上のことについては若い専門家たちから批評をもって見られている人であるらしい感じもうけた。
 血色いい角顔に半白の髭をつけて、金杉英五郎にどこか似た面ざしのその人は、伸子の話から一座に流れたソヴェトに対する好感的な印象を、そのまま人々の胸に沈められることをきらうらしかった。

 「医学にかぎらず、すべて学問というものは、
  学問それ自身として重大な多くの問題をもっているものなんでね。
  あなたに云っても無理だろうが、まああなたの話は、
  要するに医学というよりもソヴェトというところの社会状態の紹介さね」
 ここにいる学者たちにとって、それだけで価値をみるには足りないのだ、ということを伸子にわからせ、同時にほかのききての自尊心も刺戟しようとするようだった。

 「ところで、どうですかな、予防医学なんかの方面は」
 「予防医学って。
  結核や流行病の予防なんかのことでしょうか」
 伸子は津山進治郎にきいた。
 「そんなようなことです」
 「結核のサナトリアムは随分できていますが。
  どうなんでしょう」

 伸子は不確に答えた。
 「御承知のとおり一九二二年、三年まで、饑饉のチフスであれだけ死んだんですから、
  ソヴェトは決して無関心だとは思えません。
  でも、一般に予防注射なんかどの程度やっているかしら……」
 モスクワに一年半ちかくいた間に、伸子たちはそういう場合にめぐりあわなかった。
 「性病予防の知識を普及させることは労働者クラブなんかでも、
  随分行きとどいてやられて居ります」

 「そりゃそうだろう」
 半白の髭をつけた人は、満足そうにうなずいた。
 「かなりな乱脈ぶりらしいからね。政府としても放っちゃおかれまい」
 ソヴェトでは女が共有されているとか、乱婚が行われているとかいう種類のつくり話を否定しきろうとせずに、その半白の頭の中にうかべているらしいそのときの表情だった。

 「いずれにしろ、現在予防医学の進歩しているところはアメリカだね。
  つぎが、戦前のドイツ」
 「でもね」
 その人がひとつひとつにひっかかってくる云いかたにだまっていにくい気持につき動かされた伸子は、
 「この間、宮井準之助さんがジェネワの国際連盟で報告なさるとき」
 と、木曜会員なら知らないわけにゆかない、知名な伝染病と予防医学の大家の名をあげた。

 「モスクワへよって何かしらべていらっしゃいました。
  案外、何かあったんじゃないでしょうか。
  予防医学という学問そのものとして……」
 聴いていた素子が、にやりとしてこころもち顎をつき出すような形でわきを向いた。
 その素子を見たとたん、伸子は、ほんとだった。
 なんてばかばかしい!
 と自分がひっかかっていた予防医学という専門語の鉤《かぎ》から身をふりほどいた。

 この医者は伸子がまごつくような質問をするためにだけ質問しているのだった。
 伸子の話をすらりときいていた人なら、ソヴェトでは予防医学というものの枠がひろげられていて、予防注射とかワクチン製造とかいうせまい範囲から、もっと広く深く勤労生活の日常そのものを健康にしてゆこうとする現実に移って来ている事実がいくつもの実例のうちに理解されたはずだった。

 伸子の話全体が、いわば新しい予防医学の現実だったのに。
 そのことに思いついて、伸子はあらたまった顔つきになった。
 彼女は半ばその半白の髭の人に向い、半ばその席にいあわせるすべての人に向って、
 「ちょっと、ひとこと追加させていただきます」
 椅子にかけたまま、にぎりあわせた両手をテーブルの上において云い足した。
 「みなさまは、いつも専門的な言葉でばかり話される報告に馴れていらしって、
  わたしのように、あたりまえの言葉で毎日の生活の中から話す話は、よっぽど、
  おききになりにくかったんだろうと思います。
  さもなければ、失礼でございますが、ただいまの御質問ね」
 と、伸子はさっきから、伸子の話が与えた印象をつき崩そうとしている父親のような年配の半白の髭の人に向って、云った。

 「ああいう御質問は出なかったんじゃないでしょうか。
  ああいう御質問いただくと、なんだか、わたしのお話したことを、
  どこできいて頂いていたのか、わからないみたいで……」
 控えめだがおさえきれない笑いがカミンのわきにかたまっている人々の間から湧いた。
 それはテーブルのぐるりまで波及した。

 「どっちみち、みなさまソヴェトの様子は御自分でじかに見ていらっしゃるのが、
  一番いいんです」
 伸子は、本気で他意なくみなにそれをすすめた。
 「わたしの話をもの足りなくお思いになったり、半信半疑でいらっしゃるのは、
  当然だわ。
  よそと全くちがうんですもの。
  ほんとに、どなたにしろ、行って御覧になればいいのに。
  経験も自信もおありになるんだから……。
  ここからモスクワまでは一晩よ」
 そう云って、伸子は反響をもとめるように若い人々がかたまっているカミンの横の席の方を眺めた。

 さっき、怜悧で皮肉な微笑を泛べながら伸子を見ていたひとは、やっぱり腕組みした肩を軽くカミンにもたせ、くみ合わせた脚をふっているが、視点は低く足許のどこかにおかれている。
 テーブルに向っている半白の髭のひとは、こげ茶色の服を着て鼻髭のある隣席のひとと、伸子にはそれが伸子を無視したことを示すものだと感じとれる態度で私語しはじめた。

 モスクワへみんなが自分で行って見て来るように、という伸子の実際的なすすめは、その夜、伸子が話したどの言葉よりも吸収されずに、伸子のそういう声がひびいたそのところにそのままかかっているのだった。

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