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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  72

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 素子が、まじめなような、からかうような眼つきで川瀬を見ながら、
 「そのツェル何とかって奴、案外正直ものなんだな。
  人をうち殺させる男が、白ペンキの輪には閉口なのかしら」
 「なんべんもやったあげくのことさね、もちろん。
  彼は遂に労働者地区ノイケルンには、白ペンキが払底していないという事実を、
  発見せざるを得なかったのさ」
 伸子たちは、声をそろえて短く笑った。

 「ドイツの労働階級も、社会民主党の正体をしんからつかまないうちは泥沼だと思うな。
  どんどん産業合理化で失業させる。
  何十万人というロック・アウトをやる。
  赤色前衛隊《ロート・フロント》や反ファッショ組織のアンティ・ファを禁止する。

  労働者はその一つ一つのできごとに対しては、誰しも反撥しているんだ。
  だからこそことしのメーデーだって、うちに臥ている奴はなかったんだけれども、
  それでも、ドイツの社会民主党が、もうすっかり、
  ファシストの飼いものになってしまってることまでは信じきれないんだな。

  社会ファシストの罪悪っていうのは、
  K《カー》・P《ペー》(共産党)の云いぐさだと思っている連中が、まだある。
  そして、漠然と、何か自分でもわからないものを期待しているんだ。
  おかげで、だまされつづけだ」

 暫く広場にいてから、伸子、素子、川瀬勇の三人は、カール・リープクネヒト館の地階の書店にはいって行った。
 共産党本部への入口は、どこか別のところにあるらしくて、広場に向った地階は、単純に開放されて、書店になっている。

 格別人目をひくようなショウ・ウィンドウもなく、書物を並べた陳列台と、壁のぐるりに書棚をめぐらしあっさりした感じのその店で事務をとっているのは、白いブラウスに黒いスカートをつけた五十がらみの、物静かな婦人だった。

 川瀬に教えられた伸子はグロスの諷刺画集一冊、ケーテ・コルヴィッツの二冊の画集、フランスの諷刺的な版画家マズレールの二つの絵物語を陳列されている書籍の中から選びだした。
 クララ・ツェトキンのレーニン伝の英訳があって、それもとった。

 その間にも、伸子の気持にはほかならぬK・P・Dの売店で本を買っているのだという亢奮があった。
 伸子にとっては、このベルリンのカール・リープクネヒト館こそ、生れてはじめて目撃した共産党の本部だった。
 モスクワにいる間、伸子はたびたびK《カー》・P《ペー》・D《デー》(ドイツ共産党)という名をきき、字を見た。

 В《ウェー》・К《カー》・П《ペー》(Б《ベー》)全連邦共産党、ボルシェビキと、念入りにカッコつきの三つの字は、もっと日常的にこまかく伸子たちの生活にはいりこんでいた。
 新聞でも、ラジオでも、伸子が何よりもそれで啓蒙されている労働婦人用のさまざまなパンフレットの頁の上にも。

 В《ウェー》・К《カー》・П《ペー》(Б《ベー》)はもとよりK《カー》・P《ペー》・D《デー》の響は、一年半のモスクワ生活のうちにいつか次第に変化して来ている伸子の生活のなかにとけているのだった。
 しかし伸子たちの前に、В《ウェー》・К《カー》・П《ペー》(Б《ベー》)の建物は、ついぞ一度もあらわれたことがなかった。

 全連邦共産党の本部はクレムリンの城壁の内側にあった。
 そこへ通るために、伸子たちのもっている日本外務省の旅券は、役に立たなかった。
 伸子は、ソヴェトの社会と政治の関係がいくらかわかって来るにつれてかえって、В《ウェー》・К《カー》・П《ペー》(Б《ベー》)に対する真偽とりまぜのものみだかさをもたなくなったばかりか、自分が政治的には組織のそとの人間であることを、常に明瞭にしていることを、階級的な良心の表現とする気持だった。

 ベルリンへ来ても、伸子のその態度は一貫しているのだった。
 そういう伸子の心もちは、一方から云えば各国にある前衛組織とその活動家に対して、まじめな敬意をさまされていることでもあった。

 したがって、伸子はいま幾冊かの画集や本を選び出している伸子たちの様子をその売店の机の前から眺めている婦人事務員の、もの柔らかだが商売人の愛嬌はどこにももっていないさっぱりした表情にも、無関心であることはできにくいのだった。
 ゆっくり時間をかけて書籍を買ってから、三人は広場を横切って、ノイケルンの通りへ出た。

 地下鉄のステーションに向っていた川瀬勇は、歩きながら何か思いついたらしく、
 「ついでに、もうひとところ、見せよう。
  カフェーだがね。
  なかじゃ、あんまり話ししない方がいいんだ」
 土地なれない伸子と素子にそう注意してから、川瀬勇は一軒の小さなカフェーのドアを押して、女づれ二人をさきに入れた。

 労働者地区にあるカフェーらしく、小さいテーブルと鉄の椅子がせまい店内におかれていて、カウンターにおかれた二つのニッケル湯わかしが唯一の装飾になっている。
 カウンターのうしろに、頭のはげたおやじが縞シャツの腕をまくりあげて立っていた。
 半ば裸体になった女の蒼い顔を大映しにした映画のビラがよこての壁に貼られてある。
 川瀬は、すぐココアを三つ注文した。

 窓ぎわの席を選んでかけた川瀬からはななめうしろ、伸子たちに正面を向けるテーブルに、つれもない四十がらみの男が一人かけていた。
 椅子の上に両股をひろげてかけて、片手をズボンのポケットにつっこんでいる。
 からのコーヒー茶碗がその男の前のテーブルにのっていた。
 通りからそのカフェーへ入って来た途端、伸子は、川瀬がこのノイケルンでどういうカフェー風景を見せようとしたのか、察しがついた。

 伸子が思い出したのはワルシャワのメーデーの朝、素子と二人で逃げこんだカフェーにいた男たちのもっていた感じだった。
 ドアをあけて小さい店へ賑やかに入って来た伸子たちに鈍重なようで鋭い一瞥をくれたこの男の感じは、瞬間に、ワルシャワのあの朝伸子が理解していなかった多くのことを理解させた。

 テーブルへ運ばれて来たココアをかきまわしながら、川瀬はほんのちらりと片方の眉を動かして、伸子たちに合図した。
 ココアをのみ終ると、川瀬と素子とがタバコを一服して、三人はそこを出た。

 「わかったろう?
  この辺は到るところに、ああいうこぎたない眼だの耳だのがばらまかれているんだ。
  でも、このごろは連中も楽じゃないのさ」
 川瀬はおかしそうに結んだままの口をひろげて笑った。

 「あれ以来、連中はうっかり労働者住宅の窓の下なんか、
  うろつけないことになってしまったんだ。
  水はおろかもっと結構なものまで浴びなけりゃならないからね。
  あのとき子供まで見さかいなく怪我させたんだから、女連だって勘弁しやしないさ」

 ベルリンへ来た翌日から伸子と素子とは、一日に一度は市内のどこかで川瀬勇、中館公一郎そのほか二三人の青年からできているグループと会った。
 川瀬や中館は、伸子たちの住所も、およそのつき合いの範囲も知っていた。

 けれども、伸子たちには中館の住所も川瀬の住居も告げられていなかった。
 これらの人々の日常生活の内容についても、伸子たちとしては自分たちに会っているときの彼ら、伸子たちと行動している間の彼らのことしか、知らないのだった。
 しかし、ベルリンでは日本人の間にそういうつき合いかたがあるのも伸子と素子とに、不自然でなくうけとられた。


        八

 生れた国のなかで、会ったこともなければ噂をきいたこともなかった親戚同士が、外国の都で偶然おちあって、つき合いはじめるというのは、おかしなことだった。
 古い日本がつたえて来た義理がたい親類づきあいの習慣は、佐々の家庭ではいつとはなしにこわれて来ていた。

 そのくせ、外国で偶然同じ都会にいあわせたりすると、日本人同士というせまさから双方を近くに見て、多計代らしくベルリンにいる母方のまたいとこ、医学博士の津山進治郎に、伸子のことについて連絡してあった。

 ベルリンの地下鉄が、ウェステンドあたりで高架線にかわる。
 そこのとある街で、大学教授の未亡人の家とかに下宿している津山進治郎と伸子が初対面したのは、主に儀礼的な動機だった。

 ところが、伸子は彼から思いがけないたのみを受けた。
 ベルリンにいる医学関係の人々の間に木曜会というものが組織されている。
 そこで伸子に、ソヴェトの見聞について短い話をしてくれるように、というのだった。
 伸子は、こまって、返事を保留した。
 そして、川瀬や中館に相談した。

 「津山って。
  軍医じゃないのかい」
 大きな眼玉をもっている川瀬がその眼玉をギョロリと動かしながら、中国の青年と見まがうような長身をねじってかたわらの村井とよばれる青年にきいた。
 「さあ……知らないんだ」

 伸子も、医学博士津山進治郎としてしか知っていなかった。
 「毒ガスの研究か何かやっている男で、そんな名をきいたように思うんだが。
  相当がんばるって、誰かが云っていたように思うんだが……」
 「ことわっちゃおうかしら」
 教室から抜け出そうとたくらんでいる女学生のような顔つきをして伸子が云った。
 「話はにがてだから、わたしはことわることが賛成なんだけれど」

 そのときまで黙っていた中館公一郎が、
 「お話しなさい」
 濃い眉に重って一層太くまるく見える黒い眼鏡のふちの中から伸子を見て、はげますように云った。
 「あっちの話はね、ききたいっていうものには話してやるのが功徳なんです」
 みんなの言葉に背中を押されるようにして、伸子は、その会に出席することを承知したのだった。

 伸子は気をはって、その日は定刻の午後七時きっちりに着くように、素子とつれだって日本人クラブへ行った。
 その一区画は、規則ずくめなベルリン市のやりかたにしたがって、町並全体がどの家の前にも同じ様式の上り段とおどり場とを並べている。

 タクシーからおりた伸子は、車のなかでぬいでしまった紺フェルトの帽子をハンド・バッグにもちそえた学生っぽい姿で、その一つの入口をのぼって行った。
 とりつぎらしい人の姿も見あたらなくて、がらんとしたホールに立話をしている人があった。
 会合のある室をその人にきいて、伸子と素子とは左手の奥に大きい両開きのドアがあけはなされている方へ行った。

 その室の敷居ぎわまで行って、伸子の断髪がさっぱりとうつっている顔に困った表情があらわれた。
 古風なシャンデリアの強い光にてらしつけられているその室は、どの窓もすっかりカーテンをおろして夜の重々しさだった。
 タバコの煙がうすくこめている。

 細長い大テーブルのぐるりには、一見して伸子のような若い女は子供に近いものとしてしか見なさそうな年輩の風采の医学者連が多勢よりあつまっているのだった。
 今夜話をさせられるのは女の自分だということから、伸子は、何となし夫人同伴の組もあるように想像して来た。

 しかし、目の前の光景は女気ぬきでタバコと乾いた毛織物の香のみちた雰囲気だった。
 その室の開いたドアのところに素子と伸子とを見ずにいられない位置にいる年配の人々は、おおかた彼らの日本医学者としての権威が非常にたかくて、年かさの女学生に過ぎない風な簡素な日本の女に、直接の注意を向けることは不見識と思われるのだろう。

 伸子たちとほとんど真向いのところでテーブルに頬づえをついて喋っている人。
 そのわきで、片腕を不精らしくテーブルの上でのばして遠くの灰皿で吸いきったタバコを消している人。
 彼らの視線はちらりと伸子たちの上を掃いたきりだった。
 話しをするために何処《どこ》かへ招かれたということは、伸子にとってその夜の日本人クラブの会合が初めての経験だった。
 ほんとに自分の話をききたいと思っている人なんかなかったのだ。

 堪えがたい気持で伸子はその場の空気を身にうけた。
 もしかしたら、木曜会の幹事である津山進治郎ひとりの思いつきだったのかもしれない。
 来なければよかった。
 そのまま帰ってしまいたい気になって、伸子が、たすけをもとめるように素子と目を見合わせたときだった。

 伸子たちにまうしろを見せてテーブルに向っていた一人の男が、ふいと人の気配を感じたように首をねじって振向いた。
 津山進治郎だった。
 「やあ」
 彼は、いくらかあわてたように椅子をずらして立ち上った。
 「さあ、どうぞ。
  どうぞこちらへ。
  失礼しました。御案内しませんでしたか。
  例会の前にちょっと報告していたもんですから、失敬しました」

 伸子と素子とは、大きなテーブルの一方の端に並んだ席を与えられた。
 落付くと素子は例によってタバコをだした。
 そして、口をきかないまま隣席の人に向ってちょいと頭を下げて火をもらい、男連がどう思おうとかかわりない風でそれをうまそうにくゆらしながら、古風なベルリンごのみでいかつく装飾されている室内とそこに集っている人々をひっくるめた視野においている。

 人々の間にかけてみると、一座の親しみにくい雰囲気は、一層具体的な感じで伸子をしめつけた。
 みんな学問をしているはずの人々だのに、その室内の空気はどこまでもかたくて、妙に粗くて、浸透性をかいている。

 伸子はテーブルにおいていたハンド・バッグを膝の上におろして、小さいハンカチーフをとり出した。
 彼女はそのハンカチーフで、そっと力を入れててのひらを片方ずつこすった。

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