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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  61

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 ナターシャは毎朝おきると、さあ、あともう何日という風に若い夫と数えて暦の紙をめくるらしく、うけもち患者の一人である伸子にことさら言う必要もない自分たちの計画のたのしさが、勤務中彼女のはたん杏の頬にこぼれて感じとられることがあった。
 「ナターシャ、あなたを見ていると、わたしまで何かいいことがありそうなきもちになることよ」
 伸子はほんとうにそう感じるのだった。
 彼女の見とおしをもった生きかたの単純さ。
 よろこびの曇りなさ。

 このナターシャが赤坊をもった姿を想像し、そのかたわらにバリトーンの歌手である彼女の若い夫を居させると、そこに若いというばかりでなくまるで新しい内容での家族というものの肖像が思われた。
 目的のわからない熱烈さと、とりとめなく錯雑した感情のくるめきに支配されつつ日が日に重ねられてゆく動坂の家族生活と、それとをくらべるとなんというちがいかただろう。

 ナターシャの新鮮なトマトの実のような「家族」をおもうと、伸子は、動坂の家族生活からうける複雑で、手のつけようのないごたごたした物思いから慰められた。
 保がああして死んだとき、遂に保を生かさなかった環境とし、自分をも息づまらせる環境とし、伸子は動坂のうちの生活と自分の生きかたとの間に、もう決して埋められることのない距離を感じた。
 そして、ソヴェト社会に向いてくっささった自分を感じ、その感じにつかまって生活して来た。

 伸子の心の中にわれめをつくっているその精神の距《へだ》たりや動坂のくらしに対する否定の感情はそのままでありながら、娘としてことわりきれないいきさつや肉親として思いやらずにいられない事情が一方に追っかけて来て、伸子はこの間までの苦労なさから掻きおこされてしまった。

 伸子は、それにつけてもナターシャのよろこばしさを曇りなくかばいたいように言った。
 「ナターシャ、休暇をたっぷりたのしみなさいね」
 すると、ナターシャはにっこりして伸子を見、
 「散歩できるんです」
 とひとこと言った。
 散歩できるんです。
 これこそ休暇のたのしさの根本という風に彼女は言った。

 思えば、そうなはずだった。看護婦として昼間いっぱい勤務し、夜はモスクワ大学医科のラブ・ファクに通ってきりつめた時の間でくらしているナターシャにとって、散歩ができるということ、昼間ぶらぶら歩きの時がもてるということは、そのほかにも可能ないろんなたのしさがもりこめる自由な時間、解放と休息の何より確実な証左であるわけだった。

 モスクワじゅうの樹という樹、建物の樋《とい》という樋が三月の雪どけ水で陽気に濡れかがやき、一日ごとに低くなる雪だまりや水たまりの上に虹が落ちているような雪どけのまばゆさは、伸子の病室にもはいって来た。
 春のざわめきはおなかの大きいナターシャのうれしそうな様子と調和し、伸子のもうじき退院できるという期待の明るさに調和した。

 家族の騒動や、刺戟的な多計代の激情。
 支離滅裂な論議ずきを思うと苦しかったが、それでもモスクワの満一ヵ年の後フランスが見られることや、うちの者たちに会えることは伸子にとっても負担だとばかり言うのはうそだった。

 伸子は或る日思い立って、日本のうちあてに三通の手紙を書いた。
 父母あてに、和一郎夫婦あてに、それからあしかけ三年見ないうちに十五歳の少女になっているはずの妹のつや子にあてて。
 荷物を最少限にすること。
 母は身についた和服で旅行するように、どうせ多計代はバスや電車にのることはないのだから。
 足袋は少し多いめに、草履は三足ぐらいもって来るように。
 パラパラ雨の用意をもつこと――コートなり何なり。

 なんと言っても和一郎と小枝に対して一番具体的に旅行の収穫を期待する感情が伸子にあった。
 若い建築家として和一郎がただぼんやり御漫遊の気分で来ないように、専門の立場から何か一つのテーマをもって見て歩く用意をするようにというのが、手紙の眼目だった。
 つや子へ伸子は、女学校の下級生の受けもち先生のように書いた。
 自分の身のまわりのことは母や小枝をたよりにしないで荷づくりもできるようにしなければいけない、と。
 あなたは、これまでいつも何をするんだって、誰かに手つだってもらってばかりして来たんですものね、と。

 もう一週間ばかりで伸子が退院するときまったころ、噂されていた泰造の友人の吉沢博士がジェネワの国際連盟の会議へ出席するためにシベリア経由で来てモスクワへ数時間たちよった。
 その短い時間に素子が吉沢博士に会って、伸子の経過を話し伸子に加えられた治療について報告した。
 「そりゃ、もうそこでおちついているんでしょうな」
 というのが吉沢博士の意見だった。

 「手あても、これ以上の方法はどこにいたってないんだとさ。
  日本へかえって一ヵ月も温泉へ行けば、ケロッとしてしまうだろうって話しだったよ」
 そう素子がつたえた。
 伸子は、
 「日本へかえって温泉へ行くって?」
 たちまち不安そうにした。

 「わたしたち、逆へ行こうとしているんじゃないの」
 「日本へ帰ったらば、ということさね。
  おっかさんは、吉沢さんに電報をうつようにたのんでるんだそうだ。
  君の様子しだいで、あっちがたつかどうかをきめるわけになってるらしいよ」
 訊くような眼つきで伸子はそういう素子の顔を見た。

 何と妙な――だから多計代は率直に、わたしも西洋を見て来たいし、と言ってしまえば誰の気持もさっぱりしていいのに!
 伸子は多計代の手紙から感じた矛盾をまたあらためて感じた。
 死んでもいいから生命を賭して娘の見舞いに来ようとするものが、様子によってたつのをきめる、伸子が旅行してよかったらたつというのは、伸子にはくいちがったものとしてうけとれるのだった。

 とにかく吉沢博士から「タテ。ヨシザワ」という電報がうたれた。
 伸子は四月の第一土曜日に、あしかけ四ヵ月ぶりでモスクワ大学病院を退院して、アストージェンカの狭い狭い素子の室へかえった。
 カルルスバード行きを証明したフロムゴリド教授の小さい一枚の書きつけをもって。




  第二章


        一

 佐々伸子と吉見素子とがモスクワを出発して、ワルシャワについたのは一九二九年の四月三十日の午後だった。
 朝から車窓のそとにつづくポーランドの原野や耕地をぬらして雨が降っていた。

 その雨は、彼女たちがワルシャワへついてもまだやまなかった。
 大きく煤《すす》けたワルシャワ停車場の雨にぬれ泥によごされたコンクリートは薄暗くて、ロシア語によく似ていながら伸子たちには分らない言葉を話す群衆が雑踏していた。
 その雑踏ぶりは、伸子と素子とがモスクワの停車場で見なれている重くてゆるく大きい混雑より小刻みで神経質だった。

 伸子たちは駅の前から辻馬車を一台やとった。
 モスクワの辻馬車の座席を低く広くしたような馬車だった。
 瘠馬にひかれたその馬車は黒い幌《ほろ》からしずくをたらしながら、そのかげから珍しそうに早春の夕暮の雨にけむるワルシャワの市街を眺めている伸子たちをのせて灌木の茂みのある小さな公園めいた広場に面したホテルに二人を運んだ。

 伸子と素子とが旅行用のハンド・バッグに入れてもっている旅券には、モスクワの日本大使館から出されたドイツ、ポーランド、チェコスロヴァキア、オーストリアに向けての許可が記入されて居り、モスクワ駐在のポーランド公使館のヴィザがあった。
 ワルシャワからウィーンへゆき、プラーグからカルルスバードをまわってベルリンには少しゆっくり滞在するというのが伸子と素子との旅程であった。

 伸子の家族がマルセーユに着くのは七月一日の予定だった。
 それまでに、伸子と素子はパリに到着していればいいはずだった。
 一年半もそこに暮していれば、伸子と素子とにとって外国であるモスクワの生活はいつしか身に添ったものになっていて、ポーランド国境を越して来て、伸子も素子も新しく外国旅行に出発して来ている自分たちを感じているのだった。

 長い旅行に出たての気軽さと不馴れなのんきさとで、伸子たちは一晩をそこにとどまるワルシャワで格別ホテルを選択もしていなかった。
 馬車が案内するままに停車場近くの、国境通過の客ばかりが対手のようなそのホテルに部屋をとった。

 ワルシャワの駅頭でうけた感じ。
 それからその三流ホテルのロビーや食堂で、あぶらじみたような華美なような雰囲気にふれるにつれ、伸子と素子とは自分たちがここでは外国人であり、どこまでも通りすがりの外国人としての扱いで扱われることをはっきりと感じた。
 その国の人々の間で自分たちをそれほど外国人として感じることは、モスクワではないことだった。

 それに、ワルシャワでは特別、モスクワから来た外国人というものに、一種の微妙な感情がもたれているらしかった。
 広場を見はらすホテルの二階正面の部屋がきまると、素子は早速ロビーへおりて、片隅の売店でタバコを買った。
 こんどの旅行では、少くとも数ヵ国のタバコをのみくらべられる、というのがタバコ好きの素子のたのしみなのだった。

 素子はロシヤ語でタバコ問答をはじめた。
 すると、若い女売子の唇にごく微かではあるが伸子がそれを軽蔑の表情として目とめずにいられなかったある表情が浮んだ。
 女売子はお義理に素子の相手をし、素子の顔をみないで釣銭をさし出しながら、フランス語でメルシと云った。

 似たようなことがホテルの食堂でもおこった。
 伸子と素子のテーブルをうけもった年とった給仕は、素子の話すロシア語をすっかり理解しながら、自分からは決して同じ言葉で答えず、ひとことごとにフランス語でウイ・マダームと返事した。
 しごく丁寧に、そして強情に。
 食器のふれ合う音や絶間ない人出入りでかきみだされているその食堂の空気をふるわして、絃楽四重奏《ストリング・クワルテット》がミニュエットを奏している。

 伸子は、音楽に耳を傾ける表情で食事をはじめたが、やがて、
 「あら。白いパン!」
 びっくりしたような小声でつぶやいた。
 そして向い側の素子の顔を見た。
 「ね?」
 「ほんとだ。真白だ」

 素子は自分のパンもさいてみて、
 「パンが白いっておどろくんだから、われわれも結構田舎ものになったもんさね」
 と苦笑した。
 モスクワでは、黒パンと茶っぽい粉でやいたコッペのような形のパンしかなかった。
 それに馴れてしまっていた伸子は、いま皿の上で何心なく割《さ》いたフランス・パンの柔かい白さに目から先におどろいた気持がしたのだった。

 でも、伸子には、雪白なパンの色が白ければ白いほど、それは何だかあたりのうすよごれた雰囲気と調和せず、ウイ・マダームとかウイ・メダーメとしか云わない瘠せこけた爺さんの給仕の依估地《いこじ》さと似合わないものに感じられるのだった。

 食事がすんで、ロビーへ出て来ながら、素子が、ひやかし半分伸子に云った。
 「ぶこちゃんにもなかなかいいところがある。
  ヨーロッパへ出てきての第一声が、あら、白いパン!
  てのは天衣無縫だ」
 「だって、ほんとにそうじゃない?」
 「だからさ、天衣無縫なのさ」

 それにしても、ワルシャワの人々の、ロシアに対する無言の反撥は、何と根ぶかいだろう。
 帝政時代には、ポーランド語で教育をうけることさえ禁じられていた人々が、古いロシアへ恨みをもっているというのなら、伸子にものみこめた。
 けれども、現在になってまで、これほどロシア語に反感がもたれているとは思いがけなかった。

 「ポーランドの人たちは、いまのロシアがどんなに変っているか、知らないのかしら。
  まるで別なものになってるのに……」
 遺憾そうに伸子が云った。
 ポーランドはソヴェト・ロシアになってから独立したばかりでなく、一九二〇年にウクライナのひろい地域を包括するようになった。

 「あんまりいためつけられていたもんだから、猜疑心がぬけないんだろう。
  ソヴェトのいうことだって信用するもんか、と思っているんだろう」
 ポーランドでは軍人のピルスーズスキーが独裁者で、ポーランドの反ソ的な民族主義の立場を国際連盟《リーグ・オヴ・ネイションズ》に訴えては、ウクライナを分割したりしている。

 元ソヴェト領だったウクライナのその地方では時々ユダヤ人虐殺があって、伸子たちはモスクワの新聞で一度ならず無惨な消息をよんでいた。
 伸子と素子とは、いそぎもしない足どりでホテルのロビーを帳場へむかった。
 明日のメーデーはワルシャワのどこで行われるのか。
 劇場の在り場所でもきくように伸子たちはそれをホテルのカウンターできこうとしているわけだった。

 ロビーのひろさに合わして不釣合に狭苦しい古風なカウンターのところでは、折から到着した二組の旅客が、プランを見て、部屋をきめているところだった。
 その用がすむのを待って、伸子たちはわきに佇んだ。
 旅客たちはドイツ語で話している。
 いかにも職業用にフロックコートを着た支配人が、ヤー・ヤーとせっかちに返事して、何かこまかいことを云っているらしい一組の夫婦づれの方の細君に答えている。

 大きな胸の、赤っぽい髪の細君が、内気そうに鼻の長い顔色のよくない亭主をさしおいて旅先のホテルの泊りにも勝気をあらわして交渉している光景が面白くて、伸子は、いつの間にか自分がハンカチーフを落したことを知らなかった。

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