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名作を読みませんかコミュの「蟹工船」  小林 多喜二  4

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 朝は寒かった。
 明るくなってはいたが、まだ三時だった。
 かじかんだ手を懐(ふところ)につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。
 監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、風邪(かぜ)をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。

 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木(すりこぎ)のように感覚が無くなった。
 雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。
 彼の持っている竹の先きには皮がついていた。
 それは工場で怠(なま)けているものを機械の枠越(わくご)しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。

 「昨夜(ゆうべ)出されたきりで、ものも云えない宮口を今朝から、
  どうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴(け)ってるんだよ」
 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。
 「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」

 其処(そこ)へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。
 寒い雨に濡(ぬ)れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから肋膜(ろくまく)を悪くしていた。
 寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。
 子供らしくない皺(しわ)を眉(まゆ)の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、疳(かん)のピリピリしているような眼差(まなざ)しをしていた。

 彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった。
 出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見送っていた。
 四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った。

 「風邪をひいてもらったり、不貞寝(ふてね)をされてもらったりするために、
  高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。
  馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」
 監督が甲板を棍棒(こんぼう)で叩いた。

 「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」
 「こんなこと内地(くに)さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」
 「んさ。
  こったら事って第一あるか」
 スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。
 川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた。
 水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。
 それ等のなかを、監督は鶏冠(とさか)を立てた牡鶏(おんどり)のように見廻った。

 仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、炭山(やま)から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。
 「生命(えのぢ)的(まと)だな!」
 それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を衝(つ)いた。
 「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生(え)きられないなんてな。
  瓦斯(ガス)も恐(お)ッかねど、波もおっかねしな」

 昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。
 薄い海霧(ガス)が一面に――然(しか)しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。
 波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。
 風が急にマストを鳴らして吹いて行った。
 荷物にかけてあるズックの覆(おお)いの裾(すそ)がバタバタとデッキをたたいた。

 「兎が飛ぶどオ――兎が!」
 誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。
 その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
 もう海一面、三角波の頂きが白いしぶきを飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった。

 それがカムサツカの「突風」の前ブレだった。
 にわかに底潮の流れが早くなってくる。
 船が横に身体をずらし始めた。
 今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた。
 船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に周章(あわ)て出した。

 すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。
 皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。
 すぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、湯桶(ゆおけ)のような煙突が、ユキユキと揺れていた。
 その煙突の腹の独逸(ドイツ)帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。

 遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化(しけ)をおかして帰って来るのだった。
 薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。
 斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩(も)れていた。
 興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。

 「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。
 「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」
 殺気だっていた。
 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに碇(とま)っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。
 それには若(も)し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていた。

 その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」
 そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。
 それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。
 「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」
 「人間の命?」
 「そうよ」

 「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」
 何か云おうとした漁夫は吃(ども)ってしまった。
 彼は真赤になった。
 そして皆のところへかけ込んできたのだった。
 皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。
 父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。
 ステイが絶え間なしに鳴っていた。
 頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛(さ)いなまれた。

 夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。
 下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った。
 川崎船が二隻近づいてきたのだった。
 二隻はお互にロープを渡して結び合っていた。
 それは間近に来ていた。
 然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。

 次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。
 目の前にいて、中々近付かない。
 歯がゆかった。
 甲板からはロープが投げられた。
 が、とどかなかった。
 それは無駄なしぶきを散らして、
 海へ落ちた。
 そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。
 それが何度もくり返された。

 こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動かない。
 眼も何かを見た瞬間、そのまま硬(こ)わばったように動かない。
 その情景は、漁夫達の胸を、眼(ま)のあたり見ていられない凄(すご)さで、えぐり刻んだ。

 又ロープが投げられた。
 始めゼンマイ形に――それから鰻(うなぎ)のようにロープの先きがのびたかと思うと――その端が、それを捕えようと両手をあげている漁夫の首根を、横なぐりにたたきつけた。
 皆は「アッ!」と叫んだ。
 漁夫はいきなり、そのままの恰好(かっこう)で横倒しにされた。
 が、つかんだ!
 ロープはギリギリとしまると、水のしたたりをしぼり落して、一直線に張った。
 こっちで見ていた漁夫達は、思わず肩から力を抜いた。

 ステイは絶え間なく、風の具合で、高くなったり、遠くなったり鳴っていた。
 夕方になるまでに二艘を残して、それでも全部帰ってくることが出来た。
 どの漁夫も本船のデッキを踏むと、それっきり気を失いかけた。
 一艘は水船になってしまったために、錨(いかり)を投げ込んで、漁夫が別の川崎に移って、帰ってきた。
 他の一艘は漁夫共に全然行衛不明だった。

 監督はブリブリしていた。
 何度も漁夫の部屋へ降りて来て、又上って行った。
 皆は焼き殺すような憎悪(ぞうお)に満ちた視線で、だまって、その度に見送った。

 翌日、川崎の捜索かたがた、蟹(かに)の後を追って、本船が移動することになった。
 「人間の五、六匹何んでもないけれども、川崎がいたまし」かったからだった。

 朝早くから、機関部が急がしかった。
 錨を上げる震動が、錨室と背中合せになっている漁夫を煎豆(いりまめ)のようにハネ飛ばした。
 サイドの鉄板がボロボロになって、その度にこぼれ落ちた。
 博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索した。
 結氷の砕片(かけら)が生きもののように、ゆるい波のうねりの間々に、ひょいひょい身体(からだ)を見せて流れていた。

 が、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あぶくを出しながら、船を見る見るうちに真中に取囲んでしまう、そんなことがあった。
 氷は湯気のような水蒸気をたてていた。
 と、扇風機にでも吹かれるように「寒気」が襲ってきた。
 船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに、氷が張ってしまった。
 船腹は白粉(おしろい)でもふりかけたように、霜の結晶でキラキラに光った。
 水夫や漁夫は両頬を抑(おさ)えながら、甲板を走った。
 船は後に長く、曠野(こうや)の一本道のような跡をのこして、つき進んだ。

 川崎船は中々見つからない。
 九時近い頃になって、ブリッジから、前方に川崎船が一艘浮かんでいるのを発見した。
 それが分ると、監督は「畜生、やっと分りゃがったど。畜生!」デッキを走って歩いて、喜んだ。
 すぐ発動機が降ろされた。
 が、それは探がしていた第一号ではなかった。
 それよりは、もっと新しい第36号と番号の打たれてあるものだった。
 明らかに×××丸のものらしい鉄の浮標(ヴイ)がつけられていた。
 それで見ると×××丸が何処(どこ)かへ移動する時に、元の位置を知るために、そうして置いて行ったものだった。

 浅川は川崎船の胴体を指先きで、トントンたたいていた。
「これアどうしてバンとしたもんだ」ニャッと笑った。「引いて行くんだ」
 そして第36号川崎船はウインチで、博光丸のブリッジに引きあげられた。
 川崎は身体を空でゆすりながら、雫(しずく)をバジャバジャ甲板に落した。
 「一(ひと)働きをしてきた」そんな大様な態度で、釣り上がって行く川崎を見ながら、監督が、
 「大したもんだ。大したもんだ!」と、独言(ひとりごと)した。

 網さばきをやりながら、漁夫がそれを見ていた。
 「何んだ泥棒猫!
  チエンでも切れて、野郎の頭さたたき落ちればえんだ」
 監督は仕事をしている彼らの一人々々を、そこから何かえぐり出すような眼付きで、見下しながら、側を通って行った。
 そして大工をせっかちなドラ声で呼んだ。

 すると、別な方のハッチの口から、大工が顔を出した。
 「何んです」
 見当外(はず)れをした監督は、振り返ると、怒りッぽく、
 「何んです?
  馬鹿。
  番号をけずるんだ。
  カンナ、カンナ」
 大工は分らない顔をした。

 「あんぽんたん、来い!」
 肩巾(かたはば)の広い監督のあとから、鋸(のこぎり)の柄を腰にさして、カンナを持った小柄な大工が、びっこでも引いているような危い足取りで、甲板を渡って行った。
 川崎船の第36号の「3」がカンナでけずり落されて、「第六号川崎船」になってしまった。
 「これでよし。
  これでよし。
  うッはア、様(ざま)見やがれ!」
 監督は、口を三角形にゆがめると、背のびでもするように哄笑(こうしょう)した。

 これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった。
 第三十六号川崎船の引上げで、足ぶみをしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。
 空は晴れ上って、洗われた後のように澄んでいた。
 カムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、くっきりと輝いていた。

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