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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  49

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 そしてこの喜びが、彼のものであった。
 この力が、彼のものであった。
 彼は他の事物とおのれとを少しも区別しなかった。

 その時までは、激しい喜ばしい好奇心をもって自然をながめていた幸福な幼年時代でさえ、生物は、自分となんらの関係もなく理解することもできない、あるいは恐ろしいあるいはおかしなとざされた小世界のように、彼には思われていた。
 彼らが感じており生きておることさえ、彼には確かにわかっていたろうか。
 それは実に不思議な機関《からくり》であった。

 クリストフは時として、幼年の無意識的な残忍さをもって、不幸な昆虫の四肢《し》をもぎ取ることさえあった、
 しかもそれが苦しがることは少しも考えずに――そのおかしなもがきを見る楽しみのために。
 一匹の不幸な蠅《はえ》をいじめていると、平素はあんなに穏かだった叔父《おじ》のゴットフリートもさすがに怒って、彼の手からそれを奪い取ったこともあった。
 その時彼は初め笑おうとした。
 それから叔父の興奮に感動して涙にむせんだ。
 その犠牲者も自分と同様に実際生存しているのであって、自分は罪を犯したのであるということを、彼は了解し始めた。

 しかし、その後彼は動物をいじめなかったとはいえ、動物になんら同情を寄せてるのではなかった。
 そのそばを通っても、彼らの小さな機体の中に行われてることを感じようとはしなかった。
 むしろそれを考えることを恐れた。
 それはなんだか悪夢に似寄っていた。

 しかるに今や、すべてが明らかになった。
 それら生物のほの暗い意識界は、こんどは光明の巣となった。
 生物の群がってる草の中に、昆虫の羽音の鳴り響く木陰に、クリストフは寝ころんで、じっとうちながめた。
 蟻《あり》の性急な活動を、歩きながら踊ってるように見える足長蜘蛛《ぐも》を、横っ飛びに跳《は》ね回る蝗《いなご》を、重々しいしかもせかせかした甲虫《かぶとむし》を、白い斑紋《はんもん》のある弾力性の皮膚をそなえている毛のないまっ裸の桃色の蚯蚓《みみず》を。

 あるいはまた、両手を頭の下にあてがい、眼を閉じて、彼は耳を傾けた、眼に見えない管弦楽に。
 香《かんば》しい樅《もみ》の木のまわりで、一条の日の光の中で、物狂わしく回転してる昆虫のロンド、蚊のファンファーレ、地蜂《じばち》のオルガンの音、木の梢《こずえ》に鐘のようにふるえてる野蜂の集団の音、または、揺ぐ木立の崇高な囁《ささや》き、微風に吹かるる枝のやさしい戦《そよ》ぎ、波動する草の細やかな葉ずれ、あたかも、湖水の清澄な面《おもて》に皺《しわ》を刻むそよ風のような、また、通りすぎ空中に消えてゆく恋しい足音のような。

 すべてそれらの音やそれらの鳴き声を、彼は自分の中に聞いた。
 それら生物の最小から最大にいたるまで、同じ一つの生命の川が貫流していた。
 川は彼をも浸していた。
 彼は彼らと同じ血からなり、彼らの悦楽の親しい反響を聞いた。
 多くの小川で大きくなった河のように、彼らの力は彼の力に交り合った。
 彼は彼らの中におぼれた。
 窓を破って窒息してる彼の心に吹き込んできた空気の圧力に、彼の胸は破裂せんばかりになった。

 変化はあまりに急激だった。
 至るところに虚無ばかりを見てきた後に、自分の生存をのみ懸念していて、その生存が雨のように分散するのを感じていたのに、今やおのれを忘れて宇宙のうちに甦《よみがえ》らんとあこがれると、至るところに無限無辺の生を見出したのであった。
 彼は墳墓から出て来たような思いがした。
 生の河はなみなみとたたえて流れていた。
 彼はその中を愉快に泳いでいった。

 そしてその流れに運ばれながら、彼はまったく自由の身だと信じた。
 彼は知らなかった、前より少しも自由ではないということを、何人《なんぴと》も自由ではないということを、宇宙を支配する法則自身でさえも自由ではないということを、死のみが――おそらく――人を解放してくれるということを。
 しかし、殻から出た蛹《さなぎ》は、新らしい外皮の中に喜んで手足を伸して、自分の新しい牢獄《ろうごく》の境界をまだ認めるの隙《ひま》がなかった。

 月日の新しい周期が始った。
 幼い時、初めて事物を一つ一つ発見していった時のような、神秘な喜ばしい、黄金と熱気との日々であった。
 黎明《れいめい》から黄昏《たそがれ》のころまで、彼はたえざる幻の中に生きていた。

 すべての務めはうち捨てられた。
 長い年月の間、たとい病気の時でさえ、一回の稽古《けいこ》をも一回の管弦楽試演をも欠かしたことのない、この生真面目《きまじめ》な少年は、今やよからぬ口実を捜し出しては、仕事をなまけた。
 彼は嘘《うそ》をつくことも恐れなかった。
 嘘をついても後悔の念を覚えなかった。
 これまで喜んで意志を服せしめていた堅忍主義の生活は、道徳も義務も、今はほんとうのものでないように彼には思えた。

 その偏狭な専制は自然にぶっつかってこわれてしまった。
 健全強壮自由な人間性、それが唯一の徳である。
 その他はすべて悪魔にでも行くがいい!
 世間から道徳の名をもって飾られ、人生をその中に押し込めようと世人がしている、用心深い策略の煩瑣《はんさ》な規則を見ると、憫笑《びんしょう》に価するようなものばかりであった。
 笑うべき土竜《もぐら》の巣だ!
 生命が一過すれば、すべては清掃されるのだ。

 クリストフは精力に満ちあふれながら、時々、破壊し、焼きつくし、粉砕し、息苦しい自分の力を盲目狂暴な行為で飽満させたいという、欲望に駆られた。
 たいていそういう発作は、突然の精神弛緩《しかん》に終ることが多かった。
 彼は涙を流し、地上に身を投出し、大地に抱きついた。
 それにかじりつき、しがみつき、それを食いたかった。
 彼は熱気と欲求とに震えていた。

 ある夕方、彼は林の縁を散歩していた。
 眼は光に酔わされ、頭はふらふらしていて、すべてが変容される狂熱状態にあった。
 ビロードのような夕の光が、さらに魅惑を添えていた。
 紅色と黄金色との光線が、栗《くり》の木立の下に漂っていた。
 燐光《りんこう》のような輝きが、牧場から発してるようだった。
 空は眼のように悦《よろこ》ばしくやさしかった。

 横の牧場に、一人の娘が刈草を動かしていた。
 シャツと短い裳衣《しょうい》だけで、頸《くび》と腕とを露《あら》わにして、草をかき集めては積んでいた。
 短い鼻、広い頬《ほお》、丸い額、そして髪にハンカチをかぶっていた。
 その日焼けのした陶器のような皮膚は、夕日に赤く染まって、一日の名残りの光を吸い込んでるかと思われた。

 その娘がクリストフを魅惑した。
 彼はぶなの木によりかかって、彼女が林の縁の方へやって来るのをながめていた。
 彼女は彼を気にかけていなかった。
 ちょっと彼女は無頓着《むとんじゃく》な眼つきを上げた。
 日に焼けた顔の中のきつい青い眼を彼は見た。
 彼女は彼のすぐそばを通りかかった。
 そして草を拾うためにかがんだ時、半ば開いたシャツの襟《えり》から、頸筋と背筋との金色のむく毛が彼の眼にとまった。

 彼のうちにみなぎっていた暗い欲望が一時に破裂した。
 彼は後ろから彼女に飛びつき、その頸と胴とをつかみ、頭を仰向かせ、半ば開いた彼女の口に自分の口を押しつけた。
 彼はかわききったかさかさの唇《くちびる》に接吻《せっぷん》し、怒って噛《か》みつこうとしてる彼女の歯にぶっつかった。
 彼の両手はきつい腕や汗にぬれたシャツの上をなで回った。
 彼女はもがいた。
 彼はますますきつく抱きしめ、締め殺してしまいたかった。
 彼女は身をもぎ離し、叫び、唾《つば》を吐き、手で唇を拭《ふ》き、ののしりたてた。
 彼は手を離していた。
 そして畑を横切って逃げだした。

 彼女は石を投げつけ、破廉恥な呼び方をやたらに浴せかけた。
 彼は真赤《まっか》になって、彼女の言葉や考えよりもむしろ自分自身の考えに多く恥じ入った。
 そういう行いをした突然の無意識が非常に恐ろしくなった。
 何をしたのか?
 何をしようとしたのか?
 それについて了解し得るかぎりのことは皆、嫌悪《けんお》の情を起こさせるものばかりだった。
 そしてその嫌悪の情からまた挑発《ちょうはつ》された。
 彼は自分自身と争った。
 どちらに真のクリストフがあるかわからなかった。
 盲目的な力が襲いかかってきた。
 いくらそれをのがれようとしても駄目《だめ》だった。

 自分自身から逃げることだった。
 その力は彼をどうするか分らない。
 明日……一時間後……耕作地を駆けぬけて道路に達するまでのそれだけの時間に、彼は何をするかわからない。
 彼は道へまでも行きつけるだろうか。
 引返して娘のところへ駆けつけるために、立止りはしないだろうか。
 そしてもしその時は?
 彼は娘の喉元《のどもと》をとらえていたあの眩迷《げんめい》の瞬間を思い出した。
 いかなる行いも可能であった。
 罪悪でさえも。
 そうだ、罪悪でさえも。
 彼は胸騒ぎのために息がはずんでいた。

 道路まで行きつくと、息をするために立止った。
 娘は向うで、叫び声をきいてやって来たも一人の娘と話をしていた。
 そして二人は腰に拳《こぶし》をあてて、大笑いをしながら彼の方をながめていた。
 彼は家に帰った。

 数日間、身動きもしないで、室に閉じこもった。
 やむを得ない場合の外は、町へも出かけなかった。
 町の入口を通る機会を、野へ踏み出す機会を、びくびくして避けていた。
 暴風雨の前の静けさの最中に起る一陣の風のように、彼の上に吹きおろしてきたあの狂乱の息吹《いぶ》きを、そこでまた見出しはすまいかと恐れた。
 町の廓壁《かくへき》は自分をそれから守ってくれるだろうと、彼は思っていた。

 しかし、閉《し》め切った雨戸の間の眼に留らないほどの隙間《すきま》が、視線を通し得るくらいの隙間があれば、敵は忍び込んでくることができるということを、彼は考えていなかった。


     二 ザビーネ


 中庭の向こう側、家の片翼の一階に、二十歳の若い女が住んでいた。
 ザビーネ・フレーリッヒという名前で、数か月前から寡婦になり、一人の小さな娘をもっていたが、やはりオイレル老人の借家人だった。
 街路に面した店をもっていて、なおその上に、中庭に面した二つの室を有し、四角な狭い庭までついていた。

 その庭は、蔦《つた》のからんだ針金作りのちょっとした垣根《かきね》で、オイレル一家の庭と区別されていた。
 彼女の姿は滅多に庭に見えなかったが、子供は朝から晩まで、土いじりをしてそこで一人遊んでいた。
 庭には草木が思うままはびこっていたので、手入れの届いた径《みち》と整然たる自然とを好んでいたユスツス老人は、それが非常に不満だった。
 そのことについて、借家人に少し注意を与えたこともあった。

 しかしおそらくそのために、彼女はもう庭に出て来なくなったのであろう。
 そして庭は少しもよくなりはしなかった。
 フレーリッヒ夫人は小さな小間物店を出していた。
 町の目抜きの繁華な街路に位していたので、かなり客足がつくはずだった。
 しかし彼女はこの商売にも、庭にたいすると同様にあまり気を入れていなかった。
 フォーゲル夫人の説に従えば、自尊心のある婦人にとっては――ことに、怠惰を許されないまでも怠惰でいてやってゆけるくらいの財産がない時には――自分で世帯の仕事をするのが至当であるそうだが、フレーリッヒ夫人はそうしないで、十五歳の小娘を一人雇っていた。

 この小娘が朝のうち幾時間かやって来て、若いお上さんが寝床の中にぐずついたり、呑気《のんき》にお化粧をしたりする間、室を片付けたり店番をしたりしていた。
 クリストフは時々、彼女が長い肌着《はだぎ》をつけ素足のままで室の中をうろうろしたり、長い間鏡の前にすわっていたりするのを、窓ガラス越しに見かけることがあった。
 彼女は窓掛をおろすのを忘れるほど無頓着《むとんじゃく》だった。
 そして気がついても、無精のあまりわざわざ窓掛をおろしに行こうともしなかった。

 クリストフは彼女よりずっと初心《うぶ》だったから、向うをきまり悪がらせまいと思って窓から離れた。
 しかし誘惑は強かった。
 少し顔を赤めながらも、彼女の両腕を横目で見やった。
 その腕は心持痩《や》せていて、解いて髪のまわりに懶《ものう》げに上げられ、頸《くび》の後ろで手先を組み合していたが、しまいにしびれてきてまたがっくりおろされるまで、そのままぼんやりしていた。

 クリストフはその快い光景をただ通りがかりにうっかり見たばかりであって、そのために音楽上の瞑想《めいそう》が少しも邪魔されはしなかったのだと、思い込んでいた。
 しかし彼はそれに興味を覚えてるのだった。
 そしてザビーネが化粧に費やしたのと同じだけの時間を、彼女をながめて空費するようになった。
 彼女は決して嬌飾家《めかしや》ではなかった。
 平素はむしろ構わない方だった。
 アマリアやローザほどにも、自分の服装《みなり》に細かな注意を払ってはいなかった。
 お化粧台の前にいつまでもじっとしていたのも、単なる怠惰からであった。
 留針を一本さすにも、そのあとで大儀そうな顰《しか》め顔をちょっと鏡に映しながら、その大した努力の骨休めをしなければならなかった。
 日暮れになりかけても、まだすっかり身仕舞を済ましていなかった。

 ザビーネの仕度《したく》がととのわないうちに、小婢《こおんな》が帰ってしまうこともたびたびだった。
 すると客は、店の入口の鈴《ベル》を鳴らした。
 一、二度鈴を鳴らさせ呼ばせておいてから、彼女はようやく椅子《いす》から立上る決心をするのだった。
 そして笑顔をしながら、ゆっくり出て来た。
 ゆっくり、客の求むる品物を捜した。
 そして少し捜しても見付からない時には、あるいは(実際あったことだが)それを取出すのにあまり骨の折れる時には、たとえば室の隅《すみ》から他の隅へ梯子《はしご》をもって行かなければならないような時には、平気で品切れだと言った。

 それに、店を少しも片付けようともせず、また実際きれてる品物を取寄せようともしなかったので、客の方で根負けがしたり、他の店へ行ったりした。
 しかしだれも彼女を憎む者はなかった。
 やさしい声で口をきき何事にも平気でいるこの愛敬者を相手には、腹のたてようがなかった。
 どんなことを言われても彼女は無頓着《むとんじゃく》だった。
 そしてだれもよくそのことを感じたので、不平を言い始める者も、それをつづけるだけの勇気がなかった。

 彼女のあでやかな微笑に笑顔で答えて帰っていった。
 しかしもう二度と買いに来なかった。
 彼女はそれを少しも苦にしなかった。
 そしていつも微笑《ほほえ》んでいた。
 彼女はフロレンスの若い女のような顔つきをしていた。

 くっきりした高い眉毛《まゆげ》、睫毛《まつげ》の幕の下に半ば開いている灰色の眼。
 少し脹《は》れた下眼瞼《まぶた》、その下に寄ってる軽い皺《しわ》。
 かわいい小さな鼻は、軽やかな曲線を描いて先の方で高まっていた。
 も一つの小さな曲線が、鼻と上唇《うわくちびる》とを隔て、その上唇は開きかかってる口の上にまき上って、にこやかな懶《ものう》さに唇をとがらした様子になっていた。
 下唇は少し厚かった。
 顔の下部は円形《まるがた》で、フィリッポ・リッピの描いた処女のような、仇気《あどけ》ない真面目《まじめ》さをそなえていた。
 顔色は少し曇っていた。
 髪はうすい栗《くり》色で、ごたごたに束ねてあり、後ろの方はもじゃもじゃしていた。
 身体はきゃしゃで、骨組が細く、動作が手ぬるかった。

 服装《みなり》には大して気をつけていなかった。
 胸の開いた上着、不足がちなボタン、すり切れた汚ない靴《くつ》、おさんどんじみた様子。
 けれど、その若々しい優美さ、物やさしさ、本能的な愛敬、などで人の心をひいていた。
 店の表に出て涼んでいると、通りかかりの若者らはそれに見とれた。
 そして彼女は、彼らを少しも気にかけてはいなかったが、見られてることに気付かずにはいなかった。
 すると彼女の眼は、心寄せて見られてるのを感ずるあらゆる女の眼がするように、感謝と喜びとの色を浮かべた。

 そしてこう言ってるようだった。
 「ありがとうよ!
  もっと、もっと、見てちょうだい!」
 しかし、人に好かれることがうれしかったにせよ、彼女は本来の無精から、少しも好かれようとつとめたことはなかった。

 オイレルにフォーゲルの一家にとっては、彼女はいつも悪口の種であった。
 彼女のことは万事彼らの気色を害した。
 彼女の怠惰、家の中の乱雑、服装《みなり》のだらしなさ、彼らの注意にたいする馬鹿ていねいな冷淡さ、たえざる笑顔、夫の死に接しても乱されない晴やかさ、娘の病身、店の不景気、または、いかなることがあっても、その慣れきった習慣を、いつもののらくらさを、少しも変えないでやってゆく日々の生活の、細大ともどもの退屈さ加減、彼女の万事が、彼らの気色を害した。

 そして最もいけないのは、彼女がそんなふうでいて人に好かれることだった。
 フォーゲル夫人はそれを彼女に許してやることができなかった。
 すべて正直な人たちはそうだが、オイレル一家の者が存在の理由としてるところのもの、そしておのれの生活を早くもこの世からの煉獄《れんごく》となしてるところのもの、すなわち強力な伝統、真正な主義、無味乾燥な義務、面白みのない労働、燥急、喧騒《けんそう》、口論、悲嘆、健全な悲観主義、そういうものの上に、実際の行為によって皮肉な拒否を投げかけんがために、ザビーネはことさらにそうしてるのだとでもいうような調子だった。

 神聖な一日じゅう、何にもせず、勝手なことに多くの時間をつぶし、人が懲役人のように身を粉にして苦労してるのに、横柄にも落着き払ってそれを馬鹿にするとは。
 おまけに、世間の者までが彼女を至当だとするとは。
 それはあんまりのことだった。
 正直に暮そうとする勇気をくじくものだった!
 が幸いにも、神はよくしたものだ!

 この世にまだ分別をそなえた者が数人あった。
 フォーゲル夫人はそれらの人々といっしょにみずから慰めていた。
 若い寡婦について、鎧戸《よろいど》の間からのぞき得た一日のことを皆で言い合った。
 それらの悪口は、晩に食卓へ皆集った時、一家の者の喜びとなった。
 クリストフは心を他処《よそ》にして聞いていた。
 フォーゲル一家の者たちが隣人の行いを非難するのを、彼はあまりに聞き慣れていたので、もうそれになんらの注意も払わなかった。

 そのうえ彼はまだザビーネ夫人については、その露《あら》わな頸《くび》筋と両腕とをしか知らなかった。
 それらのものはかなり気に入るものではあったが、それだけでは、彼女の一身に決定的な断案を下すわけにはゆかなかった。
 けれども彼は、彼女にたいして十分の寛容を心に感じていた。
 そして施毛曲《つむじまが》りの気質から、彼女がフォーゲル夫人の気に入っていないことがことにありがたかった。

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