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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  46

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        七

 舞台では、人々の耳になじみぶかい華麗な乾杯のコーラスの余韻をひきながらオペラ「椿姫」の第一幕めのカーテンがおりたばかりだった。

 二階のバルコニーの第一列に並んでいる伸子と素子のところへ、一人の金髪のピオニェールのなりをした少年があらわれた。
 ピオニェールの少年は、素子のわきへよって来た。
 そして、そばかすのある顔じゅうにひどく陽気な好奇心を踊らして、
 「それ、望遠鏡ですか」
 素子のきなこ色のスカートの膝におかれていた双眼鏡をさした。
 「ああ。
  なぜ?」
 「僕はじめてこういうものを見たんです。
  ずっと遠くまで見えるんですか」
 「そんなに遠くは見えないさ、オペラ・グラスだもの。
  舞台を見るためのものだから」

 赤い繻子のネクタイをひろく胸の前に結んでさげているピオニェールは、ちょっと素子の云っていることがわからない表情をした。
 「それで見てもいいですか」
 素子は、オペラ・グラスをそのピオニェールにわたした。
 そして、もちかたや、二つのレンズの真中にある銀色の軸をまわして、距離を調節する方法などを教えた。
 「やあ素敵だ!
  あんな隅が、まるで近くに見えらあ」
 ピオニェールは、オペラ・グラスを目にあてて、そう大きくもないエクスペリメンターリヌイ劇場の円天井のてっぺんだの、下の座席だのを見まわした。

 そのころモスクワでは万年筆だの時計だのが珍しく思われていた。
 そのピオニェールがオペラ・グラスをはじめて見たということは本当らしかった。
 でも、ピオニェールが、オペラ・グラスを目にあてがって、あすこも見える! こっちも見える! とはしゃぐ有頂天ぶりは何か度はずれだった。
 伸子は、
 「ほんとにそんなによく見えるの?」
 そのピオニェールにきいた。

 「そのグラスはもう古くて、よくない機械でわたしたちには舞台を見るにも不便なのに」
 オペラ・グラスは、伸子の母親が誰からか外国土産にもらって長い間つかい古したものだった。
 小さいねじで、レンズが倒れて、オペラ・グラス全体が薄くたたまれる。
 それが手ごろで、伸子はもらって来たのだった。
 伸子がそういうと、ピオニェールはレンズを目からはなして、瞬間かたまったような笑い顔で伸子をじっと見た。

 「それ、ほんとですか」
 伸子は半分ふざけて云った。
 「レンズだの自動車だのは、一年ごとに進歩して、よりよいものが作られているのよ」
 ピオニェールは、口のなかで、
 「そりゃ本当だ」
 と言いながらまたレンズを目に当ててバルコニーのうしろの方を眺めていたが、素子に、
 「僕このレンズちょっとかりて下へもって行っていいですか。
  僕の席、あすこなんです」
 バルコニーの手摺りから、下のオーケストラ・ボックスの右よりの場所を示した。
 「僕、下から上が見てみたいんだ。
  いいですか。
  すぐもって来ます」

 素子は、ちらりと伸子を見た。
 「いいだろう」
 その言葉の響には、少年を信用してもいいだろうという意味がききとれた。
 伸子は、だまって、口元でわからないという表情をした。
 その少年のピオニェールの服装が、どこやら信用しない自分のきもちの方が普通でないようにも伸子に感じさせるのだった。
 「まあいい」
 素子はロシア語で、
 「かしてあげるよ。
  すぐもって来なさい」
 と云った。

 少年はバルコニーから姿を消した。
 オーケストラ・ボックスに近い下の席にまた彼のピオニェール姿が現れるまでに、すこし時間がかかりすぎる感じだった。
 素子と並んで首をのばして下を見ながら、伸子は、
 「あの子供、返しに来るかしら」
 と云った。
 来ないような気がした。
 「ピオニェールだよ」
 「そりゃそうだけれど……」

 そう云ってなお下を見ている伸子の頭に、札束のことが思い浮んだ。
 「あなた、お金どこにある?」
 「こっちへうつした」
 伸子と自分との席の間に挾んでおいてある書類鞄を素子はたたいた。
 劇場へ来るまえに、伸子と素子とは国立銀行へまわって、三ヵ月間の生活費にあたるほどの紙幣をもっていた。
 素子はどうしたのかそれを外套の内ポケットに入れていた。
 劇場の外套あずかり所で、外套をぬいであずけるとき、素子はそのことを思い出し、ポケットから札束を出して、入れ場所をかえた。

 伸子は、素子のそういう動作は場所柄不用心だと思ったけれども、だまっていた。
 そのとき、彼女たちのまわりに何人か外套あずけの観客がいた。
 素子がそうやって手早くではあったが不適当な場所で札を動かしたとき、すぐ横にいて、どうも素子のやったことに気づいたらしい、きびしい顔つきの四十がらみの女が、赤っぽい絹ブラウスを着て、やっぱり同じバルコニーで素子から斜よこの席に一人でかけていた。
 伸子は、あいかわらず素子と顔を並べて下を見ながら、小さな声で、
 「お金、みられたんじゃないかしら」
 と云った。
 「あの女、気がついてる?
  赤ブラウスの女、外套あずけのところで、すぐあなたのうしろにいたのよ」
 「ああ、あいつはすこし変だ」

 オペラ・グラスそのものは、伸子たちにとって、なくなって大して惜しいものでもなかったし、不便する品ものでもなかった。
 けれども、あの子供は、ほんとにただオペラ・グラスが珍しいだけなのか。
 それとも盗むのだろうか。
 伸子たちの好奇心はそちらに重点がうつった。
 すこし時間をかけすぎた感じだったが、やがてそのピオニェールは伸子たちが見下しているオーケストラ・ボックスの近くの席へ、赤いネクタイ姿をあらわした。
 幕のしまっている舞台をうしろにして席のところに立ち、伸子たちのいるバルコニーへオペラ・グラスを向け、挨拶に手をふった。

 幕間にも席を立たずにいたまばらな観客の顔が二つ三つ、ふりかえって、ピオニェールがそこに向って手をふっている伸子たちのバルコニーを見上げた。
 少年の隣りの席にいた黒っぽい背びろ服の男が、少年からオペラ・グラスをかりて首をねじり、特に伸子たちの方というのではなくバルコニー全体を眺めた。
 そして、かえしたオペラ・グラスで又ひとしきりあっちこっち見まわしてから、少年は、いまそっちへゆくという意味の合図をして、見えなくなった。
 ピオニェールは、オペラ・グラスをかえしに来た。

 素子は少し伸子をとがめるように「やっぱり来たじゃないか」とささやいた。
 そして素子と少年との間に、断片的な日本の話がはじまった。
 「モスクワに日本人すくないですね。
  中国人は僕よく知ってるんです、『子供の家』に中国人の子供がいたから。
  僕日本人にあったのはじめてです」
 自分の名をペーチャと云って紹介したピオニェールは、やがて開幕を告げるベルが場内に鳴ると、
 「僕、こっちの席へうつってもいいですか」
 と素子にきいた。
 「幕間に、もっと日本のことがききたいから」

 その晩のエクスペリメンターリヌイ劇場は八分の入りだった。
 モスクワの劇場ではそこがあいていることがたしかなら、席をかえてもかまわない習慣がある。
 もっとも、そんな空席のあることはまれだったけれども。
 ピオニェールはそのままバルコニーにのこって、赤ブラウスの女の一つうしろの席に坐った。
 素子と伸子との座席は丁度第一列の中央通路から一つめと二つめだった。

 素子の右手はゆったりした幅の通路で区ぎられており、その隣りにいるのは伸子で、あとずっとその列に空席がなかった。
 オペラとバレエだけを上演する国立大劇場とくらべれば、エクスペリメンターリヌイ劇場は、上演目録も『ラ・ボエーム』『ファウスト』『トラヴィアタ』という風なもので若い歌手たちの登場場面とされていた。
 すべてが小規模で、舞台装置もあっさりしているけれども、その晩の『椿姫』は魅力的であった。

 ソプラノが、いかにも軟かく若々しい潤いにとんだ声で、トラヴィアタの古風で可憐な女の歓び、歎き、絶望が、堂々としたプリマドンナにはない生々しさで演じられた。
 歌詞がロシア語で歌われるために、流麗なメロディーにいくらかロシア風のニュアンスがかげを添え、その晩の『椿姫』は、プーシュキンでもかいた物語をきくような親しみぶかさだった。
 伸子は、体のなかで美しく演奏されたオペラのメロディーが鳴っているような暖くとけた心持で劇場を出た。

 パッサージ・ホテルまで歩いて、そこで素子とお茶でものんで、伸子はそれから電車でアストージェンカの住居へ帰るのだった。
 雪のこやみになっている夜道を中央郵便局の建築場に面したパッサージの入口まで来た。
 伸子たちは二人きりでそこまで来たのではなかった。
 例のピオニェールが送ってゆくと云って、ついて来ていた。
 パッサージの入口で、素子が糸目のすりきれた黒ラシャの短外套の襟の間から赤いネクタイをのぞかせているピオニェールにわかれを告げた。
 「じゃ、さようなら、家へかえって、寝なさい。
  もうおそいよ」

 ピオニェールは、ちょっと躊躇していたが、
 「あなたの室へよって行っていいですか」
 いくらか哀願するように云った。
 「ほんの暫くの間。
  じきかえります」
 伸子も素子も、子供が茶をのみたがっているのだと想像した。
 「ピオニェールが、そんなに夜更していいのかい」
 そう云いながら結局三人で素子の室へあがった。
 そのとき素子は、モスクワへついた一番はじめの晩に伸子と泊った室、あとでは長原吉之助がオムレツばかりたべながら二週間の余り逗留していた三階の隅の小さい部屋をとっているのだった。

 素子の室へはいって外套をぬぎ、もちものをデスクの上や椅子の上においてひと休みするとピオニェールはめっきり陽気になりだした。
 小さい焔がゆれているような顔をしてトラヴィアタの中にあるメロディーを口笛で吹き、そうかと思うと、ブジョンヌイの歌を鼻うたでうたって、部屋じゅう歩きまわったあげく膝をまげた脚をピンピン左右かわりばんこに蹴出すコーカサス踊の真似などをした。
 「なぜ、お前さんはそう騒々しいのかい」
 と、素子があきれた顔でとがめた。
 「おかしな小僧だ!」

 ピオニェールはすかさず、
 「僕、いつだって陽気なんだ。ラーゲリ(野営地)で有名なんです」
 と口答えして笑ったが、敏感に限度を察して、それきりさわぐのをやめた。
 そしてこんどは当てっこ遊びをはじめた。
 「この机の引出しに何が入ってるか、僕あててみましょうか」
 「あたるものか」
 「いいや僕あててみせます。
  まず、何だろう」
 緑色のラシャの張ってあるデスクを上から撫でて、金色の髪がキラキラ光る五分刈の頭をかしげ、
 「まず、紙類が入っている!」

 「お前さんはずるいよ。
  紙類の入っていない机の引出しなんてあるものか」
 「それから、たしかに鉛筆も入っている。
  ナイフ――あるかな?」
 ピオニェールは、挑むような、からかうような眼つきをして素子と伸子を、順ぐりに横目で見た。
 「少くとも、何か金属のものが入っています!」
 そう宣言しながらさっと素子のデスクの引出しをあけた。

 その引出しに、白い大判のノート紙と日本の原稿紙などしか入っていないのを見てピオニェールは、失望の表情をした。
 「大したもんじゃないや!(ニェ・ワージヌイ!)」
 「あたり前さ、もちろん大したもんじゃないよ、紙は紙さ。
  白かろうと青かろうと」
 ピオニェールはすぐ元気をとり戻した陽気さにかえって、
 「でも、僕はあてましたよ、御覧なさい。
  これは金属でつくられてる!」
 モスクワ製のペン先を二本つまんで見せた。

 「さてと、これには何が入っているかな」
 デスクの上におかれている素子の書類入鞄に手をかけようとした。
 「さわっちゃいけない」
 きつい声で云って、素子はその鞄をかけている椅子の背と自分の体との間にしっかりはさみこんだ。
 「なぜ、それにさわっちゃいけないんですか?」
 「お前さんの指導者にきいてごらん」
 伸子は、ピオニェールのあてっこ遊びに飽きて来た。
 茶をのまして早く帰そうと思い、水色エナメルの丸く胴のふくらんだヤカンをさげて、台所まで湯をとりにおりた。

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