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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  43

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 テルノフスカヤを見ると、顔みしりではあると見えて、
 「こんばんは」
 身についている客あしらいのよさで挨拶した。
 テルノフスカヤはだまって握手して、
 「いそがしいですか」
 はじめて日本語で吉之助にきいた。
 「ええ荷づくりが少しあったもんですから、……失礼しました」
 二人の娘をあずけたことをもこめて、吉之助は伸子たちにも軽く頭を下げた。
 先にかえった左団次一行からはたよりがあったか、とか、正月興行で、吉之助の配役は何かというような話が出た。

 テルノフスカヤがどういう用で吉之助のところへ来たのか、伸子たちに見当がつかないように、吉之助にもわからないらしかった。
 吉之助の室へ行こうとするでもなくて、四十分も雑談すると彼女は来たときのように余情をのこさない足どりで伸子たちの室から出て行った。
 伸子たちがモスクワへ来てやがて一年になろうとしていた。
 その間、ただ一度も来たことのないテルノフスカヤが、その晩不意に、しかもさがしもしないような的確さでパッサージの三階にいる伸子たちの室を訪ねて来たのは不思議な気持だった。
 「長原吉之助のファンは、ああいうところまではいってるのかな」
 そういう素子に吉之助は却って訊ねるような視線を向けた。
 「一度楽屋で見かけた方には相違ないんですが……」
 素子は何か考えるようにパイプをかんでいたが、やがて、
 「気にすることはありませんよ」
 と云った。
 「俳優にどんなファンがいたって、ある意味じゃ不可抗力なんだから」
 一日おいた冬の晴れた朝、吉之助は予定どおりモスクワを出るシベリア鉄道へのりこんだ。


        五

 伸子と素子とは、また貸間さがしをはじめた。
 もう十二月で、伸子たちにとってまる一年のモスクワ生活だった。
 春ごろ、貸部屋をさがしたときのようなまだるっこいことはしないで、こんどはいきなりモスクワ夕刊の広告受付の窓口で求間の広告をかいた。

 あしたにも雪が降りはじめそうな夕方だった。
 午後三時ごろから店々に灯がついているトゥウェルスカヤ通りをホテルへ帰りながら、 伸子は、
 「こんどもいい室が見つかるといいけれど」
 と云った。
 「でも、ルイバコフのところみたいに、あんまり短い期限は不便ね」
 レーニングラードへ出発するまでの暫くの間暮したフラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根が窓からみえる家は、ルイバコフの家族が夏の休暇をとるまでという期限つきだった。

 「あのときは、わたしたちだってモスクワから出る前だったんだし、よかったのさ。
  こんどは少し腰をおちつけなくちゃ」
 伸子たちの夏の休暇は、間に保の死という突発の事件をはさみ、予定より長びいた。
 ひきつづいて歌舞伎が日本から来たことは、モスクワにいた多くの日本人の気持にふだんとちがった影響を与えた。

 なかでも芝居ずきの素子は、モスクワで歌舞伎を観るということに亢奮した。
 そして、その旧い歌舞伎の根元から思いがけない若さでひこ生えて来ているような長原吉之助の俳優としての存在が、モスクワの環境で、伸子と素子との日常に接近した。
 伸子は、保に死なれ、生れた家や過去の生活ぶりから絶縁された自分を感じている心の上へ、長原吉之助や映画監督エイゼンシュタインが新しい生活と芸術を求めて動いているエネルギーを新しい発見としてうけとった。

 うちはないようになっても、うちよりほかのところに伸子の精神につながった動きがあるという確認は、伸子を力づけた。
 長原吉之助がモスクワを立ってから、伸子は一層自分を、モスクワ生活にくっささったものとして感じた。

 素子も、吉之助がパッサージ・ホテルを去った次の週から、またモスクワ大学へ通いはじめた。
 素子の勉強ぶりには、何となく、とりとめもなく煙のあとを目で追いながらタバコをくゆらしていたひとが、急に果さなければならない義務があったのを思い出して、灰皿の上へタバコをもみ消しながら立ち上った趣きがあった。
 素子の日常が、レーニングラードへ出かける前の初夏のころとあんまりちがわない平面の上で廻転しはじめた。

 一つ部屋に暮してそれを見ながら、伸子は平面で動けなくなっている自分というものを感じ、しかしくっささったぎりそれからさきの自分の動かしようはわからないでいる感じだった。
 二人の外国女として伸子たちの求間広告がモスクワ夕刊の広告欄に出た二日後、伸子たちは一通の封書をうけとった。
 それはタイプライターでうたれた短い手紙だった。
 要求にふさわしい一室があいている。
 毎日午後二時には在宅。
 来訪を待つ。

 部屋主からの事務的な通知だが、伸子たちはそのアドレスを見て、
 「まあ!」
 と、手紙の上に集めていた二つの頭をはなして互の顔を見合わせた。
 「またあの建物の中よ!
  なんて縁があるんでしょう!」
 タイプライターの字が、アストージェンカ一番地とあった。
 「じゃ、またあのフラム・フリスタの金の円屋根ね」

 「さあ」
 素子が実際家らしく、思案した。
 「そうとも限るまい。
  だって、こっちはクワルティーラ(アパートメント)五八とあるもの」
 また伸子が下検分の役だった。
 六ヵ月ぶりで来てみるとアストージェンカの街角には、やっぱり黒地にコムナールと大きく白字で書いた看板をかかげた食糧販売店の店が開かれており、そのわきからはじまる並木道の樹々は、葉をふるいおとした梢のこまかい枝で冬空に黒いレース模様を編みだしている。

 フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの石垣の下に春ごろ、空のまま放られていたキオスク(屋台店)に、人がはいっていまは新聞だのタバコ、つり下げたソーセージなどを売っていた。
 一番地の板がこいには、まだ「この中に便所なし」と書いた紙がはりつけられている。
 伸子は、そこを出入りしなれている者独特のこころもちで、一番地の木戸をはいって行った。

 ルイバコフの入口はとっつきの右だったけれども、クワルティーラ五八というのは、その建物の内庭に面して並んでいる四つの入口の、左はじから二番目に入口があった。
 相かわらず人気のない内庭から四階までのぼって、五八のドアの呼鈴《よびりん》をならした。

 スカートのうしろまで鼠色麻の大前掛をかけた、太った年よりの女が出て来た。
 伸子が用向きを告げると、小柄な伸子の上から下まで一瞥しながら、
 「おまち下さい」
 と、奥へ入って行った。
 入れちがいに、大柄の、耳飾りをつけた年ごろのはっきりわからない中年の女が出て来た。

 この女も、こんにちは、と云いながら一目で伸子の上から下までを見た。
 それが主婦であった。
 ここで貸そうとしている部屋は、ルイバコフで借りていた浅い箱のような室を、丁度たてにして置いたような細長い部屋だった。
 フラム・フリスタ・スパシーチェリヤの金の円屋根はその窓からは見えず、したがって街の物音の反響もすくなかった。
 「この室には、別入口がついているんですよ」
 ぱさぱさした褐色の髪や皮膚の色にエメラルドの耳飾りがきわだつ顔を奥のドアへ向けながら主婦が伸子に説明した。

 「そのドアをお使いなすってもかまわないんですが、もし不用心だといけませんから、
  表から出入りしていただきたいと思います」

 翌日、伸子たちはソコーリスキーというその家の表部屋へ移った。
 アストージェンカの界隈には馴れていたし、シーズンのはじまった芝居の往復にも、そこからは便利だった。
 ソコーリスキーでは食事つきの契約ができた。
 もうじき厳冬がはじまるモスクワで、毎日正餐をたべに出ないでもすむのはのぞましい条件だった。

 「アニュータの料理はわたしたちの自慢です」
 耳飾をさげた細君のいうとおり、太ったアニュータのボルシチ(濃いスープ)やカツレツは、パッサージ・ホテルの脂ぎった料理よりはるかにうまかった。
 伸子たちにとってやや意外だったのは、正餐がソコーリスキーの夫婦といっしょなことだった。
 白いテーブル・クローズをかけ、デザート用の小サジまでとり揃えたテーブルで。

 食後、細君はすぐ子供部屋へひっこんだ。
 「われわれのところには、三つになる娘がいるんです。
  可愛い子です。
  二三日風邪気味でしてね。
  もっとも母親に云わせると、娘の健康状態はいつも、
  重大な注意を要するんだそうですが」

 どっちかというと蒼白いぬけめない顔の上に気のきいた黒い髭をたてて大柄でたるんだ細君よりずっと若く見えるソコーリスキーは、皮肉そうに本気にしない調子でそう云った。
 「日本でも――概して母性というものは、驚歎に価しますか?」
 食後のタバコをくゆらしていた素子が、そんな風にいうソコーリスキーの気分を見ぬいた辛辣さで、
 「どこの国でも、雛鳥をもっている牝鶏にかなう猫はありませんよ」
 と云った。
 「なるほど!
  それが真実でしょうな」

 皮ばりのディヴァンにふかくもたれこんで、よく手入れされたなめし革の長靴をはいた脚を高く組んでいたソコーリスキーは、
 「さて」
 と、ルバーシカのカフスの下で腕時計を見た。
 「失礼します。
  こんやはまだ二つ委員会があるもんですから。
  必要なことは、何でもアニュータに云いつけて下さい」
 ルイバコフの家庭には、いかにも下級技師らしい生活の気分があり、正直と慾ふかさとがまじっていたが、飾りけがなく、そこで働いていたニューラの体からしめっぽい台所のにおいがしていた。

 ソコーリスキーの家庭の雰囲気には、上級官吏らしい艷のいいニスがなめらかにかけられていて、伸子はなじみにくかった。
 部屋へかえって、伸子は素子に、
 「わたしルイバコフの方がすきだわ」
 と、ふくれた顔で云った。
 「ここの連中は、ミャーフキー(二等車)にしか乗らないときめてるようなんだもの」

 素子は、
 「まあいいさ」
 と、伸子の不満にとりあわず、それぞれに風のある家の仕くみを興がるようだった。
 「ここじゃ、アニュータが実質上の主婦だね。
  あの太った婆さんで全体がもててる感じだ」
 おそく生れたらしい娘にかかりきりになっている細君にかわってソコーリスキーの家庭の軸がアニュータのおかげで廻転している。
 それが一度の正餐でもわかった。

 アニュータの給仕ぶりは自信と権威とにみちていて、いかにも、さあ、みなさんあがって下さい。
 いかがです?
 という調子だった。
 アニュータは、主人の地位をほこっていて、そこで権威を与えられている自分自身に満足している様子だった。

 二日目の午後、伸子たちは下町の国際出版所へ出かけ、正餐にやっと間に合う時刻に帰って来た。
 その日は朝から初雪だった。
 二人が外套についた雪をはらっているところへ、ノックといっしょにドアがあいた。
 そして、耳飾りをした細君の顔があらわれた。
 「入ってもようござんすか?」
 いいともわるいともいうひまもなく細君は伸子たちの狭い室へ体を入れて、自分のうしろでドアをしめた。

 細君は、体の前で両手を握りあわすような身ぶりをした。
 握りあわせた手をよじるようにしながら、
 「きいて下さい」
 奇妙な赤まだらの浮いたようになった顔で伸子たちに云った。
 「さっき、わたしの夫から電話がかかりまして、非常に思いがけないことが起って、
  どうしてもこの室が必要になったんです」
 あんまり突然で意味がわからないのと、勝手なのとで素子と伸子とは傷つけられた表情になった。

 だまって、デスクの前の椅子に腰をおろした素子に追いすがるように、細君は一歩前へ出て、また、
 「スルーシャイチェ(きいて下さい)」
 圧しつけた苦しい声でつづけた。
 「どう説明したらいいでしょう。
  つまり、非常に重大な人物に関係のあることが起ったためなんです」
 「…………」
 「わたしの夫の役所の関係なんです。
  どうしても避けられない事情になって来たんです。
  すみませんが、子供部屋と代っていただきたいんです。
  アニュータがあっちへ、あなたがたの荷物や寝台の一つを運びますから」

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