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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目 漱石  29

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 食後には卓上演説も何もなかった。
 ただ原口さんが、しきりに九段《くだん》の上の銅像の悪口《わるくち》を言っていた。
 あんな銅像をむやみに立てられては、東京市民が迷惑する。
 それより、美しい芸者の銅像でもこしらえるほうが気が利いているという説であった。
 与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作ったんだと教えた。

 会が済んで、外へ出るといい月であった。
 今夜の広田先生は庄司博士によい印象を与えたろうかと与次郎が聞いた。
 三四郎は与えたろうと答えた。
 与次郎は共同水道栓《せん》のそばに立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いからここで水を浴びていたら、巡査に見つかって、擂鉢山《すりばちやま》へ駆け上がったと話した。

 二人は擂鉢山の上で月を見て帰った。
 帰り道に与次郎が三四郎に向かって、突然借金の言い訳をしだした。
 月のさえた比較的寒い晩である。
 三四郎はほとんど金の事などは考えていなかった。
 言い訳を聞くのでさえ本気ではない。
 どうせ返すことはあるまいと思っている。

 与次郎もけっして返すとは言わない。
 ただ返せない事情をいろいろに話す。
 その話し方のほうが三四郎にはよほどおもしろい。
 自分の知ってるさる男が、失恋の結果、世の中がいやになって、とうとう自殺をしようと決心したが、海もいや川もいや、噴火口はなおいや、首をくくるのはもっともいやというわけで、やむをえず短銃《ピストル》を買ってきた。

 買ってきて、まだ目的を遂行《すいこう》しないうちに、友だちが金を借りにきた。
 金はないと断ったが、ぜひどうかしてくれと訴えるので、しかたなしに、大事の短銃を貸してやった。
 友だちはそれを質に入れて一時をしのいだ。
 つごうがついて、質を受け出して返しにきた時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなっていた。

 だからこの男の命は金を借りにこられたために助かったと同じ事である。
 「そういう事もあるからなあ」と与次郎が言った。
 三四郎にはただおかしいだけである。
 そのほかにはなんらの意味もない。
 高い月を仰いで大きな声を出して笑った。
 金を返されないでも愉快である。

 与次郎は、
 「笑っちゃいかん」と注意した。
 三四郎はなおおかしくなった。
 「笑わないで、よく考えてみろ。
  おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう」
 「それで?」
 「それだけでたくさんじゃないか。
  君、あの女を愛しているんだろう」
 与次郎はよく知っている。

 三四郎はふんと言って、また高い月を見た。
 月のそばに白い雲が出た。
 「君、あの女には、もう返したのか」
 「いいや」
 「いつまでも借りておいてやれ」
 のん気な事を言う。
 三四郎はなんとも答えなかった。
 しかしいつまでも借りておく気はむろんなかった。

 じつは必要な二十円を下宿へ払って、残りの十円をそのあくる日すぐ里見の家へ届けようと思ったが、今返してはかえって、好意にそむいて、よくないと考え直して、せっかく門内に、はいられる機会を犠牲にしてまでも引き返した。
 その時何かの拍子《ひょうし》で、気がゆるんで、その十円をくずしてしまった。
 じつは今夜の会費もそのうちから出ている。
 自分ばかりではない。
 与次郎のもそのうちから出ている。
 あとには、ようやく二、三円残っている。
 三四郎はそれで冬シャツを買おうと思った。

 じつは与次郎がとうてい返しそうもないから、三四郎は思いきって、このあいだ国元《くにもと》へ三十円の不足を請求した。
 十分な学資を月々もらっていながら、ただ不足だからといって請求するわけにはゆかない。
 三四郎はあまり嘘《うそ》をついたことのない男だから、請求の理由にいたって困却した。
 しかたがないからただ友だちが金をなくして弱っていたから、つい気の毒になって貸してやった。
 その結果として、今度はこっちが弱るようになった。
 どうか送ってくれと書いた。

 すぐ返事を出してくれれば、もう届く時分であるのにまだ来ない。
 今夜あたりはことによると来ているかもしれぬくらいに考えて、下宿へ帰ってみると、はたして、母の手蹟《て》で書いた封筒がちゃんと机の上に乗っている。
 不思議なことに、いつも必ず書留で来るのが、きょうは三銭切手一枚で済ましてある。
 開いてみると、中はいつになく短かい。
 母としては不親切なくらい、用事だけで申し納めてしまった。
 依頼の金は野々宮さんの方へ送ったから、野々宮さんから受け取れというさしずにすぎない。
 三四郎は床を取ってねた。

 翌日もその翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかった。
 野々宮さんのほうでもなんともいってこなかった。
 そうしているうちに一週間ほどたった。
 しまいに野々宮さんから、下宿の下女を使いに手紙をよこした。
 おっかさんから頼まれものがあるから、ちょっと来てくれろとある。
 三四郎は講義の隙《すき》をみて、また理科大学の穴倉へ降りていった。
 そこで立談《たちばなし》のあいだに事を済ませようと思ったところが、そううまくはいかなかった。

 この夏は野々宮さんだけで専領していた部屋《へや》に髭《ひげ》のはえた人が二、三人いる。
 制服を着た学生も二、三人いる。
 それが、みんな熱心に、静粛《せいしゅく》に、頭の上の日のあたる世界をよそにして、研究をやっている。
 そのうちで野々宮さんはもっとも多忙に見えた。
 部屋の入口に顔を出した三四郎をちょっと見て、無言のまま近寄ってきた。
 「国から、金が届いたから、取りに来てくれたまえ。
  今ここに持っていないから。
  それからまだほかに話す事もある」
 三四郎ははあと答えた。
 今夜でもいいかと尋ねた。
 野々宮はすこしく考えていたが、しまいに思いきってよろしいと言った。

 三四郎はそれで穴倉を出た。
 出ながら、さすがに理学者は根気のいいものだと感心した。
 この夏見た福神漬《ふくじんづけ》の缶《かん》と、望遠鏡が依然としてもとのとおりの位置に備えつけてあった。
 次の講義の時間に与次郎に会ってこれこれだと話すと、与次郎はばかだと言わないばかりに三四郎をながめて、
 「だからいつまでも借りておいてやれと言ったのに。
  よけいな事をして年寄りには心配をかける。
  宗八さんにはお談義をされる。
  これくらい愚な事はない」
 とまるで自分から事が起こったとは認めていない申し分である。

 三四郎もこの問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れてしまった。
 したがって与次郎の頭にかかってこない返事をした。
 「いつまでも借りておくのは、いやだから、家へそう言ってやったんだ」
 「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」
 「なぜ」
 このなぜが三四郎自身にはいくぶんか虚偽の響らしく聞こえた。

 しかし相手にはなんらの影響も与えなかったらしい。
 「あたりまえじゃないか。
  ぼくを人にしたって、同じことだ。
  ぼくに金が余っているとするぜ。そうすれば、その金を君から返してもらうよりも、
  君に貸しておくほうがいい心持ちだ。
  人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」
 三四郎は返事をしないで、講義を筆記しはじめた。

 二、三行書きだすと、与次郎がまた、耳のそばへ口を持ってきた。
 「おれだって、金のある時はたびたび人に貸したことがある。
  しかしだれもけっして返したものがない。
  それだからおれはこのとおり愉快だ」
 三四郎はまさか、そうかとも言えなかった。
 薄笑いをしただけで、またペンを走らしはじめた。
 与次郎もそれからはおちついて、時間の終るまで口をきかなかった。

 ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。
 「あの女は君にほれているのか」
 二人のあとから続々聴講生が出てくる。
 三四郎はやむをえず無言のまま梯子段《はしごだん》を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地《あきち》へ出て、はじめて与次郎を顧みた。
 「よくわからない」

 与次郎はしばらく三四郎を見ていた。
 「そういうこともある。
  しかしよくわかったとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか」
 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。
 美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女《かのおんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆいいつ》の資格のような気がしていた。
 言われてみると、なるほど疑問である。

 三四郎は首を傾けた。
 「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。
 「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」
 三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。
 与次郎は一口、
 「知らん」と言った。

 三四郎は黙っている。
 「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。
 三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。
 与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。
 「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。
 歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。
 そのうちまたベルが鳴った。

 三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋《とうぶつや》へはいった。
 小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。
 わけもなく鷹揚《おうよう》にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。
 あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、
 「せんだってはありがとう」と礼を述べた。

 三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。
 美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日《ふつか》ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。
 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。
 三四郎はできるだけの言葉を層々《そうそう》と排列して感謝の意を熱烈にいたした。
 普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。

 しかし感謝以外には、なんにも書いてない。
 それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。
 三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。
 ところがせっかくの封書はただ行ったままである。
 それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。
 三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。

 大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。
 それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。
 小僧はどれになさいますと催促した。
 二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。
 しまいに、よし子が「これになさい」と言った。
 三四郎はそれにした。

 今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。
 いっこうわからない。
 ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。
 三四郎は気の毒なくらいであった。

 表へ出て別れようとすると、女のほうが互いにお辞儀を始めた。
 よし子が「じゃ行ってきてよ」と言うと、美禰子が、「お早く……」と言っている。
 聞いてみて、妹《いもと》が兄の下宿へ行くところだということがわかった。

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