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名作を読みませんかコミュの「三四郎」  夏目漱石  14

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     五

 門をはいると、このあいだの萩《はぎ》が、人の丈《たけ》より高く茂って、株の根に黒い影ができている。
 この黒い影が地の上をはって、奥の方へゆくと、見えなくなる。
 葉と葉の重なる裏まで上ってくるようにも思われる。
 それほど表には濃い日があたっている。

 手洗水のそばに南天《なんてん》がある。
 これも普通よりは背が高い。
 三本寄ってひょろひょろしている。
 葉は便所の窓の上にある。
 萩と南天の間に椽側が少し見える。
 椽側は南天を基点としてはすに向こうへ走っている。
 萩の影になった所は、いちばん遠いはずれになる。
 それで萩はいちばん手前にある。
 よし子はこの萩の影にいた。
 椽側に腰をかけて。

 三四郎は萩とすれすれに立った。
 よし子は椽から腰を上げた。
 足は平たい石の上にある。
 三四郎はいまさらその背の高いのに驚いた。
 「おはいりなさい」
 依然として三四郎を待ち設けたような言葉づかいである。
 三四郎は病院の当時を思い出した。
 萩を通り越して椽鼻まで来た。
 「お掛けなさい」
 三四郎は靴をはいている。
 命《めい》のごとく腰をかけた。

 よし子は座蒲団《ざぶとん》を取って来た。
 「お敷きなさい」
 三四郎は蒲団を敷いた。
 門をはいってから、三四郎はまだ一言《ひとこと》も口を開かない。
 この単純な少女はただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは毫《ごう》も返事を求めていないように思われる。
 三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持ちがした。
 命を聞くだけである。
 お世辞を使う必要がない。

 一言でも先方の意を迎えるような事をいえば、急に卑しくなる、唖《おし》の奴隷のごとく、さきのいうがままにふるまっていれば愉快である。
 三四郎は子供のようなよし子から子供扱いにされながら、少しもわが自尊心を傷つけたとは感じえなかった。
 「兄ですか」とよし子はその次に聞いた。
 野々宮を尋ねて来たわけでもない。
 尋ねないわけでもない。
 なんで来たか三四郎にもじつはわからないのである。
 「野々宮さんはまだ学校ですか」
 「ええ、いつでも夜おそくでなくっちゃ帰りません」
 これは三四郎も知ってる事である。

 三四郎は挨拶《あいさつ》に窮した。
 見ると椽側に絵の具箱がある。
 かきかけた水彩がある。
 「絵をお習いですか」
 「ええ、好きだからかきます」
 「先生はだれですか」
 「先生に習うほどじょうずじゃないの」
 「ちょっと拝見」
 「これ?
  これまだできていないの」
 とかきかけを三四郎の方へ出す。

 なるほど自分のうちの庭がかきかけてある。
 空と、前の家の柿《かき》の木と、はいり口の萩だけができている。
 なかにも柿の木ははなはだ赤くできている。
 「なかなかうまい」と三四郎が絵をながめながら言う。
 「これが?」とよし子は少し驚いた。
 本当に驚いたのである。

 三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。
 三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。
 どっちにしても、よし子から軽蔑《けいべつ》されそうである。
 三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。

 椽側から座敷を見回すと、しんと静かである。
 茶の間はむろん、台所にも人はいないようである。
 「おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか」
 「まだ帰りません。
  近いうちに立つはずですけれど」
 「今、いらっしゃるんですか」
 「今ちょっと買物に出ました」
 「あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」
 「どうして」
 「どうしてって。
  このあいだ広田先生の所でそんな話がありましたから」
 「まだきまりません。
  ことによると、そうなるかもしれませんけれど」

 三四郎は少しく要領を得た。
 「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」
 「ええ。
  お友だちなの」
 男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。
 けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。
 「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」
 「ええ」
 話は「ええ」でつかえた。

 「あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」
 「私?
  そうね。でも美禰子さんのお兄《あに》いさんにお気の毒ですから」
 「美禰子さんのにいさんがあるんですか」
 「ええ。
  うちの兄と同年の卒業なんです」
 「やっぱり理学士ですか」
 「いいえ、科は違います。
  法学士です。
  そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども、早くおなくなりになって、今では恭助《きょうすけ》さんだけなんです」

 「おとっさんやおっかさんは」
 よし子は少し笑いながら、
 「ないわ」と言った。
 美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽《こっけい》であるといわぬばかりである。
 よほど早く死んだものとみえる。
 よし子の記憶にはまるでないのだろう。
 「そういう関係で美禰子さんは広田先生の家《うち》へ出入《でいり》をなさるんですね」
 「ええ。
  死んだにいさんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。

  それに美禰子さんは英語が好きだから、時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう」
 「こちらへも来ますか」
 よし子はいつのまにか、水彩画の続きをかき始めた。
 三四郎がそばにいるのがまるで苦になっていない。
 それでいて、よく返事をする。

 「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺《わらぶき》屋根に影をつけたが、
 「少し黒すぎますね」と絵を三四郎の前へ出した。
 三四郎は今度は正直に、
 「ええ、少し黒すぎます」と答えた。
 すると、
 よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗いながら、
 「いらっしゃいますわ」とようやく三四郎に返事をした。
 「たびたび?」
 「ええたびたび」とよし子は依然として画紙に向かっている。
 三四郎は、よし子が絵のつづきをかきだしてから、問答がたいへん楽になった。

 しばらく無言のまま、絵のなかをのぞいていると、よし子はたんねんに藁葺屋根の黒い影を洗っていたが、あまり水が多すぎたのと、筆の使い方がなかなか不慣れなので、黒いものがかってに四方へ浮き出して、せっかく赤くできた柿が、陰干の渋柿《しぶがき》のような色になった。
 よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワットマンをなるべく遠くからながめていたが、しまいに、小さな声で、
 「もう駄目ね」と言う。
 じっさいだめなのだから、しかたがない。
 三四郎は気の毒になった。
 「もうおよしなさい。
  そうして、また新しくおかきなさい」

 よし子は顔を絵に向けたまま、しりめに三四郎を見た。
 大きな潤いのある目である。
 三四郎はますます気の毒になった。
 すると女が急に笑いだした。
 「ばかね。
  二時間ばかり損をして」
 と言いながら、せっかくかいた水彩の上へ、横縦に二、三本太い棒を引いて、絵の具箱の蓋をぱたりと伏せた。

 「もうよしましょう。
  座敷へおはいりなさい。お茶をあげますから」
 と言いながら、自分は上へ上がった。
 三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、やはり椽側に腰をかけていた。
 腹の中では、今になって、茶をやるという女を非常におもしろいと思っていた。

 三四郎に度はずれの女をおもしろがるつもりは少しもないのだが、突然お茶をあげますといわれた時には、一種の愉快を感ぜぬわけにゆかなかったのである。
 その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。
 茶の間で話し声がする。
 下女はいたに違いない。
 やがて襖《ふすま》を開いて、茶器を持って、よし子があらわれた。

 その顔を正面から見た時に、三四郎はまた、女性中のもっとも女性的な顔であると思った。
 よし子は茶をくんで椽側へ出して、自分は座敷の畳の上へすわった。
 三四郎はもう帰ろうと思っていたが、この女のそばにいると、帰らないでもかまわないような気がする。
 病院ではかつてこの女の顔をながめすぎて、少し赤面させたために、さっそく引き取ったが、きょうはなんともない。
 茶を出したのをさいわいに椽側と座敷でまた談話を始めた。

 いろいろ話しているうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞きだした。
 それは、自分の兄の野々宮が好きかいやかという質問であった。
 ちょっと聞くとまるでがんぜない子供の言いそうな事であるが、よし子の意味はもう少し深いところにあった。
 研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである。

 人情で物をみると、すべてが好ききらいの二つになる。
 研究する気なぞが起こるものではない。
 自分の兄は理学者だものだから、自分を研究していけない。
 自分を研究すればするほど、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。

 けれども、あのくらい研究好きの兄が、このくらい自分を可愛がってくれるのだから、それを思うと、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いないという結論であった。
 三四郎はこの説を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりして、ちょっとわからなかった。
 それでおもてむきこの説に対してはべつだんの批評を加えなかった。
 ただ腹の中で、これしきの女の言う事を、明瞭《めいりょう》に批評しえないのは、男児としてふがいないことだと、いたく赤面した。
 同時に、東京の女学生はけっしてばかにできないものだということを悟った。
 三四郎はよし子に対する敬愛の念をいだいて下宿へ帰った。

 はがきが来ている。
 「明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから、広田先生の家《うち》までいらっしゃい。
  美禰子」
 その字が、野々宮さんのポッケットから半分はみ出していた封筒の上書《うわがき》に似ているので、三四郎は何べんも読み直してみた。

 翌日は日曜である。
 三四郎は昼飯を済ましてすぐ西片町へ来た。
 新調の制服を着て、光った靴をはいている。
 静かな横町を広田先生の前まで来ると、人声がする。

 先生の家は門をはいると、左手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかからずに、座敷の椽へ出られる。
 三四郎は要目垣《かなめがき》のあいだに見える桟《さん》をはずそうとして、ふと、庭の中の話し声を耳にした。
 話は野々宮と美禰子のあいだに起こりつつある。
 「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬばかりだ」これは男の声である。
 「死んでも、そのほうがいいと思います」これは女の答である。
 「もっともそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬだけの価値は十分ある」
 「残酷な事をおっしゃる」

 三四郎はここで木戸をあけた。
 庭のまん中に立っていた会話の主は二人《ふたり》ともこっちを見た。
 野々宮はただ「やあ」と平凡に言って、頭をうなずかせただけである。
 頭に新しい茶の中折帽《なかおれぼう》をかぶっている。

 美禰子は、すぐ、
 「はがきはいつごろ着きましたか」と聞いた。
 二人の今までやっていた会話はこれで中絶した。
 椽側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変らず哲学を吹いている。
 これは西洋の雑誌を手にしていた。
 そばによし子がいる。
 両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い草履《ぞうり》をながめていた。
 三四郎はみんなから待ち受けられていたとみえる。

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