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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  22

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 しかしメルキオルは、皆の恥になるようなつまらない奴らにも、みごとな生活やりっぱな態度の見本を示してやろうと、いかに骨を折ってるかということを、ぐずぐず訴えて――それもとくにだれに向かって言うのでもないようなふうを装って――数週間の間、クリストフを厭がらした。
 そして伯父のテオドルは、往来でクリストフに出会うと顔をそむけ鼻をつまんで、深い嫌悪の情をありったけ見せつけた。
 彼は家の者から同感されることが少なかったので、できるだけ家にじっとしていなかった。
 皆が自分に押しつけようとするたえざる拘束に苦しんでいた。
 その理由を議論することも許されないで、ただ尊敬しなければならないような、人間や事物があまりたくさんあった。

 しかもクリストフは尊敬心をもっていなかった。
 人々が彼を訓練してドイツの善良な市民に育てあげようとすればするほど、ますます彼は束縛を脱したがった。
 彼の楽しみとするところは、退屈な容態《ようだい》ぶった我慢できない音楽会を、劇場の奏楽席やまたは宮廷で過ごした後、子馬のように草の中に転がったり、新しいズボンのまま芝生の斜面を滑り降りたり、近所の悪戯児《いたずらっこ》らと石合戦をしたりすることだった。
 けれどそうしばしばやるわけではなかった。
 それも叱《しか》られたり殴《なぐ》られたりするのが恐《こわ》いから控えていたのではなくて、仲間がないからであった。

 彼は他の子供らと調子よく交わることができなかった。
 街頭の浮浪少年らさえ彼といっしょに遊ぶことを好まなかった。
 なぜなら彼は、遊びにも本気になりすぎて、あまりひどく打ち回ったからである。
 そして彼は同じ年ごろの子供たちから離れて、一人黙然としがちになっていた。
 彼は遊戯の下手《へた》なのが恥ずかしくて、皆の仲間にはいるだけの元気もなかった。
 そして面白くないようなふうを装いながらも、人から誘ってもらいたくてたまらなかった。
 しかしだれもなんとも言ってくれなかった。

 彼は憂鬱《ゆううつ》な気持になって、冷淡な様子で遠ざかっていた。
 彼の慰安は、叔父《おじ》のゴットフリートが土地にいる時、いっしょに歩き回ることだった。
 彼はますます叔父に接近していって、その何物にもとらわれない気質に同感していた。
 どこにもつなぎ止められないで勝手に放浪することのうちに、ゴットフリートが見出していた喜びを、今では彼もよく理解していた。
 しばしば彼らはいっしょに、夕方、野の中を、あてもなく、ただまっすぐに歩いて行った。

 そしてゴットフリートはいつも時間を忘れていたから、よく遅くもどって来ては叱《しか》られた。
 皆が眠ってる間に、夜分にそっとぬけ出すのも、また楽しみだった。
 ゴットフリートはそれを悪いと知っていたが、クリストフはむりに強請《せが》んだ。
 ゴットフリートもその楽しみを制することができなかった。

 夜半のころ、彼は家の前にやって来て、約束どおりの口笛を吹いた。
 クリストフは着物を着たまま寝ていた。
 寝床から滑りぬけ、靴を手に取った。
 息を凝らしながら、野蛮人のような狡猾《こうかつ》さで四つ這《ば》いになって、往来に向かってる台所の窓のところまでやって行った。
 そこにあるテーブルの上に上った。
 向うからゴットフリートが、彼を肩に受け取った。
 そして二人は、小学校の子供のように喜びながら、出かけてゆくのだった。

 時とすると彼らは、ゼレミーを捜しに行くこともあった。
 ゼレミーは漁夫で、ゴットフリートと仲良しだった。
 三人は月の光を頼りに、その小舟に乗って走った。
 櫂《かい》からしたたる水は、ささやかな琶音《アルペジオ》や半音階を奏した。
 乳色の靄《もや》が河の面《おも》に揺れていた。
 星がふるえていた。
 鶏が両岸で鳴きかわしていた。
 時とすると、月の光に欺かれて地から舞い上がった雲雀《ひばり》の顫律《トリロ》が、空の深みに聞えることもあった。
 皆黙っていた。やがてゴットフリートはある歌の節《ふし》をごく低く歌った。

 ゼレミーは動物の生活の不思議な話をきかした。
 簡単な謎《なぞ》のような調子で言われるので、なおその話が不思議に思われた。
 月は森の後ろに隠れてしまった。
 一同は丘陵の仄《ほの》暗い段々に沿って進んだ。
 空と水との闇《やみ》が溶け合っていた。
 河には波の襞《ひだ》もなかった。
 あらゆる物音が消え去っていた。
 舟は夜の中を滑っていった。

 いや、滑っているのか、浮かんでいるのか、じっと動かないでいるのか?
 葦《あし》は絹ずれのそよぎで開いていった。
 音もなく岸についた。
 地に降りて、歩いて帰った。
 夜明けにしかもどらないこともあった。
 いつも河の縁をたどった。

 麦穂のような緑色や宝石のような青色をした白銀魚の群が、黎明の光にうごめいていた。
 パンを投げてやると、むさぼるように飛びついてきて、メデューサの頭の蛇《へび》みたいに動き回った。
 パンが沈むに従って、そのまわりに降りていって、螺旋《らせん》状に回り、次には、光線のようにすっと消えてしまった。
 河は薔薇《ばら》色と葵《あおい》色との反映に染められていた。
 小鳥は次から次へと眼をさましてきた。

 彼は急いで帰っていった。
 出かける時と同じように用心をして、空気の重苦しい室にもどり、寝床にはいった。
 クリストフは眠気がさして、野の匂いの沁《し》みたさわやかな身体のまま、すぐに眠るのだった。
 かくて万事うまくいった。
 だれにも少しも気づかれなかった。
 ところがある日、弟のエルンストが、クリストフの抜け出すことを言いつけてしまった。
 それ以来、抜け出すことを禁ぜられ、監視された。

 それでも彼はやはり抜け出していた。
 他のどんな連中よりも、小行商人とその友人らとの方が好きであった。
 家の者らは外聞にかかわると思った。
 メルキオルは彼に下賤《げせん》な趣味があるのだと言っていた。
 ジャン・ミシェル老人は彼がゴットフリートを慕ってるのを妬《ねた》んでいた。
 そして、優良な社会に接し高貴な方々に仕えるの名誉をもってるのに、そういう卑しい人々と交わって喜ぶほど身を落すのはよくないと、いろいろ説いてきかした。
 クリストフには気品がないのだと人々は思っていた。

 メルキオルの放縦と遊惰とにつれて家計の困難はつのってきたけれど、ジャン・ミシェルがいる間は、どうかこうか生活してゆけた。
 ただ彼一人が、メルキオルに多少の威力をもっていて、ある程度までその堕落を引止めていた。
 また彼が受けてる世間の尊敬は、酔漢《よいどれ》の不品行を他人に忘れさせるのに役だたないではなかった。

 また彼は一家の貧しい暮しを助けてくれた。
 彼は前音楽長として受けていたわずかな年金のほかに、なお音楽を教えたりピアノの調律をしたりして、いくらかの金額を手に入れていた。
 そしてその大部分を嫁のルイザに与えた。
 彼女は自分の困窮を、いくら彼の眼に入れまいとしても隠しきれなかった。
 老人が自分たちのために不自由をしてるかと思うと、彼女はやるせなかった。
 老人はいつも豊かな生活になれていて、欲望が強かっただけに、そう思われるのも無理はなかった。

 が時とすると、その犠牲の金でも十分でないことがあった。
 ジャン・ミシェルはさし迫った負債を払ってやるために、大事な道具や書物や記念品などを、秘密に売り払わなければならなかった。
 メルキオルは父がひそかにルイザへ補助を与えてるのに気づいていた。
 そしてしばしば、なんと拒《こば》まれてもそれに手をつけることが多かった。
 ところが老人はふとそれを知って――苦労をつつみ隠してるルイザの口からではなく、孫の一人の口から――聞き知って恐ろしく立腹した。

 そして二人の間には、ぞっとするような光景が演ぜられた。
 二人ともなみはずれて気荒かった。
 すぐにひどい言葉を言い合いおどし合った。
 今にも殴り合いが始まるかと思われた。
 しかし憤怒の最中にも、押うべからざる尊敬の念が常にメルキオルを制していた。
 そして酔っ払ってはいたが、父から浴せられる侮辱的なののしりや叱責《しっせき》のもとに、ついに頭を垂れてしまった。
 それでもやはり、またせしめてやろうと次の機会をねらうのであった。

 ジャン・ミシェルは将来のことを考えながら、きたるべき悲しいことどもをはっきりと感じた。
 「かわいそうな子供たち、」と彼はルイザに言っていた。
 「もしわしがいなくなったら、皆どうなるだろう。
  でも幸いとわしは、」
 とつけ加えながらクリストフの頭をなでた。
 「この子がどうにかやってくれるようになるまでは、まだ達者でおられるだろう。」

 しかし彼は見当違いしていた。
 彼はもう生涯の終りに達していた。
 そしてまただれもそれに気づかなかった。
 彼は八十歳を過ぎてるのに、髪の毛もそろっており、まだ灰色の毛の交った白い頭髪はふさふさとして、濃い頤髯《あごひげ》には真黒な毛筋も見えていた。
 歯は十枚ばかりしか残っていなかったが、それで強く噛《か》みしめることができた。

 食卓についた様子を見ると心強かった。
 頑健《がんけん》な食欲をもっていた。
 メルキオルには飲酒を非難していたが、自分は盛んに飲んでいた。
 モーゼルの白葡萄《ぶどう》酒をとくに好んでいた。
 そのうえ、葡萄酒も、ビールも、林檎《りんご》酒も、すべて神の創《つく》り出した逸品ならなんでも、それを賞美する術《すべ》を心得ていた。
 そして杯の中に理性を置き忘れるほど思慮に乏しくなかった。
 適度にとどめていた。
 とはいえその適度というのがまた多量で、もっと弱い理性ならその杯の中に溺《おぼ》れるだろうということも、真実だった。

 彼は足が丈夫で、眼がよく、疲労を知らない活動力を具えていた。
 六時にはもう起き上がって、細心に身仕舞をしていた。
 礼儀に注意し体面を重んじていたからである。
 家の中に一人で暮していて、みずから万事をやってのけ、嫁に手出しされることをも許さなかった。
 室をかたづけ、コーヒーの支度をし、ボタンをつけ直し、釘《くぎ》を打ち、糊《のり》張りをし、修繕をした。
 シャツ一枚になって、家の中を上下に往《ゆ》き来し、アリアに歌劇《オペラ》の身振りを伴わせて、響きわたる好きな低音《バス》で、しきりなしに歌っていた。
 その後で、彼は出かけた、どんな天気にも。

 自分の用件を一つも忘れず果しに行った。
 しかし時間を守ることはいたって少なかった。
 知人と議論をしたり、顔を見覚えてる近所の女に冗談を言つたりしてるのが、街路の方々で見られる。
 愛くるしい若い女と古い友人とを、彼は好きだったのである。
 そういうふうにして道で手間取って、決して時間を頭においていなかった。

 けれども食事の時間を通り過すことはなかった。
 人の家に押しかけて行って、どこででも食事をした。
 自宅にもどるのは、長く孫たちの顔を眺めた後、晩に、夜になってからだった。
 寝床にはいると、眼を閉じる前に、古い聖書の一ページを寝ながら読んだ。
 そして夜中に一、二時間以上は眠りつづけることができなくなっていたから。
 起き上がって、時おり買い求めた歴史や神学や文学や科学などの古本を、どれか一冊取上げた。
 そして手当たりしだいに、面白かろうと、退屈しようと、よくわからなかろうと構わずに、一語もぬかさず、いくページかを読むのであった。
 また眠気がさしてくるまでは。日曜日には、教会の礼拝式に行き、子供らと散歩をし、球《まり》遊びをした。

 かつて病気にかかったことがなかった。
 ただ足指に少し神経痛の気味があって、聖書を読んでる最中に、夜を呪《のろ》うことがあるばかりだった。
 その調子でゆくと、百年くらいは生き存《ながら》えられそうに思われた。
 また彼自身も、百歳を越せないという理由を少しも認めていなかった。
 百歳で死ぬだろうと人に予言されると、天意による恩恵には制限を付すべきものではないと、世に名高いあの高齢者と同様なことを考えていた。

 彼が老いてゆくのを認められるのはただ、ますます涙もろくなることと、日に日に怒りっぽくなることばかりだった。
 ちょっとした我慢がしきれずに、狂気じみた憤怒の発作を起こした。
 その赭《あか》ら顔と短い頸《くび》とが真赤になった。
 恐ろしく口ごもって、息がつけないで言いやめなければならなかった。
 旧友でありまたかかりつけである医者が、自分で用心をするように彼に注意し、憤怒と食欲とをともに節するように注意を与えていた。
 しかし彼は老人の癖として頑固《がんこ》で、ますます不節制をして虚勢を張っていた。

 医学と医師とを嘲《あざけ》っていた。
 死をひどく軽蔑してるふうを装って、少しも死を恐れていないと言い切るためには、長々と弁じたててやめなかった。
 ごく暑い夏のある日、たくさん酒を飲んでおまけに議論をした後、彼は家に帰って、庭で働きだした。
 彼は地を耕すのが好きだった。
 帽子もかぶらず、日の照る中で、まだ議論のために激昂《げきこう》したまま、疳癪《かんしゃく》まぎれに耘《うな》っていた。

 クリストフは書物を手にして、青葉棚《だな》の下にすわっていた。
 しかし彼はほとんど読んでいなかった。
 蟋蟀《こおろぎ》の眠くなるような鳴声に耳を貸しながら、夢想に耽《ふけ》っていた。
 そしてなんの気もなく、祖父の動作を見守っていた。
 老人はクリストフの方に背中を向けていた。
 背をかがめて、雑草を取っていた。

 すると突然、すっくと立上り、両腕を空《くう》に打振り、それから一塊の物質のように、地面へ俯向《うつむ》けにばたりと倒れたのが、クリストフの眼についた。
 クリストフはちょっと笑いたくなった。
 ところがなお見ると、老人は身動きもしなかった。
 彼は呼びかけ、そばに駆けつけ、力の限りゆすぶった。

 恐ろしくなった。
 そこにかがんで、地面にぴったりついてるその大きな頭を、両手でもち上げようとした。
 頭は非常に重かったし、彼はぶるぶる震えていたので、やっとのことで少し動かせるばかりだった。
 けれども、血のにじんだ真白な引きつけてる眼を見た時、彼は恐ろしさのあまりぞっと寒くなった。

 鋭い叫び声をたてて頭を取落した。
 駭然《がいぜん》と立上がって、その場を逃げ、表に駆けだした。
 叫びまた泣いていた。
 往来を通りかかった一人の男が、彼を引止めた。
 彼は口もきけなかった。家の方を指し示した。

 男は家にはいっていった。
 彼もその後についていった。
 近所の人々も、彼の叫び声を聞いてやって来た。
 間もなく庭は人でいっぱいになった。
 彼らは花をふみにじり、老人のまわりに頭をつき出して、皆一度に口をきいていた。
 二、三の人々が老人を地面からもち上げた。
 クリストフは入口に立止り、壁の方を向き、両手で顔を隠していた。

 見るのが恐《こわ》かった。
 しかし見ないでもおれなかった。
 人々の列がそばを通りかかった時、彼は指の間から、力なくぐったりしてる老人の大きな身体を見た。
 片方の腕が地面に引きずっていた。
 頭は運んでる人の膝にくっついて、一足ごとに揺れていた。
 顔はふくれあがり、泥《どろ》まみれになり、血がにじんで、口を開き、恐ろしい眼をしていた。

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