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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 15

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        七

 三四日たった或る日の午後のことであった。
 伸子が、網袋にイクラと塩づけ胡瓜とリンゴを入れて、ゆっくりホテルの階段をのぼって来るところへ、上から内海厚が、上衣のポケットへ両手をさしこんだまま体の重心を踵にかけて、暇なようないそいでいるような曖昧な様子で降りて来た。
 「や、かえられましたか。実はね、部屋へお訪ねしたところなんです」
 「吉見さん、いませんでしたか?」
 「居られました、居られました」

 内海は、相変らず十九世紀のロシアの進歩的大学生とでもいうような感じの顔をうなずけた。
 「吉見さんには話して来ましたがね。
  実はね、ポリニャークがぜひ今夜あなたがたお二人に来て頂きたいっていうんです」

 革命後作品を発表しはじめているボリス・ポリニャークは、ロシアプロレタリア作家同盟に属していて、活動中の作家だった。
 「こんや?
  急なのねえ」
 「なに、急でもないんでしょう」
 そのとき、また下から登って来た人のために内海は手摺の方へ体をよけながら、すこし声を低めた。
 「この間っから、たのまれていたことだったんでしょうがね」

 二三年前ポリニャークが日本へ来た時、無産派の芸術家として接待者の一人であった秋山宇一は、モスクワへ来てからも比較的しげしげ彼と交際があるらしかった。
 その間に、いつからか出ていた伸子たちをよぶという話を秋山宇一は、さしせまったきょうまで黙っていたというわけらしかった。
 伸子は、
 「吉見さんはどうするって云っていました?」
 ときいた。
 伸子としては、行っても、行かなくてもいい気持だった。

 ポリニャークは日本へも来たことがあるというだけで、作家として是非会いたい人でもなかった。
 「吉見さんは行かれるつもりらしいですよ、あなたが外出して居られたから、はっきりした返事はきけなかったですが。
  つまりあなたがどうされるか、はね」
 「すみませんが、じゃ、一寸いっしょに戻って下さる?」
 「いいですとも!」

 伸子は、室へ入ると買いものの網袋をテーブルの上へおいたまま、外套をぬぎながら、素子に、
 「ポリニャークのところへ行くんだって?」
 ときいた。
 「ぶこちゃんはどうする?」
 こういうときいつも伸子は、行きましょう、行きましょうよと、とび立つ返事をすることが、すくなかった。
 「わたしは、消極的よ」

 すると内海が、そのパラリと離れてついている眉をよせるようにして、
 「それじゃ困るんです。今夜は是非来て下さい」
 たのむように云った。
 「どうも工合がわるいんだ。
  下へ、アレクサンドロフが来て待ってるんですよ」
 「そのことで?」
 びっくりして伸子がきいた。

 「そうなんです。秋山氏があんまり要領得ないもんだから、先生到頭しびれをきらしてアレクサンドロフをよこしたんでしょう」
 アレクサンドロフも作家で、いつかの日本文学の夕べに出席していた。
 「まあいいさ、ポリニャークのところへもいっぺん行ってみるさ」
 そういう素子に向って内海は、
 「じゃ、たのみます」
 念を入れるように、力をいれて二度ほど手をふった。
 「五時になったら下まで来て下さい。じゃ」
 そして、こんどは、本当にいそいで出て行った。

 「急に云って来たって仕様がないじゃないか。
  丁度うちにいる日だったからいいようなものの……」
 そう云うものの、素子は時間が来ると、案外面倒くさがらずよく似合う黄粉《きなこ》色のスーツに白絹のブラウスに着換えた。
 「ぶこちゃん、なにきてゆくんだい」
 「例のとおりよ。
  いけない?」
 「結構さ」

 鏡の前に立って、白い胸飾りのついた紺のワンピースの腕をあげ、ほそい真珠のネックレースを頸のうしろでとめている伸子を見ながら、素子は、ついこの間気に入って買った皮外套に揃いの帽子をかぶり、まだすっていたタバコを灰皿の上でもみ消した。
 「さあ、出かけよう」
 二階の秋山宇一のところへおりた。
 「いまからだと、丁度いいでしょう」
 小型のアストラハン帽を頭へのせながら秋山もすぐ立って、四人は狩人広場から、郊外へ向うバスに乗った。

 街燈が雪道と大きい建物を明るく浮上らせ、人通りの多い劇場広場の前をつっきって、つとめがえりの乗客を満載したその大型バスが、なじみのすくない並木道《ブリワール》沿いに駛《はし》るころになると伸子には行手の見当がつかなくなった。
 「まだなかなかですか?」
 「ええ相当ありますね。
  大丈夫ですか?」
 伸子と秋山宇一、内海と素子と前後二列になって、座席の角についている真鍮《しんちゅう》のつかまりにつかまって立っているのだった。

 モスクワのバスは運転手台のよこから乗って、順ぐり奥へつめ、バスの最後尾に降り口の畳戸がついていた。
 いくらかずつ降りる乗客につづいて、伸子たち四人も一足ずつうしろのドアに近づいた。
 「あなたがた来られてよかったですよ」
 秋山宇一が、白いものの混った髭を、手袋の手で撫でるようにしながら云った。
 「大した熱心でしてね、今夜、あなたがたをつれて来なければ、友情を信じない、なんて云われましてね――どうも……」

 今夜までのいきさつをきいていない伸子としては、だまっているしかなかった。
 もっとも、日本文学の夕べのときも、ポリニャークはくりかえし、伸子たちに遊びに来るように、とすすめてはいたけれども。
 とある停留場でバスがとまったとき内海は、
 「この次でおりましょう」
 と秋山に注意した。
 「もう一つさきじゃなかったですか?」
 秋山は窓から外を覗きたそうにした。
 が、八分どおり満員のバスの明るい窓ガラスはみんな白く凍っていた。

 乗客たちの防寒靴の底についた雪が次々とその上に踏みかためられて、滑りやすい氷のステップのようになっているバスの降口から、伸子は気をつけて雪の深い停留場に降り立った。
 バスがそのまま赤いテイル・ランプを見せて駛り去ったあと、アーク燈の光りをうけてぼんやりと見えているそのあたりは、モスクワ郊外の林間公園らしい眺めだった。
 枝々に雪のつもった黒い木の茂みに沿って、伸子たちが歩いてゆく歩道に市中よりずっと深い雪がある。

 歩道の奥はロシア風の柵をめぐらした家々があった。
 「この辺はみんな昔の別荘《ダーチャ》ですね。
  ポリニャークの家は、彼の文学的功績によって、許可されてつい先年新しく建てたはずです」
 雪の深い歩道を右側によこぎって、伸子たちは一つの低い木の門を入って行った。

 ロシア式に丸太を積み上げたつくりの平屋の玄関が、軒燈のない暗やみのなかに朦朧《もうろう》と現れた。
 内海が来馴れた者らしい風で、どこか見えないところについている呼鈴を鳴らした。
 重い大股の靴音がきこえ、やがて防寒のため二重にしめられている扉があいた。
 「あ、秋山サン!」
 出て来たのはポリニャーク自身だった。

 すぐわきに立っている伸子や素子の姿を認め、
 「到頭、来てくれましたね、サア、ドーゾ」
 サア、ドーゾと日本語で云って、四人を内廊下へ案内した。
 ひる間、ホテル・パッサージへよったというアレクサンドロフも奥から出て来て、女たちが外套をぬぎ、マフラーをとるのを手つだった。

 かなりひろい奥の部屋に賑やかなテーブルの仕度がしてあった。
 はいってゆく伸子たちに向って愛想よくほほ笑みながら、ほっそりとした、眼の碧い、ひどく娘がたの夫人がそのテーブルの自分の席に立って待っている。
 「おめにかかれてうれしゅうございます」
 伸子たちがその夫人と挨拶をする間も、ポリニャークは陽気な気ぜわしさで、
 「もういいです、いいです、こちらへおかけなさい」
 と、秋山を夫人の右手に、伸子を自分の右手に腰かけさせた。

 そして、早速、
 「外からこごえて入って来たときは、何よりもさきに先ずこれを一杯! 
  悧巧も馬鹿もそれからのこと」
 そう云って、テーブルの上に出されているウォツカをみんなの前の杯についだ。
 「お互の健康を祝して」
 素子も、杯のふちを唇にあてて投げこむような勢のいいウォツカののみかたで、半分ほどあけた。

 伸子は、夫人に向って杯をあげ、
 「あなたの御健康を!」
 と云い、ほんのちょっと酒に唇をふれただけでそれを下においた。
 「ナゼデス?
  サッサさん。
  ダメ!
  ダメ!」
 ポリニャークは、伸子が杯をあけないのを見とがめた。

 「内海さん、彼女に云って下さい」
 よその家へ来て、最初の一杯もあけないのは、ロシアの礼儀では、信じられない無礼だというのだった。
 「わかりましたか?
  サッサさん、ドゾ!」

 伸子は、こまった。
 「内海さん、よく説明して頂戴よ。
  わたしは生れつきほんとにお酒がのめないたちなんだからって。
  でも、十分陽気にはなれますから安心して下さいって……」
 内海がそれをつたえると、ポリニャークは、
 「残念なことだ」
 ほんとに残念そうに赫っぽい髪がポヤポヤ生えた大きい頭をふった。

 そのいきさつをほほ笑みながら見ていた夫人が伸子たちにむかって、
 「わたしもお酒はよわいんです」
 と云った。
 「でもレモンを入れたのは、軽いですよ。いい匂いがするでしょう?」
 そう云われてみると、そのテーブルの上には同じ様に透明なウォツカのガラス瓶が幾本もあるなかに、レモンの黄色い皮を刻みこんだのが二本あって、伸子たちの分はその瓶からつがれたのだった。

 素子は気持よさそうに温い顔色になって、
 「ウォツカもこうしてレモンを入れると、なかなか口当りがいい」
 のこりの半分も遂にあけた。
 「ブラボー! ブラボー!」
 ポリニャークが賞讚して、素子の杯を新しくみたした。
 「ごらんなさい。あなたのお友達は勇敢ですよ」
 「仕方がないわ。わたしは駄目なんです」

 だめなんです、というところを、伸子は自分の使えるロシア語でヤー、ニェマグウと云った。
 ポリニャークは面白そうに伸子の柔かな発音をくりかえして、
 「わたしはだめですか」
 と云った。
 それは角のある片仮名で書かれた音ではなく平仮名で、やあ にぇまぐう とでも書いたように柔軟に響いた。
 伸子自身は、しっかり発音したつもりなのに、みんなの耳には、全く外国風に柔かくきこえるらしかった。

 主人と同じように大きい体つきで、灰色がかって赫っぽい軽い髪をポヤポヤさせている真面目なアレクサンドロフも、伸子を見て、笑いながら好意的にうなずいた。
 やがて日本とロシアと、どっちが酒の美味い国だろうかというような話になった。
 つづいて酒のさかなについて、議論がはじまった。

 この室へ入るなり酒をすすめられつづけた困難から解放されて、伸子は、はじめてくつろぐことが出来た。
 ペチカに暖められているその部屋は、いかにもまだ新しいロシアの家らしく、チャンの匂いがしていた。
 床もむき出しの板で、壁紙のない壁に、ちょいちょいした飾りものや絵がかけられている。
 室はポリニャーク自身の大柄で無頓着めいたところと共通した、おおざっぱな感じだった。
 自分なりの生活を追っている、そういう人の住居らしかった。

 ポリニャークは、同じようなおおざっぱさで、細君との間もはこんでいるらしかった。
 モスクワ小劇場の娘役女優である細君は、ブロンドの捲毛をこめかみに垂れ、自分だけの世界をもっているように、しずかにそこにほほ笑んでいる。
 薄色の服をつけた優《や》さがたの彼女の雰囲気には、今夜のテーブルの用意もした主婦らしいほてりがちっとも感じられなかった。

 それかと云って、作家である良人と並んで、芸術家らしく活溌にたのしもうとしている風情もなかった。
 彼女はただ一人の若い女優である妻にすぎないように見えた。
 この家の主人であるポリニャークの好みによって、選ばれ、主婦としてこの家に収められているというだけの――

 ポリニャーク夫婦の感じは、伸子が語学の稽古に通っているマリア・グレゴーリエヴナの生活雰囲気とまるでちがっていた。
 マリア・グレゴーリエヴナの二つの頬っぺたは、びっくりするような最低音でものをいう背の高いノヴァミルスキーの頬っぺたと同様に、厳冬のつよい外気にやけて赤くなって居り、丸っこい鼻のさきの光りかたも夫婦は互に似ていた。

 二人はそれぞれ二人で働き、二人でとった金を出しあわせて、赤ビロードのすれた家具のおいてある家での生活を営んでいる。
 野生の生活力にみち、その体から溢れる文学上の才能をたのしんでいるポリニャークは、自分の快適をみださない限り、女優である細君が家庭でまで娘役をポーズしているということに、どんな女としての心理があるかなどと、考えてないらしかった。

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