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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 6

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 伸子たちは、その朝も十時ごろまでには朝の茶をすました。
 掃除女が室の片づけを終るのを待って、素子は窓に向ったデスクの前に、「プラウダ」と「イズヴェスチヤ」とをもって納った。

 伸子は、外套を出してベッドの上におき、珍しいことに衣裳タンスについた鏡に向って、褐色フェルトの小さい帽子のかぶりかたを研究していた。
 この小帽子については、伸子にとって第二の帽子物語があった。

 伸子が日本からかぶって来た黒い帽子は、ずっとこれよりも上等で、色どりの美しい細いリボンであしらわれていた。
 モスクワへついて数日すると、伸子にはその帽子がきれいすぎることで気に入らなくなった。
 雪のふるモスクワで女のひとたちは髪の上から毛織のショールをかぶったり、鳥うち帽をかぶったりして、元気に歩いていた。

 普通の婦人帽をかぶっている人たちにしろ、どれもごく単純なフェルト製の小型のものだった。
 土地の人は土地の気候にふさわしいかぶりものをかぶっているのだった。
 色の美しいリボンをあしらった伸子の装飾的な帽子に雪がついて、しめりで形のはりを失ったとき、その弱々しさは不甲斐なく見えて伸子に腹立たしい気持をおこさせた。

 雪のモスクワは、チェホフが心からそれを愛したようにきびしいけれども素晴らしい季節だのに。
 
 モスクワ芸術座の通りを歩いていたら、そこに幾軒も婦人帽を売る店があった。
 その一軒で伸子は、金色の簡単な飾金のついた褐色小帽子に目をとめたのであった。
 伸子と素子とは、その店へ入って行った。
 そして、ショウ・ウィンドウに出ていたその帽子を見せて貰った。

 それは伸子の気に入ったけれども、かぶってみるとあわなかった。
 髪が邪魔した。
 伸子は、モスクワの婦人たちが、だれもかれもきりっと小さい帽子をかぶっているのは、彼女たちが断髪だったからだとはじめて気がついたのだった。

 その褐色帽子を手にとったまますこし考えていた伸子は、ひどく自然な調子で、
 「わたし、きるわ」
 と云った。
 「きる?
  いいのかい?」
 そういう素子は、ハルビンで断髪になっているのであった。

 「ほんとに、きっちゃうわ。
  いいでしょう?」
 「そりゃ、いいもわるいもないけれど」
 「じゃ、そう云って頂戴。
  どうせ、ちゃんときり直さなけりゃならないんだろうけれど……」
 こういういきさつで断髪になった頭に褐色帽子がおさまることになった。

 伸子は新聞読みに没頭しはじめた素子をデスクの前にのこして、ホテルを出かけた。
 伸子のわきの下には、表紙に「黄金の水」という題のある一冊のパンフレットと、縁を赤く染めたモスクワ製の手帖が抱えられていた。

 トゥウェルスカヤの大通りをストラスナーヤ広場まで真直のぼって行った伸子は、広場をつっきって、モスクワ夕刊新聞社の建物とは反対側の薬屋の横を入った。
 そして、正面入口の破風の漆喰《しっくい》に波にたわむれる人魚の絵がかいてある建物の三階へあがっていった。

 この建物にはエレベーターがあったらしいが、いまは外囲いの網戸だけがのこっている。
 伸子がベルを押したドアがすぐあいて、黒スカートに、少し色のさめた水色のスウェターを着た三十五六の婦人が顔を出した。

 この家で、このひとに、伸子はロシア語の初歩を習いはじめているのであった。
 艷のない栗色の髪を、ロシア風に頭の真中でわけ、こめかみのところに細い髪房にしてたらしているマリア・グレゴーリエヴナを、はじめ紹介してくれたのはВОКС《ヴオクス》であった。

 ノヴァミルスキーが伸子の相談に応じて、彼のおどろくべき最低音の声で推薦したのがここであった。
 約束の第一日、伸子は貰った所書と地図をたよりにこの建物をさがし当てて来た。
 マリア・グレゴーリエヴナの小皺の多い丸顔には、善良さと熱心さとがあらわれていて、伸子は気が楽になった。

 早速「黄金の水」がはじまった。
 短い課業が終って、二人が不自由な英語で雑談していると、入口でベルがなった。
 「あら、おかえりなさい! もう?」
 出て行ったマリア・グレゴーリエヴナのおどろいたような声がした。
 対手は男らしいが声は聞えない。

 伸子がこんどマリア・グレゴーリエヴナが現れたら帰ろうとしていると、
 「佐々さん、こんにちは」
 ききちがえようのない最低音で云いながら、ノヴァミルスキーが入って来た。
 つづいてそこへ現れたマリア・グレゴーリエヴナを、
 「わたくしの妻です」
 と改めて紹介した。
 「課業はいかがです?」

 ここがノヴァミルスキーの家だとは思いがけなかった。
 伸子は急にいうことが見つからなくて、
 「ありがとう」
 と答えた。
 「たしかにいい先生を御紹介下さいましたけれども、わたしはいい生徒とは云えないかもしれません」
 「そんなことはありません。わたしの経験でわかりますよ」

 ノヴァミルスキーもそうだが、妻のマリア・グレゴーリエヴナは、すこし鼻のさきの赤いような顔で熱心に云った。
 「佐々さんは、早い耳をおもちですもの」
 それにしても、伸子にはやっぱりここがノヴァミルスキーの家だったということが、意外だった。

 ВОКС《ヴオクス》で話したとき、ノヴァミルスキーは、まったく第三者の感じだった。
 自分の妻、その妻の仕事、それを、あんなに、その表情さえも第三者として話した。

 ノヴァミルスキーは、マリア・グレゴーリエヴナがもって来た紅茶のコップにサジをさしたまま、そのサジを人さし指となか指との間でおさえてのむ飲みかたで美味そうにのみながら、
 「革命博物館は見られましたか」
 ときいた。
 「ええ。見ました」
 「あれは独特な意義をもっています。
  当分は、モスクワにしかあり得ない種類の博物館だと思いますね」

 ちょっと言葉を改めて、ノヴァミルスキーは、
 「私は七年間、牢獄におかれました。アナーキストだったんです」
 と云った。
 「十月にレーニンに会って、二時間話しあいました。
  そのとき、私は自分のそれまでの思想をかえたんです。
  発展させたんです。
  発展。
  おわかりですね?」

 この話は伸子にとって、ノヴァミルスキーがここへ出現したことよりも意外でなかった。
 新世界という字をもじったノヴァミルスキーという名は本名なのだろうか、それとも、ウリヤーノフがレーニンと云った、そんな風なものなのだろうか。
 伸子たちの間で話題になったことがあった。

 マリア・グレゴーリエヴナは、頬に当てた左手の肱をもう一方の手で支えながら、ノヴァミルスキーのいうことをきいていたが、
 「わたしどものところの革命も、随分いろいろ批評をうけます。
  でも、批評する人たちに、それまでの私たちがどんなに生きていたかということが、ちょっとでも分りさえしたら!」
 と云った。

 「革命は、たしかに少くない犠牲を出しました。
  けれど、その幾千倍かの人に、生を与えたんです。
  それはもっとたしかな事実なんです」
 革命前、マリア・グレゴーリエヴナは将校の妻であった。
 「何という生活だったでしょう。
  あのころわたしは、死ぬことしか考えませんでした。
  でも、小さい男の子と女の子を、誰が育ててくれるでしょう? 
  そのうち十月が来ました。
  そして、わたしと子供たちの人生が新しくはじまったんです」
 子供たちの望みで、男の子はマリア・グレゴーリエヴナについてここで暮すようになり、女の子は、父親について別れた。

 このマリア・グレゴーリエヴナのところへ素子も通いはじめた。
 素子は、プーシュキンの「オニェーギン」をよみはじめた。

 マリア・グレゴーリエヴナの稽古から、真直伸子がホテルへかえって来ることはほとんどなかった。
 ストラスナーヤ広場から、雪につつまれた並木道をニキーツキー門の方まで歩いてみることがあった。

 その時間の並木道は、ひどい雪降りでないかぎり、戸外につれ出されている赤坊と子供たちでいっぱいだった。
 すっかり蒲団《ふとん》にくるまれた赤坊は、乳母車のなかで小さく赤い顔だけ出して遊歩道を押されて行った。
 すっぽり耳までかくれる防寒帽に、紐でつったまる手袋、厚外套で仔熊のようにふくらんでいる子供たちは、木作りの橇をひっぱっていた。
 その上に腹這いにのっかって、枝々に雪のある楡《にれ》の並木の間の短い斜面を、下の小道まで辷りっこしている子供たち。

 纏足《てんそく》をして、黒い綿入ズボンに防寒帽をかぶった中国の女が、腕に籠を下げ、指にとおしたゴム紐で、毬《まり》をはずまして売っていた。
 その毬は支那風に、赤、黄、緑の色糸でかがってある。

 並木道《ブリワール》の入口にコップ一杯五カペイキの向日葵の種やリンゴ、タバコを売っている屋台店《キオスク》があり、一軒の屋台店では腸詰だのクワスだのを売っていた。
 その屋台店の主人は顔の黒い韃靼《だったん》人で、通りがかった伸子をきつい白眼がちの眼でじろりと見て、壺から真黄い粟のカーシャをたべていた。
 雪の白さに、韃靼人の顔の黒さはしんから黒く、粟の黄色さは目のさめる黄色だった。
 色彩のそんな動きも、絵か音楽のように伸子の心にはいった。

 風景に情趣こまやかなのはストラスナーヤから左の並木道で、同じ並木道でも右側にのびた方はいつも寂しく、子供たちも滅多に遊んでいなかった。
 遠くに古い教会の尖塔が見える雪並木の間を、皮外套に鳥打帽子の人たちが、鞄をかかえ、いそがしそうに歩いていた。
 道を歩いているというよりも用事から用事へいそいでいるようなその歩きつき。
 ぐっと胴でしめつけられた皮外套の着かたや、全神経が或る一点に集注されていて、ものが目に入って来ない眼つき。

 そういう視線が無反応に自分の上を掠めるのを感じながら、こちらからは一つずつ一つずつそういう顔を眺めて並木道を歩いてゆく心持。
 伸子にはそれも興味ふかかった。

 トゥウェルスカヤ通りをアホートヌイ・リャードまで下り切ると食糧市場へ出た。
 切符制で乳製品や茶、砂糖、野菜その他を売る協同販売所が並んでいる。
 その歩道をはさんだ向い側に、ずらりと、ありとあらゆる種類の食品の露店が出ていた。

 半身まるのままの豚がある。
 ひろげた両脚の間にバケツをはさんで、漬汁がザクザクに凍った塩漬胡瓜を売っている。
 乳製品のうす黄色い大きなかたまりがある。
 蝶鮫《ちょうざめ》がある。
 リンゴ、みかんもある。
 卵をかごに入れて、群集の間を歩きながら売っているのは、大抵年をとった女だった。
 つぶした鶏を売っている爺がある。

 絶えず流れる人群れに交って、伸子のすぐ前を、一人の年よりが歩いていた。
 脚立《きゃたつ》をたてて、その上へ板を一枚のせて、肉売りがいる。
 その前へ、年よりがとまった。
 「とっさん、素晴らしい肉だぜ。ボールシチにもってこいだ!」

 それはいい肉と云えるのだろうか。
 伸子の目に、その塊りは黒くて、何の肉だか正体がしれなかった。
 黙ったままじいさんは、よごれた指を出してちょいとその肉をつついて見た。
 「え《ヌ》? どうだね《カーク》」
 肉を入れて来た樺製のカバンを足許において、その売手は、膝まである防寒靴を雪の上でふみかえながらせきたてた。

 じいさんは、口をきかない。
 その白髪まじりの不精髭につつまれたじいさんの顔にある無限の疑りぶかさに伸子の目がひかれた。
 じいさんは、おそらく、お前の名はこれこれだ、とその名を云われても、やっぱりその疑りぶかい顔つきを更えないだろう。

 ここの露店で売られるものは、すべて公定の価よりも三割か四割たかかった。
 何でもあるかわり、売る方も買う方も、実力のかけひきだった。
 アホートヌイ・リャードにどよめいている群集の中には、労働者風の男女は殆どみかけられないのに伸子は気づいた。
 そして子供づれも。

 雪のつもった長方形の広場のむこうには、道のはたへとび出したような位置に古い教会がのこっていて、わきの大きい建物に張りわたされている赤いプラカートの上には、くっきりと白く、文盲を撲滅せよ、とよまれた。
 そういう広場の雪をよごしながら群集が動いた。

 伸子が、ながい街あるきの果に、自分たちの夜食のための刻みキャベジやイクラを買いに入る店は、ホテルからじきのところにあった。
 半地下室のその店の入口の段々のところからタイルではった床の上まで、オガ屑がまかれていた。
 濡れたオガ屑の匂い、漬もの桶の匂い、どっさり棚につまれた燻製《くんせい》から立つ匂い。
 それらがみんな交りあって、店の中には渋すっぱくて、懐しいような匂いがこめている。

 伸子がやがて外套に冬の匂いをつけ、頬の色も眼のつやも活々とした様子で、ホテルへかえって来るのだった。
 素子は、大抵、伸子が出がけに見たとおりデスクの前にいた。
 入ってゆく伸子をみて、素子は椅子の上でふりむき、
 「どうだった?」
 ときいた。
 これは、そとは一般にどうだった、という意味だった。

 その素子の声には、たっぷり三時間一人でいたあげくの変化をよろこぶ調子がある。
 伸子は喋《しゃべ》り出す。
 素子も新しいタバコに火をつけた。
 「でもね、こういうこまごました面白さって、生活の虹だもの
  話したときはもう半分消えてしまっているわ」
 伸子は、遺憾そうに云った。

 「ほんとに一緒に出られるといいのに。」
 デスクの上にひろげられている本から、わきにおいてある腕時計へちらりと目をやりながら、素子は、
 「なにしろ、毎日の新聞をよむのがひと仕事なうちは、仕様がないさ」
 あきらめたように云うのだった。

 新聞。
 伸子はうけて来た許りの様々の印象で瑞々《みずみず》しく輝いていた眼の中に微かな硬さを浮べた。

 毎朝起きると、ドアの下から新聞がすべり込んでいるようになったとき、伸子は、自分によめない字でぎっしり詰まっている「プラウダ」の大きい紙面を、あっちへかえし、こっちへかえしして眺めた。

 そして、素子に、
 「あなたが読んでいるとき、ところどころでいいから、わたしにも話してきかしてくれない?」
 とたのんだ。
 そのとき「イズヴェスチヤ」の一面をよんでいた素子はすぐに返事をしなかった。
 「ねえ、どう?」
 「ぶこちゃんはデイリー・モスクワよめばいいじゃないか」
 「どうして?」
 むしろおどろいたように伸子が云った。
 「デイリー・モスクワは、デイリー・モスクワじゃないの。
  モスクワ・夕刊は、プラウダとちがうでしょう? 
  そういう風にちがうんじゃない?」

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