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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子 3

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最近の観光小旅行について瀬川がいかにも大学教授らしい長い文章で礼をのべ、それから立って壁ぎわの椅子においてあった風呂敷づつみをといて、大事にもって来た二尺足らずの箱を運んで来た。

 その桐箱は人形箱であった。
 ガラスのふたをずらせると、なかから、見事な本染めの振袖をつけ、肩に藤の花枝をかついで紅緒の塗笠をかぶった藤娘が出て来た。

 瀬川は、一尺五六寸もあるその精巧な人形をカーメネワ夫人のデスクの上に立たせた。

 「おちかづきになりました記念のために。
  また、ソヴェトと日本の文化の一層の親睦のために」
 暗色のカーメネワ夫人の顔に、かすかではあるがまじりけのない物珍しさがあらわれた。

 「大変きれいです!」
 その言葉のアクセントだけに、感歎のこころをあらわしながら、カーメネワは、よりかかっていた回転椅子から上体をおこし、藤娘の人形を両手にとった。

 「非常に精巧な美術品です」
 カーメネワ夫人は、ヨーロッパ婦人がこんな場合よくいう、オオとか、アアとかいう感歎詞は一つもつかわなかった。

 日本人形の名産地はソヴェトで云えばキエフのようなキヨトであること。
 この藤娘は京都の特に優秀な店でつくらしたものであること。
 人形の衣裳は、本仕度であるから、すっかりそのまま人間のつかうものの縮小であること。
 それらを瀬川はことこまかに説明した。

 「もちろん、十分御承知のとおり、すべての日本婦人が毎日こういう美的な服装はして居りません。
  彼女たちの日常はなかなか辛いのですから……」

 瀬川の説明をだまってきき、それに対してうなずきながら、カーメネワ夫人は、持ち前の三白眼でなおじっと、両手にもった人形を観察している。

 こっちの椅子から、伸子たちが、またじっと、その夫人のものごしを見まもっているのだった。
 伸子には、人形をみている夫人の胸の中をではなく、その断髪の頭の中を、どんな感想が通りすぎているか、きこえて来るような気がした。

 色どりは繊美であやもこいけれども、全く生気を欠いていてどこか膠《にかわ》の匂いのする泥でつくられたその大人形は、カーメネワ夫人の全存在と余りかけはなれていた。

 夫人は、実際、好奇の心をうごかされながら、未開な文化に対する物めずらしさを顔にあらわしてみているのだった。
 夫人は、ため息をつくような息づきをして、黙ったままそっと人形をデスクの上においた。

 また、いんぎんな瀬川の方から、何か話題を提供しなければならない羽目になった。
 伸子は、段々驚きの心を大きくして、わきにいる素子と目を見あわさないでいるのには努力がいった。

 こんなつき合いというものがあるだろうか。
 瀬川の日本人形が出されてさえ、夫人が、若い女性である伸子たちに、くつろいだ一言もかけないということは珍しいことだった。

 夫人の素振りをみると、何も伸子たちに感情を害しているというのでもないらしかった。
 ただ、関心がないのだ。

 そう思ってみると、カーメネワ夫人のとりなしには、文化的であるが社交の要素も加味されているこの文化連絡協会の会長という立場に、据りきっていないところがあった。

 この広々として灰色としぶい水色で統一されたしずかな照明の部屋に一人いる夫人の内面の意識は非常に屡々《しばしば》、こうやって言葉のわからない外国人に会ったり、国際的な文化の話をしたりすることとは全く別などこかに集注されることがあるように感じられた。

 夫人は、彼女ひとりにわかっている理由によって万年不平におかれているようだった。

 瀬川は、新しい話題をさがしているようだったが、
 「ああ、あなたがたのもっていらしたものがあったんでしょう?」
 伸子たちをかえりみた。
 「いま、出したらどうです」
 心からのおくりものがとり出されるには、およそそぐわないその場の雰囲気だった。

 しかし、素子が、いくらかむっとして上気し、そのために美しくなった顔で立ち上り、二人のみやげとしてもって来たしぼり縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》と肉筆の花鳥の扇子とをとり出して、カーメネワ夫人のデスクの上においた。

 そして、彼女はロシア語が出来るのに、ひとことも口をきかないで、ちょっとした身ぶりで、それを差しあげますという意味を示し、その瞬間ちらりと何とも云えない笑いを口辺に漂《うか》べた。

 それは、カーメネワ夫人の、奥歯をかみしめたまま顔に浮べているような渋い鈍重な笑顔とは比較にならないほど、酸っぱい渋い鋭い微笑であった。

 伸子は素子のその一瞬の複雑きわまる口もとの皺をとらえた。
 伸子は、この部屋に案内されてからはじめてほんものの微笑をうかべた。

伸子たちのおくりものに対しても、夫人は、ごく短い一言ずつで、美しさをほめただけだった。
 ありがとうという言葉は夫人として云わない習慣らしかった。

 こういう贈呈の儀式がすむと、夫人は再び黙りこんだ。
 瀬川雅夫の言葉は自由でも、それを活用する自然なきっかけが明るい寒色の広間のどこにもなかった。

 三人は、そこで、会見は終ったものとしてそとに出た。

 ドアをしめるのを待ちかねたようにして、素子が、
 「おっそろしく気づまりなんですね、文化連絡って、あんなものかい」
 と、ひどくおこった調子で云った。

 「どんなえらい女かしらないけれど、ありがとうぐらい云ったって、こけんにかかわりもしまいのに」

 瀬川はおどろいたように鼻の下の黒い髭を動かして、
 「云いましたよ!
  ね、云ったでしょう?」
 並んで歩いている伸子をかえりみた。

 「さあ……わたしは、ききませんでした。
  いつも、ああいう人なの?」
 「そうですか? 
  変だなあ、云いませんでしたか。
  云ったとばかり思ったがな」
 「まるでお言葉をたまわる、みたいで、おそれいっちまうな」

 瀬川は、素子のその言葉は上の空にきいて、内心しきりに、夫人がありがとうと云わなかったというのが事実だったかどうか、思いかえしている風だった。

 そこへ、廊下のかどからノヴァミルスキーが出て来た。
 そして、うすい人参色のばさっとした眉毛の下から敏捷《びんしょう》な灰色の視線を動かしてA夫人と会見を終って来た三人の表情をよみとろうとした。

 何か云いかけたがノヴァミルスキーは聰明にそれをのみこんでしまった。
 みんなは黙ったまま表玄関わきの、美人ゴルシュキナを中心に陽気にごたついている応接室へ戻った。

 ВОКС《ヴオクス》の建物のあるマーラヤ・ニキーツカヤの通りを数丁先へ行ったところで、この通りは、モスクワを環状にとりまいている二本の大並木道の第一の並木道《ブリワール》にぶつかった。
 遊歩道のそと側をゆっくり電車が通っていた。

 ここでマーラヤ・ニキーツカヤから来た道は五の放射状に岐《わか》れた。
 むかしはそこにモスクワへ入る一つの門《ワロータ》があったものと見えてニキーツキー門とよばれている。

 瀬川雅夫に説明されながら、橇の上からちらりと見た並木道は、同じはやさで降っている雪をとおして、重そうな雪を枝へ積らしている菩提樹の大きい樹々が遠くまで連って美しく見えた。

 並木の遊歩道には、雪のつもったベンチがあり、街路の後姿をみせて並木道のはずれに高く立っている誰かの銅像の大外套の深い襞は、風をうける方の側にばかり雪の吹きだまりをつけている。

 伸子たちの橇は、そこでたてよこ五つに岐れる道のたての一本の通りを、斜かいに進んで行った。
 そこは商店街でなかった。

 鉄扉は堂々としているがその奥には煤《すす》によごれて荒れた大きい五階建の建物の見える前や、せまい歩道に沿って田舎っぽく海老茶色に塗った木造の小家が古びて傾きかかっているところなどをとおった。

 近代のヨーロッパ風の建物と、旧いロシアの木造小舎とが一つ歩道の上に立ち並んでいて、盛に雪の降っている風景は、伸子に深い印象を与えた。

 日本の大使館は、どことなく不揃いで、その不揃いなところに趣のある淋しい通りの右側に、どっしりした門と内庭と馬車まわしとをもって建っていた。

 伸子たちは、車よせのついた表玄関の手前にある一つの入口から、いきなり二階の事務室の前の廊下へ出た。
 瀬川の紹介で、伸子たちは、自分たちの姓名、住所をかき、郵便物の保管をたのんだ。

 参事官である人は外出中で、伸子はその人の友人である文明社の社長から、貰って来た紹介状は出さないまま帰途についた。

 ホテルに戻った三人は、そのままどやどやと秋山宇一の室へ入って行った。

 「や、おかえんなさい」
 「どうでした、おひげさんを見て来ましたか」
 面白そうに秋山が小さい眼を輝かしてすぐ訊いた。

 「おひげさんて?」
 「ああ、あのアルメニア美人は上唇のわきに髭があるんです」
 そう云えば、赤い円い上唇の上に和毛《にこげ》のかげがあった。

 ВОКС《ヴオクス》の美人については、秋山宇一がこまかい点まで見きわめているのが可笑《おか》しかった。
 「会いました。
  いきいきした人ね」
 「なかなか大したものでしょう」
 内海厚が、生真面目な表情に一種のニュアンスを浮べて、
 「秋山さんは、コーカサス美人がすっかり気に入りましてね、日本の女によく似ているって、とてもよろこばれたですよ」
 と云った。

 室の入口にぬいでかけた外套のポケットから、ロシアタバコの大型の箱を出して、テーブルのところへ来た素子が、瀬川に、
 「いろいろお世話さまでした」
 律義にお辞儀をした。

 「しかし、なんですね、あの美人も美人だがカーメネワという女も相当なもんだ」
 「…………」
 秋山はだまって目をしばたたいた。
 瀬川も黙っている。

 瀬川としては、素子がそれをおこっているように、夫人が、あれほどのおくりものに対してろくな礼も云わなかったということを認めにくい感情があるらしかった。
 黙って、タバコの煙をはいた。

 「あのひとはいつも、あんな風なんですか」
 くい下っている素子に秋山が、あたらずさわらずに、
 「どっちかというと堅い感じのひとですがね、そう云えるでしょうね」

 同意を求められた瀬川は、
 「元来あんまり物を云わない人ですね」
 そう云った。

 そして、つづけて、
 「しかし、わたしはカーメネワ夫人が、あのВОКС《ヴオクス》の会長をしている、という事実に興味があると思いますね。
  ある意味では、ソヴェトというところの、政治的な大胆さを雄弁に示しているとも云えるでしょう。
  トロツキストに対して、これだけ批判されている最中、その女きょうだいを、ああいう地位に平気でつけているのは面白いですよ」

 秋山宇一が、小柄なその体にふさわしく小さい両方の手をもみ合わせるようにして、よく彼が演壇でする身ぶりをしながら、
 「カーメネフは追放されているんですからね、ジノヴィエフと一緒に」

 素子は、だまっていたが、やがて、きわめて皮肉な笑いかたをして、
 「なるほどね」
 と云った。

 「ВОКС《ヴオクス》へ来るすべての外国人は、そういう点で一応感服するというわけか。
  わるくない方法じゃありませんか」
 どういうことがあるにしろ、自分はいやだと云いたい一種の強情を示して、素子は、

 「あんな女のいるВОКС《ヴオクス》の世話になるのは、いかにもぞっとしないね」
 と云った。

 それをきいて秋山がすこし気色ばんだ。
 小さい眼に力の入った表情になった。
 「それは個人的な感情ですよ。
  ソヴェトの複雑さを理解するためには、いつも虚心坦懐であることが必要です」

 「吉見さん、あなたは第一日からなかなか辛辣なんですねえ」
 瀬川が、苦笑に似たように笑った。
 「けれど吉見さん、ああいう文化施設はあっていいものだと思われませんか」
 そうきいたのは内海であった。

 「それについちゃ異存ありませんね」
 「施設と、そこで現実にやっている仕事の価値が、要するに問題なんじゃないですか」
 「…………」

 「ああいうところも、よそと同じように委員制でやっているから、一人の傾向だけでどうなるというもんではないんでしょう」
 内海の言葉を補足するように、秋山がつけ加えた。

 「ВОКС《ヴオクス》は、政治的中枢からはなれた部署ですからね。
  ああいう複雑な立場のひとを置くに、いいんでしょう」

 伸子は、みんなのひとこともききもらすまいと耳を傾けた。
 これらはすべて日本語で語られているにしても、伸子が東京ではきいたことのない議論だった。

 そして、きのうまでのシベリア鉄道で動揺のひどい車室で過された素子と伸子との一週間にも。

 「どうしました、佐々さん」
 瀬川が、さっきから一言も話さずそこにいる伸子に顔をむけて云った。
 「つかれましたか」
 「いいえ」
 「じゃあどうしました?」
 「どうもしやしないけれど。
  早くロシア語がわかるようになりたいわ。
  ВОКС《ヴオクス》の建物一つみたって、あんなに面白いんですもの。
  ここは、いやなものまでが面白い、不思議なところね」

 「いやなものまでが面白いか……ハハハハ。
  全くそうかもしれない!」
 同感をもって瀬川は笑い、彼の快活をとりもどした。

 「これからはお互にかけちがうことが多いから、きょうは御一緒に正餐《アベード》しましょう」
 瀬川がそう提案した。

 ホテルの食堂は、階上のすべての部屋部屋と同じように緑仕上の壁を持っていた。
 普通の室に作られているものを、食堂にしたらしい狭さで、並んでいるテーブルには、テーブル・クローズの代りに白いザラ紙がひろげられて、粗末なナイフ、フォーク、大小のスプーンが用意されている。

 午後三時だけれど、夕方のようで、よその建物の屋根を低く見おろす二つの窓には、くらくなった空から一日じゅう、同じ迅さで降っている雪の景色があった。

 伸子たちがかけた中央の長テーブルの上には、花が飾ってあった。
 大輪な薄紫の西洋菊が咲いている鉢なのだが、花のまわり、鉢のまわりを薄桃色に染められた経木の大幅リボンが園遊会の柱のようにまきついて、みどりのちりめん紙でくるんだ鉢のところで大きい蝶結びになっている。

 白いザラ紙のテーブル・クローズ、粗末なナイフ、フォーク、そしてこの花の鉢。
 ロシアというところが、その大国の一方の端でどんなに蒙古にくっついた国であるかということを、伸子はつきない感興で感じた。

 うしろまでまわるような白い大前かけをかけ、余りきれいでないナプキンを腕にかけた給仕が、皆の前へきつい脂のういた美味《うま》そうなボルシチをくばった。

 献立《こんだて》はひといろで、海老色のシャツにネクタイをつけ、栗色の髪と髭とを特別念入りに鏝でまき上げているその給仕は、給仕する小指に指環をはめている。

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