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名作を読みませんかコミュの「ジャン・クリストフ」  ロマン・ロラン  2

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 彼らはもう一言も口をきかなかった。

 ジャン・ミシェルは暖炉のそばで、ルイザは寝床にすわって、二人とも悲しげに夢想していた。
 老人はああは言ったものの、息子の結婚のことを苦々《にがにが》しげに考えていた。

 ルイザの方も同じくそのことを考えていた、そしてみずから非難すべき点は何もなかったけれど、それでも気がとがめていた。
 ジャン・ミシェルの子メルキオル・クラフトと結婚した時、彼女は女中であった。
 でその結婚にはだれも驚いたが、とくに彼女自身が驚いた。

 クラフト家には財産はなかったが、約半世紀前に老人が居を定めたそのライン河畔の小さな町では、かなり尊敬されていた。
 彼らは父子代々の音楽家で、その地方、ケルンとマンハイム間では、音楽家仲間に名が知れわたっていた。

 メルキオルは宮廷劇場のヴァイオリニストであった。
 ジャン・ミシェルは近頃まで大公爵の演奏会を指揮していた。
 でこの老人はメルキオルの結婚に深い屈辱を感じた。
 彼は息子に大きな希望をかけていて、自分自身ではなれなかったけれども、息子の方は高名な人物になしたいと思っていた。

 ところがこの無謀な結婚は、その望みを打ち壊《こわ》してしまった。
 それで最初のうちは盛んに怒鳴りたて、メルキオルとルイザとをののしりちらした。
 しかし根が正直な人だけに、嫁の気心をよく知ってくると、すぐに彼女を許してやった。
 そして父親としての愛情をさえ心にいだくようになった。
 がその愛情はたいてい冷たい素振りとなって現われていた。

 メルキオルが何に駆《か》られてそういう結婚をしたのか、だれも了解することができなかった。
 だれよりもメルキオル自身に訳が分らなかった。
 確かにルイザの美貌《びぼう》のせいではなかった。

 彼女は少しも人を惑わすような点をもってはいなかった。
 背が低く、蒼《あお》ざめて、虚弱だった。
 ところがメルキオルとジャン・ミシェルとは二人とも、背が高く、でっぷりして、赤ら顔の、たくましい拳《こぶし》をし、よく食い、よく飲み、笑い事の好きな、騒ぎやの大男だったので、彼女とおかしな対照をなしていた。
 彼女はまるで彼らに圧倒されてるかと思われた。

 だれも彼女へはほとんど注意を向けなかったが、それでも彼女はなおいっそう隅《すみ》っこに引込んでばかりいようとしていた。
 もしメルキオルがやさしい心をもってるのだったら、彼は他のあらゆる利益をうち捨ててルイザの純良な気質を選んだのだとも、考えられないことはなかった。

 しかし彼は最も浮薄な男だった。
 で結局、かなりの好男子で、自分でもそれを知らないではなく、またごく見栄坊《みえぼう》で、そのうえ多少の才能もあり、金持ちの娘に眼をつけることもでき、また彼がみずから自慢してたように、中流市民の女弟子のどれかを夢中にならせることさえもできる。

 たれかいずくんぞ知らんやではあるが。
 という、彼のような一個の青年が、財産も教育も容色もない賤《いや》しい娘を、しかも向うからもちかけても来なかった娘を、突然妻に選ぼうとは、まったく賭事《かけごと》みたいな沙汰《さた》らしく見えるのであった。

 しかしメルキオルは、他人が期待してることやまた自分みずからが期待してることとは、常に反対のことを行なうような類《たぐい》の男であった。
 かかる人たちは目先のきかないわけではない。
 目先のきく者は二人前の分別があるそうだが……。

 彼らは何事にも欺《あざむ》かれることがないと高言し、一定の目的の方へ自分の舟を確実に操《あやつ》ってゆけると高言している。
 しかし彼らは自分自身を勘定に入れていない、なぜなら自分自身を知らないから。

 いつも彼らにありがちなその空虚な瞬間には、彼らは舵《かじ》を打ち拾てておく。
 そして物事は勝手に放任さるると、主人の意に反することに意地悪い楽しみを見出すものである。

 自由に解き放された舟は、まっすぐに暗礁を目がけて進んでゆく。
 かくて野心家のメルキオルは女中風情《ふぜい》と結婚した。
 とは言え、彼女と生涯の約を結んだ時、彼は酔っ払ってもいなければぼんやりしてもいなかった。
 また彼は情熱の誘《いざな》いをも感じてはいなかった。
 そんなものは非常に欠けていた。

 しかしわれわれのうちには、情意以外の他の力が、感覚よりも他の力が、普通の力が皆眠っている虚無の瞬間に主権を握るある神秘な力が、おそらく存在しているのかもしれない。

 ある夕方、ライン河畔で、メルキオルがこの若い娘に近づき、葦《あし》の中で彼女のそばにすわり、みずから理由も知らないで、彼女に婚約を与えた時、おずおずと彼を眺めてる彼女の沈んだ瞳《ひとみ》の底で、彼はこの神秘な力に遭遇したのであろう。

 結婚するとすぐに、彼は自分のしたことに落胆したような様子をした。
 彼はそのことをあわれなルイザにもさらに隠さなかった。
 ルイザはいかにもつつましやかに、彼に許しを求めた。
 彼は悪い男ではなかった、そして快く彼女を許してやった。

 しかしすぐその後で、友人らの間に交わったり、または金持ちの女弟子の家に行ったりすると、ふたたび悔恨の念にとらえられた。
 女弟子らはもう軽侮の様子を見せていて、彼が鍵盤《キー》の上の指の置き方を正してやろうとして手でさわっても、もはや身を震わすようなことはなかった。

 すると彼は陰鬱《いんうつ》な顔付をしてもどって来た。
 ルイザはそれを一目見て、またいつもの非難をよみとって、つらい思いをした。
 あるいはまた彼は、居酒屋に立ち寄って遅くなることもあった。
 彼はそこで、自分自身にたいする満足と他人に対する寛容とを汲みとった。
 そういう晩には、からから笑いながらもどって来た。
 しかしそういう笑いは、いつもの口には出さない考えや胸に蓄えてる怨恨《えんこん》よりも、ルイザにはいっそう悲しく思われた。

 彼女は夫のそうしたふしだらにたいして、自分にも多少責任があるように感じていた。
 そのふしだらのたびごとに、家の金がなくなるとともに、夫の心に残ってるわずかな真面目《まじめ》さもしだいに消えていった。
 メルキオルは身をもちくずしていった。
 たえず勉《つと》めて自分の平凡な才をみがくべき年ごろに、彼はずるずると坂を滑り落ちて顧《かえり》みなかった。
 そして他人に地位を奪われていった。

 しかしながら、麻のような髪の毛の一女中に彼を結びつけた不可知なる力にとっては、それがなんの関係があろうぞ。
 彼はただ自分の役目を演じたのである。
 そして今や小さなジャン・クリストフが、運命の手に導かれて、この地上に足を踏み出していた。

 すっかり夜になっていた。ジャン・ミシェル老人は暖炉の前で、昔や今の悲しいことどもを考えながらぼんやりしていたが、ルイザの声ではっと我にかえった。

 「お父様、あの人はきっと遅くなるでしょう。」と若い妻はやさしく言っていた。
 「もうお帰りなさいませ、道が遠うございますから。」
 「メルキオルが帰るまで待っていよう。」と老人は答えた。
 「いいえ、どうぞ、いてくださらない方がよろしゅうございます。」
 「なぜ?」
 老人は顔をあげて、じっと彼女を眺《なが》めた。

 彼女は答えなかった。
 彼は言った。
 「お前は恐《こわ》がっているね。
  彼奴《あいつ》にわしを会わせたくないんだね。」
 「ええ、そうでございます。
  お会いになれば事がめんどうになるばかりでしょう。
  あなたはきっとお怒りなさいます。
  いやです。お願いですから!」

 老人は溜息《ためいき》をつき、立ち上がり、そして言った。
 「よしよし。」
 彼は彼女のそばに行き、ざらざらした髯《ひげ》で彼女の額をなでた。
 そして何か用はないかと尋ね、ランプの火をねじ下げ、暗い室の中を椅子《いす》にぶっつかりながら出ていった。

 しかし階段を降り始めないうちに、息子が酔っ払ってもどってくることを頭に浮べた。
 彼は一段ごとに立止った。
 息子が一人で帰って来たらどんなことになるだろうかと、いろいろ危険な場合を想像してみた。

 寝床の中では、母親のそばで、子供がまた動きだしていた。
 未知の苦悩が、おのれの存在の奥底から湧《わ》き上がってきていた。
 彼は母親に身を堅く押しつけた。
 身体をねじまげ、拳《こぶし》を握りしめ、眉《まゆ》をひそめた。

 苦悩は力強く平然と、大きくなるばかりであった。
 その苦悩がどういうものであるか、またどこまで募ってゆくものか、彼には分らなかった。
 ただ非常に広大なものであり、決して終ることのないものであるように思われた。

 そして彼は悲しげに声をたてて泣き出した。
 母親はやさしい手で彼をなでてやった。
 苦悩はもうずっと和らいでいた。
 しかし彼は泣きつづけていた。
 自分の近くに、自分のうちに、その苦悩がいつもあるように感じていたからである。

 大人《おとな》が苦しむ時には、その苦しみの出処を知れば、それを減ずることができる。
 彼は思想の力によって、その苦しみを身体の一部分に封じ込める。
 そしてその部分はやがて回復されることもできれば、必要に応じては切り離されることもできる。
 彼はその部分の範囲を定め、自分自身から隔離しておく。

 しかし子供の方は、そういうごまかしの手段をもたない。
 彼と苦しみとの最初の邂逅《かいこう》は、大人の場合よりもより悲壮でありより真正直である。
 自分自身の存在と同じように、苦しみも限りないもののように思われる。
 苦しみは自分の胸の中に棲《す》み、自分の心の中に腰を据《す》え、自分の肉体を支配してるように感ぜられる。
 そしてまた実際そのとおりである。

 苦しみは彼の肉体を啄《ついば》んだ後でなければ肉体から去らないだろう。
 母親は子供を抱きしめながら、かわいい言葉をかけている。
 「さあ済んだよ、済んだよ、もう泣くんじゃありません。
  ねえ、いい子だからね……。」
 子供はなお途切れ途切れに、訴えるように泣きつづける。

 その無意識な不格好なあわれな肉の塊《かたまり》は、自分に定められてる労苦の一生を予感してるかのようである。
 そして何物も彼を静めることはできない……。
 サン・マルタンの鐘の音が、夜のうちに響きわたった。

 その音は荘重《そうちょう》でゆるやかであった。
 雨に濡《ぬ》れた空気の中を、苔《こけ》の上の足音のように伝わっていった。
 子供はすすり泣いていたが、ぴたりと声を止めた。
 豊かな乳が流れ込むように、美妙な音楽が静かに彼のうちに流れ込んできた。

 夜は輝きわたり、空気は和やかで温かだった。
 子供の苦悩は消えてゆき、その心が笑い始めた。
 そして彼は我を忘れた大きい息を一つして、そのまま夢の中におちこんでいった。

 三つの鐘が静かに鳴りつづけて、明日の祭りを告げていた。
 ルイザも鐘の音に耳を傾けながら、過去の惨《みじ》めなことどもを思い浮かべ、またそばに眠ってるかわいい赤子の行末などをぼんやり考え耽《ふけ》った。

 彼女はもう数時間前から、けだるいがっかりした身を、寝床に横たえていたのである。
 手先や身体がほてっていて、重い羽根蒲団《ぶとん》に押し潰《つぶ》される思いをし、暗闇のために悩まされ圧迫されるような気がしていた。
 しかし強《し》いて身を動かそうともしなかった。
 彼女は子供の顔を眺めていた。
 暗い夜ではあったが、年寄じみた子供の顔立を見分けることができた。

 眠気《ねむけ》が襲ってきて、頭の中にはいらだたしい幻が通りすぎた。
 メルキオルが扉を開ける音を耳にしたように思って、胸がどきりとした。
 時々河の音が、獣の吼《ほ》え声のように、寂寞《せきばく》たる中に高く響いてきた。
 ガラス窓は雨に打たれて、なお二、三度音をたてた。
 鐘の音はしだいにゆるやかになってゆき、ついに消えてしまった。
 そしてルイザは子供のそばで眠りに入った。

 そういう間、ジャン・ミシェル老人は、雨の中に、霧に髯《ひげ》を濡らして、家の前で待っていた。
 惨《みじ》めな息子の帰宅を待っていた。
 頭がたえず働いて、泥酔《でいすい》から起こるいろんな悲しい出来事をあれこれと想像してやまなかったのである。

 実際そういう事が起ころうとは信じなかったけれども、もし息子がもどって来るのを見ないで帰ったら、その晩一睡もできないかもしれなかった。
 鐘の音を聞いて彼の心は非常に悲しくなっていた。
 空《くう》に終った昔の希望を思い起こしたからである。
 こんな時刻に、この往来の中で、自分は今何をしているか、それを彼は心に浮べていた。
 そして恥ずかしさのあまり涙を流していた。

 月日の広漠たる波は徐々に展開してゆく。
 限りなき海の潮の干満のように、昼と夜とは永遠に変わることなく去来する。
 週と月とは流れ去ってはまた始まる。
 そして日々の連続は同じ一日に似ている。

 極《きわ》みなき黙々たる日、それを印《しるし》づけるものは、影と光との相等しい律動、また揺籃《ようらん》の底に夢みる遅鈍な存在の生命の律動。
 あるいは悲しいあるいは楽しいやむにやまれぬその欲望、それは昼と夜とにもたらされながら、かえってみずから昼と夜とを招き出すかと思われるまでに、規則正しく波動する。

 生命の振子は重々しく動いている。
 全存在はそのゆるやかな波動のうちにのみ込まれる。
 その他は皆夢にすぎない、うごめく奇形な夢の断片、偶然に舞い立つ原子の埃《ほこり》、人を笑わせあるいは恐れさせつつ過ぎてゆく眩《めまぐる》しい旋風にすぎない。

 喧騒《けんそう》、揺らめく影、奇怪な形、苦悩、恐怖、哄笑《こうしょう》、夢、種々の夢……。
 すべて皆夢にすぎない……。
 そしてその混沌《こんとん》の中には、彼に微笑《ほほえ》みかくる親しい眼の光、母の身体から、乳に脹《は》れた乳房から、彼の身体のうちに伝わりわたる喜悦の波、彼のうちにあって自然に積り太ってゆく力、その小さな子供の体内に閉じこめられて轟《とどろ》き出す湧きたった大洋。

 かかる幼児の内部を読み分けうる者は、影の中に埋もれたる幾多の世界を、しだいに形を具えゆく幾多の星雲を、形成中の全宇宙を……そこに見出すであろう。
 幼児の存在には限界がない。
 彼は存在するすべてのものである……。

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