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槍の又左  前田利家コミュの「利家とまつ」の故郷荒子

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以下の文章はある目的で3年ほど前に書いたものですが、日の目を見ませんでした。「利家とまつ」と荒子とのつながりを持つ部分を強調しています。
実は近日中にこの文章を骨子として、簡単な講演を頼まれました。ここに書いてる事項以外に、利家または一家と荒子とのつながりを連想させる事項がありましたらコメント頂けませんか。
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「利家とまつ」の故郷荒子

 前田利家は1537(天文6)年、荒子城主・前田利昌の四男としてこの地・荒子に生まれました(1538年生まれ説もあり)。後に利家の妻になる、まつ(芳春院)は4歳のとき、利家の母である叔母のもとに引き取られて、荒子で育ちました。利家22歳、まつ12歳のとき、当時の武家としては珍しく政略結婚ではない身内同志の結婚をします。まつは2男9女の11人の子宝に恵まれたといいますから、夫婦仲はむつまじく、健康体であったことがうかがわれます。二代目加賀藩主となる長男の利長も荒子で生まれ育ちました。
 荒子城主は利家の父・利昌がなくなった後は長兄の利久が継ぎますが、子供がなかったことから、1569年に織田信長の命によって利家が荒子城主になりました。
 1575年、利家は3万3千石の大名となって、越前府中(福井県武生)へ移りました。利家は荒子を去るにあたり、荒子観音寺本堂の改修を指図し、お世話になった荒子村の人たちにも祭り事に使う馬飾りである「馬道具」(地元ではバドンと呼ぶ)7式分を村に寄贈して行きます。この馬道具は修理や作り直しを続けながらも今に伝わり、そのうち3式が名古屋市指定文化財として残っております。北陸へ移ってからも、利家は荒子時代からの家臣を荒子衆と呼んで、特別に信頼をしていました。その家臣には奥村、高畠、篠原、小塚などこの近くの出身地の地名を名乗る人たちがいます。
 1581年、利家は能登一国の大名となって七尾へ移り、ついで利長が越前府中城へ入って荒子城は廃城になりました。村人は前田家が荒子城内に祀っていた神様を村の鎮守として譲り受け、富士権現社を造りました。
 1582年、本能寺の変のとき、利長は信長の娘である新妻の永姫と共に京都へ向かう途上、近江の瀬田で事変を知ります。危険を感じた利長は荒子衆の家臣を護衛につけて永姫を故郷荒子(下之一色城か)へ避難させます。利長にとっても故郷荒子は離れた後も頼りになる安全の地だったようです。
 1583年、利家は加賀を併せて金沢に移り、城下町を整備するとき大手門前の一等地に荒子を始めとする尾張の商人たちを呼び寄せて商人町を作ります。これが尾張町商店街の基になったとされています。今も尾張町商店街の人たちはこのことを誇りとしており、名古屋市中川区と交流があります。
 利家の亡くなった翌年(1600年)、まつは人質として京都から江戸に向かいますが、熱田の宮に宿をとったとき、荒子の昔馴染みを宮の宿に呼び寄せて昔語りをし、おみやげの菓子を与えた、と記録にあります。
 利家とまつにとって尾張荒子は生涯いつも心に残る故郷でした。

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