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中高年のための京都コミュの2012年大河ドラマ「平清盛」関連。

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平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿・政治家です。
ここのトピでは、平 清盛と彼と関わった人物の所縁の地について語りましょう。

写真3点は、いずれも「平清盛」像です。

平 清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれました。平氏棟梁となりました。
保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士では初めて太政大臣に任ぜられました。

娘の徳子(とくこと読まれていますが定かではありません。)を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(平家物語)と言われる時代を築きました(平氏政権)。

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没しました。

時代:平安時代末期
生誕:元永元年(1118年)
死没:治承5年閏2月4日(1181年3月20日)
享年:64才
改名:清盛、浄海
別名:平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道
墓所:能福寺、神戸市切戸町、六波羅蜜寺、祇王寺、彦島
官位:従一位、太政大臣
主君:崇徳天皇(鳥羽院)→近衛天皇(鳥羽院)→後白河天皇→二条天皇(後白河院)→六条天皇(後白河院)→高倉天皇(後白河院)→安徳天皇(後白河院・高倉院)
氏族:桓武平氏維衡流(伊勢平氏)
父母:父:平忠盛、母:祇園女御の妹?
兄弟:清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度、他
妻 :正室/高階基章の娘、継室//平時子
側室:厳島内侍、常盤御前
子 :重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、知度、清房、徳子、盛子、完子、御子姫君、坊門信隆室、花山院兼雅室、冷泉隆房室

◎登場人物 相関図:大河ドラマ「平清盛」
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/index.html

コメント(53)

この話題をどこに書こうかと思いましたが、ここに書くことにしました。

東山区東大路通渋谷下ル妙法院前側町にある武田病院ですが、去年の12月に閉鎖されました。

ここに武田病院が開設されたときの武田病院のコメントは次の通りです。
日本たばこ産業株式会社より京都専売病院を承継し、平成17年(2005年)9月1日付けで「東山武田病院」(一般病床126床)を新たに開院いたしました。

武田病院グループ全体としては8つ目の病院となります。
京都専売病院は東山山麓という京都の中でもとりわけ風光明媚な環境の中、昭和23年より、日本たばこ産業株式会社の社員とそのご家族をはじめ特定多数の福利厚生を目的として開設され長年、その機能を担ってこられました。近年では社員のみならず、東山地区を中心とする一般の地域住民の方々を中心に地域密着型病院としての役割を果たしてこられました。

これまで京都専売病院を運営されてきた日本たばこ産業株式会社も時代の変化とともに、新しく事業体の変革を余儀なくされるようになってきたこと、それに現在、同社の関係者の利用が5%を切るといった状況で企業立病院としての本来の機能を成し遂げたということもあり、承継先として当グループをご指名いただきました。

当グループでは民間病院として、その使命を果たすべく、各方面からのご教示ご協力を賜り、このたび承継し、東山武田病院として新たに開院するにいたりました。関係各位にこの場をお借りして、心よりお礼申し上げます。

地域開業医の先生方との連携も深めていき、一層、患者さまへの利便性を高めていきたいと考えております。今後も病院職員一同誠心誠意、務めてまいります。
何卒、ご支援賜りますようお願い申し上げます。





この病院はもとは南側に隣接している寺院「妙法院」の境内でした。
妙法院は比叡山にはじまり、天台宗延暦寺別院として、平安時代末期に洛中に移転しました。応仁・文明の乱(1467〜77年)で焼失しましたが、桃山時代までには現在地に落ち着き、豊臣秀吉により復興されました。

今の庭が形作られたのは、江戸時代の元禄年間(1688〜1704)の初め、尭恕法親王(ぎょうじょほっしんのう、3度天台座主を務めた)が門主であったころと考えられています。

ただし、作庭時期については、中島に沿って池中に直線的に配された5つの石が古い様式の「夜泊石」とも考えられることや、『平家物語』の六波羅の項の記述から、積翠園はかつての平重盛の別邸小松殿の庭であり、時代は平安末期までさかのぼると考える説もあります。

東端の池には滝石組が設けられており、現在は井戸で汲み上げられた水が滝口から池に注がれています。池が細長いために、滝口は遠くから眺めるのではなく、近くの大島に架かる石橋のあたりから眺めるのがちょうどよかったようです。









ところが、2011年12月20日で東山武田病院は閉院となりました。
五つ星クラスとして世界的に有名な「フォーシーズンズ・ホテルズ&リゾーツ」による買収が進められ、
同社によると
『東山武田病院の土地を借りてホテルを建設する。
既に同病院を運営する武田病院グループと協議を進め、積翠園を生かして、結婚式場やスパを備えた約200室のホテルに全面改築し、2014年春の開業を目指す。
病院と連携したメディカルツーリズム(医療観光)の開拓も検討している』とのことです。


平重盛も評判は#11,#12にあるように善良な武士ではなかったかもしれませんが、外国資本のホテルになるとは思いもよらなかったことでしょうね。
>14

妙法院(みょうほういん)[撮影日:2011年11月30日]

皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称します。
妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)と共に「天台三門跡」と並び称されてきました。
また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られています。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっています。2012年度のNHK大河ドラマ「平清盛」で妙法院も出て来ると思いますよ。

近世の妙法院は、方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社を兼帯する大寺院でありました。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からです。

これは大坂の役で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰です。戦後幕府によって進められた豊国神社破却の流れのなかで、当時の妙法院門主であった常胤は積極的に幕府に協力、豊国神社に保管された秀吉の遺品や神宮寺(豊国神社別当神龍院梵舜の役宅)を横領することに成功しています。三十三間堂については、創立者である後白河法皇との関係から、早くから妙法院が関与していました。

正応4年(1291年)の後白河法皇百回忌供養は、妙法院門主の尊教が三十三間堂において行っており、以後、50年ごとの聖忌供養は妙法院門主が三十三間堂にて行うことが慣例となっています。近代に入って方広寺と新日吉社は独立したが、三十三間堂は現代に至るまで妙法院の所属となっています。

妙法院は、幕末には、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追放された「七卿落ち」の舞台ともなっています。


所在地 京都府京都市東山区妙法院前側町447
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043498376&owner_id=9873863
山号 南叡山
宗派 天台宗
本尊 普賢菩薩(重要文化財)
創建年 平安時代初期
開基 最澄
文化財 庫裏、ポルトガル国印度副王信書(国宝)
大書院、木造普賢菩薩騎象像、絹本著色後白河法皇像ほか(重要文化財)

◎後白河上皇関連・京都三熊野
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1784831010&owner_id=9873863
清閑寺

チョッと前置きが長いですが、平家物語から紹介してみます。


平安時代、栄華を誇った藤原氏もそうであったように、平清盛も権勢を握るには天皇家と姻戚関係になることを最重要視していました。

つまり自分の孫を天皇にして天皇の外祖父になることを目論んでいたのです。
清盛は十七歳の徳子を十一歳の高倉帝のもとへ入内させました。明らかに政略結婚でしかなかった訳です。

数え年で十一歳といえば小学校4年生ですから高倉帝は徳子よりも徳子に使える葵前に心を寄せて行きます。しかし、身分の違いもあって葵前は宮廷を離れ、まもなく亡くなります。

そして高倉帝は塞ぎ込んだ日々を送ることになりますが、この姿を心配した徳子は天皇を慰めるために小督を差し向けます。
この時、高倉帝は十六歳、小督は二十歳だったということです。

高倉帝が見目麗しい小督に慕情を抱くにはそんなに時間は必要なかったのでしょう。
今回は家柄も問題なし、誰はばかることなく溺愛するようになったのです。


ところが時の権力者、平清盛にとってはこれが面白くなかったのです。というのは小督の恋人は藤原隆房、そして今また高倉帝が小督を溺愛している。この二人の男性の正妻は二人とも清盛の娘だったからなのです。

『入道相国(平清盛)これを聞き、「中宮(徳子)と申すも御娘なり。冷泉少将(隆房)婿なり。小督殿に二人の婿を取られて、いやいや、小督があらん限りは世の中よかるまじ。召し出して失はん」とぞのたまひける。小督殿漏れ聞いて、「わが身のことはいかでもありなん。君の御ため御心苦し」とて、ある暮れ方に内裏を出でて、行方も知らず失せ給ひむ。主上(高倉帝)御嘆きなのめならず。昼は夜のおとどに入らせ給ひて、御涙にのみむせび、夜は南殿(紫宸殿)に出御なつて、月の光を御覧じてぞなぐさませたまひける』

清盛は「二人の婿を取られた」と殺してしまいたいほど憎んだのでした。
小督は高倉帝に迷惑がおよんではいけないと宮中を抜け出し、嵯峨の辺りに身を隠したのです。




しかし残された帝は、またも嘆き悲しみに暮れてしまいます。そしてある日、高倉帝は弾正少弼仲国という笛の名手に小督を捜し出すように命じます。

仲国は「こんな月の夜は、琴の名手である小督殿のこと、必ず帝のことを思って琴を弾いていることでしょう」と初秋の名月の夜、馬に乗り嵯峨に出かけました。嵯峨を探し回りましたが見つからず諦めようとしたその時、法輪寺に程近いあたりで、かすかに琴の音が聞こえてきました。

『亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒を速めて行くほどに、片折戸したる内に、琴をぞ弾きすまされたる。控へてこれを聞きければ、少しもまがふべきもなき小督殿の爪音なり。楽は何ぞと聞きければ、夫を想うて恋ふと読む想夫恋といふ楽なり』

小督の居場所をつきとめて、急ぎ宮中に馳せ戻る仲国。再度の高倉帝の命により小督をそっと宮中に迎え入れる緊迫感exclamation




「小督」の嵯峨での話も女の悲しみが叙情詩的に表現され、私の好きな名場面のひとつです。

こうして高倉帝は以前にも増して小督を寵愛し、範子内親王をもうけることになったのです。

ところが、清盛の娘の中宮徳子より先に天皇の子供を宿したことがさらに清盛の怒りを招く結果となりました。


小督二十三歳の時、清盛に捕らえられ尼にさせられ濃い墨染めの衣というみすぼらしい姿で内裏を追い出され、嵯峨野に再び隠棲することになりました。


「平家物語」では高倉帝は小督が去った悲しみで二十一歳の若さで病気になり、崩御したと伝えています。

小督は高倉帝が葬られた清閑寺(中写真)近くに庵を結んで生涯をかけて天皇の菩提を弔い、四十四歳でこの世を去りました。


清閑寺の北にある高倉天皇陵内に小督の墓と伝えられる宝篋印塔があるそうです。また清閑寺の庭には小督の供養塔である宝篋印塔(比翼塚ともいう、右写真)が後世に建てられました。 

>16

清閑寺の北にある高倉天皇陵です。
その奥によく見ないと分からない六条天皇の陵もあります。

保元の乱・平治の乱の解説はメッチャ難しくて、このmixiのスペースだけでは説明できそうにありません。
しかるべきサイトを参考にしていただきたいです。

二条天皇は、六条天皇即位の翌日に崩御してしまった為、六条帝はわずか1才にて即位する事になりました。

清盛は何としてでも一門から天皇を出したいと考えていましたが、六条天皇を圧力で5才で廃位させてしまいました。
六条天皇(上皇)は安元2年(1176)、わずか13才で病に倒れ崩御しています。

高倉天皇が即位したのはこれまた8歳のときです。

高倉天皇の生母である平滋子(後白河上皇女御)が皇太后となり、平氏は天皇の外戚として全盛を迎えたのです。

高倉天皇は11才のときに平清盛の娘の徳子(建礼門院)を中宮に迎えさせられました。

このころ清盛と後白河上皇の対立は激しくなり、間に立つ高倉天皇はいたたまれず、第1皇子で清盛の外孫にあたる言仁親王(安徳天皇)に譲位する事で、この窮地から逃れようとしたと思われます。

そして、高倉天皇のその後は
>16で述べた通りです。

この天皇陵を見ると悲しみが渦巻いているように思われてならないのです。
そう思うのは私だけでしょうか?
写真だけですみません。
解説は左写真をご覧ください。

場所は油小路八条南西角です。

これは間違いなく2012年大河ドラマ「平清盛」の影響でしょう。
以前はこんな石碑は立っていませんでした。
藤原璋子

先週、今週の大河ドラマで大きな役割を演じている璋子さん。
どんな育ちかというと波乱万丈だったのですね。

七歳にして父を失い、白河法皇祇園女御に養われました。
1111年、璋子が十一才のとき、白河院は当時の関白・藤原忠実の長男・藤原忠通に璋子を嫁がせようとします。

忠実の日記には璋子のことを「奇怪不可思議の女御か」「乱行の人」と書いています。
したがって、この婚約は不成立に終わります。

このあと白河院は、璋子の相手として、孫の鳥羽天皇に入内させようとしました。
璋子と鳥羽天皇は従姉弟同士で、彼女の母と姉は鳥羽天皇の乳母でもありました。

永久五年(1117)、璋子は鳥羽天皇に入内し、翌年には立后し、中宮となりました。


鳥羽天皇の后となりながらも、白河院と密通し続けていた璋子は、第一皇子・顕仁親王(崇徳院)を産みました。
その後、鳥羽天皇との間に禧子内親王、通仁親王、君仁親王、統子内親王(上西門院)、雅仁親王(後白河院)、本仁親王(覚性法親王)と五男二女を産みました。

顕仁親王の父は実は白河天皇が璋子に産ませた子だとして、鳥羽天皇は疎んじ、
その崩御の際にも、崇徳天皇は会うことさえできなかったと伝えられます。


崇徳院が即位すると、翌1124年には院号を宣下されて待賢門院となっています。

1129年、白河院の死によって、やっと実権を握れることとなった鳥羽院は、関白・藤原忠実の娘・泰子を入内させて皇后とし、璋子と同等の身分に引き上げます。

1134年には藤原得子が鳥羽院の殊寵を受けることとなったことです。
やがて、得子は内親王を生み、続けて體仁親王を出産します。

1141年、鳥羽院は、愛する得子が生んだ體仁親王を天皇の位につけるため、崇徳天皇を退位させ、體仁親王が即位し、近衛天皇となりますした。
これによって、得子も皇后となります。

そして璋子の乳母子が呪詛の罪で逮捕され、疑いの目を向けられた璋子は1142年に御願寺の法金剛院において出家します。



法金剛院は右京区花園扇野町に現存していますが、文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後は荒廃し、1130年に璋子が復興したものです。

璋子はここで晩年を過ごし、法金剛院を訪れる人々の中には、かの歌僧・西行もいたといいいます。

1145年、璋子は三条高倉第で鳥羽院に見守られ生涯を閉じます。



法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵(写真)に眠っています。
得長寿院

京都で三十三間堂と言えば、平清盛が建てた国立博物館の南の蓮華王院三十三間堂しかないと思っておられませんか?

『平家物語』巻第一「殿上闇討」の段に、「忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一躰の御仏をすへ奉る」と記録されています。

清盛の父、忠盛は白河院にも仕え、鳥羽院にも仕えて武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任しました。

また、鳥羽院のために得長寿院を造営し、これを寄進した功績により内昇殿を許されています。
つまり、殿上人になった訳ですが、これは武士でありながら貴族に匹敵する地位を得たということです。得長寿院というのは三十三間千体観音の御堂で左京区岡崎にありました。

当時は極楽往生するためには寺院や仏像を造ることであると信じられていました。
しかも大きければ大きいほど、多ければ多いほど極楽に近付けると考えられていたのです。

しかしながら平氏が滅んだ1185年のこと、平家物語の巻十二「大地震」の段に
「同七月九日の午刻ばかりに、大地おびたたしくうごいて良久し。赤縣のうち、白河のほとり、六勝寺、皆やぶれくづる。九重の塔も、うへ六重ふりおとす。
得長寿院も三十三間の御堂を十七間までふりたうす。
皇居をはじめて人々の家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながらやぶれくづる。
くづるる音はいかづちのごとく、あがる塵は煙のごとし」とあり、得長寿院は琵琶湖疏水の東山通り角に石碑があるのみで、その姿を見ることはできません 。

高松神明神社    中京区姉小路通新町西入ル

平安時代の末期に起きた保元の乱では、後白河天皇の本拠地となり、平清盛や源義朝らが参集し、崇徳上皇の白河北殿へ攻め込みました。

保元の乱は、皇位継承問題や摂関家の内紛がきっかけとなり、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂。双方が武力衝突に至った政変です。


1156年7月10日、天皇方の高松殿には元々警備の任にあった源義朝・源義康に加え、清盛ほか源頼政、源重成、源季実、平信兼、平維繁などが集結。
一方、崇徳上皇方の本拠である白河北殿には、藤原頼長を筆頭に平家弘、源為国、源為義、平忠正らが結集。

翌7月11日の未明、戦いは源義朝と清盛らの率いる騎馬隊が上皇方の白河北殿に夜討ちをかけて、戦いの火蓋が切られます。

上皇方も源為朝が得意の弓で奮闘しますが、数に勝る天皇方は白河北殿に隣接する藤原家成邸に火を放ち、やがて白河北殿に延焼すると上皇方は総崩れとなり雌雄が決しました。

この戦いで天皇方が勝利したことにより、後白河天皇の側近である信西が政治の主導権を握ることになります。

この信西による権力の急速な拡大が朝廷内に新たな対立を呼び、やがて平治の乱を招くことになるのです。

保元の乱では平清盛と源義朝は味方同士だったのですが、次の平治の乱では敵同士になりました。


高松神明神社にはもう一つ、歴史好きの心をくすぐるものがあります。それは「真田幸村の知恵の地蔵尊」。関ヶ原の戦い後から大阪の陣までの間、幸村が蟄居させられていた紀州九度山の伽羅陀山に安置してあったものを拝領してきたもので、地蔵堂の台石をさすってから子供の頭をなでると知恵を授かると言われています。
忠盛燈籠


清盛の父、忠盛の話しです。

この燈籠の説明板によると
『永久年間の頃(12世紀)白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、
折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見えたので、お供に従っていた平忠盛にあれを討取れと仰せられたが、
忠盛はその正体を見定めての上とこれを生捕りにしたところ、祇園の社僧が油壺と松明とを持ち燈籠に燈明を献ろうとした。
雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯の光をうけて銀の針のように見えたのであった。
忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったという。
この燈籠はその時のものといわれている』。

それ以降、平忠盛は冷静で的確な判断の下せる人として尊敬されるようになったということです。


この話には続きがあり、その褒美に白河上皇は寵愛していた祇園女御を下賜されその子が平清盛であるという説が残されています。
多分、事実ではないでしょうね。
金澤翔子さんの個展に行ったことがあります。
写真の字を見ればNHKの大河ドラマを見ている人なら分かりますよね。

これは彼女が揮毫した字です。

彼女はダウン症というハンデーを持っていながら素晴らしい字を書かれます。
西行寺   伏見区竹田西畑中町(白河天皇陵北)


今週のNHK大河ドラマ「平清盛」見ていると久しぶりに佐藤義清(のりきよ 西行1118〜90)が出てきたので取り上げて見ました。

佐藤義清は鳥羽上皇(1103〜56)の北面の武士であった頃、竹田西畑中町の西行寺に邸宅があったといいます。

江戸時代には庵室(西行寺)があり、境内には月見池や剃髪堂がありました。

明治11(1878)年観音寺に併合され、この観音寺には西行法師像といわれる坐像が安置されています。

写真の祠横には西行寺の石碑が立っています。


近くには鳥羽天皇陵、近衛天皇陵、安楽寿院(創建は鳥羽上皇、鳥羽院の崩御の折に西行も読経)などがあります。
>8 の続き

源頼政は弓の名手でしたが、源氏であるがため従三位になるのがやっとでした。
それで源三位(ゲンザンミ)と呼ばれていたそうです。
そして弓の名手でもありました。

国道9号線を老ノ坂から亀岡に向かうと頼政塚という交差点があります。

平氏が台頭していた頃、御所では毎晩 顔はサル、胴体はトラ、尻尾はヘビ、背中に翼がある鵺(ぬえ)という怪獣が出没し、世にも奇怪な鳴き声を出していました。

天皇は病気中だったので特に悩まれ、病気は次第に悪くなっていきました。

天皇の周囲のものが集まり何とかしないとと考えた結果「頼政は日本一の弓の使い手だから彼に退治を命じよう」と決まりました。


頼政も鵺を退治できるか自信がありませんでした。それで守りの本尊である地蔵にお祈りをしていると、ある晩、菩薩が夢枕に立ち「矢田の奥の鶏山の白鳥を捕り、その羽で矢を作り、それで退治しなさい」と告げたのです。

頼政はその矢を作り、夜の御所で待っていると急に黒雲が現れ、奇妙な鳴き声が聞こえ始めました。

声は聞こえど、怪物の姿は見えません。
頼政は目を閉じ、そして弓矢を引き放ちました。

矢は見事鵺に当たり、退治することができたのです。

そして現在の亀岡の地を褒美に授かったのです。

>8で書いたように頼政は平清盛に反旗を翻して、宇治平等院で自害することになったのですが、家来が屍体を頼政塚に持ち帰り墓を建てたと伝わっています。

そして、頼政がお祈りしていた自走菩薩も持ち帰りお堂を建て「矢の根地蔵」と呼ばれるようになりました。


写真は左から亀岡の頼政塚の墓、矢の根地蔵の扁額、平等院の頼政の供養塔です。
京都祇園堂


「忠盛灯籠」 のある八坂神社の鳥居(南側)から出て山に向って歩き最初の筋を右に曲がって歩くと右側にキリスト教の教会か?と思うような建物が見えてくる。
これが、「京都祇園堂」です。入口の右側に、祇園女御供養塔がある。

*八坂神社の鳥居から出て山の方へずっと行くと建礼門院と西行ゆかりの長楽寺がある。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047156453&owner_id=9873863


「平清盛」の母親と云われている祇園女御さまが「京都祇園堂」あたりに阿弥陀堂を建立したと言われています。祇園女御さまは白河法皇のご寵愛を受けた女性です。また、「平清盛」は白河法皇と祇園女御さまの妹さんの間に生まれた子であるとも云われています。

「平清盛」の父親は誰か?母親は誰か?と諸説は、3つあります。

1.祇園女御(ぎおんのにょうご) ←「平清盛」の母親だとする根拠は 『平家物語』など から
白河院は寵愛する祇園女御のもとに通っていたが、
ある日、出没したと見えた鬼(じつは老法師)の退治を忠盛に
頼むと、忠盛はじつに思慮深い行動で解決したので、白河院は
感心して忠盛に祇園女御を与えたというもの。すでに、祇園女御
は白河院の子供を孕んでおり、それが「平清盛」だったということ。

2.祇園女御の妹  ←「平清盛」の母親だとする根拠は 『仏舎利相承系図』 から
後代の加筆が指摘されています。
仏舎利の譲渡系譜から「平清盛」の母親だと決断をするのは論外ともいえるかもしれない。

3.伯耆の守(ほうきのかみ)忠盛が妻。←「平清盛」の母親だとする根拠は『中右記』(書籍案内)
この説が一番事実かもしれない。自然な流れかと思う。

そもそも「平清盛」の父親は、誰か?という推測がうまれたのは、父親が白河院だったからこそ、異例なまでに出世が早かったというのが、先述の『平家物語』の記述の、理由となっているようです。当時の人々がやっかみ半分で噂をしたり面白く伝えたのでしょうかねえ。

参考文献:天皇家の御落胤伝説・歴史読本別冊)

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000052382232&owner_id=9873863


住所:〒605-0074 京都府京都市東山区祇園町南側604
御所八幡宮(ごしょはちまんぐう)。「久寿、保元の乱」(1156)関連。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000052772896&owner_id=9873863

御祭神:
本社 応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)
末社 高良社 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
天満宮 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
初音稲荷 宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)

三社
猿田彦社 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
大宮比賣社 大宮姫命(おおみやひめのみこと)
古刀比羅社 琴比良神(ことひらのかみ)

応神天皇、神功皇后、比賣神を祭神とする。もと御池通堺町西南西南角御所八幡町にあったが、 太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移転した。
この八幡者を御所八幡宮とよぶのは、足利尊氏が邸内の守護神として勧請したと伝えられる由緒によってであり、 尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また高倉八幡とも呼ばれて親しまれてきた。 特に安産と幼児の守り神として有名で、三宅八幡とならんで「むし八幡」と呼ばれて世間の信仰を集めている。
≪京都市案内板より≫

鎌倉時代の弘安元年(1278)10月13日、二條内裏焼失により翌11月8日の夕、 後宇多天皇(第91代)が前内大臣中院通成の三條坊門万里小路邸に行幸あり、 しばし内裏となり俄に四足門を造立せられたることは「増鏡」に記すところである。 (この地は、第77代後白河天皇(1155)の皇子で、 平家の横暴をこらしめようと源氏の一族に密かに令旨を下し挙兵「久寿、保元の乱」(1156)を要望された、 高倉宮以仁王の邸が三條高倉にあったので高倉殿とも呼ばれていた)村上源氏の一門である中院氏が、 源氏の氏神である、石清水の若宮を邸内祠としていつの世にか勧請奉斎していたことは当然であるが、 この行幸にて、御帝が親しく祝いまいらせたる社として、事後は御所八幡宮として子々孫々奉斎していた。

建武の大乱以後、南北朝に入るに及んであたりの光景は全然一変せられ、この故地に、 足利尊氏の弟で副将軍の職にあった直義が邸を構えて、高倉殿と呼ばれていた。 直義は正平7年「文和元年」(1352)鎌倉において尊氏に毒殺されてより後、 清和源氏の流れを汲む尊氏は直義の邸を取払い、その地に往故より鎮祀されていた、 石清水八幡の若宮を、境内四町四方、本殿八棟造りの善美を盡した殿舎を再興造営し、 足利氏鎮守の社として奉斎、尊氏の称号にちなみ等持院御所八幡宮又は高倉八幡宮、 三條坊門八幡宮ともいわれた。

その後は皇室のご尊宗と貴紳、武門の崇敬は誠に深甚にして、 特に足利将軍家累代の社参など朝家の敬仰篤く神賑を極めていたが、応仁の大乱後、 戦国時代を経て足利幕府の滅亡(1573)するに至り、衰頽その極に達し、 降って江戸時代には御池通り(元の三條坊門)の南、堺町(高倉と万里小路の中間)の西、 高倉の間に境内を占める有様となり、明治に入って御所八幡宮社として村社の列に入り、 昭和の時代には戦時中の強制疎開により狭隘なる現在地に鎮座し、往昔の盛観はこれを偲ぶ由もないが、 世の移り変りにその尊崇する姿も変ったが、概ねその昔より鎮座の位置を変えることなく現存し、 今では初音学区とその近在の守護神として、汎く御池の八幡さんと親しまれ崇敬され今日に至っている。
≪由緒書より≫

住所:京都府京都市中京区御池通高倉東入亀甲屋町594−1
普段は、日中は、無人です。連絡を取りたいときは、夕刻が良いかと思います。
>27 ここ、ゼストの駐車場から西向きに出てきたところですね。
>27

きのうの京の御所八幡宮(ごしょはちまんぐう)

おもしろ市が開催中でした。くわしい日程は、わかりません。ネット検索してくださいね。ヽ(^^ゞ
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000052772896&owner_id=9873863

>28  そのとおりです。
今日の大河ドラマ「平清盛」をご覧になったでしょうか

平治の乱で信西が殺されましたね。
場所は「山城 田原」となっていました。

この場所は現在京都府綴喜郡宇治田原町大道寺です。


多分、南北朝時代の始まるころ、後醍醐天皇もここを通られて吉野に向かわれたところと思っています。



今は人の通りもあまりないところですが、地元の方が信西塚を建てて供養されています。


去年、ここを通ったとき絶対この日が来ると思ってました。

多分、マイナーな場所だから、ここをわざわざ見学に来る人はいないでしょうね。
>30

宇治田原は、平等院から立木観音。忠臣蔵の大石内蔵助の実家のある大石町、その町に渡る鹿跳橋(弘法大師ゆかり)、そして「日本緑茶発祥の地」で、大変興味深い町です。
昨夜のNHK大河ドラマ「平清盛」で「田原」と出たとき、ピンときてニンマリです。^^
周辺は、マイナーな史跡の宝庫です。史跡巡りは、いつになるやら・・。
>30

きょう、さっそく大道寺、信西入道塚に行きました。なかなかマイナーなお寺で感激しました。紅葉の穴場ですね。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000064383354&owner_id=9873863
このトピックを見直して、あれ?

当然、後白河法皇の御陵の写真はアップしているものと思ってましたが、違っていました。

今さら後白河法皇については説明は今さらすることまないと思いますが、場所について記述しておきます。

三十三間堂の東、法住寺の北側から入れます。
>33

見落としていましたね。自分の日記にもアップしていないのがあります。

後白河天皇ゆかりの地。
三十三間堂→法住寺・後白河天皇陵→養源院

三十三間堂は、後白河天皇が平清盛に命じて作らせた建物の一つ。何度来ても素晴らしいです。

法住寺は、後白河天皇の邸跡地。五月の連休には、後白河天皇の像が一般公開されるそうです。親鸞のそば食い像を見学するのが今回の巡回の目的の一つでした。
赤穂藩士の大石内蔵助(良雄)以下47人の武士(四十七士)の像が揃って安置されている部屋にも通されました。すごく感激しましたね。12月18日には、いろいろイベントがあるそうです。楽しみですね。

養源院では、お江のお墓で手を合わせました。戦国の世では政略結婚で人生を翻弄されましたね。お子様に恵まれて良かったですね。お静かにお眠りください。お市の方の供養塔もありました。お江の肖像画に俵屋宗達の杉戸絵や血天井なども見学させていただきました。
(ー人ー) 庭園は、小堀遠州の作庭で東山連峰の阿弥陀ケ峯を遠景としている。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000050810381&owner_id=9873863
周山街道・常盤の源光寺(常盤地蔵) には、常磐御前のお墓がございます。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=422201183386463&owner_id=9873863

きのうのNHK大河ドラマ「平清盛」では、「光念寺」が紹介されましたね。牛若(義経)誕生の地(現在の京都市北区紫竹牛若町辺り)です。ヤマを張ったのにかすってしまいました。w
来週は、いよいよ清盛が常磐御前を手中に入れます。これは清盛のエゴなのか優しさなのかは計り知れません。来週こそ「源光寺」の紹介かな?

くやしいので、明日にでも「光念寺」「常徳寺」「牛若誕生井・胞衣塚」などを視察してきます。あくまでも予定です。仕事中に回るのです。
>35 

とか爺さま、この写真は7年前に撮った「光念寺」「牛若誕生井」「胞衣塚」です。

変わっているのでしょうか?

最新の写真を見せて下さいね。
きょう予定通りに光念寺・常徳寺などを視察してきました。

大徳寺と今宮神社の北側の京都市北区紫竹牛若町辺りに源義朝の別荘があって、常盤御前が牛若丸(源義経)を生んだ地とされています。周辺には、常盤御前・牛若ゆかりの史跡が数多くあります。

◎写真左:光念寺(こうねんじ)
所在地:京都市北区紫野上野町150

常盤御前が牛若丸の安産を祈願して寄進したと伝えられる腹帯(はらおび)地蔵が本尊に安置されている。安産祈願のお寺として知られる。なお、光念寺は毎年4月第2日曜に行われるやすらい祭「今宮やすらい花」の出発地にもなっています。

 やすらい祭の起源は平安時代、花の散り始める頃に疫病が流行ったため、人々が花の精を鎮め、無病息災を祈願したことに始まります。「今宮やすらい花」は今宮神社において、疫病退散を祈願して行われる摂社 疫神社のお祭で、「はなしづめ」「鎮花祭」「やすらい花」「安良居祭(やすらいまつり)」などと称されてきました。
やすらい祭は広隆寺の牛祭、鞍馬の火祭とともに京都三大奇祭とされています。


◎写真中:常徳寺(じょうとくじ)
所在地:京都市北区紫竹東栗栖町28
交 通:市バス「常徳寺前」下車 すぐ
常盤が源義経の安産を祈願したと伝わる「常盤地蔵」が安置されています。
本堂:「常盤地蔵」は原則非公開です。


◎写真右:源義経産湯ノ遺址の碑
この辺り一帯は源義朝の別邸があり常盤が住んでいたところで、平治元年 義経<牛若>誕生の時、この場所にあった井戸水を産湯に汲み使ったと伝えられていました。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000065073720&owner_id=9873863
>19

藤原 成子(待賢門院璋子の姪)

高倉三位(たかくら さんみ)のお墓とされている。邸宅が三条高倉にあったことから、高倉三位と呼ばれた藤原成子。正式な妃(女御)として重んじられることはなかったのでお墓もひっそりとしている。名前も彫られていません。住職さんが言うには、名前を入れるとお墓の石が削られて持ち帰られるからだそうだ。それはないなと思いつつもいろんな話が聞けました。

藤原 成子(ふじわら の しげこ、生年不詳 - 安元3年3月11日(1177年4月5日))は、平安時代後期・後白河天皇後宮の女官。閑院流権大納言藤原季成の娘。別名高倉三位局。

待賢門院璋子の姪で、後白河天皇とは従姉妹にあたる。邸宅が三条高倉にあったことから、高倉三位と呼ばれた。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000064581085&owner_id=9873863

天皇の即位前から10年余にわたって寵愛を受け、守覚法親王、以仁王、亮子内親王(殷富門院)、式子内親王、好子内親王、休子内親王ら二男四女を相次いでもうけたが、建春門院のように正式な妃(女御)として重んじられることはなかった。安元3年(1177年)、従三位で薨去。お墓もひっそりとしている。でも後白河天皇のお墓(陵)が隣りにある。(ー人ー)

お隣の法住寺(ほうじゅうじ)は、平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれた。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたる。
寺内の『身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)』像は、平安期の作風とされる。この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれる。

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000013210774&owner_id=9873863
大雲院から円山公園に向かう途中に発見しました。

祇園女御の供養塔です。

こんなの昔は無かったと思うのだけど?
いつからあるのだろう?
白河北殿


政治が行われる政庁は御所ですが、院政が始まると、それとは別に院御所が必要となります。

白河天皇は堀河天皇に譲位して院政を始めると、元永元年(1118)院御所として六勝寺の西に白河北殿を建てました。


白河院が崩御すると鳥羽院は祖父白河との関係を噂されていた待賢門院璋子を遠ざけて「叔父子」と噂のあった鳥羽の第一皇子・崇徳天皇を退位させます。


代わって美福門院得子が生んだ体仁親王(近衛天皇)を即位させますが、病弱な近衛天皇は十七歳で亡くなります。

天皇に嗣子なく鳥羽は崇徳の皇子重仁親王ではなく、崇徳の弟雅仁親王(後白河天皇)を即位させます。

わが子の即位を強く望む崇徳は後白河天皇に反発します。

そしてこれが保元の乱の最大の原因になりました。

摂関家内部でも内紛が起こっており、藤原忠通、頼長兄弟がこれに絡んできました。

写真の崇徳方の白河北殿では崇徳上皇と頼長に源為義・鎮西八郎為朝父子、平忠正(清盛の叔父)らの武士がつき作戦会議が開かれたところです。



現在は京都大学の熊野寮ですが、住んでいながらここが白河北殿であったことを知る学生は少ないようです。
実際、写真の石碑がどこにあるか聞いてみたところ、5人とも知りりませんでしたから。


鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)

平安時代の安元3年(1177年)6月、平家打倒のために謀議したとされる事件です。

霊鑑寺の横のなだらかな坂道を登って行くと、やがて、道は左に曲がる(左写真)と細くなり急な山道に変わります。

この道をこの時期、猛烈な汗をかきながら、フーフー言いながら30分も登ったところに「俊寛僧都鹿谷山荘遺址記」の石碑と「俊寛僧都忠誠之碑(右写真)」が立っています。

ここが、俊寛、西光、藤原成親・成経父子、平康頼らが平家打倒の談合をしたとされる場所とされています。

途中にはこんな涼しげな滝(中写真)もあります。

源行綱(多田行綱)の密告により発覚し、成親は備前に流罪後処刑、西光は処刑、俊寛らは喜界島(鬼界島)に流されました。

のちに俊寛を除く2人は赦されて都へ帰りますが、俊寛は赦されずに島に残されその地で亡くなります。

ただ、どうやら俊寛の山荘の場所は、近世の京都の地誌類に「談合谷」と呼ばれている所といわれ、左京区鹿ヶ谷御所ノ段町の北部の台地付近と推定されています。

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)・ 世界文化遺産

所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
山号 白華山
宗派 天台宗
本尊 三貌十一面千手千眼観音
創建年 伝・仁徳天皇治世(4世紀)
開基 伝・裸形上人
文化財 木造千手観音立像(重要文化財)


西国三十三ヶ所観音霊場で、「六波羅蜜寺」と「総持寺」の山号が「補陀洛山」となっていますが、この「補陀洛(補陀落)」という言葉はサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音様が住む「観音浄土」という意味だそうです。

補陀洛山寺は、和歌山県のJRきのくに線の那智駅の側にあります。

平清盛の孫、平維盛は、先週のNHK大河ドラマ「平清盛」に少しだけ出ていました。

補陀洛山寺は、宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺。平清盛の孫、平維盛もここから渡海船を出して那智の海に入水しました。「補陀洛渡海」の渡海船は、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされる。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1841029316&owner_id=9873863
ですから、追手の源氏は、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)まで来たのだが、見逃した。平維盛は、死出に出たので死者同様ということであるのだから武士の情けと言えるだろう。

平維盛は、那智の海に入水したと言われますが、僧侶でない平維盛は、途中に小さい島に辿り着き余生を高野山で過ごしたと云われています。来年の2月頃に高野山に行きますので裏を取ります。

補陀洛山寺に残る曼荼羅(写真右)からその様子が伺える。
本堂の裏手の道をおよそ150m歩けば、渡海上人 平維盛と二位の尼(平清盛の妻)の供養塔があります。
今回は、閉門15分前に来たので住職さんの説明を聞いて少しだけ境内を撮影しました。
供養塔参りは、後日ですね。


仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺です。

江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建されました。
隣接する浜の宮王子社跡には熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)が建ちます。

◎補陀洛渡海
補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされています。また、チベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称しました。記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊、足摺岬、室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発しています。

NHK大河ドラマ「平清盛」の史跡巡りは、ほんに人生をおもしろおかしく生きる道やのう。^^

http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000077846643&owner_id=9873863
>11 続き

従三位平重衡卿墓   伏見区醍醐外山街道町

平重衡は、平清盛の五男です。順調に出世し、従三位まで上り詰めました。

平家武将の中ではずばぬけて人気があった重衡も平氏滅亡という大きな時代のうねりの中で翻弄された人生であった思います。

平氏の大将として1180年12月、平氏に従わない勢力の拠点である南都の興福寺・東大寺大仏殿などの寺院を焼討しました。

公家九条兼実の日記「玉葉」に重衡の将才は「武勇の器量に堪ふる」と評されていますが、南都の仏教界から恨みをかっていました。

1183年には平氏一門は源義仲に都を追われ、翌年には源義仲を破った義経軍に一ノ谷の合戦で敗れ、重衡は捕虜となり鎌倉に送られました。

源頼朝は鎌倉に送られた重衡と会って、南都の焼討など一切の言い訳をせずに「命を取られよ」と願うその高潔さに感銘を受け、鎌倉にいる間は最大限の配慮を持ってもてなしたと言われています。

平氏は1185年3月、長門の壇ノ浦で滅ぼされました。

すると平氏滅亡を知った南都の僧兵たちは、重衡の身柄引き渡しを頼朝に要求しました。頼朝はこの要求を聞き入れ、同年6月に鎌倉を出立し、南都へ護送されました。

【ここまでが「>11」で書いた内容です】


しかし、重衡は罪人のため京の都へは入れず、近江の国大津の逢坂ノ関 を過ぎると山科で奈良街道を南下して日野村に入りました。

この地は、平重衡の北方大納言 佐局(すけのつぼね)が平家没落後、身を寄せていたところです。
佐局とは建礼門院・徳子ら他の女官たちとともに入水するが助け上げられた重衡の妻なのです。

ここで重衡は佐局との再会を警護の者に頼み許しを得て再会しました。

形見として前髪数本と着ていた衣服、それに一首の歌を与えたという悲しい場所がこの地なのです。

平家物語にその情景を付近の合場川、琴弾山の名とともに、美しく語られているのです。

文治元年(1185)12月28日、享年29歳。重衡の遺骸は捨て置かれ、首は南都・般若寺の大鳥居の前に釘付けにされました。

佐局は、晒されていた首と遺骸を僧重源(ちょうげん)の助けを受けて引き取り、火葬後日野のこの地に墓を作ったということす。

その後、佐局は出家して、大原の寂光院で建礼門院に仕えながら重衡の菩提を弔ったということです。



その場所は、右の写真のように、住宅地の中の公園にあります。
>43

善願寺(ぜんがんじ)

善願寺腹帯地蔵(ゼンガンジハラオビジゾウ)。天台宗。
聖武天皇のころ、光明皇后の発願により行基菩薩が地蔵尊を本尊として一寺としたものと語られている。
現在の本尊・地蔵尊は藤原時代の作で、重要文化財に指定されている。
(〒601-1352)京都府京都市伏見区醍醐南里町33
電話:075-571-0036
E-mail:zenganji@world.ocn.ne.jp
営業時間:拝観時間 09:30〜16:00
アクセス(最寄駅):京都市営地下鉄東西線・醍醐駅徒歩15分
(バス):京阪バス醍醐和泉町停留所・徒歩2分
(その他)旧奈良街道・醍醐寺前を南下1km
駐車場:5台 
地図:http://map.livedoor.com/map/?ZM=11&zoom=7&lat=34.9430555555556&lng=135.818833333333

1156年頃、平清盛5男・重衡(1157-1185)誕生の際に、安産祈願して堂宇が建立されたと云われています。また、重衡の妻・佐の局(藤原輔子)は善願寺の近くに住み、安産祈願し成就した(子はなかったとも)ことから建物を寄進したという。また、佐の局は安産祈願し七条仏所の仏師に造仏させ、本堂も寄進したとも云われています。

重衡のお墓は、近くにある団地の公園内にひっそりとたっています。
43の仙ちゃんさんのコメントを参考。
(遺体は法界寺で荼毘に付される。髑髏は高野山に葬られ、遺体は現在地に埋葬されたという。)
http://map.yahoo.co.jp/maps?type=scroll&lat=34.9400659334476&lon=135.81460590437325&z=18&mode=map&pointer=on&fa=ks&home=on&hlat=34.95045423611236&hlon=135.81049139574407&ei=utf-8&p=京都%20醍醐

◎「平重衡」の妻、藤原輔子。
平安時代後期の女官・藤原輔子(ふじわらのほし/すけこ、生没年不詳)は、藤原邦綱の3女。平重衡(1157-1185)の妻、第81代・安徳天皇の乳母。従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した。1184年の一ノ谷の戦いで平家が敗北すると重衡は捕えられ、京都、鎌倉へ送られた。1185年、壇ノ浦の戦いで平家滅亡後、輔子は入水するが助けられ捕虜となる。その後、日野の姉・邦子(大夫三位)のもとで隠棲した。
 重衡は鎌倉から醍醐路を経て奈良へ送られた。途中、日野で輔子との再会が聞き入れられ対面がかなう。重衡は木津川で斬首され、般若寺門前で梟首された。輔子は夫の亡骸を日野で荼毘に付し、高野山に納めた。自らは出家し重衡の菩提を弔い、大原・寂光院の建礼門院(平徳子)に仕えた。
◎雪景色の大原の里と寂光院
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047356768&owner_id=9873863

◎日記:小野小町を慕った深草少将「百夜通い」ゆかりのカヤの木
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1552492310&owner_id=9873863
フォト:http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=32144158&owner_id=9873863
常盤御前就捕処の碑

常盤御前は、幼名牛若丸といわれた源義経(1159〜89)の母。

平治の乱(1159)で源義朝(1123〜60)が敗れ、常盤は今若・乙若・牛若の三人の子供を伴い大和の縁者を頼り、京を下り、大和に逃げ延びましたが、実母が平氏に捕まったことを知り、六波羅に出頭しようと奈良・宇陀の里から戻る途中、ここ伏見で平氏に捕まったと伝えられるところです。

この碑の立っているところは元は陸軍第十六師団の工兵第十六大隊の衛戍地であり、明治44年大隊長藤正武がここに「常盤御前就捕処」という石碑を建てたということで、現在は国家公務員宿舎の橋に立っています。

平家・源義経ゆかりの 佐藤継信・忠信塚


●所在地 :京都市東山区馬町通東大路東入北側常盤町
●交通 :市バス・京阪バス「馬町」下車 徒歩5分

佐藤継信・佐藤忠信の兄弟は奥州・藤原秀衡の郎党でしたが、のちに義経の腹心となり平家との戦いで活躍した人物です。
頼朝の挙兵の報に応じ、義経が平泉を出るに際し、基治は息子継信、忠信兄弟に義経の供を命じ、二人の兄弟は父基治の期待に十分に応え、よく義経を助け、二人とも義経の身代わりとなって討ち死にする。


・歌舞伎の演目では『俊寛』『一条大蔵譯』などの台詞にも出てきます
「小松内府(こまつのないふ)」平清盛の長男 平重盛

・佐藤継信・忠信塚と小松内府は、渋谷街道沿いにあり、わずか200M前後の距離にあります。



・歌舞伎の演目では『俊寛』『一条大蔵譯』などの台詞にも出てきます
「小松内府(こまつのないふ)」平清盛の長男 平重盛

・佐藤継信・忠信塚と小松内府は、渋谷街道沿いにあり、わずか200M前後の距離にあります。

<参考> http://www.iizaka.com/contents/kankou/iouji.html
医王寺(いおうじ). 福島県福島市にある真言宗豊山派の寺院。
医王寺は826年(天長3)年、空海作の薬師如来像を祀り、草堂を建てたことに始まると伝え、平安時代末、信夫荘司佐藤一族が菩提寺としました。佐藤基治は信仰心が厚く、居城とする大鳥城から眼下に望む薬師堂を改築し、伽藍を多数建立し境内を整えたとされています。
薬師堂の背後に見られる板碑群は、信夫荘司一族の墓碑を擁する墓域であり、中央に基冶夫妻、右側に継信・忠信の墓碑といわれる石塔があります。凝灰岩の奥州型板碑を主に大小60数基が立ち並んでいます。石塔が削り取られているのは、熱病の際に削って飲むと治るという伝えがあり、継信・忠信のような勇猛な武士にあやかりたいという信仰であったと思われます。



京都の馬町にある佐藤継信・忠信塚は、供養塔?下記は、同じ渋谷街道沿いにある史跡。


◎三嶋神社(みしまじんじゃ)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000072351021&owner_id=9873863
三嶋神社の由緒は、後白河天皇の中宮(皇后)平滋子建春門院様にあります。皇子のないことを嘆いた平滋子は、摂津(大阪府高槻市)の三嶋大明神に祈願したところ、夢の中に白衣の翁が現れてお告げを受け、間もなく後の高倉天皇をお産みになりました。

◎小松谷御坊 正林寺
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?owner_id=9873863&album_id=500000047587923
平清盛公の長男「重盛」が小松殿と呼ばれていたのは、この小松谷に邸宅を構えていたためで、第40話に出てくる48基の灯籠を建立したのも、当地だったそうです。
>44

法然上人に面会を請い、重衡は涙を流して、法然から戒律を受けた場所。(堀川八条近辺)
現場は、石柱と駒札しかありません。

平清盛5男の平重衡は、平家からの請け文の内容を聞き、「当然だろう。さぞ一門の人々は私を恨んだことだろう」と思いましたが、後の祭りでした。事実、重衡一人の命を惜しんで、さすがにわが国の至宝・三種の神器を返すとは思えないので、請け文の内容は予想できましたが、返事が来ない間は、何とはなしに心許なく思えました。

 請け文が到着し、関東へ送られることに決まってからは、都の名残も今更惜しく思われたのでしょうか、土肥実平を呼び、「出家したいと思うがどうか」と相談しました。実平は源義経に報告し、義経から後白河法皇へ伺いを立てました。後白河法皇は「頼朝に会わせてからでないと、そうもできない。今は出家させるな」とのことでした。

そのことが重衡に伝えられると、「それなら年来、約束をしている聖に今一度対面し、後生のことを相談したいと思うがどうだろう」と告げました。土肥実平は、「聖とは誰ですか」と尋ね、重衡は「黒谷(比叡山西塔北谷の別所)の法然房(浄土宗の開祖、源空、「法然」は房号)という人です」と答えました。実平は、「それなら問題ない。さあ、どうぞ」と許しました。

よろこんだ重衡はすぐに法然を迎え、泣く、泣く、告げました。

続き...
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平重衡東下り

一の谷の合戦で生け捕りになった平重衡は、京中を引き回された末、頼朝の要求により鎌倉に送られる。平家物語には次のようにある。

「粟田口をうち過ぎて四の宮河原にもなりければ・・・中略・・・思ひやられてあはれなり(巻10・第94句 重衡東下り)」美しい道行文が読む人の心をひきつける。

また四の宮河原については「逢坂の関あたりを四の宮河原と名づけたりといへり」と中世の「東関紀行」にある。現在、駅名として残っている。

・京阪京津線 四ノ宮駅
http://www.keihan.co.jp/traffic/station/stationinfo/502.html


逢坂の関址は今の国道一号線にあった。昔は車石がいるくらい交通も頻繁であったと聞くが、今も車が絶え間なくビュンビュン走り、「行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」がぴったり実感できる。
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