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おしおのくにからのてがみコミュのワケあり

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世の中には不可解なことが少なくない。長い間よみたいと思っているのになんだかんだでずっと読まずに過ごしてきてしまったのはなぜなのか。 世の中には不可思議なことがあちこちに見られる。長い間読みたいと思っているのになんだかんだで読まずに過ごしてきてしまっている。この本はわたしにとってそんな性格を持たされている。自画像、というとても重い言葉に押しつぶされてしまいそうにもなるが。まあ、著者も実はワケありなり。

コメント(6)

人魚というものに長年、つきあっている。多くの神話にはハイブリッドな生き物が溢れてかえる。それぞれ解釈が欠かせない。人魚はそのなかでもユニバーサルな立場になりえている。それぞれの国民、文化のなかに人魚が見いだせ、ニホンもその例外ではない。しかし残念なことにアンデルセン・ディズニーの両輪によってその多義性が喪われてしまった。ならばいかに人魚を取り返せるか、生き返らせるかということにささやかながらこだわってみる。とはいっても現代に生きているわたしたちはそれほど自由がきくわけではないらしい。
元来がせっかちなところがあって小学で水彩絵の具を手にすると色が乾かないうちにまわりに他の色を塗ってにじんでしまって手に負えないものになってしまっていた。中学でチューショーガなるものを目にすると、コレだと思って何枚も描いて部屋の壁に貼った。そんな気持ちのわるいもの貼るな、と母親に叱られた。絵の才能があるなんてこれっぽっちも思ったことがない。それでも美術館などには好んで通った。メキシコにてあるとき大画家に抽象でなくて具象を描けと勧められた。でも絵には陽の光が大切で昼に描けないなら上手くならないだろうと思った。
文体が大事なのだと大江は強調する。ニホン語を綴るまえにしっかり仏語、英語に読みふけなければならない。影響をうけることが欠かせない。ところが一般の職業人にとってそのような読書を行うと、読み終わったときにはもう寝る時間になっているではないか。ところが丸谷になると逆転。本は忙しいときに読むもの。時間があるときは書きなさい。ああ、ここに王道があるではないか。いささか気がつくのが遅かったのではあるが。まあ、これもいわばメタファーの一部でもあるし、各作家、その事情を背負って這いずり回っているわけではあるが。青春に悔いあり。
形あるものはむなしい。それでも形にたよっていかなくてはならない私たちは哀しい存在だ。形はあやふやで、あやうく、つまりはかりそめでしかない。では形を描き出せるとしたらどんな意味があるのか。上手く描くのは至難の業。せめては描き出すというのをだしにして、くまなく見飽きればいいのだ。ひとつでもよけいに見詰めたい。なにかがくっきりと浮き上がってこないかと案じる。あるもの、ないもの。そうだ、あくまでもあやうさにたよっていかなくてはならない。私たちもまぎれもなくひとつの形であり、それ以上を望むべきでもないのだから。
本末転倒、とかいうことばあり。絵を描く人は、とりわけ女性の人物を描くひとは、服を着たままの女性を眺めただけで何も身につけない姿を思い描くことができるといわれる。とにかくどんな形でもいいから女性を描いてみる。すると形の美しさとは別に、その現れ方にこだわりたくなる。身にまとっているものを描くことが、そのしたに隠されている姿より存在が印象的なようにみえてくる。女体を暗示するはずだったものが衣服の襞の現れ方に執着したくなる。さて、女体そのものを本質とすれば襞の現れ方というのは表象ということか。考え出すと手が止まる
ひとつのことは十通りにだって書くことができると言われることがある(たとえば安岡章太郎)。十通りのどのひとつもそれなりの真実をはらんでいるはずで同工異曲だなんていう叱責はあたらない。でもその十通りなるものもそのときの気分が大いに反映されているのではないかと言ってしまったら身も蓋もない。さて強引にこじつけてしまうなら、ひとつのことというのは本質のことで十通りというのは表象なのではないかな。つべこべいわずにそのヴァリエーションを愉しめばいいのだ(上から目線になってるかな?)。

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