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獅子心王リチャード1世コミュの--獅子心王を取り巻く人々--

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このトピでは獅子心王にゆかりある人々を紹介します♪

※ゆっくり調べて追加してきますので、気長にお待ちくださいわーい(嬉しい顔)

※画像は父ヘンリー2世とその子供たち(産まれた順に書いてよ〜…)

《現在紹介人物》
ヘンリー2世(父)、アリエノール・ダキテーヌ(母)、若ヘンリー(兄)、ジョン欠地王(弟)、ポワティエ伯ウィリアム9世(兄)、ブルターニュ公ジェフリー(弟)、マティルダ(姉)、エレノア(妹)、ジョーン(妹)

《次回紹介予定》
アデライド(婚約者)、べレンガリア(妻)、フィリップ・ド・コニャック(子)、ウィリアム・マーシャル(忠臣)

コメント(17)

--リチャードの父--

ヘンリー2世 / Henry II
1133年3月5日〜1189年7月6日
在位は1154年12月19日〜1189年7月6日
○別号:アイルランド卿、ノルマンディー公、メーヌ伯、アンジュー伯
○父親:アンジュー伯ジョフロワ4世
○母親:マティルダ(モード)

プランタジネット朝/アンジュー朝の初代イングランド王(在位:1154年 - 1189年)
アンジュー帝国を築いた創始者。

1133年3月5日、ノルマンディー公/アンジュー伯ジョフロワ(美男公)の長男として誕生。
母はマティルダ(イングランド王ヘンリー一世の娘。元神聖ローマ帝国皇后)
生まれながらにしてヘンリーはイングランド王位につく資格を持っていた。

美しく中肉中背、筋肉質、髪は赤みがかかった金髪で、眼窩はくぼんでおらず、灰色の目は怒ると充血する。
というのも一族と同様彼もまたよくない「黒胆汁(不機嫌のもと)の発作」持ちであった。
運動神経は劣っていたが、文学に造詣深い。
ラテン語を読み、数多くの外国語を話す。
ピエール・ド・サントという大学者のもと作詩法を学ぶ。
9才でブリストルに渡り、学僧マチュー(母マティルダの尚書)に学ぶ。


1151年9月7日、父ジョフロワが熱病で死去。その後を継ぐ。

1152年5月18日、ヘンリーはフランス王ルイ七世と離婚したアリエノール(アキテーヌ女公)と電撃的に結婚し、世間を驚かせる。
これによりヘンリーはフランスの国土の半数近くを手に入れた。
自らの野望を鮮明にした瞬間でもあった。

同年7月、フランス王ルイ七世は、ヘンリーとアリエノールに対し出頭を命じたが、従わないので、ヘンリーの弟ジェフリーを抱き込みノルマンディーに侵攻。
10代の頃より戦場を駆け巡っていたヘンリーは、これを難なく撃退。

1153年1月には、イングランドへ渡航。時のイングランド王スティーブンと王位を巡り交戦。
11月6日、ウォーリングフォードにてイングランド王スティーブンと講和する。
ヘンリーはスティーブンに、正式に後継者と認めさせた。

そして、1154年10月25日、イングランド王スティーブンの死去により戴冠。
この時21歳。
巧みに領土を拡大し、その堂々たる版図は後世に"アンジュー帝国"と形容された。

3月に入るとすぐ、ということは王位に上がって3ヶ月以内に彼はイングランドの地方代官がどのような裁判を行っているか知ろうと自ら調査に赴いた。
いつもの旅の姿で…
たちまち人々は彼に「旅合羽」というあだ名をつけた。
王の短い外套は馬に乗るのに最も適していた。
鷹狩りのとき以外はめったに手袋はせず、彼はたえず旅をしていた。

「彼は馬上にあるときと、食事をとる間以外は決して座らなかった。普通の騎行の四、五倍長い距離を一日で行くこともあった」
〜側近ピエール・ド・ブロウが見たヘンリー2世〜

動かないのは寝ている時だけで、しかもほとんど眠らなかった。

ヘンリーは手薄な守りの城の前に突然現れたり、彼がまだ遠くにいると敵に思わせておいて敵の行く手をさえぎったり、夜を日についで移動したりして、相手の士気をくじくことができた。

平和な時にでも彼はこのやり方で成功を収め続けていた。
前もって知らせることなく王領のある町に現れ、そのときまで上がりの悪かった税の計算書を提出させたり、異例の時刻に地方代官を召し出し、自ら厳しい調査に専念する。

これとは逆に民衆に対しては彼らの苦情を辛抱強く聞いてやり、自らの人気を高めることに怠りなかった。

ときにはヘンリーは民衆の間で馬をとめ、彼らが近づいてくるにまかせていた。
彼は自分を愛想のよい、人あたりのよい人物だと見せる術を知っていた。


その精力的で決断力に富んだ行動で、当時の西洋で最も強力な王となり、巨大な王国に君臨。

しかし、晩年は専制君主的になり、横暴で尊厳を無視した態度が目につくようになった。
妻アリエノールや優秀な息子たちの反乱に脅かされ、ついにはささいな狩猟上の違反に対しても恐るべき懲罰を科すなど、迷走の末に命果てた。
--リチャードの母--

アリエノール・ダキテーヌ / エレノア・オブ・アクイテイン / Alienor d'Aquitaine / Eleanor of Aquitaine
1124年〜1204年4月1日
○父親:アキテーヌ公ギヨーム10世
○母親:アノール

アンジュー帝国の成立はアリエノールの手腕と行動力によるものとも言える。

"最初のトルバドゥール"として名高い自由奔放な祖父、アキテーヌ公ギヨーム九世から受け継いだ美貌、詩を愛する心と、闊達さに、不敬なまでの気まぐれさ、溢れんばかりの才気を持っていた。

フランスとイングランドの王妃になり、肥沃で広大なアキテーヌを所領にする。
自由奔放な恋愛、時には威厳ある3人のイングランド王の母にして、芸術の庇護者にして、宮廷文化の推奨者。

80歳近くまで、アンジュー帝国のために活動し、まさに中世を象徴する【比類なき女性】


フランス王ルイ7世との離婚から2ヶ月後に、アキテーヌ女公アリエノールは11歳年下のアンジュー伯/ノルマンディー公ヘンリーと再婚。

夫はイングランド王を継承してヘンリー2世となる。
自身はイングランド王妃に戴冠。
これにより、フランス国土の大半がイングランド領となり後世に”アンジュー帝国”と呼ばれる巨大な版図が形成された。

夫ヘンリー2世とはアンジュー帝国の統治を分担している。
例えばヘンリーがノルマンディーに赴かなければならぬときには王妃はイングランドにとどまり、またはその逆でヘンリーがイングランド領土を警備している間に彼女がアンジューやポワチエ、またはボルドーに所在するといった具合である。

その後14年間に、リチャードを含む息子5人と娘3人を産み、夫と共にアンジュー帝国の拡大に務めるが、やがてヘンリー2世に愛人ロザモンドができると、1168年には自らアキテーヌへと戻り、別居。

ポワティエのアリエノールの宮殿では吟遊詩人らが集い、息子とその妃や婚約者、幼い娘達、さらに前夫ルイ7世との間の娘のマリーも訪れるようになり、華やかな宮廷文化が開花させた。

1173年、ヘンリー2世の名目上の共同統治者となっていた次男の若ヘンリー王がルイ7世の庇護のもと、父の独裁に対して反乱をおこすと、アリエノールは自分の宮廷にいた下の2人の息子、リチャードとジェフリーをただちに兄のもとに向かわせ、さらには自分もこれに加わろうとした。

だがヘンリー2世の傭兵隊に捕えられ、15年にわたってイングランド・ソールズベリーに監禁される。

1183年に息子でイングランド王・若ヘンリーが死去すると、今度はリチャードを支援。
1189年のヘンリー2世の死去、及びリチャード1世の即位と同時に捕囚の身から解放され、息子が第3回十字軍を率いて遠征すると、摂政としてアンジュー帝国を統治。

その後も息子リチャード、ジョンを支え続け、80歳超え!という当時としては稀な長寿を全うし、1204年隠棲先のフォントヴロー修道院で死去。
--リチャードの兄--

若ヘンリー王 / ヘンリー若王 / Henry the Young King
1155年2月28日〜1183年6月11日
在位は1170年〜1183年6月11日
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ
○妃:マルグリット


輝ける宮廷風騎士として同時代の人々を魅了。
プリンスです、王子様ですね♪

背は高く髪はブロンドで、若き神のごとく美しく、表現力豊かで感じのよい当意即妙の才があった。
その上善良で愛想よく、いつも他人を許せる比類なき寛容性の持ち主だった。
派手な浪費癖も、彼のイタズラ好きで闊達な性格の前では可愛く見えた。

1170年6月にヘンリー2世は、自らすすんで長男若ヘンリーをロンドンで戴冠させようと決心した。

宴席では若王は主賓席に座っており、父王は若王に給仕をすると言ってきかなかった。
それは彼が若王に与えた地位の威厳をはっきり示すためであった。
しかし父王は一方では冗談めかして次のように言うことも忘れなかった。

「食卓で王が給仕をするのは滅多にあることではないぞ」

若ヘンリーはこう口答えした。
「けれども伯爵の息子(ヘンリー2世)が王の息子(若ヘンリー)に給仕をするのは別に常ならぬことではありません」
これを聞いた側近の諸侯たちは言葉もなかったという。


プランタジネット家に対して意地の悪い見方をするジロー・ド・バリいわく
「若王はこのように寛容な御方なので、そのお心を受けるに相応しい人々には誰に対しても拒まれることはなかった。しかるべき扱いを受けるに足る人々には悲しませたり不満の思いを残したままで側を離れさせることは決してなかった。ティトゥス(ローマ皇帝)のように多くの人々に対して物心ともに施しを重ね、恩恵を与えなければ一日を無駄に過ごしたと考えてしまうのだった」
と若王を語った。

ある日ノルマンディーのビュルで若ヘンリーはギヨームという名前の人々を全員食事に招待しようとしたことがあった。
ギヨームと言う名は、当時ジャンの次に多い名前だったが、その夜117名のギヨームが若王と食事を共にした。
なんともお茶目な!!

まさに王の中の王としての未来が描ける人物だったが、父ヘンリー2世は戴冠させたにも関わらず実権をまったく与えなかった。
それに反発し、フランス王の後ろ盾を得て、弟たち共に反旗を翻す。

兄に臣従の礼を拒んだリチャードと兄弟喧嘩で戦(汗)
その最中、重い病に罹り、28歳という若さで惜しまれながら果てた。
--リチャードの末の弟--

ジョン / John
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4761961

1167年12月24日〜1216年10月18日
在位は1199年4月6日〜1216年10月18日。
○異名:欠地王 / John the Lackland
○別号:アイルランド卿、モルタン伯、グロスター伯
○王朝:アンジュー朝 / プランタジネット朝
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ


ヘンリー2世の末っ子。
通称-土地なしジョン...

平均より背が低く、髪は褐色で神経質、17歳にしてすでにアンジュー家特有の情緒不安定ぶりを示し、それが神経症となって表れる。
それが行動となって表れ始めると、同時代の人々は彼を「悪魔にとりつかれた」人物と評するようになる(どんな状態??汗)

ジョンは常に嫉妬深かった。
その狭量な態度、腹黒く気をもませる性格等すべて兄とは対照的であったそう。

だが、父ヘンリー2世に最も愛されていた。
兄たちがフランス王側についていく中で、一人父王に従っていたが、最後の最後になって裏切り、父王はショックを受け亡くなる(汗)

兄リチャードが十字軍参加をすると、兄貴を死んだことにし、フランス王の支援を受け王位簒奪を目論むが、帰国したリチャードに蹴散らされる。
父だけでなく、兄までも裏切るか(汗)

リチャードの死で念願のイングランド王に戴冠したが、アンジュー帝国を一気に衰退に追いやった。
(まぁリチャードにも原因はあるけど・・・)

王国が悪化の一途をたどろうとするとき、絶望の状況に追いやられたルーアンの町から救援要請の使者が送られてきても、チェスの勝負を中断させまいとして伝令に耳を貸さなかった。

捕虜になった哀れな貴族たちを荷馬車につながせて、彼ら自身の領地から、彼らを閉じ込めておく天守閣まで引き連れ、屈辱を与えずにはおかなかった(ひぃいいいいいいい)

さらに一時はリチャードの後継者に名があがった若きブルターニュ公のアーサーを捕らえたときは、まず彼を家臣の一人ユベール・ド・ブールに預け、目をくりぬき去勢する命を下した(絶句)
ユベール・ド・ブールは、かくも罪作りな役目を退けた(よく断れたね!!)

ならば!とジョンは供を一人連れて、アーサーが閉じ込められている独房へ忍び入った。
彼を牢から降ろし、船に乗せ、喉を突き、死体はセーヌ川に捨てた。

活力を示したある期間が過ぎるとジョンはいわゆる抵抗し難い無気力状態に落ち込み、躁鬱病患者?とも思われている。
てか、庶子の数がすごいね。お盛んだ。


歴代イングランド国王中最も評価が低く、残虐な一面も覗かせ、悪名高いが、個人的には再考の余地はある人物だと思う…んだけどね。
こういうブラックな人物が興味が出ます(笑)

戴冠式の日に聖体拝領を受けなかった唯一のイングランド王だそう。
ロビン・フッド物語では当然悪役。

だが写真に注目!
英国BBCで2006年から放送されてる人気ドラマ【ロビンフッド】で、Toby Stephens演じるジョン欠地王!(カッコいい!)

あ、シェイクスピアの作品『ジョン王』、スコット『アイヴァンホー』にも取り上げられてましたね。
> 大豪院邪鬼さん

なんというタイミング!
ちょうどブルターニュ公ジェフリー2世について調べてました(笑)
手元の資料ではなかなか記述が少なく、人物像が掴みにくい…
馬上槍試合をするからには勇猛な方であり、詩も作ってるんで、獅子心王に似たタイプかなぁ。
若ヘンリーと共同して獅子心王のアキテーヌ領を荒らしてる(汗)

ともあれ、しばしお待ちを。

まずは獅子心王の兄弟、家族を紹介後に、ウィリアム・マーシャル、ヒューバート・ウォルター、ウィリアム・ロングチャンプ、ジェフリー・フィッツピーターとか臣下や臣従貴族、同盟諸侯、ライバルなどを取り上げていきたいと思います。
時間はかかりますが、一人一人丁寧にやりたいのでよろしくお願いします。
--幻の兄--

ポワティエ伯ウィリアム9世
William IX, Count of Poitiers
1153年8月17日〜1156年4月

○別号:ポワティエ伯
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ

ノルマンディー公/アンジュー伯ヘンリーとアキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌに、長男ウィリアムがフランス・ノルマンディーで誕生したのは1153年8月17日。
この時ヘンリーは兵を率いてイングランドにいた。
母マティルダ(モード)の宿願でもあるイングランド王位のために。

ヘンリーはイングランド王スティーブン・ブロワとテムズ川を挟んで対峙中であった。
男子誕生!という大陸からの報に、ヘンリーは驚喜したに違いない。
しかも息子の名前はウィリアム…
そうノルマン・コンクエストを成し遂げた征服王と同じ名。
幸先の良い知らせの後、11月6日にはスティーブン王との話し合いにより、未来のイングランド王座が確定した。
スティーブン王は後継者としてヘンリーを認めた。
それは自身の病気だけでなく、王太子ブローニュ伯ユースタス4世が、なんとヘンリーに長男ウィリアムが生まれたその日に急死したからでもある。
時代の転換期を思わせるこの出来事の後、ヘンリーはスティーブン王の死を待っていれば王位につけた。

1154年10月25日、スティーブン王は死去し、ヘンリー(2世)はイングランド王、アリエノールは王妃にウェストミンスターで戴冠。

王妃であり母アリエノールは、長男ウィリアムをお気に入りであるポワティエ伯に任じ、王太子としての輝かしい道を用意した。

1156年4月、未来のイングランド王になるはずのウィリアムはわずか2歳でイングランド・バークシャー州ウォーリングフォード城で世を去った。
亡骸はレディング修道院(ヘンリー1世が眠っている)へ葬られた。

これにより王太子の地位はヘンリーとアリエノールの次男・若ヘンリー(Henry the Young King)に移る。

※画像はヘンリー2世と子供たち。ウィリアムは一番右端…見づらいね(汗)
> 大豪院邪鬼様

蒼き狼と白き牝鹿 ですね(笑)
自分も【蒼き狼と白き牝鹿 元朝秘史】と【チンギスハーン蒼き狼と白き牝鹿IV】はやってましたー。

ただ、このゲーム…
アンジュー朝(プランタジネット朝)についてはツッコミ満載。

まず【蒼き狼と白き牝鹿 元朝秘史】には1185年スタートのシナリオで、リチャードが国王でジェフリーもいますが、1185年はリチャードじゃなく父のヘンリー2世が国王ですからあせあせ(飛び散る汗)
ヘンリー2世出して欲しかったなぁ…
めちゃくちゃ能力ありそうなのに(苦笑)

ジェフリー、ロンシャン、ウォルターの能力はまぁ許せますが、ウィリアム・マーシャルの戦闘Cは…
獅子心王の剣と槍の師匠で、獅子心王を落馬させたアンジュー帝国1の騎士が戦闘Cって…たらーっ(汗)

で、続編の【チンギスハーン蒼き狼と白き牝鹿IV】ですが…
まずマーシャルが出てないたらーっ(汗)
獅子心王の戦闘が98なら、マーシャルは120くらいにしなきゃいけないけど(笑)
ジェフリーは1186年に死んでるので、1189年のシナリオでアンジュー朝に出てなくて正解です電球
ロビンフッド出すなら、マーシャル出せexclamation ×2と言いたくなります。

リチャードの臣下には魅力ある人物が多いので、ここで紹介できるのを楽しみにしてますわーい(嬉しい顔)
--リチャードの弟--

ブルターニュ公ジェフリー2世
英語:Geoffrey II, Duke of Brittany
仏語:Geoffroy II
ブルトン語:Jafrez II

1158年9月23日〜1186年8月19日

○別号:リッチモンド伯
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ
○妃:コンスタンス・ド・ブルターニュ
○子供:エレノア、マティルダ、アーサー

体格は兄若ヘンリー、リチャードには及ばないが、少年期より作詩の才能を見せ、生き生きとした利発な若者だったという。
母に似て宮廷詩に深い愛情を示し、フランス語で書かれた最も古い勝負に関する詩が、叙情詩人ガース・ブリュレと交わされたことが知られている(ジョンだけが異色なんだなぁ…)。

1166年、アンジュー帝国拡大を目指す父ヘンリー2世は、時のブルターニュ公/リッチモンド伯コナン4世を強制的に退位させ、その娘である5歳のコンスタンスをブルターニュ女公とした。
幼きブルターニュ女公の後見はもちろんヘンリー2世。
続いてナントで行われた壮麗なクリスマスの宮廷では、ヘンリー2世とアリエノールが、4男ジェフリーとコンスタンスの婚約を発表し、ブルターニュ支配へ大きな楔を打ち込む。
これに反発し、1167、1168、1173年とブルトン貴族が反乱。
ヘンリー2世は出兵して忠臣を送り込み、支配力を強めた。

1169年1月6日、10歳のジェフリーは父ヘンリー2世に連れられモンミライユ城に入ると、フランス王ルイ7世へブルターニュ公領に対する臣従の誓いを行う。

1173年3月、3年前にイングランド王に戴冠した長兄・若ヘンリーは、リモージュでの諸侯会議で、王の権威を求め父へ激しく反発。

3月8日、若ヘンリーは父のもとを飛び出し、フランス王ルイ7世のいるパリへ亡命。
若ヘンリーを支持する母アリエノールは、ジェフリーとリチャードにもこれに加わるよう仕向け、2人もパリへ入った。
アンジュー帝国は父と子が争い、分裂し内戦に発展。
ヘンリー2世はすぐにブラバント(ベルギー中部)の傭兵を2万人雇い、電光石火で反逆者を鎮圧してゆく。母アリエノールも捕まった。

1174年7月8日、父ヘンリー2世にコンスタンスを人質としてイングランドに連れて行かれる。
ジェフリーをはじめ、息子たちの戦意は挫かれる。

9月の終わり、抵抗は無意味と悟ったジェフリーと若ヘンリーは、父に許しを請う。ジェフリーこの時16歳。

1175年2月、ル・マンで兄リチャードと共に父に臣従の誓いを行う。

ジェフリーは、父から"まだ若い"という理由で、補佐役(監視役?)としてローランド・オブ・ディナンをつけられた。

1176年のクリスマスは、父ヘンリー2世と末弟ジョンとノッティンガムで過ごす。

翌年のクリスマスは父ヘンリー2世とアンジェで過ごす。
この年は若ヘンリーとリチャードの兄2人がライバル心を燃やし、仲が険悪になっていた。

1179年11月1日、ジェフリーは2人の兄と共に、ランスで行われたフィリップ2世(14歳)のフランス王戴冠式に出席。

1181年7月、22歳のジェフリーは婚約者コンスタンスと結婚し、正式にブルターニュ公/リッチモンド伯となり、ブルターニュとイングランドに所領を持った。

1182年のクリスマスは、父ヘンリー2世とカンで過ごす。

1183年に入ると、若ヘンリーは再び父に王としての権威を求めた。
それに渋々応えたヘンリー2世は、アキテーヌ公リチャードとブルターニュ公ジェフリーに、兄若ヘンリー王へ臣従の誓いをさせようと試みるが、2人はきっぱり拒否。
しかし、ジェフリーは最終的には納得して、若ヘンリーへ臣従の誓いを行う。
頑固なリチャードは最後まで拒んだ。

この生意気な態度に若ヘンリー王は、ジェフリーと共同で、リチャードがいるアキテーヌを荒らしにかかった。
アキテーヌ公領に所領を持つリモージュ伯がこれに呼応し、内と外に敵を持ったリチャードは窮地に陥る。

この熾烈な兄弟喧嘩を受け、父ヘンリー2世はリチャードへ味方し、出兵してリモージュを包囲する。
まさかの親父介入に、若ヘンリーはフランス王フィリップ2世を味方につけ、救援を頼み、傭兵を送ってもらう。

再びアンジュー帝国は内戦に突入した。
若ヘンリー側は雇った傭兵の給与を払うために、リモージュの聖堂を略奪し、ご丁寧に領収書を置いていくという、神をも恐れぬ暴挙に出た(汗)

天罰を食らったのか、5月末に突如若ヘンリーが病に倒れる。

6月11日、マルテル城で若ヘンリー王が28歳の若さで死去し、戦いは終わりを告げた。


〜ジェフリー続き〜

若ヘンリーの死により、イングランドの王位は次兄リチャードのものとなる。
攻め込まれた挙句に、まさかの王位継承という美味しい話が飛び込んで、リチャードはさぞビックリしたであろう。

父ヘンリー2世は、未だ領地のない"土地なし"ジョンへ、アキテーヌ公領を譲るようリチャードへ命じた。
リチャードは"真のポワティエ人"と呼ばれるほど、母の影響を受けアキテーヌを愛していた。
熟考する猶予をもらってアキテーヌへ帰ったが、内心は怒り狂っていた。
王になってもアキテーヌは手放さない!
リチャードはきっぱりと父の提案を拒否する。

このリチャードの反応を見たジェフリーは、ここぞとばかりに16歳の弟ジョンを
連れて、アキテーヌへ攻め込んだ。

父に逆らう兄リチャードをやっつけてやろう!と、亡き若ヘンリーの傭兵、そして後にリチャードへ仕える残忍なメルカディエに応援を頼んだ。
こうして一度ならず二度までもリチャードに刃を向けたジェフリー。
再び兄弟喧嘩の内戦に突入したアンジュー帝国。。。
だが、この時のジェフリーはきっとやる気満々だったに違いない。
首尾よくリチャードを倒せば、イングランド王位はジェフリーのもの。

だが血みどろの兄弟喧嘩は、父ヘンリー2世が待った!をかけた。
1184年11月30日、幽閉されていた母アリエノールも含め、家族全員をロンドン・
ウェストミンスター宮殿に呼びつけた。
家族会合が開かれ、リチャード、ジェフリー、ジョンの3兄弟は父と母の面前で和
解。
クリスマスにはウィンザーで家族全員で過ごした。
この年、ジェフリーとコンスタンスに長女エレノアが生まれる。

1185年、次女マティルダが誕生。

1186年夏、ジェフリーはフランス王フィリップ2世にパリへ招待された。
2人は食事や狩り、宴を行い、数週間楽しく過ごす。
ジェフリーは馬上槍試合に参加したが、怪我を負ってしまい致命傷に至る。

8月19日、ジェフリーは27歳の若さで急死してしまう。
父と兄に刃を向け、和解したブルターニュ公ジェフリーは、これからが新しい始まりであったのにあっけない最期であった。

アンジュー帝国から、領土を取り返そうと目論むフランス王には、ジェフリーを罠にハメた!?との疑惑が当然もたれた。
だが、ノートルダム寺院で行われたジェフリーの葬儀の時、取り乱して墓穴に飛び込もうとするフィリップ2世を、臣下たちは止めるのに苦労した。
ジェフリーを心から友と思っていたのか、それとも抜け目ない演技だったのか…

フィリップ2世は、未亡人となったコンスタンスを丁重に迎えた。
この時、コンスタンスのお腹にはジェフリーの忘れ形見アーサーがいた。
フィリップ2世は君主権を口実に、イングランド王のもとではなく、アーサーをフランス王の宮廷で大事に育てた。
コンスタンスはプランタジネット家を恨み、ブルターニュはフランス王に接近した。
フランス王には好都合だった。

イングランド王になったリチャードは、アーサーを王位継承者に指名した。
大法官ヒューバート・ウォルターもアーサーを推した。
だが、ブルターニュはリチャードに反乱を起こす。
アリエノールやペンブルック伯ウィリアム・マーシャルは、フランス王寄りのコンスタンスやブルトン貴族を危険視する。
それによりリチャードの死後、王弟ジョンを国王に推す声が高まり、1199年5月に戴冠した。

1201年9月、失意のコンスタンスは病で亡くなる。
ジェフリーの子エレノアとアーサーはやがてジョン王により、非業の最期を遂げることになる。
ジェフリー一家はまことに幸が薄い…
--リチャードの姉--

マティルダ・オブ・イングランド(モード)
英語:Matilda of England(Maud)
独語:Mathide von England

1156年〜1189年6月28日

○称号:ザクセン公妃
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ
○夫:ハインリヒ獅子公(ザクセン公/バイエルン公)
○子供:リヒェンツァ、ハインリヒ5世、ローター、オットー4世、ヴィルヘルム

イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの長女。

1165年春、ドイツへの野心を表したヘンリー2世は、ルーアンでケルン大司教ダッセルと神聖ローマ帝国諸侯と長女マティルダの婚約を画策。
皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(1世・赤髭王)の息子との婚約話しは、紆余曲折を経て流れてしまう。
結果的にはマティルダを、ザクセン公ハインリヒ獅子公と婚約させることが決まる。

1167年、母アリエノールと共に3隻の船にたくさんの贈り物、衣類を積めて、マティルダはイングランド・ドーヴァーを出航。
アリエノールはノルマンディーまで付き添ってくれた。

1168年、マティルダは12歳でハインリヒ獅子公(39歳)と結婚。
夫は神聖ローマ皇帝の最も力ある臣下であり、ドイツ諸侯の中でも名君であった。

マティルダは夫の留守の時は、しっかりその所領を守って統治した賢夫人。

1171年、マティルダ15歳の時、長女マティルダが誕生。
後にペルシャ伯ジョフロワ3世の妃になる。

1173年4月、長男ハインリヒ5世(ライン宮中伯)が誕生。

1174年には次男ローターが誕生。

1175年、3男オットー(4世)誕生。後の神聖ローマ皇帝である。

1180年、夫獅子公は不服従の罪で皇帝フリードリヒ・バルバロッサから征伐を受け、翌年降伏。
3年の国外追放を言い渡され、1182年獅子公とマティルダは300人のドイツ貴族を連れて、義父ヘンリー2世の庇護を求めノルマンディーに来た。
獅子公一行はアルジャンタンに住んだ。

1182年の暮れ、弟リチャードが騎士であり詩人ベルトラン・ド・ボルン(Bertran
de Born)を連れて、マティルダに会いに来た。
リチャードは獅子公とその子7歳のオットーにも面会。
(リチャードとオットーとの出会いは、後に大きな意味を持つ)

ベルトランはマティルダにトロイのヘレナに似せて、"ヘレナに捧ぐ"という詩を2つ献上したが、これはマティルダには受け入れられなかったようだ。
(獅子公があまりに情熱的な詩に不快感を示したとも)
だが獅子公は、吟遊詩人に興味を持ち、【トリスタンとイゾルデ】という作品を持ち帰り、訳して宮廷詩や文学をドイツで広めるのに一役買った。

1183年、兄である若ヘンリー王が亡くなると、マティルダと獅子公はイングランドへ渡り、ソールズベリーで父ヘンリー2世に幽閉されていた母アリエノールを訪ねる。

1184年4月、5人目の子ヴィルヘルム (リューネブルク公)はイングランド・ウィンチェスターで生まれ、この報を受けた母アリエノールはマティルダを訪ねた。

1185年、亡命から3年が経った獅子公は、皇帝の許可を得ずにドイツへ帰国。
だが3年後に再び追放処分となり、マティルダは1189年6月ブラウンシュバイクで没した。
まだ32歳だった。
墓所はBrunswick Cathedral

マティルダの死から8年後。
1197年神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が急死すると、後継者に弟リチャード獅子心王の名が挙がる。
リチャードはドイツでの幽閉中、諸侯の憧れの的だった。
だが、リチャードは皇帝戴冠の栄誉を断り、マティルダの息子オットーを推薦。
神聖ローマ皇帝オットー4世となり、アンジュー帝国の強力な同盟国となった。

※マティルダとハインリヒ獅子公に興味のある方に!
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ラリー)
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写真1:マティルダ
写真2:マティルダとハインリヒ獅子公
写真3:ハインリヒ獅子公
--リチャードの妹--

エレノア・オブ・イングランド

英語:Eleanor of England, Queen of Castile
スペイン語:Leonor Plantagenet

1162年10月13日〜1214年10月31日

○称号:カスティーリャ王妃
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ
○夫:カスティーリャ王アルフォンソ8世(高貴王)
○子供:11人(下記に紹介)

イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの次女で、ノルマンディードンフロン城で生まれた。
洗礼式は著名な歴史家ロベール・ド・トリニーが代父を務めた。
彼はエレノアの生涯を記録に残す。

ヘンリー2世は、スペインにも触手を伸ばし、エレノアは1177年9月17日14歳でア
ルフォンソ高貴王と結婚。
カスティーリャ王妃に戴冠。
エレノアは母と同じ名を持っただけでなく、気質も母そっくりだった。
夫の領土統治にも影響力を持ち、その政治手腕は高かった。

エレノアはカスティーリャの宮廷に、ポワティエの芸術的雰囲気を再現。
吟遊詩人を迎え入れ、中でもレイモン・ヴィダル・ド・ベザリュは、華やかな文学集会の模様を詩にして詠んでいる。
サロンを取り仕切るのはもちろん美しいエレノアで、銀糸で縁取りした朱色の絹の服をまとい、大勢の騎士や旅芸人たちの集う宮廷に姿を現す。
王の前で一礼し、近くに座を取り、新曲を語る吟遊詩人に耳を傾けた。
美しいエレノアに、諸侯も騎士も令嬢たちも、皆エレノアを知りたがった。
この宮廷の客人である詩人でありドン・ファン的なギレム・ド・ベルグダンのようにエレノアに恋心を持っている者もいた。
後にトゥールーズ司教となるフルケ・ド・マルセイユも、この宮廷に出入りしていた著名人の一人。
ペイル・ヴィダルはそんなカスティーリャの宮廷の開放性と、王と王妃の寛容ぶりを褒め称えた。
夫との間に11人もの子供が生まれた。

1180年、長女ベレンゲラが誕生。後のカスティーリャ女王。

1183年、サンチョ、サンチャの夭折を経て、マファルダ誕生。しかし一年後に夭折。

1186年、ウラッカ・デ・カスティーリャが誕生。

1188年3月4日、ブランシュ・ド・カスティーユがパレンシアで誕生。

1189年、フェルナンド誕生。

1195年、夫アルフォンソ8世はイスラム・ムワヒッド朝との戦いに敗れ、さらにレオン王アルフォンソ9世の攻撃を受けるが、なんとか退ける。

1197年、夫を説得しレオン王アルフォンソ9世へ長女ベレンゲラを嫁がせる。
これによりレオン王国との和睦が成立。

1200年、コンスタンスの夭折を経て、エレノア誕生。
1月、母アリエノールがボルドーの大司教エリ・ド・マルモールと傭兵メルカディエらを連れて、カスティーリャにやってきた。
フランス王太子ルイ(8世・獅子王)と、エレノアの娘の一人との婚約が決まったことを、自ら伝えに来たのだった。
ルイの婚約者は、当初次女ウラッカに決まっていたのを、3女ブランシュにアリエノールは変更した。
ウラッカはポルトガル王妃になる。

カスティーリャの宮廷での居心地は良く、アリエノールは2ヶ月以上滞在することになる。

5月23日、アリエノールが連れ帰ったブランシュとフランス王太子ルイはポール・モールで結婚。

1204年、コンスタンスの夭折を経て、エンリケ誕生。後のカスティーリャ王である。
この年、長女ベレンゲラがローマ教皇の干渉を受け離婚し、カスティーリャに戻ってくる。

夫婦仲は子宝に恵まれたことでも証明されてるが、やがて夫アルフォンソ8世に、ユダヤ人宰相イエフダの娘ラケル(麗人と言われた美女)という愛人ができた。
しかもトレドの王宮で7年間も暮らし、国政を省みなくなってしまう。
エレノアは悲しみの中、国政を動かしたことでしょう。
しかし王不在中にユダヤ人蔑視の民衆に、愛人は親子共々殺された。
(一説にはユダヤ人重用を危ぶんだエレノアが、仕向けたとも言われている)

1208年、アルフォンソ8世はパレンシア大学(スペイン初の大学)を創設。

1211年、王太子フェルナンドが死去し、後継者は末子エンリケとなる。

1212年、アルフォンソ8世は、史上名高い"ナバス・デ・トロサの戦い"で、イスラム・ムワヒッド朝を破る。

1214年10月5日、夫アルフォンソ8世が死去。
愛する夫の死を受け入れられないエレノアは、悲嘆にくれ埋葬を拒み、王国が悲しみに包まれた。
末子エンリケ1世が後継者となったが、若いため長女ベレンゲラが摂政として後見となった。
エレノアはそれを見届けると、夫が亡くなった同じ月の最後に、後を追うように世を去った。
享年52歳。
夫アルフォンソ8世とカスティーリャ王国のために尽くした賢夫人であった。

写真1:エレノアとアルフォンソ8世
写真2:アルフォンソ8世
--リチャードの妹--

ジョーン・オブ・イングランド
英語:Joan of England
仏語:Jeanne d'Angleterre
伊語:Giovanna d'Inghilterra

1165年10月〜1199年9月4日

○称号:シチリア王妃、トゥールーズ伯爵夫人
○父親:ヘンリー2世
○母親:アリエノール・ダキテーヌ
○夫:シチリア王グリエルモ2世(善王)、トゥールーズ伯レーモン6世
○子供:ボエモンド、レーモン7世、マリー、リチャード

イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの3女で、アンジューで生まれ、ウィンチェスターやポワティエで育つ。
母アリエノールに一番容姿が似ていると言われる美女。
リチャードお気に入りの妹であり、第3回十字軍遠征では花を添えている。

1176年、シチリア王グリエルモ2世(善王)の使節が来て、ジョーンとの結婚を申し出た。
5月には話しがまとまり、ヘンリー2世は準備を整えた。

8月、シチリアへ赴く壮麗なジョーン一行を、兄若ヘンリー王がノルマンディー・
ルーアンからポワティエまで護衛。
ポワティエからは次兄リチャードが引き受け、サン・ジルまで護衛した。
アンジュー帝国の権威を見せつけたその一行は、海路で嵐に遭うなど、大変な思いをしなんとかシチリア島に上陸。

1177年2月13日、ジョーンはシチリア・パレルモで結婚し、王妃に戴冠。
夫グリエルモ2世は、"悪王"と呼ばれた父とは違い、"善王"と呼ばれた。
数ヵ国を話し、才能溢れた教養人であり、東ローマ帝国に攻め込み勢力を広げ、内政でも手腕を発揮した名君。
聖地でのサラディンの攻勢に、自身の兵を十字軍に送った。
そしてその美男ぶりが世にうたわれていた。

1181年、長男ボエモンドが生まれるが夭折。

1189年11月、夫グリエルモ2世が死去。
ジョーンはまだ24歳…
グリエルモ善王のもと、繁栄を謳歌したシチリアにお家騒動が始まる。
当初、後継者には夫の若い叔母コンスタンスと、その婿・神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が挙がっていた。
これは既にグリエルモの生前から決まっていたこと。
しかしシチリア国民は外国皇帝の支配を嫌い、庶子で後継から外れていた、グリ
エルモの従兄・レッチェ伯タンクレーディが急遽後継者に挙がる。
タンクレーディは、前大法官マテオ・ダッジェロら有力者の支持を得て、コンスタンスへの宣誓を破棄し王に戴冠。
これによりシチリア王国は、怒った神聖ローマ帝国の脅威にさらされることに。
この新王タンクレーディは、リチャードがジョーンの為に何らかの行動をすると予測し、人質としてパレルモの要塞に幽閉し、ジョーンの財産を差し押さえた。

1190年9月16日、フランス王フィリップ2世率いる十字軍がシチリア島メッシナに入ってくる。
しばらくしてリチャードも大艦隊を率いて、騒々しくメッシナに入って来た。
そして可愛い妹の監禁を知って激怒。
メッシナの城壁の外へ陣を取る。
タンクレーディはリチャードを恐れ、ジョーンを解放。

9月28日、リチャードはジョーンを迎え入れ、安全な聖ヨハネ騎士団の施設を宿に与えた。
翌日、リチャードに挨拶に来たフランス王フィリップ2世は、ジョーンを見て一目惚れ。
この反応を見たリチャードは、フランス王がちょっかい出せないよう、ジョーンをカラブリアのラ・パニャラ城へ送った。

リチャードはジョーンの寡婦財産を不当に押さえるタンクレーディに威嚇を続け、城を奪取し圧力をかけた。
タンクレーディは賠償を支払うことを約束し、寡婦財産2万オンス、亡き夫グリエルモの遺産から2万オンスを出し和解。

1191年3月30日、母アリエノールが、ナバラ王サンチョ6世の娘ベレンガリアを伴いメッシナに入る。

4月2日、アリエノールは王国を心配し帰国の途につき、ベレンガリアはジョーンが面倒をみることになった。

4月14日、シチリアにいる意味のなくなったジョーンは、兄リチャードと共に聖地へ向けメッシナを出航。

5月1日、クレタ島を出航してまもなく、嵐に巻き込まれる。
ジャンヌとベレンガリアを乗せた船は、キプロス島にまで流された。
キプロス太守イサキオス・コムネノスは入港を拒否し、難破船から金になりそうなものを奪ったあげく、生存者を人質に取るという行為に走る。

5月8日、リチャードはイサキオスと丁重に交渉したが決裂、キプロス島に攻め込み占領した。
ジョーンとベレンガリアも無事救助される。
5月12日、リチャードはベレンガリアと結婚。

6月5日、リチャードはキプロス島を出航し聖地を目指した。
もちろんジョーンも一緒。
〜ジョーン続き〜

1191年6月8日、アッカの港に入港し、パレスチナに降り立った。

7月12日、リチャードはアッカを陥落させ、その後エルサレムを目指し南進し、イスラム側との戦いに忙殺される。
ジョーンはベレンガリアとアッカで中東滞在の日々を過ごす。

1192年初頭、リチャードは親交を持ったアル・アーディル(スルタン・サラディンの弟)と、妹ジョーンを結婚させるという和平案をイスラム側に提案。
エルサレムで、アルとジョーンに、パレスチナ沿岸地方を統治して欲しいという
思いがあった。
キリスト・イスラムが融和する、平和的かつ斬新な兄のアイデアだが、ジョーンは激怒。
プランタジネット家特有の爆発的怒りを兄にぶつけた。
アルがキリスト教徒に改宗しない限り結婚しないと言い放ち、この話しは流れ、リチャードは再び戦場に戻った。

9月2日、長き聖地での戦いも講和が成立し、リチャードは帰国することになり、ジョーンの中東滞在も終わりを告げる。
兄とは違う帰路を取り、ローマ、ジェノヴァ、マルセイユ、サン・ジルを経由して帰国の途につく。

1193年、ジョーンはベレンガリアを連れてフランス・ポワティエに戻った。



1196年10月、兄リチャードは、フランス王包囲網を強化すべく、ジョーンを長年の宿敵トゥールーズ伯レーモン6世と再婚させる。
レーモン6世に取ってジョーンは4人目の妻で、リチャードがもたらす利益をあてにした結婚だった。
リチャードとレーモン6世は長く犬猿の仲だった。
特にアキテーヌ公時代の1188年には、レーモン6世がフランス王に泣きつき、戦いは泥沼化した。
この講和はレーモンがどんな男であろうと、フランス王との戦いに専念したいリチャードにとって、利があることだった。

1197年7月、ジョーンがレーモン7世を出産。

1199年、ジョーンは第3子を身籠っていた。
夫がラングドッグに行ってる間、ローラゲ地方で反乱が起き、身重な身で鎮圧に対応しなきゃいけなかった。
カセ城包囲中、家臣の裏切りにあい、なんとか逃げ出す。
夫が頼りにできないと悟ったジョーンは、兄リチャードに助けを求めに行く。
だが、その道中で兄の死を知り、母アリエノールを訪ねポワティエに来たジョーンは、疲労と悲しみで憔悴していた。
アリエノールは、フォントブローでジョーンを休養させる。
ジョーンは修道女になるつもりだと告げ、人々を驚かせた。
カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが説得に当たるが無駄だった。
出産予定日が近づくと、健康状態は悪化。

9月4日、出産後に母アリエノールが見守る中亡くなった。
ジョーンはまだ34歳だった。
そして父と兄が眠るフォントブロー修道院に埋葬された。
赤子は最愛の兄と同じ名がつけられたが、洗礼を受けて間もなく世を去った。


写真1:フランス王フィリップ2世に迎えられるジョーンとリチャード
写真2:善王グリエルモ2世(右)
おはようございます。初めまして。
エレノアオブイングランドに関する資料が少なくて。
彼女は政治家としてアリエノール以上の逸材だったと言われてます。

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