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獅子心王リチャード1世コミュの--獅子心王の生涯--

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☆名:リチャード1世(Richard I)
◆生没年:1157年9月8日〜1199年4月6日
◇在位:1189年7月6日〜1199年4月6日
◆異名:獅子心王(The Lionheart)
◇別号:ノルマンディー公、アキテーヌ公、ガスコーニュ公、メーヌ伯、ナント伯、アンジュー伯、ポワトゥー伯、アイルランド卿、キプロス卿
◆王朝:プランタジネット朝(アンジュー朝)
◇父親:ヘンリー2世(Henry II)
◆母親:アリエノール・ダキテーヌ(Eleanor of Aquitaine)
◇妃:ベレンガリア(Berengaria of Navarre)
◆子:フィリップ・ド・コニャック(庶子・Philip of Cognac)


--《1157年》--
9月8日、イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの3男として、イングランド・オックスフォードで誕生。
有名な哲学者であり神学者・アレキサンダー・ネッカムと同じ乳で育てられたと伝えられる。
(アレキサンダーの母がリチャードの乳母だったそうで、Hodiernaという女性)
馬術と槍術の師範は、騎士の中の騎士ウィリアム・マーシャル。

--《1169年》--
1月6日、父ヘンリーに連れられモンミライユ城で兄若ヘンリー、弟ジェフリーと共に、フランス王ルイ7世へ臣従の儀式を行う。
ルイ7世の娘アデライドとの婚約が決まる。

--《1170年》--
6月、兄若ヘンリーがイングランド王に戴冠。

--《1171年》--
12月、母アリエノールの開いたクリスマスの宮廷に出席。

--《1172年》--
1月、バイヨンヌにてフォルタニエ司教へ、代官任命の権限を与える。

6月、アキテーヌ公に就任。リモージュとポワティエで就任式を行う。


--《1173年》--
3月8日、兄若ヘンリーがフランス王ルイ7世のもとへ走ると、リチャードもこれに倣い、父と戦う。

--《1174年》--
9月23日、ポワティエで父ヘンリーに降伏。

10月、父にポワトゥー伯としての権威を認めてもらう。

--《1175年》--
6月、父に楯突いた諸侯の討伐に向かう。

--《1176年》--
4月、兄若ヘンリーと共に、シャトーヌフの攻囲に向かう。

8月、シチリア王グリエルモ2世と結婚すべく、シチリアに向かう妹ジョーンに途中まで同行。

12月、初めて自らクリスマスの宮廷をボルドーで開く。

--《1177年》--
2月2日、ダクス、バイヨンヌ、サンピエール、シーズと転戦して、ポワティエへ帰還。

4月21日、マルモールにて略奪を行った傭兵を討伐。

12月、父のクリスマスの宮廷に出席。

--《1178年》--
3月19日、父、兄若ヘンリーと共にベケルーアン修道院にて、奉献に参列。

--《1179年》--
11月1日、ランスでのフィリップ2世の戴冠式に出席。

--《1180年》--
5月18日、ジョフロワ・ド・ランコンを屈服させる。

冬、ポワトゥーの諸城を包囲。

--《1181年》--
8月15日、ヴィヴィアン伯を騎士に叙す。

--《1182年》--
エリー・タレイラン伯征伐のため、ペリゴール遠征。
兄若ヘンリーへの臣従を拒否し対立。

12月、父がカンで開いたクリスマスの宮廷に出席。

--《1183年》--
春、リムーザン地方へバスク人傭兵討伐に遠征。
次いで兄若ヘンリー、弟ブルターニュ公ジェフリーと交戦。
父はリチャードに味方。

6月11日、兄若ヘンリーが死去(享年28歳)

--《1184年》--
11月30日、弟ブルターニュ公ジェフリー、母アリエノールと共に、父にウェストミンスターの宮殿に招かれ、家族間の和解が成立。
リチャードは母にアキテーヌの宗主権を返上。

--《1186年》--
8月19日、フランス王フィリップ2世が主催した馬上槍試合での怪我が原因で、弟ブルターニュ公ジェフリーが死去。

--《1187年》--
3月25日、父と、フランス王フィリップ2世が停戦、和解。
リチャードは関わりないと思い、戦闘を続行。
フィリップ2世はこれを利用しベリー地方を侵略。

5月、シノン城を攻撃し、王家の宝物を持ち去る。

10月2日、聖地エルサレムがサラディンにより陥落の報を受け、すぐさま十字軍参加を決める。

--《1188年》--
1月21日、父とフランス王フィリップ2世が十字軍参加のため和解。

7月28日、マント近郊にてギヨーム・デ・バール(フランス王側近)と交戦。

11月18日、ボンムーランで、フランス王フィリップ2世に伴われ、父と会見。父が権利移譲を認めなかったため、フィリップへ臣従の誓いを行う。

12月、リチャードはパリで、フランス王フィリップ2世と過ごす。

--《1189年》--
春、フランス王フィリップ2世と連合し、父を攻撃、トゥール、ル・マンを陥落させる。

7月6日、父がシノン城で死去。
その遺体に対面すると、遺体の鼻から血を吹いたという。
リチャードは嘆き泣きながら、フォントヴロー大修道院まで父の遺体に寄り添った。
埋葬が終わると、父の臣下でアンジューの家老エティエンヌ・ド・マルセを投獄。エティエンヌが管理していた父の城と財宝を渡すよう要求。
父の側近であったモーリス・ド・クラオンとウィリアム・マーシャルは、自らの側近に登用。

7月20日、ルーアンにてノルマンディー公に就任。臣下たちに様々な恩恵を与えた。

7月22日、ノルマンディーの境にて、フランス王フィリップ2世と会見。
ジゾールの要塞の所有権を主張されたが、はぐらかし、婚約者アデライドとの結婚は約束した。
幽閉されている母アリエノールを解放すべく、ウィンチェスターにウィリアム・マーシャルを派遣。
既に解放されていたアリエノールは各地を騎行し、ヘンリー2世に捕まった囚人を解放し、リチャードの戴冠式の準備に取りかかる。

8月、ウィリアム・マーシャルがイザベル・ド・クレアと結婚し、ペンブルック伯になる。

8月13日、バルフルールから出航し、イングランド・ポーツマスに上陸。翌日、ウィンチェスターで母アリエノールと会う。

8月29日、弟ジョンがイザベル・オブ・グロスターと結婚。

9月3日、ウェストミンスターにてイングランド王に戴冠。
この日、ロンドン市民によるユダヤ人虐殺が起き、リチャードは翌日から犯人を探し、罰した。

12月5日、義弟ジェフリーのヨーク大司教選出を容認。

12月11日、イングランドを離れる。
妹ジョーンの夫シチリア王グリエルモ2世が死去したとの知らせが来る。

クリスマスの宮廷をノルマンディーのピューレで開催。

12月30日、ゲ・ド・サン・レミにてフランス王フィリップ2世と十字軍について会談。

--《1190年》--
2月、母アリエノール、婚約者アデライド、弟ジョン、義弟ジェフリーや司教たちの訪問を受ける。

5月18日、イングランドの十字軍船団がダートマスより出航。

6月24日、シノンで母アリエノールと別れ、第3回十字軍遠征に出発。

7月4日、ヴェズレイにて、フランス王フィリップ2世と十字軍の儀式を行い出発。
イングランド軍8000名、フランス軍2000名。

8月7日、マルセイユより乗船し、フランスを離れる。

8月13日、サボーナ到着。

8月23日、ピサ到着。

8月25日、ポルト・エルコーレ到着。

8月28日〜9月13日までナポリ滞在。

9月24日、メッシナにてフランス王フィリップ2世と会見。

9月28日、シチリア王タンクレーディに捕らわれていた妹ジョーンを保護。

10月、留守を預かる大法官ウィリアム・ロングチャンプは、ロンドンで会議を開き、自身の教皇特使の地位を認知させ、権力を強めた。

--《1191年》--
3月1日、シチリア王タンクレーディから、フランス王フィリップ2世の不義を伝えられ激怒。
フィリップ2世と話し合い、アデライドとの婚約解消他、今後の協力関係を文書で確認。

3月30日、母アリエノールがベレンガリア・オブ・ナヴァールを連れ、シチリアのメッシナに到着。
フランス王フィリップ2世は、メッシナを離れ、4月20日よりアッカの包囲に参戦。

4月2日、母アリエノールがメッシナを離れる。

4月17日、クレタ島到着。

5月8日、難破したイングランド船を不当に拿捕したキプロス島太守イサキオス・コムネノスを攻め、キプロス島を占領。

5月9日、キプロス諸侯と会見。

5月11日、聖地の貴族がリチャードに会うためキプロスへ来る

5月12日、キプロス島リマソルでベレンガリアと結婚。

6月1日、キプロス島太守イサキオス・コムネノスを捕縛。

6月7日、アッカ救援に来たサラセン人1500名が乗る船を拿捕。

6月8日、アッカへ到着し、包囲軍に加わる。

7月5日、イングランド軍がアッカの城壁を崩す。

7月17日、アッカ陥落。

7月20、29日、フランス王フィリップ2世と会見。

7月31日、フランス王フィリップ2世が帰国の途につく。

8月18日、義弟ジェフリーがヨーク大司教に聖別。

8月20日、サラディンが会談の約束を破ったことに激怒し、捕虜2700人を虐殺。

8月22日、ハイファに向け進軍。

9月7日、アルスーフでサラディンに大勝。

9月14日、義弟ヨーク大司教ジェフリーがイングランドに渡航して来ると、大法官ウィリアム・ロングチャンプがこれを幽閉。
しかし非難が高まり、後に釈放。

10月8日、弟ジョンはロンドンで会議を開き、大法官ウィリアム・ロングチャンプ罷免を宣言。
後任にウィリアム・マーシャルとルーアン大司教ゴティエ・フィッツ・ピエールを任命。
リチャードが海外で亡くなった場合、ジョンが後継者であると決められる。

11月15日、ラトルーン、その後ベイト・ヌバ占領。

12月27日、フランス王フィリップ2世がパリに帰還。

--《1192年》--
1月20日、フランス王フィリップ2世が突如ジゾールに現れ、城の明け渡しを要求したが失敗。

2月11日、母アリエノールがイングランド入国。
その後ロンドン、ウィンザー、オックスフォード、ウィンチェスターで会議を開き、諸侯にリチャードへの忠誠を誓わせる。

5月17日、アスカロン包囲。

6月20日、エジプトの隊商を攻撃。

7月4日、エルサレム奪回を断念。

8月5日、ヤッファでサラディンを破る。
サラディンいわく
よく存じておるぞ、王の手柄と果敢さは。
されど王の戦いぶりの何と無謀なことよ!

9月2日、ヤッファでサラディンと和睦。

9月29日、母アリエノールは聖地からリチャードが帰国するという報告を受ける。

10月9日、キプロスへ向かい帰国の途につく。

12月20日、ウィーン郊外でオーストリア大公レオポルドに捕縛され、幽閉される。

12月28日、母アリエノールは、リチャード捕縛の報告を受ける。

--《1193年》--
1月、弟ジョンがパリに出向き、フランス王フィリップ2世にノルマンディーの一部割譲を条件に、王位継承を認めてもらう。
パリから戻ったジョンは、ウィンザーとウォーリングフォードの城を奪う。
リチャードが死んだとし、王位を主張。

2月28日、サラディン死去。

3月、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世と面会。

4月12日、フランス王フィリップ2世がジゾールを占領。
弟ジョンは、ノルマンディーに入るとアランソンで会議を開き、諸侯に自らを王として認めさせようとしたが失敗。

4月19日、母アリエノールのもとにリチャードから手紙が来る。
そこには身代金と人質が集まれば、釈放される希望があることが綴ってあった。

5月23日、リチャードの身柄がオーストリア大公レオポルドから、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世に引き渡される。

5月30日、カンタベリー大司教にヒューバート・ウォルターが聖別。大法官も兼務。

6月1日、母アリエノールはセント・オールバンで会議を開き、リチャードの身代金が15万マルクであることを公表。
身代金徴収へ取りかかる。

6月29日、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世から身代金を払えば解放されるという条件に合意。

夏、フランス王フィリップ2世はイングランド領ノルマンディーに進軍し、リヨン・ラ・フォレ、ヌーフル、オマール、ウー、グールネイ、ムラン、ペルシュ、シャトーヌフ、ラ・ヴォードルイユ、ヴェクサン、ディエップ、エヴリューを占領。

12月、リチャードの身代金を確かめるため、神聖ローマ帝国の使節がロンドン着。

--《1194年》--
1月6日、身代金を持った母アリエノール一行が、ドイツのケルンに到着。

2月2日、ドイツのマインツで行われた大集会で、リチャードは神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世に臣従の誓いをし、年間5000ポンドの譲渡を約束。解放される。

2月4日、母とマインツを去る。

3月12日、リチャードと母アリエノールを乗せた船団が、イングランド・サンドウィッチ港に入港。
すぐにカンタベリーに向かい、ベケットの墓に詣でる。

3月23日、リチャードが熱狂した群衆に迎えられてロンドン入り。

3月28日、ジョン側のノッティンガムを降伏させる。
弟ジョンに対し、5月10日までに出頭しなければ、王国から追放すると宣言。

4月10日、復活祭の宮廷をノーサンプトンで開催。

4月17日、リチャードは、ウィンチェスターで2度目の戴冠式を行う。

5月12日、イングランド・ポーツマスを出航し、母アリエノール、ウィリアム・マーシャルらを連れ、ノルマンディー・バルフルールへ上陸。
一行はリジューに入る。
そこで出頭してきた弟ジョンを許す。

1194年6月、大法官兼カンタベリー大司教・ヒューバート・ウォルターが各地に検死官を配置。

6月13日、フランス側からロッシュ奪回。

7月5日、フレトヴァルでフランス王フィリップ2世と戦闘し快勝。奪われた城を次々奪回。

8月1日、フランス王フィリップ2世と講和。

--《1195年》--
7月、イスーダンで小競り合い。

11月8日、ヴェルヌイユにてフランス王フィリップ2世と新たな休戦締結。

--《1196年》--
8歳の甥アーサーをブルターニュ公に任じたその母コンスタンスを、夫に命じ幽閉。

1月、ルーヴィエにてフランス王フィリップ2世と新たな休戦締結。

ガイヤール城(Chateau Gaillard)建設開始。翌年完成。

--《1197年》--
4月15日、フランス側からサン・ヴァレリー奪取。

9月28日、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世がメッシナで死去。
後継者に推戴されたが、それを断り甥のオットーを推薦。

--《1198年》--
3頭の獅子の紋章を制定(写真3、以前のは写真1)

7月12日、甥オットー(4世)が神聖ローマ帝国皇帝に戴冠。

9月28日、ジゾール近郊で交戦、フランス王フィリップ2世を落馬させる。

--《1199年》--
1月13日、ヴェルノン近郊にて、フランス王フィリップ2世と5年の休戦協定締結。

3月25日、リチャードはリモージュ伯エマールが籠る、シャリュー城を包囲。

3月26日、城より放たれた矢を肩に受け、致命傷を負う。

4月6日、アリエノールが見守る中、リチャード獅子心王が死去(享年41歳)
墓所はフランス・フォントヴロー修道院(Fontevraud Abbey, France)

※時間のある時、加筆・修正していきます。

コメント(1)

とりあえず、簡易的な年譜を作ってみました。
これじゃ獅子心王の魅力は伝えきれないので、ちょくちょく加筆修正したいと思います♪

参考文献

レジーヌ・ペルヌー著【リチャード獅子心王】

レジーヌ・ペルヌー著【王妃アリエノール・ダキテーヌ】

アンリ・ルゴエレル著【プランタジネット家の人々】

佐藤賢一著【カペー朝】

もっと本欲しーexclamation ×2

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