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和歌と詩の世界:紫不美男コミュの七、『蛇足』といふもの 『わたしの作品に於ける私感(わたくしかん)』

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 この「わたしの作品に於ける私感」は、主(おも)に『愛ニ飢タル男』を中心として、他のわたしの作品に於けるわたしの態度とか考へ方を、周りに暈(ぼか)して書いて見たのである。
 あくまでも主體(しゆたい)は『愛ニ飢タル男』で、その事に就いては出來るだけ、わたしの考へた事を書いたつもりであるが、かなり長いものになつてしまつた。
 この長さは、實(じつ)に本分(短歌のみ)の『愛ニ飢タル男』の倍以上もの長さであるが、それもやむを得ない。
 尤も、さう思ふのはわたしだけかも知れない。
 最初は、こんなに長くなるとは思つても見なかつたし、する氣もなかつた。
 しかし、書いていくうちに、あれもこれも書かなければいけないと思ふ事が出て來て、かかる事態に陷(おちい)つたのである。


 『愛ニ飢タル男』に就いては、これだけ長いものを書いたのだから、もう書く事はないだらうと思ふのだが、何か忘れものをしたやうな氣がしてならない。
 もの足りないと思ふ事、甚だしい。
 さう言へば、この『愛ニ飢タル男』といふ題名は、漢文の眞似(まね)をして書いて見たのだが、正確にはかうはならない。
 中國の言葉は、その排列(はいれつ)が英語によく似てゐて、

 「S(主語)+V(動詞)」
 「S(主語)+V(動詞)+C(補語)」
 「S(主語)+V(動詞)+O(目的語)」

 といふやうな按排(あんばい)になつてゐる。
 だから『愛ニ飢タル男』の場合では、

 「男飢タリ愛ニ」

 となるのが本當(ほんたう)であらうが、しかし、この場合だと、わたしの苦心も意味を成さなくなるで、

 「あいうえお」

 といふ言葉を當嵌(あては)める爲に、仕方がなしに『愛ニ飢タル男』としたのである。


 のみならず、わたしは斯(か)くの如く、歴史的假名遣を好んで用ゐてゐるのだが、『愛ニ飢タル男』の場合に於いて、このやうな書き方が出來なかつたのは、 これで書くと、いろいろと不都合な事が生じるからである。
 例へば、

 『あ行』の「い・え・お」であるが、これは、
 『や行』は「い・え・お」と同じだから良いとしても、
 『わ行』の「ゐ・ゑ・を」はどうにも仕方がない。

 御負けに、

 「ゐ」や「ゑ」を使つた言葉は非常に少ない所か、
 「を」以外は、現在使用されてはゐないのである。

 これでもし歴史的假名遣で書く事になると、一層の困難になる。
 例へば、

   あいたさに
   いざ立ちめけや
   うらこいし
   繪を描くいまも
   おもいは君ぞ
 
 とあるが、

   いざ立ちめけや

 は良いとして、

   繪を描くいまも

 の「繪」は、

 『わ行』の「ゑ」になるのであり、嘗(かつ)ての、
 『あ行・や行・わ行』の歌の一部を、書き換へなければならない事になる。

 これらの困難を取り除く事は、とても出來さうにない。
 そこで、現代假名遣を利用して解決する外はない、といふ事になつたのである。


 それでも、ある人の感想で、

 「この『愛ニ飢タル男』は難しい言葉を使ひ過ぎてゐるし、詩的でない言葉も含まれてゐて、非常に一般の人には解り難(にく)いだらう」

 との意見を聞いた。
 さうして、

 「もう少し簡單な言葉が使へないのなら、一首の短歌に、いちいち作者の意とする解説なり、言葉自身の持つてゐる意味を、書いておいてはどうだつたらうか」

 と言はれた。
 わたしも難しいとは思つてゐたが、日本人が日本語を讀むのに解説もないものだらうと思つて、敢(あへ)てつけなかつた。


 この『愛ニ飢タル男』は、昔の事を書いたのではなく、現代が舞臺(ぶたい)となつてゐるのだが、にも拘はらず、古文を使用したのには譯がある。
 それは、萬葉の時代から、人の心は變(かは)りがない。
 たとへ、この世の中が變り、自動車が走つて、飛行機が飛ぶ世の中とならうとも、人情や人生の孤獨(こどく)とか寂寥感(せきれうかん)は、さうして、特に戀愛(れんあい)の感情は、萬葉の昔も現代も、ものこそ違へ、形こそ違へ、時代こそ違へ、變りはないだらう。
 さう思つて、現代の戀愛を書くのにも、古文を態々(わざわざ)使つたのである。
 これに解説をつける必要は何處にもない。
 この作品は、入門書なり虎の巻ではないのである。
 あくまで純文學を志(こころざ)す者として、筆者は書いたのである。
 馬鹿らしくて、解説などをつけられたものではない、と思つてゐる。
 難しければ、本を讀む人が辭書を調べて讀めば良い。
 わたしは親切な人間ではないかも知れないが、また、それをする事が親切といふものだ、とは思つても見ない。


 日本の言葉は、その一つひとつに美しさがあり、深い意味を持たせたゐる。
 大國と言はれてゐる諸外國の言葉は、ただの符號に過ぎないが、漢字一つをとつても表情がある。
 その表情に一番ぴつたりする所が何處であるかを辨(わきま)へてゐるのが、作家であり詩人である。
 これをして、日本語の優れてゐる所以(ゆゑん)である。
 日本語は中國から傳はつて來たものの、もう中國から離れて、一人歩きをしながら完成されたものと見て間違ひはない。


 どうも今のわたしは、何を言ひ出すか解つたものではない。
 もう止めよう。
 日本語の優れてゐる話などしても仕方がない。
 場所柄をを辨へろ、といふものだ。
 餘(あま)り、中國を見下して日本語を褒め過ぎると、中國から文句が出て來さうである。
 いやはや、もう出てゐるらしい。
 中國の『戰國策』といふ書物に、有名な「蛇足」の話がある。
 白文で申し譯ないが、例の觸(さは)りだけ言へば、

 『乃 左 手 持 巵 右 手 畫 蛇 曰
 「吾 能 爲 之 足」未 成 一 人 之
  蛇 成 奪 其 巵 曰「蛇 固 無 足
  子 安 能 爲 之 足」』

 といふ所でやめるとして、わたしの思ひ浮べた「蛇足」の話の意味は、どうも今のわたしが書いてゐる日本語が優れてゐると主張してゐる事を指してゐるやうだ。
 確かに、『わたしの作品に於ける私感』の中では、お門違ひといふものらしい。
 どうやらこれは、わたしへの戒めか。


 とすれば、わたしはもう筆を擱(お)く可きだといふ暗合になるやうだ。
 詰り、これは蛇足といふものらしい。
 では、最後とする爲に、許可も戴かない儘に、二人の意見を掲載した事をお詫びするとともに、わたしに厖大(ばうだい)なる借金を許してくれた、高橋君や井上君に、お禮を申上げます。
 これで『愛ニ飢タル男』の事に關しては、全て終つたと思つてゐる。
 もう思ひ殘す事はない。
 さう、『愛ニ飢タル男』に關しては、もうこれで書く事がない、と思ふのだが、さて果してどうだらうか。


一九七〇年昭和四十五庚戌(かのえいぬ)年彌生から同年卯月十三日脱稿





敍事短歌 『愛ニ飢タル男・(完全版)』  前 書 
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