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和歌と詩の世界:紫不美男コミュの詩作に就いて

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の,

 『Motion1(ピチカアト・pizzicato)』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。









     詩作に就いて


 以前、同人誌の銓衡(せんかう)委員をしてゐた關係もあり、各地から感想の手紙や詩の作品を受取る時期が數年間ありましたが、その時分はいろいろな事があつて、身邊(しんぺん)多忙を極めてゐました。


 そんな中にあつて、送つてこられた作品の返事に筆者がその人の詩を推敲(すいかう)した爲(ため)に、その事が

 「不愉快だ」

 といふ理由で疎遠になる方もいらつしやいましたが、言譯(いひわけ)をさせてもらへるならば、あの頃は遠方の人には口頭でこのやうにした方が良いですよといふ事が出來ず、自然、手紙といふ手段に頼らなければなりません。


 ここで注意をして戴きたいのは、口頭で説明された時は意外に怒らない人でも、文章にするとお互ひの姿が見えない所爲(せゐ)か、受取つた側は自身の誇りを傷つけられたやうに思つたりするのは解らないではないのですが、

 「よりよい詩を作りたい」

 と思ふか、將又(はたまた)、

 「自分の作品が完璧である」

 との自負心を取るかは、個人の資質にかかはつてきます。


 從つて、本來なら書かなければ不和といふ事態が生じないないのだから、その方が良かつたのかも知れませんが、筆者にはそれが不親切と思はれ、

 「小さな親切、大きなお世話」

 で、

 「もう少しかうした方が良くなるのに」

 といふ部分が眼に着くと、どうしても、

 「その人の爲になるだらう」

 と書いてしまふのです。
 それが空振りに終つた、といふのが事の顛末だと筆者は思つてゐます。


 そこで筆者は相手を見て、といつてもなかなか大變(たいへん)な事で、一概に決定出來ませんから、結局、相手の方の希望されるやうに動くしか方法がなくなつてしまつたのです。
 以降、悶着(トラブル)の元になる添削の作業は封印する事にした次第です。
今では、人の作品をいぢらなくても濟みますから、正直、ほつとしてゐます。


 しかし、一方で

 「本當(ほんたう)にそれで良いのか」

 といふ氣もしてゐますので、今後、そのやうな誤解のないやうにする爲にも、人の作品をいぢらなければならないやうな事は出來るだけ避けながら、氣がついた事を述べてみたいと思ひますので、暫(しばら)くお附合(つきあ)ひ下さい。


 さて、詩を作るといふ行爲(かうゐ)は、言語活動の何を基準にしてゐるのか、といふ事に觸(ふ)れなければならないのですが、ある文章を人に讀んでもらひたいと思ふ以上、そこには、

 「自分さへ解れば良い」

 といふ日記とは異なつた表現方法がある事はいふまでまないでせう。
 それは「話し言葉」に於いても、人と話す場合と、「獨り言」とは同じに論じられない事でも解るものと思はれます。
 のみならず、それらはいづれも心の表現をしてゐるのですが、心の表現さへしてあれば、即ち、それが藝術作品である、といへない處(ところ)が藝術の難しい部分であるといふ事は理解出來るでせう。


 日本人が日本語で育つて、たとへそれが日本語で文章を書いてあつても、その文章が獨(ひと)り善(よ)がりのものであれば、人に傳(つた)はるものは極めて少ない情報しか與(あた)へる事が出來ないであらうと思はれます。
 その意味では、

 「詩にも定義や技術的若しくは文法的な約束があるのでせうか」

 といふ問ひがあるのならば、それに對しては、

 「あるのだ」

 と答へるしか、他に方法を筆者は知りません。
 その方法を知らずして、他の人の作品を批評する事は、先づ無理で、少なくともそれが最低の條件でさへあると思つてゐます。


 といふのは、他の人の作品を批評する時、好き嫌ひだけで判斷を下す事が出來る一讀者(いちどくしや)と同じ立場で論ずる事が出來ないからであり、また、それをする事は批評とは別の次元のものだと考へるからで、寧(むし)ろ、それを退(しりぞ)けない限り、正當(せいたう)な批評精神を培(つちか)ふ事が不可能だとさへ思つてをります。
 それは例へば、ある人間の顏が好きになれないからと言つて、その人が嫌いだからその人の詩も駄目だといふ事にはならず、それはその人の人間性の評價と詩とは別のものであるのと同じやうに、そこに詩ならば詩の統一性があるかどうかを見極めて批評するより手がないからであります。


 では、詩とは何かといふに、事實(じじつ)を述べたからと言つてもそれは詩ではなく、嘘を書いたからと言つても詩にはならない。
 問題は事實か嘘かといふ部分にあるのではなく、述べられたそれらが普遍的な象徴足り得てゐるかといふ事であり、且(か)つ心象風景として讀者にしつかりとした言葉を與(あた)へてゐるか、といふ事が最低の條件になります。
 それでも、これらの條件を滿たしてゐるからと言つて、良い詩になるとは限りません。
 それは詩としての條件を滿たしたに過ぎないのです。


 以上の事を考へた時、自分だけに解ればそれで良しとする日記と詩との差が、歴然としてくるかと思はれます。
 もつと言ひますと、日記は、

 「何月何日に本を貰(もら)つた」

 と書いてもかまひませんが、
 詩はさういふ譯には行かず、

 「誰それに貰つたもので、その誰それとの關係や經緯(いきさつ」

 などが詳(つまび)らかにされてゐなければ、讀者には諒解(りやうかい)出來ないといふ事でも、この二つの違ひが判然(はつきり)とするでせう。


 勿論、日記にも中には優れたものはありますが、それは全ての日記が優れてゐるのではなく、ある特定の條件において優れた文學作品となつたのでありますから、それをもつて日記は文學作品であるといふ譯にはまゐりません。
 尤も、廣い意味で解釋すれば、

 「文字で書かれたものは全て文學だ」

 といふ事も言へますから、筆者の一存で決めつけるといふ事も出來ないでせうが、ごく一般的に人に讀んでもらはうと思つて作られた文學作品と、寧ろ、讀ませない爲に書かれた日記とを同一に論ずる事は出來ないでせうし、さういふ意味での文章技術といふものは必要となつてくると思ひます。


 そこで氣をつけなければならないのは、往々(わうわう)にして自分が知つてゐる事だから、人も知つてゐるに違ひないと早合點(はやがつてん)して、言葉が不足した事に氣がつかない儘(まま)に書いてしまひがちになりますから、辻褄が合ふやうに考へ、あるいは逆に言ひ過ぎたりする事にも注意しながら文章を書かなければなりません。
 それには、自分が書いたものを自身が讀者の目で冷静に讀まなければならないでせうから、一人二役の能力(本當はもつと要るのですが)を必要とします。


 それが理解出來ますと、次に表現に就いて語らなければならないのですが、詩は御存知の方も多いと思ひますが、

 「かなしい」とか「さびしい」

 といふ言葉を使はずにそれを傳へなければなりませんから、餘程(よほど)、熟練の詩人でないと持ち堪へる事が出來ないだらうと思はれます。
 人の作品を餘(あま)り讀まない筆者ですが、知る限りでそのやうな、

 「さびしい」

 といふ生(なま)の言葉を使つて成功した例は、一作しか知りません。


 それは室生犀星の『寂しき春』といふ詩で、二聯からなる詩の一聯のみをここに掲げます。

   したたり止まぬ日のひかり
   うつうつまはる水ぐるま
   あおぞらに
   越後の山も見ゆるぞ
   さびしいぞ
 「日本近代詩鑑賞 大正篇 吉田精一著 新潮文庫より」

 この詩の最後の、

 「さびしいぞ」

 は、言葉の持つ限界を知つてゐながら、その限界をどのやうにすれば突き破れるかといふ事を心得た表現で、それは室生犀星の詩人としての感性の確かさを示してゐるやうに思はれます。


 讀者に提示された詩は、原作者の手を離れた時から讀者のものになる事は、今更いふまでもない事でせうし、當然、詩は理窟を述べるものではありませんが、しかし、その前に創作者は、言葉といふものにもつと愼重であつても良い筈であると思つてゐます。
 もつと言へば、大切にして欲しいものであると言ひたいのです。


 言葉に就いて少し語るならば、言葉は人類の始めから既にあつたのではなく、無論、人類が叡智(えいち)によつて創作したものである事には違ひないのですが、少なくとも現在は我々が創つたものといふよりも、摂取したものだといふ方が納得出來るのではないでせうか。
 これからの未來に、その體系(たいけい)を利用しながら音や文字によらない新たな言語方式が確立されるかも知れませんが、さういふ可能性は別にして、今までの言語形態を我々が利用するならば、得心が出來る技術の當然ある可き筈だと思はれます。


 例へば、ある問題に對する答へが一つしかないといふやうな事が世間にはよくあるます。
 もつと解り易く言ひますと、

 「織田信長を殺したのは誰か」

 といふ問ひがあつて、

 「明智光秀」

 と答へるか、マルやペケで答えるといふ學校の問題などがそれに當ると思ひますが、この問題にはそこに内存した、

 「何故さうしなければならなかつたのかといふ理由の全てを述べよ」

 と發した言葉ではないから、答へが一つになるといふだけの事なのではないでせうか。
 更に言へば、それは答へは一つだが、問題は幾つでも創る事が出來ると考へれば濟む事で、それこそが詩人(創作者)の役目ではないかと思はれます。


 學校の問題は、ある詩人のある詩を問題にして、その部分部分の言葉の意味を問ふもので、新たな詩の創作法を教へてくれるものではありません。
 學校は詩人を育成する所ではなく、飽(あ)くまでも基礎的な智識の學習を基本としてゐるもので、そこから先は個人の選擇によつて、詰りは個人の感情に從つて、しかも今までの基礎智識を正しく利用しながら、詩を創作して行くものではないかと筆者は考へます。


 言葉は言葉の役目を持つて機能してゐますから、それ以外のものにはなりやうもなく、若しもなり得たとしたならば、それは既に言葉といふ機能を失つた言葉以外の何かでしかないでせう。
 だから實際に、言葉をコツプのやうな物質にしようと思つて言葉を操つても、言葉はそれに從つてくれませんが、それを人は、

 「言葉に裏切られた」

 と言つたり受取つたりします。
 しかし、裏切つたのは言葉ではなく、人の方ではないでせうか。
 我々はもつと言葉を信じても良いのです。


 我々が注意をしなければならないのは、これは筆者にもよくある事なのですが、誤字などの思ひ違ひで、それは基礎智識の不足か、單なるうつかりといふ行爲(かうゐ)に過ぎないのかも知れませんが、詩とか和歌や發句よりも小説のやうな長い文章の時は、更に起き易い事なので注意をして欲しいといふ事です。
 若し解らない時は辭書(じしよ)を調べるか、それが手元にない時は間違つた漢字で表記するよりも、平假名で書くかして相手に傳へるべきだと思ひます。
 尤も、思ひ込みといふものも非常に多く、これは筆者も多く、例へば、「今度」を「近度」と書いたりする事が隨分ありました。
 かう言つた間違ひをお互ひが注意し合へるのも、ミクシイなどの仲間をつくる良さだと思つてをります。


 次に改行についてですが、送られてくる多くの作品はその事にまるで無頓着でしたので、少しは言及しておいた方が良いやうに思はれます。
 句讀點(くとうてん)をつける時、讀點(とうてん)「點(、)」をつける場合は片一方(かたいつぱう)だけつけずに、句點(くてん)「丸(。)」もつけませう。
これは基本として考へて欲しいのですが、詩を作る時は改行が句讀點の役割を果たしますから、文章の途中で讀點(とうてん)「點(、)」をつけるやうな事があつたならば、それをせずに一文字分の空間(スぺエス)を開けるやうにする事を薦めます。
 改行は人間の持つ心臟の働きと無關係ではなく、それは息繼ぎにも重要な影響を及ぼすものと思はれ、それをこそ「生命の律動(リズム)」と言へ、改行の必要のない發句のやうな短詩形のものにまでその「拍子(リズム)」はあります。
 詩の改行をする時は、朗讀(默讀でもその拍子は崩れないから同じ事であるが)をするつもりで讀んでみて、息繼ぎをした處(ところ)で改行するのが最も良く、長い文章になつた時は餘り長くせず、意味の切目があると思はれる處で改行するのが骨(コツ)でせう。


 さうして、今度はそれを全體的に眺めて美しい餘白(よはく)を考慮に入れる工夫が必要で、繪心(ゑごころ)さへ要求されます。

 「詩に繪心なんて」

 といふ方もいらつしやるかも知れませんが、人間が美を意識する時は詩を讀むだけで美しいと感じるものではなく、全てのこれまでの經驗(けいけん)や智識を動員して美しいと感じてゐるのです。
 それは例へば、料理を味はふのは舌だけではなくて、盛附けの色具合や配置の妙味、その料理を盛附けた皿の美しさとか、もつと言へば家族で食事をするのと、獨(ひと)りで寂しく食べるといふ心理的なものだけで、味が變つて來るのと同じやうに、詩も見た目の美しさと、朗讀して音に出した時の美しさと、意味の深さ(「かなしい」といふ言葉を使用せずにそれが表現されてゐる事など)といふ複合體(ふくがふたい)の中で鑑賞してゐますから、それらを無視するのは賛成出來ません。
 詩は將(まさ)に、息繼ぎ(ブレス)を含めた言語の拍子(リズム)と、文字による表現技術と、繪(文字も含めた)を見るやうな全體の配置の妙味といふ三つからなる綜合藝術だと言へるでせう。
 それは色紙や短册に書く時にさへ必要だ、と考へます。


 ここで重複(ちようふく)しますが、文章といふものについてもう少し述べますと、文章はある意味では食物(しよくもつ)に似てゐなくもないでせう。
 所有(あらゆる)食物は、食物となる前に材料(單語)があつて、それを調理(文章化)する伎術は、長い歴史によつて傳承されたもので、始めは食べられるものと、さうでないもの(毒や腐敗した肉など)との識別がなされ、その上で調理する方法が試みられてこんにちに到つてゐるものと思はれ、それを家族といふ身近な者の爲に料理するのが母と呼ばれ、不特定多數の人の爲に料理するのが調理師若しくは料理人といふ譯ですが、いづれにしても材料を吟味し料理する方法は、それぞれの國や地方あるいは個々の家庭でもいろいろあつて、それは、

 「おふくろの味」

 といふやうに普遍化された言葉があるのでも解る事で、

 「母」を手紙や日記だとすれば、

 詩人(作家)は言葉の調理人であると言へるかも知れません。


 理窟ばかり竝(なら)べましたが、ついでに料理を食べる人は讀者で、體(からだ)に惡い毒物(惡文)を食べれば(?)腹痛(理解不足)を起したり、酷い時には死んだり(讀書の抛棄)しますから、その爲にも美しい盛附け(讀み易い文字や誤字をなくす)をすれば、自然と食慾も出、それならばたとへ毒物が混入されてゐたとしても(藝術には多分に毒素があるから)、讀者は知らぬ間にそれを口に運ぶこと受合ひです。


 但し、毒物と言つても扱ひは非常に難しく、河豚(ふぐ)料理のやうに毒素を拔いて害のないやうに食べさせたり、納豆のやうに腐らせたり、場合によつては本當に毒物を呑ませる事によつて、現状からの脱出を圖(はか)る事も効果としてはあつたりするので、百戰錬磨の修行が必要なのは言ふまでもない事のやうな氣がします。


 筆者はその道を歩いて行きたいと思つてゐます。
 詩人は批評される事によつてのみ、人から詩人になれるのだと思ひます。
 詩を書きたいと思つてをられる方は、うまくなる事にもつと貪慾になつて、批評や添削を恐れないで下さい。
 添削は、人からの推敲だといふぐらゐの輕い氣持で受止めて下さい。
 採用するしないは、原作者の自由なのですから。





咲かない花
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