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和歌と詩の世界:紫不美男コミュの一、その前に 表記法としての歴史的假名遣の價値 『愛ニ飢タル男』

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愛ニ飢タル男
表記法としての歴史的假名遣の價値
 
   一、その前に

 言葉には、音による話す言葉と、文字による書く言葉とがあります。
 話す言葉は別にして、書く言葉には現代に於いてさへも、色々な表記方法があります。
 それらを列擧(れつきよ)しますと、

 一、 漢字假名交り表記(羅馬(ロオマ)字及び外來語の使用も含む)
 二、 漢字表記
 三、 平假名表記
 四、 片假名表記
 五、 羅馬字表記
 六、 外來語による表記

 の以上のやうになると思ひます。


 「漢字假名交り表記」は讀んで字の如く、漢字は勿論の事、平假名も片假名も、羅馬字さへも使用する事が出来ますし、就中(なかんづく)、外國語の使用も可能であります。
 しかし、漢文は假名の使用を否定し、逆に平假名文や片假名文や羅馬字文は、否定してゐるのであります。


 「羅馬字表記」は、そのまま外來語も使用出來ますが、日本語としての羅馬字と外來語との區別とを表記し分けないと、讀み手に混亂(こんらん)を起させます。


 「漢字表記」は、總ての言葉を漢字で表記しようとしてゐる譯で、その意味では、「平假名表記」や「片仮名表記」にも通じる所があります。


 その中で、「漢字假名交り表記」だけを取出しても、

 一、 現代假名遣表記
 二、 歴史的假名遣表記

 この二種類があります。
 更に、この二種類は細かく分ける事が出來ますが、この章ではそれを述べません。
 その前に、『愛ニ飢タル男』の中で、前囘の初稿版と歌の内容さへ變つた部分を取出して、その理由を明らかにしたいと思ひます。
 猶、各歌の變つた部分でも、「てにをは」の變化があるだけの場合は、敢て説明を施(ほどこ)してはゐません。


 先づ、第一部の『ゆきずり』の冒頭の、

  あ あえかなる
  い 愛しき人の
  う 後ろ影
  え えて忍ぶれば
  お 置きどころなし

 この歌の、
 
 『愛しき』は「愛」といふ讀み方や、「愛(う)い奴」と讀める所から、「あ行」であると解る。

 『えて忍ぶれば』の「えて」は「得て」であり、「得(え)」は「得(う)る」とも讀み、「わ行」の「ゑ」とは別のものであるといふ所から、「う」といふ文字のない「や行」でもない事が解り、「あ行」であると思はれます。
 但し、「わ行」かも知れない部分が皆無といふ譯ではないやうに思はれます。

 『置きどころなし』の「置き」は、「わ行」の「を」ではなく、「あ行」の「お」であり、この歌は奇(く)しくも、初稿版の時と同じ歌の儘で使用出來る、幾つかの歌の一つであります。
 但し、それは、

 「か行・さ行・た行・な行・は行・ま行」

 は殆どを除いて、初稿版の儘の歌で使用されてゐます。
 變つたのは、

 「あ行・や行・ら行・わ行」

 の歌の場合です。


 次は「や行」です。

  や やはらかく
  い 誘(いざ)す痛みや
  ゆ ゆくみづの
  え 益(えき)なく過ぎて
  よ 世(よ)の戀(こひ)と消(き)ゆ

 この歌は初稿版では、

  やはらかき
  いたみを胸に
  ゆくみずの
  えや留めかねつ
  世の戀と消ゆ

 となつてゐましたが、
『いたみを胸に』の「いたみ」は「痛み・傷み」で、「や行」より「あ行」かも知れないと思はれ、
『えや』は「得や」で、「得」は「あ行」の「え」ですから、この歌は使用出來なくなりました。
 そこで止むなく、歌を先のやうに變へざるを得なくなつてしまひました。

 『やはらかく』の「や」は、問題なく「や行」です。

 『誘(いざ)す痛みや』の「誘す」は「誘(いう・you)」とも讀み、「導(みちび)く・誘(いざな)ふ」であり、その外に「寄(よ)さし・依(よ)さし」で、「寄せる」といふ意味があるのではないかと思はれ、「や行」として使用しましたが、問題は「誘(わかつ)り」や「誘(をび)き入(い)る」といふ言葉もあり、「わ行」とも關係があるかと思はれるのですが、これは語源は別で、漢字だけをどちらかが借りたのではないかと思はれます。

 『ゆくみづの』は「行く」ですから「や行」であり、「いく」とも讀み書きしますが、これは「言ふ」のときに「ゆふ」と喋るのと同じやうに、どちらも「や行」の「い」であります。

 『益なく過ぎて』の『益』は「やく・えき」とも讀み、「役」の字の場合にも「やく・えき」とも讀む所から、「や行」である事が解ります。

 『世の戀と消ゆ』の「世」は、問題なく「や行」の「よ」である事に間違ひはないでせう。


 次は、
 
  ら 洛陽(らくやう)に
  り 旅情(りよじやう)を捨てて
  る 累月(るゐげつ)の
  れ 歴然(れきぜん)とはや
  ろ 路傍(ろばう)の人ぞ

 この歌は「ら行」ですから、關係がないやうに思はれるかも知れませんが、以前の歌は、

  らくように
  旅情を捨てて
  るい月の
  歴然とはや
  ろうろうの身ぞ

 かうなつてゐまして、
 『ろうろうの身ぞ』は「浪々」であり、これは嘗(かつ)て字音假名遣で「らうらう」と書きましたので、「ら行」には違ひありませんが、さうなると「ろ」ではなく「ら」になり、

  ら
  り
  る
  れ
 「ら」

となつてしまひます。
 字音假名遣とは、漢字音の字音における同音の假名を書き表す場合に、中國での發音に基づいて書き分ける事をいふのですが、そこで、

 『路傍の人ぞ』

 と、先の歌のやうに改めざるを得ませんでした。


 次は、『ゆきずり』の最後の歌です。

  わ わびしさや
  ゐ 田舎(ゐなか)ぶ里の
  う 浮雲(うきぐも)は
  ゑ 會者定離(ゑしやぢやうり)をば
  を 教(を)へて盡(つ)きせ
  ん ん

 この歌の以前は、

  わびしさに
  いつか出(い)でたる
  浮雲は
  えせ幸(さいわい)を
  お知えてつきせ
  ん

 となつてゐて、
 『いつか出でたる』の「いつか」は「何時か」とも書き、「安・惡」と書いて「いづくんぞ」と讀む言葉に共通點を持ち、「あ行」ではないかと思はれ、
 『えせ幸を』の「えせ」は、「似非・似而非」とも書きますが、これは宛字(あてじ)で、「えせ」は「鈍(おそ)」の母音が轉(てん)じたものと思はれ、「あ行」だと思つて構はないと思ひます。
 かうなると、どうしても「わ行」の言葉を探さなければならなくなり、今囘のやうな歌となりました。

 『わびしさや』は問題ありません。

 『田舎(ゐなか)ぶ里の』の「田舎ぶ」は田舎らしいといふ意味で、「田舎」は「ゐなか」と表記し、「わ行」の「ゐ」です。

 『浮雲』の「浮」は「うく」で、「湧」の「わく」に通じると思つて「わ行」にしましたが、これは筆者の思ひつきで、問題のある選擇かも知れません。

 『會者定離をば』の「會者」は、「會(ゑ)」は「繪(ゑ)」でもあり、「わ行」の「ゑ」で、「會ふものは必ず別れる」といふ無常感を表した言葉であります。

 『教へて盡きせん』の「教へ」は「をしへ」で、自分のやり方に他の人を同化させる事であります。
 「自分」は「我(われ)・私(わたくし)」であり、それは後に「あ行」に轉じて「あたし」にもなりますが、羅馬(ロオマ)字表記で發音を示せば、「Watasi」となり、その「W」のみを脱落させますと、「Atasi」となつて「あ行」に變化した事が解りますが、本來は「わ行」であつたと理解出來ます。
 猶、何故、
 『教へて盡きせん』としなかつたかといふと、短歌は「五七五七七」の三十一文字(みそひともじ)といふ事になつてをりますから、
 『教へて盡きせん』では八文字になつてしまひ、「五七五七八」で三十二文字といふ事になり、勿論、「字足らず」や「字餘(じあま)り」も許されてゐますし、この歌集の中にも「字餘り」の歌が二首ほどありますが、この場合は、

  わ
  ゐ
  う
  ゑ
  を
 「ん」

 としたかつたので、敢てさうしたに過ぎなかつた事を、ここに記しておきます。
 ですから、當然、
 『さすらひ・たましひ・いづこへ』でも、さうなつてゐる事はお解りの事と思ひます。


 さて、第二部の『さすらひ』に移ります。

  あ 逢はんとす
  い いとも苦しき
  う うつくしさ
  え えならぬ君を
  お 思ひしもがな

 この歌の以前は、

  あわんとす
  いとも苦しき
  うつくしさ
  縁(えに)ぞあらんと
  思いしもがな

 となつてゐましたが、
 『縁ぞあらんと』の「縁」は「えに・えにし」であり、「ゆかり」とも同じで「や行」と思はれるので、使用するのを諦めました。


 そこで今囘のやうな歌になり、

 『いとも苦しき』の「いとも」は「いと」で、「甚」とも書き、「あ行」か「や行」か不明でしたが、「あ行」として採用しました。

 『うつくしさ』の「うつくし」は「美し」で、「うまい・おいしい」と同根で、「あ行」と思はれるかも知れませんが、「美し」は「むまし」の轉で「ま行」でしたが、「あ行」として使用しました。

 『えならぬ君に』の「えならぬ」は「得ならぬ」で、「得」は「あ行」である事は、既に述べた通りです。


 次は「や行」です。

  や 病身(やまひみ)を
  い 癒(い)ゆるあてなく
  ゆ 委(ゆだ)ねんと
  え 縁なき君に
  よ 寄そり行かばや

 この歌の前囘も、

  病もつ
  命なりしを
  委ねんと
  えならぬ君に
  寄そり行かばや

 となつてゐましたが、

 『命なりしを』の「命」は「息」に通じ、「息」は「生きる」と同根である所から、「生(うま)れ・生立(おひた)ち」といふやうに「あ行」と思はれます。
これは餘談ですが、「息」と「生きる」とを同根とする言語は日本語だけではなく、羅甸(ラテン)語や希伯來(ヘブライ)語や希臘(ギリシア)語さへもさうだといふのは、かの『舊約聖書(きうやくせいしよ)』に於ける「罷鼻爾(バベル)の塔(たふ)」の傳説にある、嘗(かつ)て世界の人は唯ひとつの言葉だけで話し合つてゐたといふ説も、強(あなが)ち出鱈目だとは言へない部分があつて、隨分と面白いと思ひます。

 『えならぬ君に』の「えならぬ」は、何度も述べたやうに「あ行」ですので、今囘の歌となりました。

 『癒ゆるあてなく』の「癒ゆ」は「いゆ」で、「治癒(ちゆ)・癒着(ゆちやく)」ともあるやうに、「愈(いよ)」の音から「癒ゆる」となつたとすれば、「愈」は「彌(いや・最(いや)」に通じ、「いや」は「八(や)」と同根で、「八」が「四(よ)」と同根であるから、「や行」とするのは故事(こじ)つけでせうか。

 また、話は少し變りますが、數字の、

 「一(ひ)・二(ふ)・三(み)・四(よ)・五(い)・六(む)・七(な)・八(や)・九(こ)・十(とを)」

 を倍數に竝べ替へますが、數字の、

 「一(ひ)・二(ふ)」
 「三(み)・六(む)」
 「四(よ)・八(や)」
 「五(い)」
 「七(なな)」
 「九「こ」」
 「十(とを)」

 となり、更に「五十音圖(ごじふおんづ)」に合せると、

 「は行」の「ひ・ふ」
 「ま行」の「み・む」
 「や行」の「よ・や」
 「あ行」か「や行」の「い」
 「な行」の「な」
 「か行」の「こ」
 「た行」の「とを」

 となつて、「さ行・ら行・わ行」がないものの、何か意味があるやうに思ふのは筆者だけでせうか……。

 『縁(えに)なき君に』の「縁」は前にも述べたやうに、「や行」として扱ひました。


 次は「わ行」です。

  わ わかくさの
  ゐ 違背(ゐはい)の夫(つま)を
  う うしなひし
  ゑ 越後(ゑちご)の君の
  を 遠方(をち)にぞ戀(こ)ふら
  ん ん

 この歌の前囘は、

  わかくさの
  いまは夫をさ
  うしなひし
  えさらじ君を
  思ひて亂(みだ)れ
  ん

 となつてゐて、
 『今は夫をさ』の「いま」は「今」で、「現在・世」に通じ「や行」かも知れず、或は「居る時・居る間(あひだ)」で「ゐま」かと思つたりすると、「わ行」であつたのが後(のち)に「あ行」に轉(てん)じたのかと思ひ、結局、いづれか不明なので、「わ行」としては使用しない事にしました。
 『えさらじ君を』の「えさらじ」は「得さらじ」で、「得」は「あ行」です。
 『思ひて亂れ』の「思ひ」は「面覆(おもおひ)」であると思はれ、「面白い」と「をかし」とは別で、「面白い」は「あ行」で「をかし」は「わ行」ですので、「思ひ」も「あ行」となり、今囘の歌に變らざるを得ません。

 『わかくさの』は「夫・妻」にかかる「枕詞(まくらことば)」です。

 『違背(ゐはい)の夫(つま)を』の「違背」は、「あ行」でも「や行」でもなく「わ行」です。
これは何故「わ行」なのかといふと、最初に人間が發音し得る音を文字で表した時、「あ行」の「え」も、「や行」の「え」も、「わ行」の「ゑ」も違ふ音を有してゐたからなのです。
 その違ひを羅馬(ロオマ)字で表記(へうき)しますと、

 「あ行」の「え」は「e」
 「や行」の「え」は「ye」
 「わ行」の「ゑ」は「we」

 となるやうに、それぞれが違つた音であつた事を證明してゐると思ひます。

 『越後(ゑちご)の君の』の「越後」も同じく「わ行」で、「越度」と書いて「をちど」と讀み、別に「落度(おちど)」とも書き、「あやまち」といふ意味から「あ行」かとも思へませうが、「越度(をつど)」から轉じたと辭書にあり、それよりも、如何に「わ行」が「あ行」に變化(へんくわ)し易いかを知る資(よすが)になると知る事が出來、更に、
 「な行」の「汝」が「なんぢ・なれ」から、
 「あ行」の「うぬ・おの・あなた」と變化するやうに、他の「行」さへも「あ行」は引寄せる力があり、將(まさ)に母音とは良く言つたものだと思ひます。

 『遠方(をち)にぞ戀(こ)ふらん』の「遠方」は「をち」で「わ行」であり、「遠方」を讀替へるときは、「えんぱう」ではなく「ゑんぱう」となります。
また、「方」は「はう」と「ほう」の二(ふた)通りの讀み方があり、意味によつて使ひ分けてゐたと辭書にありました。


 第三部の『たましひ』では、「あ行」は問題がないので、
 「や行」へ移ります。

  や やすらかな
  い 色は變(かは)らじ
  ゆ 夕暮(ゆふぐれ)に
  え 枝を離れて
  よ よごれ落つ花

 この歌は前囘も今囘も同じですが、少し解説をしておきます。

 『色は變らじ』の「色」は「いろ」で、「樣(よう)・艷(えん)」に通じ、「樣」は「yang」で、「艷」は「yen」と發音してゐた事が「新字源」を見ても明かである所から、「や行」と思つてその儘としました。

 『枝を離れて』の「枝」は「えだ」で「よ・やで」とも言ひ、「や行」である事が知れます。


 次は「ら行」へ移ります。

  ら 落莫(らくばく)や
  り 慄然(りつぜん)と見し
  る 瑠璃(るり)色の
  れ 麗々(れいれい)しき花の
  ろ 路傍(ろばう)に咲きて

 この歌の以前は、

  らくばくや
  繚乱とせし
  るり色の
  れいれいしき花を
  路傍に見つつ

 この歌の問題點は、
 『繚乱とせし』で「繚乱」を字音假名遣(じおんかなづかひ)で平假名表記にしますと、「れうらん」となり、それでは各冒頭の部分が、

  ら
 「れ」
  る
  れ
  ろ

 となつてしまつて、「折句(をりく)」としての意味を成さなくなつてしまひますので、今囘のやうにしました。
 以前にも言ひましたが、字音假名遣といふのは、假名を用(もち)ゐて、中國より傳來(でんらい)された漢字の字音を表す爲の假名遣であり、故に「唐音」や「支那音」比べると、傳来の古い「漢音」や「呉音」は學術的には尊重すれど、實用的ではないといふ意見もあります。

 最後は「わ行」の歌です。

  わ 病葉(わくらば)や
  ゐ 居(ゐ)散らす風に
  う うずくまり
  ゑ 繪(ゑ)に寫(うつ)すまで
  を 折れ殘るやら
  ん ん

 この歌の以前は、

  わくらばの
  いのちなりける
  うそぶるい
  えしも散れるな
  おもき風ふか
  ん

 この歌の、
 『いのちなりける』の「いのち」は「命」の事で、『さすらひ』の「や行」の「命なりしを」の「命」と同じで、「あ行」と思はれ、
『うそぶるい』の「うそ」は「嘘」とは別で、「怖(お)ぞ」の轉じたもので「あ行」になり、
 『えしも散れるな』の「えしも」は「得しも」と書くので「あ行」です。
 『おもき風ふかん』の「おもき」は「重き」で、「押し」に通じ「あ行」かと思はれ、今囘の歌に改めました。

 『居散らす風に』の「居」は「ゐ」で、「坐(わ)し・ゐる・う・をる」と活用するので「わ行」ですが、唯、「坐(わ)し」に就いては「おはし」からの轉であるとも言ひますが、それはどちらが先にあつたかといふのは難しい問題です。
それに「おはし」は「坐(いま)し」とも書き、「有(あ)り・居(を)り・行き・來(き)」の尊敬語となつて、「汝(いまし)」は名詞形になつたものとあります。
 また、「入(い)る」は「御入(おい)る」で「居る・來る」の尊敬語で、今日(こんにち)の「いらつしやる」は「わ行」の「ゐ」ではなく、「あ行」に「い」である、とものの本にあります。
 とすれば、「あ行」と「わ行」が音樂でいふ所の近親調のやうに、極(ご)く近い關係(くわんけい)にあると思はれ、

 「わ行」の一人稱の「私(わたきし)、我(われ)・吾(われ)」が、「あ行」の「私(あたくし)・吾(あ)・己(おのれ)」となり、

 「な行」の二人稱の「汝(なれ)・汝(なんぢ)・奴(ぬ)」が、「あ行」の「汝(いまし)」となり、

 「か行」の三人稱の「彼(かれ)・彼方(かなた)・此方(こなた)」が、「あ行」の「彼方(あなた)・貴方(あなた)」

 などで、「あ行」が總(すべ)ての「行」を司(つかさど)る中心的な存在である事が解ると思ひます。

 『うずくまり』は室町時代以降は「うづくまり」に轉じましたが、「うずくまり」が正しく、「う」は「わ行」の「居(ゐ)る」活用形で、「ゐすくまる」から變化したものと思はれ、「すくまる」は「竦(すく)み」と同根ではないかと思はれます。
 「竦み」とは硬直して動かなくなる事で、「うずくまる」はしやがんで丸くなるといふ意味だから、互ひに通じるものがあり、「わ行」と解釋しました。

 『繪に寫すまで』の「繪」は「ゑ」で、又、「繪」は「會」と同じで「わ行」ですが、「會」を「會(あ)ふ」とも讀み、「あ行」への轉化(てんくわ)があります。

 『折れ殘るやらん』の「折れ」は「わ行」の「を」で、「割(わ)り・破(わ)り」と同根かと思はれ、どちらも二つの状態に分れるといふ意味を持つてゐます。


 第四部の『いづこへ』では、

  あ 逢ひたさに
  い いざ立ちめけや
  う うら戀(こ)ひし
  え 似非(えせ)幸(さいは)ひも
  お 思ひは君ぞ

 で、以前の歌は、

  あいたさに
  いざ立ちめけや
  うらこいし
  絵を書くいまも
  おもいは君ぞ

 でしたが、
 『絵を書くいまも』の「絵」は「わ行」の「ゑ」ですので、この歌も使用出來ません。
 そこで次のやうに改めました。

 『いざ立ちめけや』の「いざ」は「さあ」に通じ、「さあ」は「やあ」に同じくして、相手に促(うなが)したりする時に發する音聲ではないかと思はれ、「や行」かも知れませんが、「あ行」として使用しました。

 『似非幸ひも』の「似非」は『ゆきずり』の「わ行」で述べた通り、「あ行」として活(い)かしました。


 次は「や行」です。

  や やるせなし
  い 言ひ隱(かく)す戀(こひ)
  ゆ ゆるされず
  え 縁(えに)なき君は
  よ 世を去りにけり

 この歌の以前は、

  やるせなし
  いまだに恋は
  ゆるされず
  縁なき君は
  世を去りにけり

 で、
 『いまだに恋は』の「いまだに」は「未だに」と書きますが、「今」にも通じるかと思はれ、だとすれば、『さすらひ』の「わ行」でも述べてをりますので、ここでは省(はぶ)きます。
 そこで次のやうに改めました。

 『言ひ隱す戀』の「言ひ」は「良い」と同じで、「良(よ)い」とも讀み書きし、「言ふ」は「ゆふ」とも發音しますので、「や行」として使用しました。

 『縁なき君は』の「縁」は、前にも述べた通りです。


 次は「わ行」で、これがこの歌集の最後の歌となつてゐます。

  わ わが夜さに
  ゐ 遺志(ゐし)なく去らん
  う うつせみの
  ゑ 笑(ゑ)みなきこの世
  を 惜(を)しくもあらな
  ん ん

 これに對して前囘の歌は、

  わが夜さに
  いまこそ去らん
  うつせみの
  縁なきこの世
  惜しくもあらな
  ん

 で、
 『いまこそ去らん』の「いま」は「今」で、これは再三申し上げた通りです。
 『縁なきこの世』の「縁」も、「や行」の「え」である事はいふまでのない事だと思ひます。
 そこで今囘の歌となつたのですが、

 『遺志なく去らん』の「遺志」は「ゐし」で、「遺」は「遺言」とも使ひ、それは「ゆいごん」だから「や行」かとも思はれますが、「ゆいごん」は「呉音」で調べた所、「ゆゐごん」とも記(しる)し、「ゆゐごん」の「ゆ」は「御(お)・御(み)」の接頭語の變化したものではないかと思ふのは、穿(うが)ち過ぎでせうか。
 いづれにしても、他にも「わ行」の「醉(ゑ)ふ」が、現代では「醉(よ)ふ」と「や行」の發音に變化したのと同じ經過(けいくわ)を辿(たど)り、

 「あ行」
 「や行」
 「わ行」

 が近い關係にあつたといふ事を、示してゐるやうに思はれます。
 またそれは、

 「あいうえお」
 「やいゆえよ」
 「わゐうゑを」

 といふ五十音圖を比較しても解る事だと思はれ、結局、「遺」は「わ行」の「忘れる」の變化したものではないかと思ひます。

 『うつせみ』は「現身(うつしみ)」ではなく「現臣(うつつおみ)」で、「現(うつつ)」は「存在・居る」を意味し、「をつつ」とも活用しましたので、「わ行」として使用しました。

 『笑みなきこの世』の「笑み」は「わらふ」ですから、「わ行」の「ゑ」になります。

 『惜しくもあらなん』の「惜し」は「愛(を)し」とも書き、類義語に「あたらし」があり、「愛」がある所から「あ行」かとも思はれますが、「わ行」として使用しましたが、これまでにも「あ行」と「わ行」の關係を示しておきましたので、この事に就いては理解して戴けると思はれます。


 以上で『愛ニ飢タル男』に於ける歌の改稿した意味を、解つてもらへると思ひます。
 しかし、この中にも間違つた考へが幾つもあるかと思はれますが、もしもお氣づきの點(てん)がありましたら、ご教授を願ひたいと思つてをります。




二、假名遣に就いて(表記法としての歴史的假名遣の價値)愛ニ飢タル男
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51945725&comm_id=4657977

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