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武田二十四将コミュの飫富兵部少輔虎昌

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飫富兵部少輔虎昌について語り合いましょう。
飫富兵部少輔虎昌についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋




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飫富兵部少輔虎昌 1504〜1565年

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飯富虎昌、飯富兵部、飫富源内ともいう。
飫富昌義の長男。「武田の赤備え騎馬軍団」の首領。巨摩郡飯富郷(南巨摩郡中富町飯富)一帯を領する。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
飫富源四郎昌義の長男として永正元年(1504年)に生まれる(永正11年(1514年)生まれ説あり)。
飫富虎昌は、合戦では常に先鋒を引き受け、信濃侵攻では村上義清や小笠原長時を苦しめ、その剛勇ぶりは、敵、味方から、「甲山の猛虎」と恐れられた。
そんな飫富虎昌であるが、亨禄4年(1531年)1月21日には、甲斐国人栗原信真、大井信業、今井信是らとともに反旗を翻し、 武田信虎と戦っている。いわゆる御岳合戦である。しかしこの合戦で武田信虎に大敗している。
飫富は「おぶ」と読む。千葉県に飯富と書き「おぶ」と読んだ旧郷名があったほか『万葉集』に飯富の海と書いて「おぶのうみ」と読む歌もあることから、飯富と書いて「おぶ」と読むこともされている。『一蓮寺過去帳』の延徳4年(1492年)の条に「八幡飯富内」とあり、また永正12年(1515年)には飯富道悦と飯富源四郎が討死したともある。『甲斐国志』では飯富を「おふ」としており、『北越軍記』には飫富兵部と書いて「あきとみ」と読んでいる。
天文5年(1536年)6月、花倉の乱において、北条氏綱が駿河に侵攻すると、今川軍の援軍として参戦し、飫富虎昌は北條氏綱軍を撃破する。天文5年(1536年)11月に武田信虎の信濃佐久郡に従軍し、村上義清と戦う。殿を担った初陣の武田晴信に従っていたのが飫富虎昌の赤備え軍団であって、武田晴信と飫富虎昌は兵を引返して、油断していた平賀源心斎(大井成頼)の守る海ノ口城を攻撃し、これを落すことに成功。この功に対して、武田信虎は武田晴信をほめることはせず逆に「抜けがけの巧妙は武田の恥じである」と叱責したという。当然、飫富虎昌も武田信虎の勘気にふれたことはいうまでもない。天文7年(1538年)にも、佐久郡で村上義清と戦い、飫富虎昌が首級97を討ちとるという軍功をあげる活躍もあって、数で勝る村上勢を撃破する。 小笠原長棟が甲州へ攻め込み、韮崎においてこれを迎え撃ったときも飫富虎昌の率いる赤備え隊が第一陣をつとめ、 甘利虎泰隊、小山田信有隊、板垣信方隊らがつづき、小笠原勢を追い散らしたという。小笠原軍は2700余の戦死者を出して撤退。天文8年(1539年)にも信濃佐久郡への出陣に従い、北信の豪族村上義清の居城である葛尾城まで攻め入り村上軍と戦ったという。
天文9年(1540年)の武田信虎の信濃佐久郡への侵攻戦では、佐久地方の守備隊長として重要な役割を果たす。北信方面の備えをゆだねられた飫富虎昌は、小諸城を重要拠点として佐久地方の守備にあたった。天文17年(1548年)、村上義清を助けるため、上杉憲政は8000の軍勢を率いて飫富虎昌の守備する内山城を攻めたが、 飫富虎昌は800の城兵を指揮して奇襲作戦を展開し、上杉軍を右往左往させたという。『千曲之真砂』は「飫富虎昌隊の勢いたるや、あたかも猛虎が羊群に突入したるがごとく、全軍巨大な火の玉に見えたり」と勇猛ぶりをつづっている。「飫富の赤備え」と称された軍勢は、騎馬武者から兵卒にいたるまで一人残らず武具、差し物、馬具の全てを赤一色に統一されていた。合戦場で卑怯、卑劣な振舞いをさせないために敵味方にも目立つようにしたといわれているが、赤一色の飫富隊の突撃はまるで火の玉が飛ぶような勢いを見せ、敵は戦う前から「赤備え」の攻めてくるのを見て戦意を失ったという。武田氏が滅亡した後、徳川家康が飫富虎昌の武勇にあやかれと井伊直政(井伊万千代)を飫富虎昌が名のっていた官途の兵部少輔に叙し、武田旧臣を配属させることで赤備えを踏襲させ、関ヶ原合戦で活躍した「井伊の赤備え」の前身とさせたという。 武田晴信は嫡男武田義信の傅役に飫富虎昌を命じている。後継者の教育係に任じられたことは武門にとってこれ以上ない名誉である。
永禄8年(1565年)10月、武田義信は東光寺に幽閉され、 飫富虎昌ら義信衆80余人が処刑または追放される「義信謀反事件」が起こる。『甲陽軍鑑』には永禄7年(1564年)7月としているが、武田義信は永禄8年(1565年)6月の甲州二ノ宮造立帳に参千疋の寄進をしており、永禄8年(1565年)6月の時点までは武田義信が公式活動していたとしている。『甲斐国志』には「永禄8年(1565年)乙丑年、陰謀の発覚ありて幽せらる。永禄10年(1567年)10月19日深室に逝す。年30」とあり、 武田晴信が西上野の武将小幡源五郎に送った10月23日付けの書状『尊経閣小幡文書』に「飫富兵部少輔(飫富虎昌)所行くを以て、武田晴信・武田義信の間を相妨ぐべき陰謀露見し候の条、則ち生害を加へ候、父子の間のことは元来別条なく候、心安かるべく候」とあり、陰謀の罪を飫富虎昌だけに被せている。しかし、飫富虎昌は武田晴信の信濃経略や長尾景虎(上杉謙信)との度重なる抗争に反対することが多く、また飫富虎昌自身が武田家で大きな勢力を誇っていたため、「義信謀反事件」を契機として武田晴信自らが粛清に及んだという説もある。 飫富虎昌と同じく南巨摩の領主穴山信君の弟穴山信邦も連座して切腹していることから、親今川派の国人の反発という面も有している。
巨摩郡飯富郷(南巨摩郡中富町飯富)には、現在も兵部平とよばれる平坦地が残っている。墓所は山梨県甲斐市亀沢(中巨摩郡敷島町)の天沢寺。天沢寺が飫富氏歴代の菩提寺という。
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