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武田二十四将コミュの原隼人佑昌胤

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原隼人佑昌胤について語り合いましょう。
原隼人佑昌胤についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋





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原隼人佑昌胤 1526〜1575年

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原隼人佐、昌勝、勝朝、朝原ともいう。
原昌俊の長男。陣馬奉行。譜代家老衆。両職。
武田信虎の重臣。妻は勝沼信友の娘。天文18年(1549年)に家督を継ぐ。隼人佑となり、騎馬120騎と近習50騎をあわせて預かる侍隊将となる。 原昌胤は父と同じく陣取りの名手と名高く、武田晴信は原昌胤を召して「その方の父、加賀守は信虎公より我らまで、度々の忠節忠功ある家老なり。その父の名を汚すことなく忠勤に励め」と言ったという話が伝えられている。
弘治元年(1555年)11月に甲府東光寺宛に単独署名の禁制を与えていることから、甲府東光寺付近を知行地としていたとされる。 武田晴信の期待どおり、原昌胤も陣馬奉行として卓越した才能を発揮した。その信頼は非常に厚く、「陣取りのことは隼人に任せよ」と言わしめたとされる。陣馬奉行は、常に本陣の隣に陣を張り、重大な役目を果たすために、直接戦闘に参加することは少なかった。『甲陽軍鑑』にも「原隼人は敵の国ふかく御働きのときは、ひとしお後備になされ候。仔細は陣取りの場所、見合すこと、御家中の諸大将にすぐれたり。他国にて山中などに道知れざる所をも、この原隼人にては一見して見分けること、武田家中に此人一人なり」と絶賛。 原昌胤の地利、地形を見る鋭い才能を称えている。陣場奉行は合戦が終われば、その片づけをするのも仕事の一つであった。陣場奉行はすべて地味な役割であり、文字どおり「縁の下の力持ち」であった。『甲斐国志』には原昌俊の妻は逸見氏の出であったとしており、若くして世を去り甲州上條法城寺に葬られたのだが、蘇り原昌胤を生んだと記している。
跡部勝資とともに西上野衆にたいする奏者取次役をつとめ、永禄初年(1558年)から西上野の国衆や寺社への取次を示す文書や、永禄10年(1567年)の下郷起請文での西上野衆差出の宛名として原昌胤の名がある。永禄9年(1566年)頃からは他地域宛の竜朱印状の奉者としても多見されている。天正3年(1575年)2月まで多くの竜朱印状の奉者をつとめている。しかし、天正3年(1575年)5月、長篠合戦では、120騎を率いて織田方へ突撃し、つるべ射ちの銃弾を浴び、壮絶な戦死を遂げた。
法名は朝原。墓は長篠竹広村(新城市竹広)にある。蓮朝寺に位牌がある。跡を継いだ嫡男原昌栄であったが、天正8年(1580年)10月、上野膳城の攻防戦で戦死。四男原昌弘は元亀3年(1572年)に死去している。
原昌胤には長男原隼人昌栄、次男原昌澄、三男原半兵衛昌貞、四男原宗一郎昌弘がいる。 原昌栄には長男原隼人助貞胤(原惣十郎)がいる。 原昌澄には原右近昌信がいる。 原昌貞には長男原出羽守之昌、次男原半兵衛正明、三男原主馬昌直がいる。 原正明には長男原半兵衛正純(原正盛)、次男原隼之丞正泰がいる。 原昌直には長男原正嗣、次男原法政、三男原作十郎正吉がいる。 原昌貞は武田氏滅亡後は真田昌幸に仕えている。
原貞胤は越前少将松平忠直の使番になり、大阪冬の陣が和睦になって後、武田の旧臣で旧友であった真田幸村(真田信繁)のもとへ招待され色々馳走になった。 真田幸村(真田信繁)は小鼓を取り出し、嫡男真田大助に曲舞を2、3番舞わせ、後に茶をてんじて持成した。真田幸村(真田信繁)は、「今度討ち死すべきところ、計らず御和睦になり今日まで存命し、2度お目にかかれたのは嬉しいことです。不肖ですが、一方の大将を承ったこと、今生の思い出、死後の面目と存じます。御和睦も一時のこと、やがてまた戦いがはじまるでしょう。信賀(幸村)父子も、一両年中には討ち死と思い定めております。ごらん下さい。床に飾っておく鹿の角打った兜は、真田重代の宝ですが、父の安房守から信賀に伝えられました。最とおぼしめして、一遍の御回向をお願いします。君の為に討ち死するのは武士の習ですが、忰大助は、これぞと思う事にもあわず、一生浪人で、年15歳になるが早いか、戦場の苔と埋もれること、誠に不憫でございます。」と涙ぐんだ。 原貞胤も涙を流し、「ああ、武夫ほどはかないものはない。戦場に赴く身は、誰が先後を定めましょう。必ず冥途でお会いしましょう。」と語りあった。その後、真田幸村(真田信繁)は白河原毛のたくましい馬に、六文銭を金で摺り出した鞍を置いて引き出し、ゆらりと乗って5、6度静かに乗り回し、「もし重ねて合戦があったなら、御城は破却せられたことゆえ、必ず平場の合戦となりましょう。天王寺表へ乗り出し、東方の大軍に渡り合い、この馬の息のつづくほどは戦って、討ち死すべしと存じ、秘蔵しております。」と言って、馬からおり、これが今生の暇乞いとまた盃を指し、夜半に及んで立ち別れた。はたして翌年5月7日、その兜を着け、その馬に乗って討ち死したという。(『武林雑話』『旧伝集』)
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