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武田二十四将コミュの教来石民部少輔信房

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教来石民部少輔信房について語り合いましょう。
教来石民部少輔信房についての情報ありましたらご紹介ください。

以下は、ホームページ
小助官兵衛の戦国史/滋野一党/武将録(http://koskan.nobody.jp/)から抜粋



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教来石民部少輔信房 1515〜1575年

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馬場信房、教来石景政、信春、信勝、氏勝、氏房、信武、信政、政光、玄蕃、美濃守、民部大輔ともいう。法名は乾叟白元居士(乾叟自元居士)。
教来石信保の長男。譜代家老衆、深志城代、牧之島城(牧野嶋)城代。
教来石(山梨県北杜市白州町)を本貫とし、武川衆の一人として武田信虎の代から武田氏に仕える。教来石郷は北巨摩郡の白州町に現在でも地名が残る。教来石氏は「武川衆十二騎」の一旗頭であり、 一條長広の長男教来石広政からはじまる武田氏の一族である。
『甲斐国志』に「智勇つねに諸将に冠たり」とあるように、一国一城の太守となっても人後に落ちぬ真の名将と称された教来石信房は、 山縣昌景、工藤昌豊(内藤昌豊)、春日虎綱とならび、武田四名臣(武田四天王)の一人に数えられる。天文元年(1532年)、反旗を翻した今井信元を武田信虎が攻めたときに従軍し初陣をかざる。天文5年(1536年)には信濃攻めで功をあげしだいに頭角をあらわしていく。『名将言行禄』によると天文9年(1540年)から諏訪へ潜入し、諏訪明神祝と誼を通じ、居住まで許され、3年間にまでわたって諏訪郡の地形や内情を精査し、攻めるべき数数の要所を武田晴信へ進言したという。天文10年(1541年)の武田信虎追放には、板垣信方の指揮に従い武田晴信に与し、無血クーデターの立役者でもあった。諏訪、佐久方面での合戦に戦功をあげ、天文15年(1546年)には武田晴信によって50騎の侍大将に抜擢され、馬場虎貞の名跡を嗣ぐ。謀者として合戦に貢献した教来石信房は「武略のための虚言は正当な戦術であって、平時につく嘘とは区別すべきだ」と語っている。卓越した智謀により武田晴信に重用された教来石信房は、生涯40余度の合戦に従軍して傷一つ負ったことがない猛将でもあった。 小山田信茂がその秘訣を尋ねたところ、教来石信房は「よく陣する者は戦わず、よく戦う者は死なず、敵よりも先ず味方の状況を把握すべきだ」と語っている。智略と武勇を兼備した教来石信房はつねに「戦場常在」の四字を戦陣訓としてかかげ、自戒の言葉にしていたという。
天文19年(1550年)に深志城代となり筑摩郡を支配。天文22年(1553年)には村上義清の居城葛尾城の攻略戦に参陣。天文23年(1554年)2月には梶間(静岡県富士市)へ従軍し北條軍を撃破。天文23年(1554年)6月には長尾景虎軍による川中島清野宿への侵入を阻止し、永禄2年(1559年)からは120騎をもつ譜代家老衆に列し、まさに百戦錬磨の将というべく、武田晴信のおこなった合戦に必ずといっていいほど戦功をあげてきた。川中島合戦では山本勘助とともに「きつつき戦法」を提案するなど、智略にも優れ、「一国太守の器量人」と評されたほど。永禄4年(1561年)川中島合戦では、妻女山攻撃の別働隊に属し春日虎綱の副将を務める。先鋒として崩れた長尾勢を追撃。殿軍の甘粕景持を3度にわたって追撃した。川中島合戦をはじめとする三方ヶ原合戦、長篠合戦の三大合戦といわれる戦に参戦し、「参謀総長」として軍陣を指揮し、その手並みのあざやかさは敵味方の区別なく賞賛の的となった。永禄5年(1562年)には武田晴信の命で信濃牧野島城を築城。築城の名人としても名高い。深志城や三河古宮城、遠江諏訪原城などの設計も手がけたという。信濃牧野島城主をつとめ650騎を率いる一方で、飛騨先方衆、越中先方衆をも束ねている。越後の上杉軍を監視する役目を担うとともに、越中方面、飛騨方面への御先衆をつとめた。越中椎名氏と飛騨江馬氏を相備とし、わずかな配下の兵を城に残し、武田晴信のともをつとめつづけた。永禄8年(1565年)からは武田晴信の許しをえて美濃守を称する。「鬼美濃」と称された猛将原虎胤にあやかったもの。永禄10年(1567年)の下ノ郷起請文には馬場信春と記されていることから、名前を「信春」と改めている。永禄11年(1568年)12月、駿河侵攻の際には、武田軍の先鋒として今川氏真の江尻城を落とす。駿河城に陣を進め、武田晴信が「宝を運び出せ」と今川氏の宝物を収奪するように指示すると、「敵の財宝を奪いとるなど、貪欲な武将と後世の物笑いとなろうぞ」と猛反対し、雑兵が奪いとった宝をすべて館に投げ返し、館もろとも焼き払ったという。君命に背く行為ながら、武田晴信は教来石信房の器量に恐れ入り、深く己を恥じたという。永禄12年(1569年)、武田晴信が北條氏康と戦ったときには、先陣をつとめ、膠着した戦況を打破するために「きつつき戦法」を提案し、永禄12年(1569年)1月、興津河原合戦において松田憲秀の軍勢を圧倒し、10月に小田原城を包囲したときには松田屋敷を焼討ち。 真田昌幸が一番槍で突進した三増峠合戦では、 山縣昌景勢が到着するまで北條勢の猛攻をしのぎ、三増峠の戦勝を導いている。元亀元年(1570年)、武田晴信は攻略した江尻城や徳一色城の改築を教来石信房に命じる。奉行として工事を指揮し、駿河支配、遠江支配の拠点となる堅固な城塞を構築した。元亀3年(1573年)10月3日、青崩峠を越えて犬居城に宿陣。先鋒の武田勝頼に従い只来城を攻略。二俣城攻城戦では城兵の銃火にさらされ苦戦を強いられるが、 山縣昌景とかたらい二俣城の水の手を断つ作戦を考案。12月19日、天竜川の上流から筏を流し、櫓を倒壊させる。飲料水を断たれた城兵はたちまち降伏し、二俣城を陥落させる。12月22日には、左翼に布陣して徳川勢と対峙し劣勢となっていた小山田信茂を援け、盛り返し勝利する。勇壮かつ忠節な徳川の将兵(三河武士)に着目し、武田晴信が徳川家康と同盟しなかったことを悔やんだともいわれている。三方ヶ原合戦では第ニ陣に属し、先陣をつとめた山縣昌景、工藤昌豊(内藤昌豊)の猛攻によって崩れた徳川勢の側面に攻撃をしかけ、逃げる徳川家康を浜松城まで追撃する活躍も見せた。天正元年(1573年)4月に武田晴信が帰国途中に信濃駒場で病没すると、天正元年(1573年)9月に徳川家康が長篠城を落とし、 武田勝頼は天正2年(1574年)1月に美濃明智城、高天神城を攻略。連戦連勝の勢いにのった武田勝頼は天正3年(1575年)4月に三河へ進軍。5月には長篠城を包囲した。 織田信長、徳川家康連合軍は長篠城の救援に到来。設楽原へ布陣したその圧倒的に多勢の兵と、三重に張り巡らされた馬防柵を見て、教来石信房は不利を悟る。
戦うこと40年、時の流れと老いには勝てなかった。しかも若い世代には優れた人材がなく、彼が小幡虎盛や山本勘助から学んだ戦略、戦術、築城術のノウハウを語り伝える者もすでにいなかった。 武田晴信を失った武田氏の難問が長老として彼の双肩に重くのしかかっていたであろう。 武田勝頼が家督を継承すると同時に、武田氏の暗い行末を見とおしていたかもしれない。「ひとまず陣を退いて対策を立てるべきではないか」「織田徳川連合軍との正面きっての決戦を避けて、長篠城だけを集中的に攻撃したあと、手を返すように軍を退いて敵方の追撃を信濃にまで誘い込んで一気に撃滅する作戦はいかがか」と幾多の作戦を進言するも、 長坂釣閑斎ら武田勝頼の側近たちには受け入れられず、天正3年(1575年)5月の長篠合戦に、反戦派の筆頭として終始「戦うことの不利このうえなし」と主張しつづけていたが、聞き入られなかった時点で自分がもはや武田氏に必要とされていないことを悟ったであろう。5月21日の朝、右翼先鋒をつとめていた教来石信房は果敢に織田軍へ突撃したが、激しい銃撃によって手勢を700余人にまで減らされてしまう。 武田勝頼本隊も総崩れとなったため、教来石信房は殿をつとめ、敗走する武田勝頼が無事に逃げ延びるのを確認してから、敵陣に突撃。佐久間勢、明智勢を撃破し、馬防柵を三柵まで破ったが、各将戦死の悲報が伝わるなか、「われは馬場美濃守信春という者なりっ!!討って高名にせよっ!!」と名のりをあげ、刀に手もかけずに泰然自若と敵に首をさずけたという。61歳の生涯を終える。『柏崎物語』のなかに「美濃守(教来石信房)、月毛の馬に乗って槍を持ち、出沢口の手前の高所に立ち、われは馬場美濃守なり。討って功名とせよ、といえども近寄る者とてなし。徳川家臣川井三十郎(河井三十郎)、槍を持ちて向かう。美濃守(教来石信房)、素手にて穂先をつかみ、われとわが胸に刺し、介錯せよと叫べど誰も首打つ者なし。美濃守(教来石信房)は一生兎の毛ほどの手傷も負わずなり」と記されている。織田方の史料でも、その勇将ぶりは称賛され「馬場信房の働き、比類なし」と残る。墓は自元寺(白州町白須)にある。
教来石氏は、一條長広の長男教来石広政からはじまり、教来石政次、 教来石政久、教来石政長、教来石政房、教来石政忠、教来石房政、 教来石遠江守信明、教来石美濃守信保へとつづく。 教来石信房には長男教来石遠江守昌房、次男教来石氏勝(教来石信盛)、三男教来石信義、四男教来石房勝、五男教来石昌松、六男教来石信忠がいる。 教来石昌房には長男教来石氏房、次男教来石信勝、三男教来石信武、四男教来石信政、五男教来石政光がいる。 教来石房勝には長男教来石房家がいる。 教来石信保には次男教来石信頼がおり、兄教来石信房を補佐した。 教来石信頼からは教来石民部信久、教来石信久、教来石右衛門信成、教来石信正へとつづく。
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