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呪縛から逃れてコミュの赦しの構図---信仰による従順

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律法と、罪、義、信仰、キリストの功績、赦しの関係についての
EGホワイトの註解です。

(ローマ3:28、4:3〜5、5:1、エペ2:8に基づく)



●信仰は、神が罪人にゆるしを与えられる約束の条件である。

●信仰の中に救いの功績がとなるような何らかの徳があるのではない。しかし、信仰はキリストの功績を捉えるから、罪に対する救済策が与えられる。

●信仰は、罪人の不義や不足の代わりに、キリストの完全な従順を提示することができる。罪人がキリストは自分の個人的な救い主であると信じると、必ず果たされるキリストの約束によって、神はその罪を赦し、無償で彼を義とされる。

●義は律法に対する服従である。律法は義を要求し、罪びとはこれを負債として律法に負っている。しかし、彼はこれを支払うことができない。

●彼が義を得る唯一の方法は、信仰による。

●信仰によって彼は神のところにキリストの功績を持っていく。

●すると主は、み子の従順を罪人の勘定書に入れられる。

●キリストの義が人間の過ちの代わりに受け入れられ、神は悔い改めて信じている魂をゆるし、義とし、彼が義であったかのように扱い、み子を愛するように愛される。

このようにして、信仰は、義とみなされるのである。

(レビュー・アンド・ヘラルド1890年11月4日より。●は、管理人追加)


一万タラントの負債のある僕が王に赦された話がありますが、
律法の求める義によって、私達は神に対して、1万タラント(17年分の給料くらいだそうです。)の負債があります。つまり、律法授与者である神に対して負債があるのです。そして、それを支払えません。しかし、キリストの義の恵みによって、神はその負債を帳消しとして下さいました。



■ローマ3:28

<口語訳>
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。


<新世界訳>
28 わたしたちは,人は律法の業とは別に,信仰によって義と宣せられる,とみなすからです。


■ローマ4:3〜5
<口語訳>
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。

しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

<新世界訳>

3 聖句は何と言っているでしょうか。「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」。 4 さて,働く人に対して,給料は過分の親切ではなく,債務とみなされます。 5 他方,業を行なわなくても,不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては,その人の信仰が義とみなされるのです。


■ローマ5:1

<口語訳>
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。

<新世界訳>
それゆえ,わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。

■エペ2:8
<口語訳>
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

<新世界訳>
まさにこの過分のご親切のもとに,あなた方は信仰によって救われているのです。そして,これはあなた方によるのではなく,神の賜物なのです。


※新世界訳では、「恵み」を「過分のご親切」と訳されています。

コメント(3)

□■信仰の単純さと力■□

信仰は、その働きにおいて単純であり、その結果において力強い。多くの自称クリスチャンが、自分は聖なるみ言葉についての知識があり、その真理を信じているというが、彼らはイエスの宗教に欠くことのできない子供のような信頼を抱くことに失敗する。彼らは、魂に癒しという効力をもたらす特別の接触をしていない(Redemption: The Miracles of Chraist,P97)。
□■罪のために治療法■■

(ロマ5:11、3:24〜26)

キリストの贖いは、我々の罪がゆるされるための単なる技術的な方法ではない。それは不義の癒しと霊的健康の回復のための神の治療法である。それは、キリストの義がわれわれの上に着せられるだけでなく、我々の心と品性の内に宿る、天が定めた方法である(書簡406、1906年)。
□■律法と福音の分離■□

敵はいつでも、律法と福音を分離するために働いてきた。それらは切っても切れない関係にある。(Manuscript11,1893年)。

我々は律法について語る時、御父とみ子を共にあがめるのである。御父は我々に律法を与え、み子はそれを大いなるものとし、栄あるものとするために死なれた。(同5、1885年)。

イエス・キリストの義をつかまない限り、エホバの律法を高めるkとおは、我々には不可能である(同5、1889年)。

 エホバの律法は木であり、福音はその芳しい香り、またそこに実る果実である(書簡119、1897年)。

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