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ニーチェ「善悪の彼岸」を考えるコミュの序

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【人間は変わるか変わらないか】
 人間は変わりえるのだろうか、変わらないのだろうか?変わる人間もいるのだろうが、私の場合は希望の方向には変わらなかった。酒等をやる以外には。ただ変わりうるという希望はいつまでも持ち続けていきたい。
【要因】
 人間が変わりうるものと考えるか変わらないものと考えるかによって、世界観はがらりと変わる。人間が変わりうるものであるならば、不平等な世の中で下流に属している者が下流たる所以は怠慢であるからということがまず第一に思い浮かぶ。しかし、そう言い切れるかは疑問であろう。それを形式的に表現すれば、人間は変わりえる部分と変わらぬ部分がある、ということになるだろう。そしてそれらは個人差があり程度があることが考えられるであろう。そのようなことは経験によってある程度までは把握できるものではあろう。経験の結果には常に要因がある。ある経験の結果の要因をも把握できなければ、人は真理に辿りついたとは言えない。例えば人間が変わるということについて言えば、要因としてはそれを具現化させるための方法というものが考えられるであろう。実は未だ発見されていない人間を変える方法があるかもしれない。それが発見された場合、それまでに経験によって知りえたことはまるで無意味なことになる。
    【人間性の傾向】
 人間性の傾向には種類があると言えるだろう。多弁な人間と思慮深い人間。発想が豊かな人間と発想が乏しい人間。嫉妬深い人間と大らかな人間。普通を目指す人間と大きなことを目指す人間。変われるならば変わりたいという人も多いだろう。
【心の中に自分の世界を作る】
 経験の蓄積によって心の中に自分の世界が出来上がる。そして、それらが様々なカテゴリーや関連に分類され整理される。思い出は、場面場面で様々な音楽・風景・関連する出来事・会話・価値感・イメージなどとリンクしているために、それらを通じて連想の道のようなものが心の中に出来上がる。連想の道のようなものは人によって違うものの、人間として成熟してゆくにつれてそれぞれの人にとってのそれは同じような様相を呈してくる。そして人は経験には要因があることを認識しなければならない。その認識の証は「謙虚」という形で人間の表層に現れる。連想の道のようなものをもってして人は様々なことをある程度予測・推測したり想像することができるようになる。そのようなことから人間の奥深いことは決して明確に言葉のみでは語れないと言えるだろう。また、真理は決して言葉の関係式のみによっては導かれないと言えるだろう。
【後ろめたい行為や嘘偽りの無い経験】
 人は後ろめたい行為や嘘偽りの無い経験によって、他者に表現可能な自由な発言を無心で行うことができる。なぜならば、後ろめたい行為や嘘偽りの経験が発言の節々に見受けられる場合、他人に不審に思われるために、人はそのようなことを避けようとして発言内容を再考するようになり、それが自由な発言を躊躇させるからである。後ろめたいことや嘘偽りが一切無い場合に、人は「正々堂々」とした態度をとることが可能となる。
【善悪の発端】
 戦いに勝った者は改善すべきことを後回しにする。負けた者は一から再構築する。そして敗者は善悪を問う。善悪を問う事は敗者の勝者に対する執拗な非武装的攻撃という面がある。果たして善悪を問う事にはどのような意義があるのであろうか。善悪に重きを置くということは絶対的価値の元の平等が保証されることであって、その元で弱い立場の人々は安堵することが出来るであろう。それが道徳化というものではないだろうか。
【勝者と敗者】
 弱い立場の者にとって、善悪は普遍的であればあるほどに武器の代わりとなり得る。一人一人のそれらの考え方の蓄積によって道徳といわれることが導き出されたことが考えられる。勝者は勝者の理論から免れることが出来ない。勝者は自分の勝利に固執しがちであり、そのような者は自分自身の経験絶対主義者となって、自分の保身に時間を割く。それが「傲慢」という態度となってそれらの人の表層に表れる。自由を過剰に追い求める者は結果的に崇高な敗者となる。そして敗者は道徳の鎧を身に纏い、経験を重ね真理を問うことによって、未来の勝利を希求することになる。
【独断】
 独断で人間の真理を表現できないのはなぜか?まず、独断が言葉の羅列によって成立することに着目すべきであろう。言葉による表現には限界があることを人は常に意識する必要があると言えるであろう。例えば「男は単純」「女は現実的」という独断がまことしやかに世間では囁かれているが、その信憑性を考慮すれば独断とはどのようなものか、おおよそ見当がつくであろう。現実のことにはケースと程度と要因がある。もしかすれば、男女平等が憲法によって定められた結果、「女は現実的」ということが言えるようになったのかもしれない。「女は現実的」ということは、現代の多くの人の経験を経て辿りついた独断であったとしよう。もしも男女平等が憲法によって定められたときにそれらの独断が生れたならば、男女平等が憲法によって定められたことが経験の要因の変化として考えられることである。現代において、経験によって概ね100%であると考えられる真理めいたものも、どの要因がどのように変化すれば、どの程度信憑性が変化するかをも推測できることが、ある経験の結果の要因をも把握することである。
【言葉と経験】
 人は経験から言葉を表現することが可能であるが、言葉によって、経験を作り出すことは不可能である。「人間は考える葦である」という言葉があるが、その言葉を知ることによって、経験を為したとは当然考えられない。人はそれぞれがどの程度にどのような要因で葦であるかは実体験を通して、その概ねまでを知ることが出来る。またそのような言葉が人に全ての人々が同様であるという先入見をもたらす。その言葉を採用している者は、葦がどのようであるかを想定して行動するのであろうが。葦をどのように思うかでその行動は多種多様に変化すると言えるだろう。

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