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被災地NGO恊働センターコミュの「いとしの能登 よみがえれ!」〜能登半島地震・その後

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「いとしの能登 よみがえれ!」〜能登半島地震・その後31

久しぶりの能登レポートです。今日の話題は、「熊甲二十日祭」(通称「お熊甲祭」)で、実は写真集発行以来この祭りについては何度も紹介させて頂いています。
(写真集については、こちらをご覧下さい。
http://www.pure.ne.jp/~ngo/noto.html
今回のレポートは神戸から大学生や社会人、栃木・新潟・名古屋から足湯ボランティアなど災害救援ボランティア関係者総勢31名でこの祭りに参加してきたご報告です。
この祭りは、能登・七尾市中島町(旧熊木郷)で催されている「寄り合い祭り」で、毎年、曜日に関係なく収穫を喜び、豊作を神に感謝し、9月20日に行われますが、今年は日曜日とも重なったので大変な人手でした。熊木の名は、万葉集にも出て来るように熊甲社(後に久麻加夫都)の祭神が渡来系人格神であることで、高句麗(高麗・こま)よりの渡来人定住地、高麗来(こまき)というところからといわれています。そして境内には熊木薬師如来像を祀る薬師社があります。神仏混合の典型です。

会場となる中島町のあちらこちらで、寿命の短い彼岸花=曼珠沙華が精一杯花を咲かせている中、今日も早朝からこの祭りに欠かせない独特のリズムを持つ鉦と太鼓が鳴り響きました。1000年以上の悠久の時を刻む、この壮大な祭りは、いまも五穀豊穣を願って盛大に行われているのです。今年は19末社のうち17社から旗枠が出され、やはり少子高齢化の影響がもろにでており、神輿の担ぎ手が揃わず不参加を決めた集落も二つとなりました。そもそも今回の私たちの参加も、この現象を少しでも止める役割をできないだろうかと祭りの応援をしようと1年前から計画していたものです。
災害後の支援として、こうした被災地の祭りを支援することを通してその被災地をより理解するということが狙いでもありました。加勢に行ったのは19社の一つ小牧白山社を末社にする小牧地区です。小牧の窓口になっている壮年団の方も県外からのこうした応援を盛り上げるために「最近では一歩踏み込んで、女性も担いでいるところがあるので、なんとか調整して見ます」と頑張って下さっていたのですが、やはり協議の結果”ダメ出し”が出て担ぎ手は男性ばかりになりました。

でも本来、女性は女性の役割があって、イイダコや里芋やこんにゃくなどを使って「祭りごっつお(ご馳走)」を造るのもこの地の習わしのようです。せっかく参加を希望して下さっている女性たちに申し訳ないということで、前日の早朝から浜でのイイダコ釣りをし、そのイイダコも使っての「ごっつお(ご馳走)」づくりを教えて貰うことになりました。
おかげさまで女性たちは大変喜んでいました。(*資料によると、男手のない戦時中、婦女子が大枠旗を担ぎ祭礼に参加したこともあるとのこと。)そして小牧白山神社の本殿で、女子は”どぼんこ”(旗枠の最も先端につける飾り)の修理や草鞋づくりや花笠の飾り付けなどを手伝い、また男女が20?〜23?もある枠旗を取り付ける長い杉の旗竿をタオルで拭きあげます。ちなみにこの旗竿は接いでない一本の木で造られています。

今年小牧地区は旗枠を2台出しましたが、昨年の小牧壮年団団長いわく、そのうち1台は5〜6年ぶりで、しかもこの枠旗に靡く深紅の枠旗は20数年ぶりとのこと。小牧の枠旗は゛無字゛にこだわっており、本社に20本の枠旗が並んだ中でもズシリと歴史の重みを感じさせてくれます。だからかも知れませんが、前日のこの作業は、ただ淡々と何度も何度も拭きあげる作業ですが、「今日まで何事もなく無事であったことへの感謝と明日は無事に事故も無く、頑張って下さい」と願いを込めての作業でジーンとくるものがありました。一台は5〜6年ぶりで、その間雨ざらしになっていたのでカビが生えている部分もあり、みんなで丁寧に拭き取る作業をさせて頂きました。こうした前日の作業も村の方たちと一緒に行うことで連帯感が生まれでしょう。しかし、不思議なことに私たち応援団はこの旗枠を担ぐのは初めてにもかかわらず、ほとんど練習もせずに本番に望みます。不安と緊張の中で本番を迎えることになりますが、さてどうなることやら?

いよいよ本番です!早朝6時に穴水の宿を出発し、どこからともなく聞こえてくる鉦と太鼓の音色を聴きながら集合場所の小牧白山神社に向かいました。昔から゛瀬嵐(せらし)゛という漁師町の集落だけは神輿と旗枠を船に積んで来るそうです。これもなかなか情緒のあるものです。この1日が始まる直前の気持ちの高ぶりは何とも言い難い状態ですが、この緊張した時間が何とも言えないほどの心地よさがあります。まず地区に入ると、小牧地区の末社「小牧白山神社」に拝礼し、(担ぎ手だけですが)法被や地下足袋などを頂き、その後前日に加茂原に置いていた旗枠を組み立て、いよいよ本社(久麻加夫都阿良加志比古神社)に向かいます。

朝7時頃からの順次本社に宮入ですが、17の末社が繰り出す20本の旗枠がところ狭しとすべて本社に入り終わるのが午後12時半頃になりました。各隊列は、金幣、社名旗に続き、猿田彦神の実に見事な舞を先頭に、鉦と太鼓を従えて、総勢26人(旗枠を担ぐ約40名を除く)になり、その後列に神輿と旗枠が次々と宮入します。宮入の前に神社の正面の広場で各旗枠は「イヤサカサー」と「オイヤサー」のかけ声で盛り上げながら、少し゛暴れ゛て宮に入ります。9月6日「しらい」で宮入の順番が決められており今年は4番目と早い宮入のクジを引いたようです。午後から加茂原への渡御が始まり、お旅所加茂原に先頭の熊野社が入ったのが午後2時過ぎです。それから丁度最後の枠旗が入ろうとしたのが午後5時20分すぎです。毎年のことながら日没とともに、今日一日の神事と祀りごとがすべて終了します。夜明けとともに村中で鳴り響いていた鉦と太鼓の音は、神輿や解体した旗枠などを大型のトラックに積み込んだ後も、荷台の上から暗闇の中でいつまでも鳴り響いているのが印象的でした。加茂原はいつまでも余韻を残したまま静かに暮れて行きました。

ちなみにこの時期に催されている豊作を祝う他の秋祭りは、6年ぶりに町内全地区からキリコが練り歩く珠洲市狼煙町の秋祭り、能登町小木の御船神社の大祭はじめ、穴水町前波の諸橋稲荷神社の秋祭りなどです。(能登には数え切れないほど祭りが各地で催されます。)

私たちはこの経験をもとに、もう一つの復興支援のあり方を探り、来年も是非とも参加したいと思います。小牧地区のみなさま、ほんとにありがとうございました。集落を歩いていると、出会う婆ちゃんたちが「人足ですか?有り難いことです。」と何度も頭を下げて迎えて下さったことが忘れられません。
それにしても、初めての参加で重さ1トンもある旗枠を無事担ぎこなした格好いい”人足”とそれを支えて下さった女性陣に拍手を送りたいと思います。ありがとうございました。

*しらい=祭りの行事が行われる前に、関係の責任者であるところの氏子総代・区長・壮年団長が集合して、祭りに関する役割や経費など一切のことを協議して、二十日当日の祭りが盛大無事に執行されるようにはかること。習礼が語源のよう。

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「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 33
能登半島地震から2年と6ヵ月、地震復興願うイベントが開かれた。10月3日、輪島市にある有名な「千枚田」という棚田に、復興を願って3万本のローソクが灯された。また同じく10月3日、前号で報告したように、全壊の寺から再建が現実となり、やっと「能登半島地震被災・法輪山興禅寺再建ご報告並びに落慶法要」が催された。この寺は、曹洞宗総持寺末寺である。いまではこうした末寺は数少ない。艱難辛苦を乗り越え、再建を果たしたこの寺の名は永遠に人びとに語り継がれるだろう。法要の読経の後、市堀住職は挨拶をしなかった。前もって司会者の人に「泣き出すから代わりに読んでくれ」と頼んでいたようだ。

「托鉢は僧侶の本願だ!」と、全壊の寺には山門と賽銭箱を残して托鉢に出られた。2年半だ。賽銭箱には「再生」と書かれ、寺の掲示板には「遠いから歩く」と書かれていたことを思い出す。托鉢の間、口に出すのも憚るような言葉も投げられたと聞く。そして数え切れない人とまた出会った。住職は「地震のおかげ」という。この多くの縁をいつまでも大切にしてきた営みが、再生を確かなものにしてきたのでしょう。いつまでも「地震」のことを忘れない。またこの縁を通して、自分と向き合うことから逃げてはいけない。市堀住職は「来た道への感謝と、これから歩む道への祈りの場にしてほしいんです。」と言われたことがある。今日、無事落慶法要を迎えた寺の掲示板には「縁を生きる」と書かれてあった。

http://ngokoblog.seesaa.net/
「いとしの能登 よみがえれ!」−能登半島地震・その後 44

ちょっと話題を変えて一休みです。
大学生を中心に集まっている「中越・KOBE足湯隊」は能登半島地震発生後の5日目から避難所で足湯ボランティアをしてきました。災害発生後5日目に避難所で、しかも被災地外のボランティアが活動できるというのも画期的ではないか。
さて、今回は(11月20日〜23日)これまでも一緒に活動してきた新潟県長岡市にある長岡技術科学大学のメンバーも加わっての活動です。久しぶりの能登での足湯ボランティアとなりました。8月以来、兵庫県西北部地域を襲った水害の被災地佐用町に足湯に出かけていたので、能登はご無沙汰していました。

今回は、また足湯をさせて頂く場所としては、初めてでまた珍しいかも知れないところで行いました。
2ヶ所のお寺です。
1ヶ所は地震で全壊になりやっと再建を果たした門前町の「興禅寺」さんで、もう1ヶ所は大規模半壊となった黒島の「名願寺」さんです。
どちらのお寺も写真集「いとしの能登 よみがえれ」でも紹介していますが、実はどちらもお寺の本堂で足湯をさせて頂くことになり、大変貴重な体験をさせて頂いたようです。 
というのも、以前高野山足湯隊のリーダーTさんに教えて頂いたのですが、
その昔、東大寺大仏殿の建立中、光明皇后が”われみずから1千人の垢を去らん”いう誓願をたて、境内に浴室を建設し、さまざまな人を入浴させて、1千人の垢を落とそうと決意させられたそうです。
ところが、1千人目に癩におかされた男があらわれ、少し躊躇したが、勇を鼓しその体を洗い膿をお吸いになった。
すると男は大光明を放ち、自分はアシュク仏であると告げた」ということだそうです。
そもそも、病気の人や困っている人に湯を施す「湯浴み」は、中世の大寺院が行っていた施行の一つとのこと。そう言った謂われのあるお寺で、しかも本堂で足湯を行うというのはほんとに「もったいない」ことです。

ところでいつも足湯をしたときに集めさせて頂いている被災者の”つぶやき”ですが、今回のように災害発生から2年と8ヶ月が経過したところでのつぶやきというのは数少なく、それだけに何度も拝聴させて頂くと、生活のリズムは完全にもう災害前に戻った被災者の存在に気づきます。
例えば77歳の女性のつぶやきから一部を紹介すると、
「グラウンド・ゴルフをしている。最初は知り合いに誘われて始めたけど、その人は止めて私は続けている。若い人ともしているけど、若い人には適さない。距離が飛ばないし、あんなにぴったり止められない。足湯はグラウンド・ゴルフをした後にしている。畑もしていて色々つくっている。畑では
自分の食べる分をつくっている。起きたい時に起きて、行きたいときに畑を見に行っていい暮らしをしている。(中略)今度孫ができる。あんたのおばあさんもあんたが可愛いいよ。あんたらいいことしてしているね。足湯して貰って気持ちいい。ポカポカしてきた。」
というもの。

もちろん、災害の種類によっても、被害の度合いによっても、被災者にとっての再建の度合いは異なるでしょうが、阪神・淡路大震災での3年目ではこんな余裕は出てこなかったのではないかと思われます。
もしかすれば、能登のように日ごろから豊かな自然に恵まれて暮らしている地域の方が、都市に比べて少なくとも気持ちの復興が早いのではないかと気づかされるつぶやきである。

余談だがそれにしても水害のあった佐用町は、まだ4ヶ月にもかかわらず元気だ。中でもいつも話題を独り占めにしているほどの、あの有名な特産物の”ホルモン焼うどん”は、12月下旬まで6週間だけの期間限定発売だが、なんと近畿2府4県のローソン約1800店舗で販売されるようになったそうです。
復興バネという表現があるが、これほど早く、また上手く復興バネを利かせて再建に勢いをつけようという動きは、これまでの被災地では見られなかった現象でしょう。
考えてみれば、”ホルモン焼うどん”って、佐用でしかできないと言うシロモノではありません。それだけに、こうして特産物にした佐用のみなさんの努力は注目すべきではないでしょうか?

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