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但馬の神社コミュの(六)中井家の歴代彫物師

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柏原の彫物師、中井氏の作品は、丹波・丹後さらには但馬・播州地方の神社仏閣などに相当数残っており、所在が確認されている。ここでは最後に作品の一覧表を掲げる。
ところが、彫物師の個々の方のことは、ほとんど何も判っていない。それでも一応説明をする。敢えて私見を交えるのであるいは見当違いがあるかもしれない。
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?中井言次(忠定)

大工の家職は弟の「久太夫」が継いで、兄の言次が専門の彫物師になったという。ただし、残っている作品がそう多くないので、大工の棟梁としての仕事もしていたとも考えられる。とはいえ、山東町・當勝神社(まさかつじんじゃ)の古宮、篠山市の神田神社(こうだじんじゃ)など、当地の名社の彫刻を手がけている。地元柏原では八幡社の摂社の稲荷社(通称、五社稲荷)がある。
自ら彫刻専門になっただけに自信とプライドを持ち、脇障子などに銘を刻んでいる。当時もその後も、一般の大工が手がけた彫刻には銘は入れていないのが普通である。この人は名人気質の人であったと思う。
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?中井丈五郎 正忠

言次の長男。「青龍軒」と号した。後に屋号となる。
この人から、本当に彫刻専門になったようで、作品が大幅に増える。多く、久須善兵衛と一緒に仕事をしているが、余程温厚で謙虚な性格なのか、銘はたいてい久須善兵衛を先にしている。銘には多く墨を入れている。
三和町の大原神社には透かし彫り、籠彫りという非常に細かい細工の作品を残している。
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?中井権次 正貞

丈五郎の長男。本名は丈吉。
中井家の中でも一番多く優れた作品を残している。若い頃から父に従って彫刻の仕事に当ったようで、「中井丈吉」とだけの銘もある。また、「中井文五郎正貞」というのもあり、最後は「中井権次橘正貞」となる。正貞の前に橘を入れたのも非常に多い。家伝を見て、自分にはあの偉大な「正清」の血が流れていると信じてか、彼の使っていた「橘」を取り入れたのであろう。ともかく、天才肌の名人であっただけに自負心が強く、雨のかからない所に銘を彫り、銘には必ず朱墨を入れている。
しかし、香良の岩滝寺の観音堂や、上牧の弁財天社などの小品も手がけており、銘は「中井権次正貞」で、若年の作品ではない。従って尊大な性格ではなかったはずである。
作品は近くの地元柏原の八幡社の拝殿と三重塔を初めとして、はるか遠くにも数多い。中でも特筆すべきは、香住町の「亀居山 大乗寺、「応挙寺」の客殿の彫刻である。
客殿の各室は、かの円山応挙一派の襖絵で埋め尽くされていて有名だが、その客殿の玄関を飾るのが正貞の彫刻なのである。
それは唐破風の軒下虹梁上に子獅子が遊ぶ彫刻と、その奥の欄間の菊の透かし彫りで、彼としては小品で数も5つと少ないが、名前はもちろん、文政6年(1823)と彫刻年も明記してある。ともかく要請を受けて、はるばる此処へ来て名品を残したのである。彼が但馬の果てまでも聞こえた名手であったことが知られる。近くの久美浜町の寺社にも作品がある。それらはもっと絢爛である。筆者の地元の鎮守社の彫刻も、小品ながら腕の冴えを見せた名品で、まことに貴重である。なお、「権次」の名は、子の「正次」と孫の「正胤」が襲名している。
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?中井権次 正次

正貞の息。子の人の作品はなぜか非常に少ない。確認されているのは、柏原で一件、篠山市で二件、山東町で一件である。ところが大変なことを聞いた。かの大乗寺の山門の彫刻に「中井権次正次」の銘があったということである。その山門は同寺にふさわしく、多数の彫刻を配した立派な建物である。筆者もこれは中井彫刻ではないかと思って訊ねたが、寺では建物や彫刻の調査は充分行われていない気配であった。再確認が是非必要である。
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?中井権次 正胤

正次の長男。本名は光太郎。
六代正貞に次いで多くの作品がある。明治、大正時代に仕事をされたのでああるが、やはり見事な作品を残しておられる。最後の仕事は大正7年(1918)の、春日町朝日の八幡宮という。向拝の彫刻の背面に「本郡柏原町住 彫物師八代目 中井権次橘正胤」と銘がある。「橘」の姓も入れ、朱で墨入れがしてある。
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?中井喜一郎

正胤の息。中井家の菩提寺、柏原下町の本覚寺の欄間に作品が残るが、その後宮津市へ転出された。以後も彫刻を続けられたようだが、何分戦争の最中の時代でご苦労されたようだ。
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?中井丈夫

喜一郎の長男。先代について彫物を習われたが、時代が時代だけに彫刻というほどの仕事がなく、仏壇の飾りや印判彫りまでされたという。
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〇久須善兵衛正精/久須官蔵/久須真助

善兵衛は五代丈五郎の弟子で、いつも一緒に仕事をしていたようで、銘の多くは二人連名になっている。この人は中井家の過去帳にも記載されてあり、身内と思われる。官蔵・真助はその子・孫であろう。この家は明治以降「久須美」と改姓した。

〇中井清次郎正用

六代正貞の弟。「清次郎」は時には「清次良」とも。
多く兄と一緒に仕事をしていて、連名の銘が多いが、時には清次郎単独の作品もある。

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