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但馬の神社コミュの出石神社(豊岡市出石町)

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出石神社(イズシジンジャ)/式内社/旧國幣中社/但馬國一宮


■鎮座地:豊岡市出石町宮内99
■御祭神:天日槍命(アメノヒボコノミコト) 出石八前大神 (イズシヤマエノオオカミ)

<行き方>
豊岡市街地から円山大橋を渡り、円山川、出石川に沿って出石町内へ向かう426号線の鳥居橋信号で曲がった突き当たり。

■由緒沿革(参拝の栞より)

出石神社は、天日槍命が新羅の国よりお持ちになった八種の神宝を出石八前大神として、また天日槍命の大御霊を御祭神としている。
天日槍命は「古事記」「日本書紀」ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、八種の神宝とは、「古事記」には珠二貫(たまふたつら)/振浪比礼(なみふるひれ)/切浪比礼(なみきるひれ)/振風比礼(かぜふるひれ)/切風比礼(かぜきるひれ)/奥津鏡(おきつかがみ)/辺津鏡(へつかがみ)の八種としている。

田道間守命(たじまもりのみこと)=菓祖、神功皇后(仲哀天皇皇后)は天日槍命の子孫。

コメント(35)

行ったことのある神社の名を見ると嬉しいです。
らくようさんこんにちは。
何度も行っていても改めて見てみるといろいろ発見がありますね。
出石方面は家から割りと近いのになかなか回れませんでしたが、これからボチボチと参拝してゆきます。
神社の創立年代は明らかではありませんが、社伝の「一宮縁起」には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によれば、遅くとも8世紀のはじめ頃にはすでにこの地で祭祀が行われていたことがうかがわれる。

但馬一宮…通称「一宮(いっきゅう)さん」と呼び親しまれている。(参拝の栞より)

写真左:社頭(ジョルジュさん参拝報告より)
写真中:社頭塀
写真右:駐車場の大きな木と参道に並ぶ灯篭

天日槍命は泥海であった但馬を円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水にまた、殖産興業に功績を残された神として尊崇を集めている。

写真左:鳥居(ジョルジュさん参拝)
写真中:鳥居
写真右:鳥居
出石神社の鳥居は「両部鳥居」という種類のものです。

※両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。

写真:稚児柱部分
上記両部鳥居の他に、駐車場横の灯篭が立ち並ぶ参道を抜けると、もう一つ石造の鳥居があり、石の社名標がある。
写真左:石の鳥居から参道を入ってすぐ右手に広場があり、ゲートボール場になっている。

写真中・右:石畳の参道左は大きな駐車場で、参道右にはゲートボール場のほか、石碑や東屋の休憩所、公衆便所がある。
写真左:石畳参道が終わると道路を挟んで大きな木製鳥居の社頭に出る。
写真中:公衆便所
写真右:駐車場から見た境内周囲の塀
写真左・中:木製鳥居手前には狛犬
写真右:向いには灯篭がある
写真左・中:境内入って右手に手水舎
写真右:手水舎の後ろに土俵がある。
写真左:土俵は以前は境内左手にあったという。(元の土俵の場所)
写真中:境内内側から見た木製鳥居
写真右:鳥居周辺の巨木
神門は丹塗の八脚門で、数多くの蟇股を飾り、左右に連なる塀も丹塗を施している。とても鮮やかな門。かつて一度焼失し、その後も度々修復されている。
神門前には、旧鳥居の柱の残欠が置かれている。

写真左:神門前面
写真中:神門前の灯篭と、門の左右に連なる塀
写真右:神門入口横に置かれた旧鳥居の柱部分
社殿は大正三年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面に切妻造りの幣殿と祝詞殿があり、拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで、蔀戸(しとみど)をつり、正面に拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝がある。

写真:平唐破風出桁の向拝が前にある拝殿
写真:舞殿形式・入母屋造りの拝殿と蔀戸(しとみど・バタンと落として閉める扉)
写真左:拝殿と本殿とその間にある幣殿(神事を行うところ)写真:ジョルジュさん
写真中:本殿横から。彫刻が重厚。
写真右:本殿懸魚
写真左:本殿部分(写真:ジョルジュさん)
写真中:本殿蟇股
写真右:本殿懸魚
写真左:拝殿右から見た本殿
写真中:本殿右から
写真右:右から見た幣殿と本殿
写真左:幣殿
写真中:拝殿右横
写真右:社庫
写真左:境内東北隅に約300坪の禁足地があり(天日槍命の墓といわれる)鬱蒼とした林になっている。入ると祟りがあるそうです。(コンクリートの柵の中)
写真中・右:拝殿縁の木製狛犬(江戸時代のものといわれる)
<境内社>
写真左:拝殿左境内の「天神社」
写真中・右:天神社より少し奥に池があり、そこにかかる橋を渡ると「市杵島比売神社」がある。
懐かしい・・・

もう何年も一宮さんはご無沙汰しています

初詣といえば豊岡の小田井縣神社なので

2010はこちらに参ってみようかなwww
写真左:本殿の右境内、禁足地の前あたりに二つ境内社がある
写真中:手前の方赤っぽい建物が「夢見稲荷社」
写真右:奥のほうが「比売社」

日本書紀によると、「垂仁天皇三年三月、渡来してきた新羅王子・天日槍は播磨国に着くと八種の宝物を天皇に貢献した。天皇は、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、天日槍は自分で諸国を巡り気に入った所に住みたいという。宇治川を遡り一時近江国に住み、その後若狭を経て但馬国に落ち着いた。
出石の大耳の娘、麻多島を妻として但馬諸助が生まれ、その但馬諸助の子が日楢杵、その子が清彦、その子が田道間守(たじまもり)である」という。

※出石神社境内社の「比賣社」は天日槍の妻である麻多島を祀る。
写真左:社務所正面
写真中:社務所右横から
写真右:社務所入口上部
写真左:社務所屋根の懸魚
写真中:社務所屋根の飾り
写真右:社務所彫刻
写真左:社務所軒下
写真中:絵馬堂
写真右:絵馬堂の中にあったポンプ車
写真左:拝殿周囲に掛けられた願い事の絵馬
写真中:境内社「夢見稲荷」の懸魚
写真右:境内社「比売社」の懸魚
■出石神社のことが載っているサイト
★玄松子の記憶(出石神社のページ)
http://www.genbu.net/data/tajima/izusi_title.htm
★神奈備へようこそ(出石神社のページ)
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/izusi.htm

写真:旧鳥居
先にも書きましたが、神門の脇に置いてある鳥居の一部は、出石川改修の際に川から出土したもので、平安時代のものだといいます。出土した付近は今でも「鳥居」という地名で、かつては一の鳥居、二の鳥居があったとされ、二の鳥居の一部ではないかといわれています(「但馬の百科事典」より)

■古事記、日本書紀によれば、新羅の王子・天日槍は赤い玉の化身として日本から来た女性と結婚したが、ある時、夫婦喧嘩の果てにこの女性は日本へ帰ってしまう。彼女を忘れられない天日槍は、七種(書紀)とも八種(古事記)とも言われる神宝とともに、日本へ渡ってくる。そして、妻の故郷難波に向かうが、海の神に妨害されて果たせず、結局、各地を巡った後に但馬に住み、土地の娘を娶り農耕を伝えて、但馬の開拓神として崇められる。この、天日槍を祀ったのが但馬国一之宮の出石神社である。
■一之宮の祭神が異国の神であるのは、おそらく但馬一国だけではなかろうか。

■一方で山陰はもともと出雲の大国主命が開いた国といわれている。当然のことながら大国主命と激しい領土争いが起こる。播磨風土記が伝えるところによると、大国主命はここでは(播磨風土記)別名の葦原志許男(あしはらしこお)命として登場する。天日槍と葦原志許男は、勝負がつかないので、山の上から三本の矢を射て、落ちた所を支配地にしようということになった。天日槍の矢はすべて但馬に落ち、葦原志許男の矢は、養父郡と気多郡に落ちた。そこで、天日槍は但馬の出石を本拠とし、葦原志許男は養父神社と気多神社に大己貴命(おおなむちのみこと)ととして祀られたという。

■天日槍の曾孫が、菓子の神とされるタヂマモリ(多遅摩毛理、田道間守)であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命である

■天日槍は「天」が名前につき、皇室の祖先に深く関係する神(例:高天原の神)並みの表記であり、他国の王子の名としては「天」の漢字がついた名は、他に類例がない。
■出石八前大神
出石神社に天日槍とともに祀られている神宝は、「古事記」では8種・「日本書紀」では7種とされ、いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とアメノヒボコの信仰が結びついたものと考えられる。

■「古事記」と「日本書紀」に出てくる天日槍のお話

<古事記>
『古事記』では、以下のように伝える。昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。
その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。
ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。
ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。


<日本書紀>
垂仁天皇3年春3月に昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。
「昔有一人 乘艇而泊于但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳 麻拖能烏 生 但馬諸助 是清彥之祖父也」
また、播磨国、近江国、若狭国を経て但馬国の出石に至り、そこに定住して現地の娘・麻多烏(またお)と結婚したとしている。
これらの神宝は太陽神或いは海上の神を祀る呪具であり、朝鮮からの渡来民が使っていた祭具と考えられる。「ヒボコ」という名前自体が太陽神を祀る祭儀で使われる矛を表しており、それは太陽神の依り代である。またここで登場する国は渡来系の人々の影響の強い土地である。定住した但馬国では国土開発の祖神とされ、現在でも厚く信仰されている。これらのことから、アメノヒボコは出石に住んでいた新羅系の渡来人が信仰していた神と考えられる。




訂正
>コメント27の「出石の大耳の娘、麻多島・・・・」

×麻多島→〇麻多鳥(マタオ)
◎特殊神事(参拝の栞より)

■立春祭…立春の日に神馬藻(なのりそ)を奉献する慣わしがあります。

■幟まわし…毎年5月5日、氏子男子の初節句を祝い、中学生たちによって行われます。天日槍命が瀬戸を切り開いて引揚げる道中の姿を偲ぶ催しです。

■御年花(おはなびら)祭…新嘗祭(にいなめさい)の前日に木製の火おこしで浄火をおこし、直径12センチほどの薄い丸餅をつくり、当日神前に供した後、参拝者にまき与えます。この餅を御年花といい種々の霊験があるといわれています。

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