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但馬の神社コミュの■当勝神社(まさかつじんじゃ)/山東町粟鹿

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■当勝神社/まさかつじんじゃ
■鎮座地:山東町粟鹿1748
■主祭神:正哉吾勝勝速日天之忍穗耳尊 (マサカアカチカハヤヒアメノホシホミノミコト)読みかたはいろいろあるようです。
■配祭神:高皇産巣日神(タカミムスビノカミ)栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)
■御由緒:伝へ云ふ神功皇后三韓征伐の際、粟鹿大明神住吉明神と共に皇后を助け表米大明神の新羅征伐の際、亦粟鹿大明神と力を合せて冥助を垂れ給ひき故に清和天皇の御代には粟鹿神社の下宮と仰がる。

降って寛永7年、寛延2年、安政2年に本殿を再建し天明6年幣殿を造立す。

延享4年には社殿を建立し此の前後に本殿覆を再建し天保頃には失せ物発見の験ありとて俗間の信仰を集めたり慶應4年本殿拝殿以下を再建し明治6年(1873)10月村社に列せらる。

<行き方>
国道9号線を八鹿方面から和田山方向へ走り、和田山市街地を通り越して大垣の信号で右折、山東町役場のある三叉路をそのまま左方向へ直進し、5分ほど走ると「粟鹿/→右」という事が書いてある標識がある。
右に曲がりしばらくすると道ぶちに「粟鹿神社」の鳥居がみえ、そのまま奥へ進む。
道の突き当たりのカーブのところに橋があり、橋を渡って直進。
正面に山東の森の自然公園があり、その麓に「当勝神社」の赤い鳥居が見える。粟鹿神社からは車で3分くらいの距離。

写真左:粟鹿神社前を通過して橋を越え、直進し、当勝神社が見えたあたり
写真中:神社社頭(ジョルジュさん写真)
写真右:扁額(同上)  

コメント(24)

粟鹿神社とともに山東町の代表的神社で、但馬・丹波・丹後に多くの信者をもつ。
参拝報告のページでジョルジュさんがたくさんの写真を投稿してくださっているので、ここではジョルジュさん撮影(ジ)と私の写したもの(ス)を合わせて掲載します。

<御祭神について>
◎主祭神:正哉吾勝勝速日天之忍穗耳尊 (マサカアカチカハヤヒアメノホシホミノミコト)

この神は、天照大神の御子で、ニニギノミコトの父である。
古事記では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた(勾玉をスサノオが噛み砕いてプッっとはいた霧の中から生まれた)五皇子の1人。
アマテラスが高天原より豊葦原瑞穂国に降臨せよと言われたが、自分の子のニニギニミコトにこれを譲り、自分は高天原からその降臨を守った神で、開運繁栄の神とされている。

◎配祭神:高皇産巣日神(タカミムスビノカミ)…万物造成の神

◎配祭神:栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)
高皇産巣日神の子で、天之忍穗耳尊の妃。ニニギノミコトの母。繊維織物の神。

写真左:境内より拝殿を見る(ス)
写真中:拝殿石段下より(ジ)
写真右:拝殿の大変立派な向拝彫刻(ジ)
<創建について>

当勝神社は粟鹿西谷の奥、日ノ才にあり、但馬・丹波・丹後にわたって多くの神社がある立派なお宮で、正月の初詣にはたくさんの参拝者で賑わう。

創建は大変古く、社記には崇神天皇(大和時代に在位した天皇といわれ、第十代の天皇とされる)の時代ともいわれ、また当勝神社に残る最も古い棟札には天平2年(730)のものがあるので、少なくとも1300年近い昔からあったと思われる。

町指定の古宮は、寛延2年(1749)の再建、本殿と拝殿の間のお供え物をする幣殿は、天明6年(1786)につくられたという。
現在の本殿は安政6年(1859)8月11日に棟上され、それから十年後の慶応4年(1869)に現在の拝殿・絵馬堂・随身門・境内末社が建てられ神域が整備された。

写真左:拝殿と本殿横から(ス)
写真中:随身門(ジ)
写真右:古宮(ジ)
当勝神社にはたくさんの文化財があるが、町指定文化財として「古宮」「随身門」があり、その他絵馬堂にはたくさんの立派な絵馬が奉納されている。

いろいろな人からの寄進も多く、現在見られるものとしては次のとおり・・・

◎出石藩主の一族である仙石山城守久徳が寄進した灯篭
◎延享一揆の中心人物であった越田(おった)の木村勝右衛門寄進の灯篭
◎生野代・官稲垣藤四郎奉納の御神鏡
◎柏原藩主・織田信憑(のぶより)公染筆の鳥居額

「寄付録」によれば次のとおり
『文化10年(1813)12月25日/鳥居額/願主:丹州氷上郡遠坂村新右エ門・同苗・喜兵衛/柏原藩主・織田出雲守平信憑公 尊筆也』とある。
町内唯一の大名の染筆になるもの。

この鳥居を越えてから境内までには7つの鳥居と手水舎がある。

写真:織田公の筆になる当勝神社一の鳥居扁額 (ス)
写真中:7つの鳥居 (ジ)
写真右:手水舎(ス)
鳥居を7つくぐって、石段を上がると随身門がある。
彫刻が素晴らしく、守門神像も立派だが、このあたりは暗くてあまり写真にハッキリとは写せなかった。ジョルジュさんの撮ったものの方が鮮明なようだ。
以下、随身門の詳細写真。

写真左:鳥居のある参道から随身門の建っている角度(ス)
写真中:随身門下の石段より(ス)
写真右:随身門から奥の拝殿を見る(ス)
写真左:随身門通路の上の彫刻(ジ)
写真中:随身門力童子(ジ)
写真右:随身門屋根の懸魚(ジ)
写真左:随身門守門神?(ジ)
写真右:同上(ス)
写真左:随身門彫刻/通路中・守門神のあたり(ジ)
写真中:随身門彫刻/通路の上の手挟み(ス)
写真右:随身門彫刻/龍神の彫り物(ス)
■拝殿

随身門を通り境内に入ると、正面石垣の上に拝殿・本殿・古宮・他境内社がある。また、随身門のすぐ隣は絵馬堂になっていて、比較的保存状態の良い絵馬がたくさん飾られている。

拝殿向拝部分にはとても豪華な彫刻が施されており迫力がある。
彫師は丹波柏原の中井家四代、中井権次橘正次。彫物製作年代は慶応4年(1868年)とのこと。
中井家は何代にも渡って彫刻を家業とした血筋で、今でも続いている。
但馬・丹波・丹後などにも多くの作品を見ることが出来る。
http://rekisi.chokoku.chu.jp/?cid=23090

写真左:拝殿正面(ス)
写真中:拝殿海老虹梁(ス)
写真右:拝殿木鼻(ス)
<古宮>
朝来市指定文化財の古宮。
拝殿の向かって左にある。

写真左:古宮全景(ジ)
写真中:古宮正面(ス)
写真右:古い屋根の上に覆い屋根が乗せられている。(ス)
<境内社>

写真左:「靖霊社」詳細は後日調べます(ス)
写真中:「逆杉社」(?)(ジ)
※ここが逆杉社かどうか後で調べます

参考:「逆杉社伝承」はつぎのとおりです。
『その人物所伝に諸説あって論定しかねるが、「日下部系図」に見る神功皇后の兄弟、大多牟坂王の子、船穂足尼の子孫である表米が、新羅の賊を討滅した折、当勝神社の加護に深謝して乗船の檣(ほばしら)を奉納した時、あやまって逆さに植えたが、日ならずして枝葉逆に繁茂し、竹の如く数仞(仞は8尺)に及んだと言う。その瑞祥に感激しこれを祀り逆杉社と呼んだ。現在はその朽株だと伝えられているものが残っている。
・・・・・これが、どこのことなのかは後で確認してきます。

写真右:稲荷神社(ジ)
写真左:稲荷神社参道(ス)
写真中・右:稲荷神社きつね像(ス)
名工・二代目難波金兵衛作といわれる。

『当勝神社の絵馬』

絵馬はもともと神に対して祈願をする時、生きた馬を神馬として奉献していたものが、経済的や祭礼の上の事情で木造の神馬の奉納にかわり、更に絵の神馬奉納に移り変わったもので、平安時代にはすでにこの風習がはじまっていたという。

鎌倉時代になると、馬の絵だけでなく、いろいろな絵が奉納されるようになり、江戸時代には偉人・名将・武人・長寿者など多くの人物画や有名な戦記物語などを描いて奉納されるようになった。

こうして神社の絵馬堂は、その当時の画工たちの展覧会場のようになっていたと言う。
当勝神社の絵馬は、すべて江戸時代以後のものだそうです。

写真:蘇我兄弟で有名な「富士のすそ野の巻狩」
仁田四郎忠常が、猪をしとめている図。

画面右下に「大阪黒金橋絵馬藤筆」と画家名が書かれている。絵馬藤は大阪の有名な絵描きで、特に武者絵馬・船絵馬を得意とし、日本各地の神社に奉納されているが、はっきり名前の入っているものは珍しいといわれる。

『当勝神社の絵馬』

写真:『吉備真備囲碁応戦の図』

遣唐使の吉備真備が唐の玄宗皇帝の前で、唐の囲碁の名手と対局を強いられ、劣勢に困っている時、同じ遣唐使ですでに唐の地で死亡していた朋友「安倍仲麻呂」の魂が、蜘蛛となって天井から糸をたらし、その布石を妙を教え、首尾よく真備を勝たせ国辱を救ったという伝承画。そばで観戦している女性は楊貴妃。
『当勝神社の絵馬』

写真左:海幸・山幸物語の彦火火出見尊が「汐みつる珠」「汐ひる珠」をもって、鰐の背に乗っている図

写真中:長寿祈願として「日本三大長寿者」(三浦大介・浦島太郎・田道間守)

写真右:武人画
その他の絵馬(詳細はわかりませんが、どれも保存が良く、色彩も見て取れます)

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