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但馬の神社コミュの粟鹿神社/アワガジンジャ(朝来市山東町)

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■粟鹿神社/アワガジンジャ

■鎮座地:朝来市山東町粟鹿2152  

粟鹿神社は延長5年(927)に完成した『延喜式』によると、名神大一座である。
祭神は4説ある。

<第一説>彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト/ニニギノミコトの子)と龍神と豊玉姫(彦火火出見の妃)の三神を祀る(『一宝記』『諸神記』)

<第二説>大日神(天照大神)、月読尊、素盞鳴尊の三神(『諸神根元記』)

<第三説>『但馬道知留弁』にいう日子座王(ヒコイマスオウ)

<第四説>昭和33年九条家文庫から宮内庁書陵部に移管された『但馬国朝来郡粟賀大明神元記』にある大国主神の子で「天美佐利命・アメノミサリノミコト」

※昭和59年に発行した『山東町史』では第三説の日子座王説をとる。

※吉田晶岡山大学名誉教授は第四説の天美佐利命説をとられる。(それは但馬国朝来郡粟賀大明神元記は日下部氏が大国主命の後裔である大和の三輪氏につながる氏族として、粟賀神社の奉斎氏族であることを明らかにするために記したものであるから、というのがその理由である)

神社の背後には神墓(巨大な古墳)があり、日子座王の塚とするのが『山東町史』である。
日子座王は太陽の子。開化天皇の御子で丹波道主王(神功皇后の曽祖父)の父とされる。

日子座王は崇神天皇の御代に丹波国(当時は丹後国も含む)青葉山の土蜘蛛(古代の穴居民族か)の陸耳御笠(クガミミノミカサ)を誅して三たん地方に勢力を張ったとされている。(『古事記』)日子座王は葛城王朝系である。
                 (但馬文化協会「但馬の史跡」より)

★写真はジョルジュさんの参拝報告より

写真左:勅使門
写真中:拝殿
写真右:本殿


コメント(43)

写真左:随身門の守門神?
写真右:随身門の守門神?
山東町の与布土水系には、別に朝来直が在住していた。天照大神の孫に火明命(ホアカリノミコト)があり、『先代旧事本紀』によれば、火明命の孫の天忍人命と出石姫が結婚して天蠣目命(アメノトメノミコト)を生む。天蠣目命の子孫が朝来直である。

朝来直は丹波直とは同族で、丹波直は三輪王朝系である。

この粟鹿山下に葛城王朝系の日子座派と三輪王朝系の朝来直が並存して幾多の争いや通婚など歴史的展開をしたであろうが、朝来直は但馬国造を日子座系の多遅麻氏に譲って大和に帰り、多遅麻(たじま)氏もその後、その分派である日下部氏に転位して、但馬統一の新しい固定化が生まれる。(『但馬史』第一巻より)
※粟鹿神社には『日下部系並朝倉家譜考』『日下部系図』『朝倉八木系図』などがあり、そのなかに<孝徳天皇>ー<有間皇子>−<表米親王>・・・と表され、表米親王の時に、日下部の姓を賜ったとある。表米親王の鮑(あわび)の伝承も記されている。この伝承は和田山の赤渕神社由緒ともなっている。

一族の朝倉氏は朝倉高清のあと高景と安高(八木氏)に分れ、高景の子・広景が越前に下り、それから十代延景の時、織田信長に滅ぼされた。
写真左:拝殿
写真右:拝殿と本殿

※ジョルジュさん写真ありがとうございました。
私も写真撮りに行こうと思っています。
毎年10月17日に行われる秋の大祭「さあござれ」

「さあござれ」は古式ゆかしい瓶子渡祭(へいじわたし)の儀式。
麻の裃を着用した当人四人の内、二人が階上と階下にわかれ、御陵柿、茄子、稲のひこばえなどを盛った三宝を「さあ ござれ」「さあ」と言いながら、左右交互に差し違え、これを十数回繰り返し、意気の合った時に三宝を階上の者に渡し、殿内に納める変わった儀式。
粟鹿神社の御神紋は、菊と茗荷の抱き合わせ紋。
皇室を表す菊と、茗荷神社に祀られている磨陀羅神の茗荷を配しており、粟鹿神社は、大和の神と出雲の神の接点として重要な意味をもっているという。
勅使門の門扉の鳳凰の彫刻は、左甚五郎作といわれ、名作ゆえに夜な夜な飛び出し、人を驚かせ、鳴声もうるさく、苦情がきたため、首を切り落とされてしまったという話が伝わっている。
左右の門扉の右の扉の鳳凰の首から下が切り落とされている。
裸の王子様さんこんばんは。

神社の方位については詳しくはわかりませんが、私の参拝した神社は南向きが多かったように思います。
『天子は南面す』の故事より、南に向けるよう建てる事が多いと聞いた事があります。

改めて考えた事がなかったのですが、気になったので先ほど検索したら、そのことについてのQ&Aがあって、次のような答えが書いてありました。

「陰陽論では、南が陽で北が陰になります。気は陰陽間を交流するので、南を空けておくことは陽気が入って来ると考えています。陽気が強まるので、中国の宮殿は南向きです。
方位は、一気に東西南北が決まったわけでなく、日が昇る東と沈む西が決まって、その後南北が決まったと思われています。原始的宗教では、東西を重視する傾向が高いのと、古代中国の季節は種をまく(春)と収穫する(秋)しかなく、のちに四季ができたように、東西その後南北が決まったと考えた方が自然だと思われるせいです。
そう考えると、東向きや西向きは中国から陰陽論が入る前の原始的形態を残しているのでしょう。
あと一つは、陰陽論や原始的な考えではなく、何かに向かって、たとえば山とか海とか川という考えで建っていると思われます。
神社は、陰陽論に従った南向きか、陰陽論に従わない原始的形態を残しているかまたは、何かに向かっていることになります」

今回トピをUPするに当っては、ジョルジュさんの写真を使わせていただきました。私が参拝したのが最近ではなく、だいぶ以前で写真がなかったためです。
社殿の向きも記憶していませんでした。

社殿が夕日の方角を向いている(つまり西向き)ということでしょうか?

いつも参考にさせていただいている玄松子さんの有名なHP「玄松子の記憶」の「粟鹿神社」のページには『北側に勅使門、南側に日の出門がある。勅使門は、神功皇后が新羅から凱旋して当社に参拝したことに因むものという。
日の出門をくぐると、境内北側には南向きの社殿。』とあり、ちょっと方角がくいちがいます。

裸の王子様さんは地元ですので、間違いはないと思いますが、正確な方角を読み取るのはなかなか難しいですね。(方位磁石があれば簡単ですが)

http://www.genbu.net/data/tajima/awaga_title.htm
このページの「境内と勅使門」とかいてある写真の左端に見えるのが社殿でしょうか・・・(屋根だけですが)勅使門があるのが北だとすると、確かに西を向いているような感じがしますね。(確かめに行ってみよう!)

>背後に神墓があり、おそらく古代に実在した人霊を祭っているのかも知れませんね。だから死者を尊ぶ形で夕日の方向に向いて拝殿があるのかも・・・と勝手に想像しています。

そう考えると何だか独特のイメージが広がってきますね。仮説として面白いと思います。本当はどうなのか・・・なにか謂れが見つかったら教えてくださいね。

コメント12に書いた鳳凰の彫り物の話は「粟鹿神社の七不思議」として『裏路地探検』という冊子で読んだ物です。

★「粟鹿神社の七不思議」

1 旧暦2月4日に境内の茗荷神社の池に生える茗荷の育成状況によって、その年の稲作の豊凶を占うという。

2 勅使門の彫刻二羽の鳳凰が毎夜に鳴くので、作者の左甚五郎が一羽の首を切り落とすと、以後鳴かなくなったという。

3 御手洗の池を三回まわって手をたたくと大蛇が出る。

4 境内の御陵柿の柿は今だかつて実のならなかった年はないという。

5 玉の井の水は天下の名水で、どんな大飢饉旱魃の年にも枯渇したことがない。

6亀を放すとよいといわれている四角い池の水は、奈良の二月堂の水に通じているという。

7御手洗の池に丸木の橋をかけ、その上に俵を置いてお祈りすると必ず雨が降ったという

・・・・・というものでした。

近くにお住まいでいつでもすぐ行かれていいですね!!
私もゆっくりとお参りしたいです(><)ここのところ、仕事の関係で外へ出かけられません。(おまけにジョルジュさんのご忠告通りにヤマビルにかまれてしまいました・・・)
もう少し落ち着いたら粟鹿神社に行くつもりでします。
また、いろいろ気が付かれたことがありましたら、書き込んでくださいね。

ジョルジュさんありがとうございます。
なにしろ5,6年前に行ったきりで全然位置がわかりませんでした。
上のコメントの中に貼った玄松子さんのページの写真では勅使門が写っている写真には社殿は写っていないのですね。

今まで考えた事があまりなかったのですが、今回いろいろな神社を思い出して見ると圧倒的に南向きが多いですね。(そうでないのもありましたが)
う〜〜〜む・・・・ヤバイ!
無性に行きたくなってしまった!(><)
仕事が締め切り近い時に限って行きたい神社がチラチラするのはなぜでしょう・・・(逃亡か・・・)
大きな狛犬ですね。
ところで、当勝神社の稲荷神社の狛犬(キツネ)は名工・二代目難波金兵衛作だそうですが、写真ありますか?
仕事が一段落したら、私も粟鹿・当勝神社に行きますので、良く見てこようと思っています。(^^)
昨日ちょうど和田山に行く用事があったので、粟鹿神社と当勝神社をお参りしてきました。

気になる拝殿の方角なんですが、見てきましたらやはり、南東に向いているようでした。
勅使門と随身門を結ぶ直線(白壁の土塀)を南北の線としてみると、それに対してやや斜めに南を向いていました。
昼ごろの参拝でしたが、誰一人いない境内はとても静かで、気持ちが落ち着きました。

本殿うしろの御陵は思っていたより大きく、古いものなのに(こういう言い方はおかしいのですが)生き生きした感じがしました。

写真左:随身門から直線的に伸びた石畳の参道
写真右:その参道と拝殿の角度(やや東へ向かってななめ)
境内社に付いて、書き直します。(写真撮って来たので・・)

写真左:【天満宮/祭神:菅原道真 】
随身門を入ってすぐ左に石段があり、その上にやや大きな境内社がある。
ここは元は御仮殿といい、遷宮のときに使用された仮の宮殿で、今は天満宮となっている。

写真中:【厳島神社(弁天社)/祭神: 市杵島姫命】

随身門から見て境内の突き当たりやや左に池があり、太鼓橋が掛けられた先に「厳島神社」がある。

主祭神は市杵嶋姫(いちつくしまひめ)で、田心姫(たごりひめ)・滝津姫(たぎつひめ)が合祀されているようである。
本来は航海保護の神である。
別名弁財天で七福神の1人、貧窮を救い財宝を与える神として崇敬されている。

コメント14に書いた七不思議に出てくる御手洗池は、探したが見つからず、粟鹿神社に問い合わせたところ、この厳島神社をグルリと囲んでいる池から左上の方に上がったあたりにあったそうだが、今は水が少なくなり、湿地のようになっているとの事だった。しかし少量ながら流があり、厳島神社の池へと注いでいるとの事。

写真右:厳島神社と、右隣の茗荷神社は池の中に鎮座しており、水路で繋がっている。その水路が御陵脇の林の中へと続き粟鹿川へ出るのだそうだ。
写真左:【茗荷神社/祭神:草野姫命】
茗荷神社とは通称であって、もともとは出雲神社とか大国神社とか呼ばれていたらしい。
茗荷は磨陀羅神のシンボルで、「冥加に叶う」(神の加護と恩恵を受ける)に通じ、磨陀羅神(平安時代に発生した本地垂迹説に関する神)は大国主尊(おおくにぬしのみこと)が変身した神だという。

※現在の御祭神の草野姫命は、『古事記』では鹿屋野比売神、またの名を野椎神(のづちのかみ)、『日本書紀』では。草の精の草野姫(かやのひめ)、またの名を野槌(のづち)として登場している。

伊邪那岐命、伊邪那美命が国生みを終えた後に生んだ神々のうちの一人。『古事記』では山の神の大山津見神と夫婦神として山や野に関する八柱の神を生んでいる。野椎の椎は茎を表しており、草を意味するものと思われる。また鹿屋はカヤで屋根を葺く材料の萱、茅、薄、苫、葦などの総称である。また『延喜式』祝詞(のりと)に登場する屋船豊宇気姫と同神との説もある。


毎年2月4日に池中に茗荷が生え、その長短にその年の吉凶を占うという古伝がある。また、この神に茗荷を供え、竹を立てて参詣する風習の意味は、茗荷は煩悩を竹は虚無を意味し神意に添うて煩悩を竹の如く虚ろにするというところから来ている。
なお、この池水は病気に大効ありとして、遠方からももらいに来る物が多くあるそうです。

写真左:厳島神社の右にある「茗荷神社」
写真中:池の茗荷
写真右:茗荷神社の池から林を抜けて粟鹿川へ向かう水路
【稲荷神社/祭神:保食神・宇迦之御魂神など6神】

厳島神社・茗荷神社がある場所の背後に山があり、山の中腹に稲荷神社がある。
古くから農業の神様として尊崇されていたが、近世は産業の発達にともない農業以外にもあらゆる産業の神として信仰されている。
茗荷神社横に水路を挟んで稲荷神社の鳥居があり、そこから奥へは山の斜面に簡単な石を置いたような参道。足元に木の根が這い回り歩きにくかった。

写真左:稲荷神社鳥居付近
写真中:稲荷神社
写真右:社殿前から見た下の鳥居
【床浦神社/祭神:大己貴命】

厳島神社・茗荷神社・稲荷神社は東を向いて建っているが、「床浦神社」だけ南向きに建てられていた。
場所は他の境内社より内側境内で、拝殿左、御陵の前方にある。
大己貴神は、子どもの神、医療や縁結びの神として崇敬されている。

写真左:床浦神社
写真中:茗荷神社方向から本殿と御陵を見る
写真右:床浦神社より御陵を見る
【猿田彦神社/祭神:猿田彦神 】

拝殿の右横にある馬屋風の建物が「猿田彦神社」。

※猿田彦命について

天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原(タカマガハラ)から葦原の中国(地上)に降臨するとき、天宇受売命(アメノウズメノミコト)も供として一行に加えられていた。
一行が天津八街(アマツヤチマタ)と呼ばれる、多方面に道が分かれる要所に至ると、そこに魁偉な顔をした大男が立ちはだかって、行くてを塞いでいたので、兵を出したが敗れて帰ってきた。

そこで天宇受売命が派遣され、「天津神が地上にお降りになる道をなぜ塞いでいるのか」と問うと、(天宇受売命に一目惚れした)大男はそれまでの態度を一変して、素直に「私は国津神の猿田彦命と申す。天津神の御子が降臨されると聞いたので、道案内をしようとお出迎えにきたのだ」と答えた。瓊瓊杵尊の一行は、猿田彦命の先導で無事に筑紫の日向の高千穂の峰に到ることが出来た。
(日本書紀・古事記など)

このときの出会いが縁で猿田彦命と天宇受売命とは夫婦になったとされる。
この故事から、猿田彦命は道案内の神、道祖神とされ、出世の神、開運の神などともされた。

写真左:猿田彦神社
写真中・右:覆い屋の中の馬に奉納されている木馬
【粟鹿神社の馬とばし】

昭和の中ごろまでは、粟鹿神社の祭礼の日、はだか馬をとばして五穀豊穣・民生平穏を祈願し大勢の人で賑わったといいます。
やがてこの地方にも馬がいなくなり、行事もなくなったということです。
昔は、このはだか馬にまたがって、馬場に作られた的に矢をうち、たとえ落馬しても決して怪我をしなかったものだといわれます。
その馬場は(勅使門・随身門の前の道)今でも面影を止めており、時代劇のロケーションなどに使われたりしています。

写真左:馬場あと
写真中・右:ジョルジュさん投稿の時代劇ロケ場面「暴れん坊将軍」
訂正:コメント27

×写真中・右:覆い屋の中の馬に奉納されている木馬
〇写真中・右:覆い屋の中に奉納されている木馬
写真左:勅使門(横から)
写真中:勅使門の木鼻(獅子でしょうか??ちょっと変わってる)
写真右:勅使門の蟇股(?)
ジョルジュさんの写真とかぶりますが、角度違い・・・ということで

随身門の木製の大きな狛犬
同じくジョルジュさんと角度違いの守門神像(木像・彩色)
写真左:拝殿後ろの流造りの本殿
写真中:本殿前面屋根下と本殿横屋根棟を支える丸柱
写真右:屋根の庇部分の裏側がとても綺麗でした
写真左:随身門の蟇股(神門の菊と茗荷の抱き合わせ紋)
写真右:一の鳥居からまっすぐ行って、勅使門・随身門前を突き当りまで進むと神社前の道に出る。そこにも鳥居がある。
粟鹿神社の木製狛犬は本当にいいですよね!!大好きです。
あと、猿田彦神社の中にあった木馬もすごく気になります・・・。
おや!サンテレビで!!

ぜひ見ます!
その日見ましたよー!!(^^)
前にジョルジュさんが貼ってくれた神輿で突っ込むシーン懐かしかったです!
それに、前半のシーンでうちの村「赤崎」の河原の土手が出るので!今は橋を架け替えてすっかり様変わりしちゃいました。懐かしの以前の土手で感慨無量!
保存版です。
返信遅ればせながら・・・
>ミッチーがサブちゃんにおんぶしてもらうところですか・・・
そうです!浅香みちよがマゴベエの初恋の彼女で・・・・一行はここらは美人が多いっていうぜ!なんていってたら登場!(笑)話の中には竹田の家具職人のエピソードもあり、ここら一帯をごちゃ混ぜにしたようなつくりでしたね(^^)
書き間違え・・・浅香光代ですね。(^^)

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