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但馬の神社コミュの◎応神天皇(誉田別命ホンダワケノミコト)

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【コミュ内掲載神社】盈岡神社(和田山町宮内)/楯縫神社(日高町鶴岡)/戸神社(日高町十戸)/八幡神社(豊岡市下陰)/(西岸)叶神社(横須賀市)/(東岸)叶神社(横須賀市)/野島神社(横浜市)




◎応神天皇(おうじんてんのう)

〇別称:八幡神、誉田別尊(ホンダワケノミコト)/大靹和気命(オオトモノワケノミコト)/品陀和気命(ホンダワケノミコト)/八幡大菩薩

〇第十五代天皇。第十四代天皇仲哀天皇と神功皇后(じんぐうこうごう)の子

〇祀られている神社:宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、気比神宮、筥崎宮、その他八幡宮、八幡社

〇タイプ:武神、文教の祖神

一般に八幡神は応神天皇(誉田別尊)であるとされている。
八幡神は、日本に大陸文化が真っ先に入ってきた北九州に生まれ、土着のさまざまな信仰や外来の仏教を巻き込みながら、国家神へと発展し、武家の守護神となって日本の津々浦々へと浸透した強力な神さま。

応神天皇は、神功皇后が神懸かりして産んだ神の御子であるということから、王神=応神となったという。

応神天皇に関する伝説は、近畿から西日本一帯の海の民、山の民をことごとく平定した優れた王として描かれており、活躍の時代・4世紀末の日本は鉄の文化が普及し、大和朝廷が大いに発展した時代で、朝鮮半島との交流を深め、国内では東国への進出が行われた。そうした朝廷の発展の勢いと軍事的なパワーが、応神天皇=八幡神の性格に強く反映されているといわれている。

コメント(2)

八幡神の名が一般によく知られるようになってくるのは、源氏の氏神とされて、霊威も強力な武神として祀られてからである。中でも源義家は7歳の時に岩清水八幡宮(京都府)の社前で元服し、自ら「八幡太郎義家」と名乗った。のちに義家が武士の理想像とされたのも、八幡神の威光が背景になっていたからである。
 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鶴岡八幡宮を源氏一門の守護神として篤く祀った。これにならって鎌倉御家人をはじめ全国各地の武士にも崇敬されるようになり、その信仰が庶民の間にも広がっていったのである。
 

八幡神が関係する鎌倉時代の有名な出来事として元寇(蒙古襲来・1274)がある。元の大軍が襲ってきたとき、八幡神はその神威によって季節はずれの暴風雨を起こして敵の軍船200あまりを沈め、蒙古軍の侵略から国を護った。こうして敵国降伏の武神としての力を顕現させたことによって、いよいよ国家鎮護の神、武神としての名声を不動のものとした。
八幡神を祀る総本社は大分県宇佐市の宇佐八幡宮である。

宇佐八幡宮はもともと祀られていた地方の土俗的な神々が仏教の伝来(538)以降に集合されて八幡神の姿になったものらしい。地方の神であった頃の、水の神、日(火)の神(鍛冶の神)、母子神といった性格がいかんなく発揮されたのは、天平勝宝元年(749)の東大寺大仏鋳造の時である。

大仏鋳造に際して「天神地祇を従えて銅の湯を水とし、我が身を草木土に交えて大仏を鋳造しよう」と託宣して、その事業の成功を助けた。これを機に宇佐八幡宮は、我が国の神社のなかでもいち早く仏教と結びつき、朝廷の崇敬を受けるようになり、八幡神は地方神から一躍中央に名を売りだした。

また、山城国(京都府)に平安京が作られたときに、王城鎮護のために京都の南の要衝に岩清水八幡宮が勧請されると、皇室の祖神、都の守護神となった八幡神は、伊勢と並ぶ重要な神社として、大いに朝廷の尊崇を受けるようになった。

八幡神社は稲荷神社についでその数が多く、全国の神社の約三分の一、およそ30000社もある。

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