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アンチ・ファンタシーコミュの『エルゴ・プラクシー』論

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科学とSFと哲学的省察
『エルゴ・プラクシー』における神と人と“自分”(1)


 『エルゴ・プラクシー』(Ergo Proxy)は、衛星放送局WOWWOWで2006年2月25日より8月12日にかけて全23話で放映された、プロダクション“マングローブ”(manglobe)制作のアニメーション映画である。このシリーズ・アニメ作品はガイナックス制作の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の場合と同様に、小説やマンガ作品等を原作としてアニメ映画化の手順が進められたのではなく、当初からスタジオによるオリジナルの企画として創出され、現代科学の様々の分野の最先端の知見を縦横に駆使して哲学的主題を掘り下げた、日本アニメーション・フィルムの中でも屈指の野心作である。精神現象学や遺伝子情報学や宇宙システム理論等から得られた知の統合的把握を目論み、人間存在と宇宙の存立機構の根底に関わる時代と地域を超えた普遍的な主題性を追求した本作は、アメリカでは英語版がFuse TVで2007年7月より放映され、オーストラリアとカナダでも2007年に放映がなされている。日本における意外なほどの知名度の低さにも関わらず、海外における評価の高さが印象的な本作なのであるが、実はアメリカにおけるこの実験的映像作品に対する反応も、必ずしもこの野心作の実質を正しく把握しているとは思えないふしがある。総じて好意的な批評的対応を勝ち取っているにも関わらず、この作品において最も印象的な意味深いエピソードとそこに用いられた表象と思われるもののいくつかに対して、イメージの現実性からの乖離を問題にした拒否反応とも言える批判的なコメントが与えられているからである。
 実はそのあたりに“サイエンティフィック・アメリカン”を標榜する功利主義の国アメリカの、仮構とアニメ文化に対する理解の限界を見ることができそうにも思える。“科学”の前提のみを受け入れて本作品を純然たるSFとして読解しようとするならば、つまり仮構世界の鑑賞手順として自然法則に基づく因果関係の連鎖を抽出して連続的な擬似現実ストーリーを再構築することを目論むならば、その読解作業は原理的に破綻が避けられないものとなってしまうのである。この極めて思弁的な映像作品においては現代科学から得られた知見が豊富に語られているが、題材の中核をなすのは科学の成果である応用技術ではなく科学の成立基盤に関する原理的思弁であり、主題として表面に取り上げられるのは哲学そのものなのである。その結果、むしろ科学の根幹的前提から決定的に逸脱する形而上的存在原理が追求され、その発想が本作品の演出技法と記述システムの双方に直裁に反映されて、特異な表象を形成することになっているのである。

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 下級市民ヴィンセントは身に覚えの無いオートレーブ殺害の嫌疑をかけられ、官警に追われてロムド・シティから逃亡せざるを得ないこととなる。省察4「未来詠み、未来黄泉」では、ドーム外部のコミューンの住民フーディは、ロムドから脱出してドーム外部世界に蔓延しているウィルスに感染した移民ヴィンセントの看病をしながら、カルカソンヌの詩人・ジョー・ブスケの詩を朗読している。ロムドでの悲惨な記憶を辿りながらうなされるヴィンセントの耳に、フーディの声が聞こえてくる。「そこにあるあらゆるものは、町でも教会でも川でも、色彩でも光でも影でもなかった。」/「私はしばしば、身動きもせず、このえも言われぬ大きな海峡や大空の晴朗さやこの時刻のメランコリーが心地よく体に染み渡っていくのを感じていた。」/「それは、夢想であった。」/「私の精神の中で何が起こったのか分からないし、それを言う術を持たないが、それは自分の中で何かが眠ってしまって、また何かが目覚めたと感じる、筆舌に尽くし難い瞬間なのであった。」/「彼から生まれた世界の中で、人はどんなものにでもなることができた。」この言葉は本作品の採用した意識体の存在原理を示唆して極めて暗示的なものとなっている。現象と存在が分離する以前の原存在に対する超越的知覚とも言うべきものが語られている。フーディがその詩を朗読しているジョー・ブスケとは、第1次大戦で彼に半身不随という苦難をもたらした傷について、「“傷”は自分の存在以前にもともと有り、自分という存在がその傷を具現した。」という啓示的な言葉を語った詩人であった。そこには現象世界を支配する因果関係を超出する直観が語られている。社会制度と心霊存在の本質を追究した哲学者ドゥールーズは、その著書『意味の論理学』の一章「できごとについて」でジョー・ブスケを取り上げ、“できごと”と“存在”の関係に関する独特の哲学的考察を展開している。ドゥールーズによれば“深層”である身体と“表層”である記号的概念が、“私”という意識存在において結びつくことによって“具体化”されると考えられていた。
 ロムド・シティの厚生管理を司る科学者デダルスの補佐を務める2体のアントラージュは、ドゥールーズとガタリという名を与えられている。ガタリは精神病理学者として、フロイト的な精神分析とは異なる環境全体を視野に入れた心霊解釈を追求した人物である。ドゥールーズとガタリは、資本主義と分裂病に関する論考を行った『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』の二部作を共著で残している。ジョー・ブスケが彼の詩に描いた宇宙との合一感覚について超越的な霊的認識についての論考を行った哲学者ドゥールーズと、彼と共に現象学的検証と著述を行った精神分析医ガタリの名がさりげなく背後で関連をなしている。仮構中の客観的なストーリーの進行とは直接の関連を持たない、観客の知的反芻作用においてのみ特有の意味を形成する概念の重ね合わせ操作が、このアニメ作品の追求する仮構的内実となっている。ロムドにある秘匿された真実の存在を嗅ぎ付け、その鍵となる人物としてヴィンセントの後を追ってきたリルも外部世界のウィルスに感染し、ロムドに送り返されることとなるが、オートレーブ達の“コギト・ウィルス”感染と、人間であるヴィンセントとリルが人の住み得ない環境とされていたドーム外部への脱出の結果被ったウィルス感染が、観念的対照を目論んで併置されているのである。
 ドーム外部のコミューンで生活をしていた女クィーンによれば、フーディーは“センツォン・トトクティン”と呼ばれる乗り物を隠し持っているという。“センツォン・トトクティン”とは直訳すれば“400羽の兎”だが、アズテク神話によれば神々の一群を呼ぶ言葉でもあり、彼等は聖なる兎であると共に酩酊の神でもあったという。“酩酊状態”という言葉が暗示するように、これらの神々は様々の異なる風俗や気質を備えた、無数の姿を取り得る集合的存在であった。古代のアズテク文明の人々はこれらの神々を祀るために、彼等の首都テノクティテュランの近傍に寺院を奉ったとされている。これに相応すると思われる古代ローマ神話の酩酊の神バッカスは、ギリシア神話のディオニュソスに該当する神であり、コスモス内秩序の代表者であるアポロの象徴する理性に対する“反理性”あるいは“カオス”を体現するものであった。理性による整然とした概念的把握を可能とする意味性の一対一対応を破綻させ、多義性の“重ね合わせ”的意味/存在解釈を示唆するディオニュソスの神は、宇宙の根底にあってアポロの理性支配の背後に滲出する原存在の保持する不気味な基幹原理を代表していたのである。逃亡したヴィンセントと行動を共にすることになった感染オートレーブ・ピノが読んでいた『不思議の国のアリス』に登場する“三月兎”(March hare)は、春の訪れと共に繁殖期を迎えた兎達の狂気の様を呼ぶ言葉だが、酒による狂気と薬物による狂気は古代より宗教儀式に欠かせないものであった。しかし着ぐるみにすっぽり身を包んで兎の姿を真似ているピノは人工知能なので、フーディのような口から出任せや、想像力によるインスピレーション的創作行為は不可能である。ここには外形と呼称に表された兎のイメージを接点として、神話や宗教や人間心理のそれぞれにまたがる心霊存在の根源的様相が掘り起こされようとしている。シェイクスピア的な劇的状況が巧みな映像表現を用いて表象化の操作を加えられている省察5「召喚」においては、ハーマン・メルヴィルの“鯨学”の例にも似た衒学趣味的考証という形を模して兎を巡る“省察”がなされているところに、この作品の観念遊戯と表象造形に集約された独特の創作理念を読み取ることができるのである。オートレーブのピノには、生き物の死が理解できていない。コミューンの少年ティモシーが死んだことを伝えられたピノは言う。「もう一個ティモシーいないかなって。」工業生産物であるピノにとっては、同一存在が複数あることが当たり前のことである。しかし人工知能ピノにとっての偏った個体認識と思われるものは、この物語の主題のさらなる展開とともにむしろ物語の中心命題と目されるものであることが判明する。
 省察7「リル124C41+」で、ウィルスに冒されてロムドに帰還したリルを迎え入れたデダルスは、“アムリタ細胞模倣子”を注入して治療を行う。“利己的な遺伝子”という斬新な概念を提唱した生物学者リチャード・ドーキンスの提示したもう一つの重要概念は、模倣子“ミーム”(meme)であった。細胞内に組織的実体として存在する遺伝子“ジーン”(gene)に対応する、物理的実体を持たない概念上の形質伝達要素として導入された“模倣子”という述語は、文化や思想の模倣的伝播に対して適用された概念であったが、一方システム理論的な別側面においては、物質粒子という基礎概念を採用して宇宙の力学的理解を目論んだニュートン的科学の解式とは対蹠的な、物質と情報の相互遷移が可能な共役的原理に基づく原形質的宇宙像の原理性記述の可能性を示唆するものでもある。ドーキンス自身は明確に神を否定しているが、むしろ科学の枠を踏み越えた領域において“神”概念再考と“魔法”概念再検証に興味深く関わるのが、宇宙の全体としての存在原理に基づいた物質/情報の反転的描像を示唆する模倣子という単位概念の発想なのである。物質のみを世界構成要素として理解しようとする“唯物論”の発想においては、世界の存在単位は不可分の質量単位である“原子”という粒子において基本的に理解されることとなっていた。この記述システムによれば全ての存在と現象は粒子の運動と衝突という力学作用として表記され、“ラプラスの魔”という全能的観測者の存在として仮定されたように、現象の全てを精密に計算し予測することが可能となる。しかしこれとは異なる事象の観測者の想念との相互作用による全体性の宇宙の心象把握というモデルを構築すると、例えばライプニッツが提起したように、“モナド”という原子とは全く異質の単位概念が主張されることとなる。モナドは原子がそうであったように集合として他の概念に包摂されることのない、全体性の宇宙の一断面のような単一的様相として理解されるべきものであった。この発想はプラクシー存在の内実を理解する鍵となるが、興味深いことに本作品においては“モナド”という名称はさりげなく概念軸をずらして導入されることとなっている。デダルスはリルに回収された検体の名前が“モナド・プラクシー”であることを教える。この物語においては、モナドは様々の権能を持ったプラクシーの中の一個体に対して与えられた呼称として用いられているのである。さらに“プラクシー”という存在について、デダルスはリルに語る。「この荒廃した世界で我々が生き残るために必要なフィールドを維持する鍵。」このデダルスの言葉から示されるように、プラクシーは特定の行動や操作によって人間社会に何らかの力を及ぼすものではない。プラクシーの存在そのものが、ある意味で宇宙の自然法則や潜勢力と等質の作用を及ぼすものとして、人間の社会という場の維持に欠かすことができない原理的素因として機能しているのである。プラクシーの不在が直裁にロムドの秩序のゆらぎとコギト・ウィルスの蔓延をもたらすのである。事象の固有の選別的現象操作を司るプラクシーは、物理的事象界面における“マクスウェルの悪魔”の変化形とも見なし得るものであるが、プラクシーの暗示する存在原理が局所的作用による現象伝達しか認めない粒子論理的存在解釈を転覆するものであることに間違いはない。その意味でプラクシーそのものが、モナドという概念の一つの表象としても理解し得るものとなる。
 省察8「光線」においてモスク・ドームを目指す旅の過程で外の世界でヴィンセント達が見つけたロムドとは異なる都市構造物は、“ハロスの塔”と呼ばれるものであった。ハロスの塔の人々を指揮してロボット達との不毛な戦いを続けているのは、オマカトルとパテカトルという名の軍人達である。彼等の名前が由来するアズテク神話の始祖オマカトルとパテカトルの場合がそうであったように、全知全能で姿形を持たない抽象的イメージの神とはまた異なる、権能に限界があり特定の属性・形象を保持するばかりか人と交わり人の祖先となったりさえもする神の姿は、人間と神の間の関与のあり方をむしろ科学的に考えさせてくれるものである。神の存在証明のなされ方においても、人間理性によって捕捉可能な限界ある権能の具現化として、神概念は“空虚としての神”、“数式としての神”、“物理法則としての神”等のように、論理学的・数学的な様々な変換記述の方式を考案して理解され得ることとなる。そして純然たる科学としての枠組みから物理的に神存在そのものを捉え直して、“コヒーレンスとしての神”、“モナドとしての神”、“ペルソナとしての神”等の範疇の中に、新たに神概念を規定し直すことも可能となってくる。これらの思念の具体的な実例の一つが、『ピーターとウェンディ』に描かれた“ピーター・パン”という存在と“ネヴァランド”という世界であったが、『エルゴ・プラクシー』が企図しているのもこの知的なお伽噺と全く同様の形而上学的思弁なのである。このように人間知性によってその存在性向が科学的に捕捉され得る神とは、実際に“神殺し”、“神に対する恫喝”、“神との取り引き・交渉”、“神の監禁・封印”等の行為を行う可能性を示唆するものである。そうであるならば、人の行う技あるいは存在目的自身が、“神の鋳型の制作”、“新たな神の創作”、“人の神への進化”等の形をとって具体的に掲げられる結果をも招くことだろう。ここに挙げたような思想的目的措定の可能性に対する自覚は、反転して“神による人間の創造”から、“神の人間化”、“人の神格化”“神と人の分化”等の諸概念の実質に対する新たな角度からの考察の必要を迫るものになるのである。
 ロムドやモスコは“ドーム”と呼ばれる閉鎖空間であったが、省察9「輝きの破片」に登場したアスラはハロスと同様に“塔”(タワー)と呼ばれていた。エッフェル塔や東京タワーなどの無骨な建造物の誕生以来、“タワー”と言えば電波発信塔としての役割を果たす実用施設に成り下がってしまったが、中世以前に語られた“タワー”と言えば、しばしば魔法使いが構えている権力と魔力の象徴となる不気味な構築物であった。トルキンの『指輪の王』に描かれた“サルマンの塔”などにかろうじてその残滓が窺われるが、この物語においてはそれぞれのプラクシーの創造しその権能のもとに保護されていた小宇宙の表象を示すものとして、ドームやタワーなどの概念が導入されている。そしてプラクシーの支配する“場”の性質が異なれば、その世界はさらに多様な建造物や都市やさらに特殊な観念的表象を与えられて現出することとなる。ハロスの塔はプラクシー・セネキスの創造し統括する小世界であり、これと対をなすアスラの塔は、プラクシー・カズキスの支配する小世界であった。“月光のプラクシー”セネキスや“光輝のプラクシー”カズキスが存在することは、抽象概念の各々が対応物としてそれぞれの具象的存在形態を示す位相遷移が可能であることを暗示している。これらの存在/現象/意味の位相変換の可能性を超物理的なシステム理論として捉え直し、プラトンの“イデア”説や土俗的信仰における“付喪神”等の背後にある宇宙論的存在原理を反映することによって、この作品に導入された“プラクシー”という存在の秘匿された意義性が明らかにされることになる。細胞において死の機能を獲得した遺伝子ユニットであるテロメアが果たすシステム的機能と死神/破壊神の果たす宇宙進化的存在意義の双方を、個別的存在物全てに作用する潜勢力的要因として統合的理解を図るシステム理論的考察が示唆されている。この発想を反映する具体例が、省察10「存在」でデダルスが顕微鏡で覗く検体のアムリタ細胞の映像に表象化されている。細胞の活動特性を示す生化学上の概念である述語“シトトロピズム”(cytotropism)は、細胞の塊が持つお互い同士引きつけ合う、あるいは反発し合う傾向性もしくは、特定の細胞群を選択してウィルスが作用を行う原理特性と理解されるものである。生物の活動の基本単位となる存在として細胞自体の保有する動的傾向は、“生物”そのものの目的性を定義づける指標となる。仮構内の礎石的設定要因としてこの作品が提示するのが、プラクシーという生化学的“神”解釈を示唆する、死のプログラムを持たない“アムリタ細胞”を造物主によって与えられた存在なのである。体内に細胞死のプログラムを与えられず、個体死の展望を持たないプラクシー達に唯一死を施す力を備えた、プラクシー全体におけるタナトス的なシステム機能の具現化として“死の代理人”エルゴ・プラクシーがある。光輝のプラクシー、カズキスを倒し、エルゴ・プラクシーとして覚醒したヴィンセントを出迎えたピノは語る。「もう一人の、ヴィンスじゃない、もう一人のヴィンスね。」ピノはやはり、ヴィンセントという個人存在が複数体出現することに何の疑いも持っていない。これに照応して省察10「存在」では、“リル”に相当する個体が3体出現することになっている。執国の孫娘の人間リル・メイヤー、リルが無人の町で出会った幻想とも実在ともつかない若い姿のリル、そして何故かデダルスが“リル”と呼びかけた、回収されて戻って来た検体の死骸である。
 さらに省察11の「白い闇の中」では、自我の裡に潜む全体性の反映である存在原理に関する考察が掘り起こされていく。外の世界でヴィンセントが見つけた書肆“街の光”の主人は言う。「このように沢山の本が存在するためには、先ず読む人間が社会と呼べるものを作り出していなければならない。」/「ただ、人間が社会を作り出すためには、言語での対話が必要となる。」/「本が純粋に人間的な方法で確立されたと言い切ることは不可能だ。」主人はジャン・ジャック・ルソーの“言語起源説”における言語の発生に関する指摘を書物に当てはめて語っているのである。“言語起源説”においては、人間が論理的な文法構造を備えた言語を創出するためには、文法に関する互いの理解を図りそれを音声で伝達するという事前の手順が必要であることから、より高次の言語活動の存在を前提としなければならない、という逆説が語られていた。またルソーは、存在する現実世界を記述する筈の言語が現実世界を構築する機能を備えていることも指摘している。ここでは因果関係という時間軸の制約を超えた原形質的様相における、事象と概念の背後にある世界のプレローマ的実質の姿が意識されているのである。
 書房の中に突然現れた何者かがヴィンセントに語りかける。「お前は何者でもない。」この言葉を受けたヴィンセントの想念が、様々の映像となって画面上に表れていく。これまでに彼が出会った者たちの全てが、リルの部屋を訪れた怪物のマスクを被っているのである。それはヴィンセントが覚醒の結果認識した、自分自身の紛れも無いもう一つの姿であった。ヴィンセントは全ての他者に自分自身の反映を見ながら、“自分”と“他者”について考える。/「俺は他者から見ると世界の一部だが、世界を眺める視点としての俺は世界にはいない。」/「俺が見るものが世界であり、見る俺とは飽くまで世界を構築する視点。」/「世界に属することはできない。」/「原理的に言える真実だ。」/「何者でもない。」/「俺は世界に属さない。それこそが世界の限界であり、自我と世界の境界線だ。」世界を知覚する“自我”と“世界”の全体性の間には計り知れない断絶がある。見知らぬ何者かも言う。「“我思う故に我在り”ではないよ。…“我思う故に君在り”だ。」“我”の知覚の対象として認識される他者は、結局のところ全て“我”の意識の反映に他ならない。座標的には集合として全てを包含する筈の最も広大な“世界”という概念と、その世界の内部に位置を占める部分集合としての微小な一点である筈の“我”も、実は知覚と印象を存在理念の裡に認めるクオリア的には、交換記述が可能な連続概念の両端であることが示唆されている。知覚の主体である意識と知覚対象としての世界の示すこの一見二律背反した関係性の示す不可解な内実については、書房の主人も語っている。「しばしば反対の意味を語る言葉にこそ、世界の秘密が現れているものだ。」ヴィンセントはこの言葉に反応して答える。「俺達が世界そのものであることを証明している。」世界全体を一つの他者として認識する“私”という意識は、あり得ない何物でもない存在であり、それは同時に世界そのものでなければならない。ヴィンセントの前に現れた怪物はやはりもう一体のプラクシーであるらしく、プラクシーの生成した意味についてヴィンセントに告げる。「命という名のシステム、という名の世界を繋ぎ止めるため、俺達以外の誰かが俺達を作り上げた。」ヴィンセントが辿り着いた書房で目にした本には、どの本にも自分の名が記されており、そこにある全ての本が自分自身についての記述であることが判明する。本と本を読む意識の主体である知性との関係として提示されたパラドクスは、世界と世界の存在機構に想いを致す知性との関係においても、同様の反転現象を形成する。そこには経験的に捕捉されていた孤絶した“自我”という概念の成立を根幹から否定する超出的発想が秘められている。こうして“自我境界線”の崩壊を自覚した“私の意識”は、“見るもの”と“見られるもの”、“自分”と“他者”という、かつて思考の基軸にあった基幹概念の放棄を迫られることとなる。“命”と“命を奪う道具である弓”の双方を指示する両義性を備えた“ビオス”という言葉の例に示されていたように、言葉によって指示されるべき思考の対象は、実は正反対の異なった概念の併置によってこそ正しく参照されるものであるという原理が主張されることになる。悟性認識の超出を企図してクザーヌスが語ったような“正反対の一致”(coincidentia oppositorum)の原理が、一般理性においてはしばしば“パラドクス”という形で現出するのである。このような“孤絶せざる我”としての自覚を獲得した一対一対応に基づく“理性的”範疇区分に拘束されない意識においては、“自分をその中に包含する世界”を前提とする必要のない“自我”像が示唆され、“複数の自分”や“自我の多様化”等の存在理念が全体性の宇宙論の前提の中に認められることになる。デカルト座標における“全体と部分”の間にあった集合的制約を超出するホログラム的存在解釈を導入した自己同一性の存在論がそこに展開されるのである。世界と私についてのこのような省察を反映して様々な表象化を構想し、知の位相の映像化を図ったのが『エルゴ・プラクシー』という他に類を見ないアニメーション作品なのである。
科学とSFと哲学的省察:
『エルゴ・プラクシー』における神と人と“自分”(2)


 “世界”と“私”という実は意識の主体にとって極めて捕捉困難な概念について形而上的な再認識を迫る省察において、特異な表象化技法を創出して知の位相の映像化を図ることを企てたアニメーション作品『エルゴ・プラクシー』は、科学的思考の類型を脱した存在・現象解釈を様々に展開していくこととなる。省察12「君微笑めば」と省察13「構想の死角」は、連続した一つのエピソードとして一方でプラクシーと彼等によって創造された“人間”存在並びにオートレーブ存在の間のより具体的な関連を明かす手がかりを与えると共に、もう一方では存在と現象そのものに関する新規の心霊的世界解釈を導入した統合的宇宙観を示唆する興味深い視点をも提供している。その潜伏した主題展開の伏線として機能しているのが、省察12終結部において描かれている空から降ってきた雪片がピノの顔に落ちて涙のように目の上を伝うシーンである。概念と現象あるいは存在の間のはなはだ微妙な関係性を再考察するための糸口が、ここにさりげなく示されているのである。
 ヴィンセントとリルが次に遭遇したプラクシーは、荒廃した自然環境に新たな植物相を再生してロムド・シティやアスラの塔にあった“ウー厶・シス”と同等の独自の人間再生産設備を守護していた。しかしながらドームや塔と並んで森を表象とした小世界の支配者であるこのプラクシーは、一人のオートレーブをアントラージュとして従えてはいるものの自身は高度な知性を持たない野獣的な存在として描かれている。主と同様に口を利くことはないものの、むしろ思念と意図らしきものを備えてある意味で知的な行動を行っているのは、彼のアントラージュである少年の姿をしたオートレーブの方なのである。土地の神ゲニウス・ロキ的存在属性を備えた獣人的なプラクシーの登場は、ドームやタワーの管理者として特有の権能と職務を与えられたプラクシー達の保持する使徒的属性との対照から、この作品の導入したプラクシー(代理人)という概念の内実を語り返すことになっている。プラクシー=人間=オートレーブ間の支配・従属関系あるいは管理・統制関系は、この後微妙な偏差の存在を浮かび上がらせていくことになるのである。
 しかしこの極めて思弁的な仮構作品の提供する純観念的な新機軸の発想は、リル・メイヤーが口にするコギト・ウィルスに冒された彼女自身のアントラージュ=イギーの死を宣告する言葉によって提示されている。これまでのように従順に自分の命令に従おうとはせずに、独自の判断と意思を持って行動を取り始めたイギーに対してリルは言う。「これがコギトによる変化なら、死にも等しい変化だ。」リルの発言は、図らずも有機生命体に限定されることのない存在物全てに対して適用可能な、“命”とその消失である“死”に対する概念の拡張論議の核を提供している。
 生命体を判別する指標を一個体の存在物としての自立的な運動が観測される“自動性”の有無に対して認めるのではなく、対象の外部存在者に対する応順反応という特定の機能面に条件を限定してその生死を規定することを試みているリルの判断は、“生”と“死”そのものの本質的定義に新たな局相を加えるものとなっているのである。これによれば存在者の生死を決定するのは当該する本体自身の権能ではなく、飽くまでもその個体を客観的に観測する他者による概念操作なのである。リルの判断に従えば、自らの意図に順応する無機物あるいは環境に対して“生命”の存在を検知することも当然可能となるに違いない。
 自らが死を迎えた後にも変わらずアントラージュの奉仕を受けている森のプラクシーと、主人の意思を拒絶することを選んだアントラージュに一方的に死の宣告をするリルは見事な対照をなしている。さらに自らがプラクシーであることを漸く自覚したヴィンセントに対してリルが語る「プラクシーでありながら、プラクシーが何かすら分からないとは、滑稽だな。」という辛辣極まりない言葉は、この指摘が自分自身にも適用されることに彼女自身が全く無自覚であることにおいてこの物語の以降の展開に対して折り畳んだ伏線を提供することとなっている。様々な意味でリルは『エルゴ・プラクシー』の主題展開上のキー・パーソンとしての職分を堅固に果たしているのである。
 省察14「貴方に似た誰か」の冒頭は、リルの独白「小さい頃は、自分が死ねば世界も消えると思っていた。」から始まる。これに呼応するかのように、ヴィンセントの独白も以下のように続く。「俺は俺で、他の誰かじゃない。それがすごく不思議だったことをよく覚えている。俺の記憶は信用が置けないが、この記憶は古くて確かなものだった。」自分と世界、自と他の背後にある未知の心霊的関係性に対してリルとヴィンセントのそれぞれが胸の裡で語るこれらの思念は、このエピソードに登場する新たなプラクシーの担う興味深い存在論的位相を補完して語るものとなっているのである。世界があるからその中で世界を意識し世界について思考を行うこの私があるのか、あるいは私が“世界”という言葉を偶々発見しその定義と実際の経験との連係を構築したと妄想するが故にこの“世界”が存在するのか、という意味論上の測り知れない疑問に対して、因果関係的な制約を超出した弁証法的統合が果たされることとなる。それは“共変的”システム構造理解を様々の対象概念に全方位的に適用した結果得られるべき、統括的な全一性の存在/現象理念なのである。
 一行が旅の途中で立ち寄った別のドームの中は、整然とした町並みがあるが人の姿は一切ない。手つかずの食料品が無傷のままに残されているスーパー・マーケットの中では、エスカレーターが動きレジのモニターの表示も活きていて、その画面の片隅には “Ophelia”の文字が記されている。マーケットの屋上の看板等を介して“Ophelia”の文字はこの街のシーンの中でさりげなく3度画面上に示されていたのであった。この無人の町の食料品の溢れたマーケットの名が“オフェーリア”なのだが、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の悲運のヒロインの名を冠したこのマーケットの名称は、ドノブ・メイヤーの4体のアントラージュ達の名やデダルスの2体のアントラージュ達の名の場合と同様に、ストーリー外の概念連係において特有の意味性を浸透して発揮することになっている。他のいくつかのエピソードと並んで、今回のエピソードも著名な文学作品の内実との間の潜伏した裏の関連性が、主題としての興を彩ることとなっているのである。
 14話「貴方に似た誰か」においては、映像表現の特質を活かした殊に入念な演出が採用されている。観客として画面上に現出した映像のみを手がかりに物語の内容を読み取ろうとするならば、ストーリーの客観的な理解が困難になるように、意図的に仕組まれているからである。エピソード前半で画面上に視認されるヴィンセントやリルの姿のいくつかは、この町を支配するプラクシーが自在に姿を変えて彼等を攪乱するために装ったものであり、ヴィンセントとリルが陥った精神的混乱と平行した惑乱状態を観客も共有させられることとなっていたことが後に判明する。鑑賞者は決して仮構世界の出来事の中立の傍観者として、客観的判断を選択する特権を与えられている訳ではなかったのである。自在に人々の姿形を擬装することができるばかりか、それぞれの記憶と想念にも同調してそれを模倣することができるらしいこの閉鎖世界のプラクシーには、単なる変装や幻覚を操る能力以上の特殊な存在属性があることが暗示されている。この名の無いプラクシーの人格同定上の不定性の特質を理解した上で、改めて最初から本編を確認し直す作業を行って各々のシーンの内実と演出的捻りの効果を再検証してみることにより、ようやくこのプラクシーの本来の存在論的特性とマーケットの名に暗示されていたオフェーリアのイメージとの間の、捻転した関系性が特定されることになるのである。
 プラクシーの企みに嵌って気を失ったまま湖に沈められようとしているリルは、ラファエロ前派の画家ジョン・エヴェレット・ミレーの描いた“オフェーリア”そのままの姿勢をとっている。水面上に仰向けに浮かんで横たわり肘を曲げて両手の平を上に向けているオフェーリアの姿は、ハムレットの示す冷たい素振りに耐えきれず、狂気に陥り小川に身を投げて水死を遂げた少女の自殺行動を象徴するものとなっている。自死を象徴する柳の木と共に画面上に数多く描き込まれた種々の植物の図像がそれぞれ固有の概念と結びつく象徴的意味性を背負っているように、人の顕示する姿勢や仕草もまた固有の概念を特定的に指示することとなる。これらの暗示的連関を巧みに応用した表象芸術であるコスプレや変装行為に対して指摘可能な発想と同様の、現象世界的“人格”や“個人存在”の同等性を拘束する概念を離脱した別次元の意味論的自己同一性である“セルフ”の多様性を暗示することになっているのが、この独特のポーズなのである。このポーズにおいてリルはピノの頬の上の水滴が彼女の涙であり得たのと同様の意味で、オフェーリアであることの同一性を確かに保持しているのである。何故ならば“羊”と呼ばれる“狼”は、正体が狼であるところの紛れも無い羊に他ならないからである。
 オフェーリアの町のプラクシーは巧みにリルの知覚と状況判断を惑乱の中に陥れる。しかしAIであるピノは外観に困惑させられることはない。さらにピノは個人存在の複数性を当然のごとく受け入れてもいる。ピノが備えている個体同定上の認識機構においては、複数の存在に対する同一性認定が基本的に容認され得るものである。ヴィンセントの姿を装ったプラクシーにピノは語りかける。「リルリルは?」/「リルはもういない。これで楽になるんだ。」/「いるよ、もう一人。」/「何、言ってるんだ。」/「ヴィンスも、もう一人いるよね。お料理食べてくれたのは、別のヴィンスだよ。ヴィンスも二人、リルリルも二人、なのになんでピノは一人なのかなあ。」AIであるピノの個体認識においては、ヴィンスとリルがそれぞれ二人現出していることに何の疑問も感じられていない。確かに“愛玩用オートレーブ”という型番の一台であるピノにとっては、モビル・スーツ“ガンダム”や人造人間“百式レアリエン”などと同様に、自分と同一の存在が複数あることに特に異常の念は惹起されないのだろう。
 しかし量産型機械の場合に限らず、概念の普遍相における“個体”あるいは“人格”における複数の位相発現性という可能性そのものについて、さらに敷衍してその妥当性を考えることもできるはずである。『エルゴ・プラクシー』においては“リル”という名で呼ばれた存在がすでに3体登場していたのであった。今回新たに姿を現したプラクシーもただ他のものの姿形を真似てみせるだけでなく、記憶や意識等の自己同一性を確定する軸となる筈の諸条件においてさえも存在論解釈上“同一”のものを保持し得ることが示唆されている。このプラクシーがいかなる概念の“代理人”であるのかを推測してみることによって、存在の個別性と“同一性”という認識の中に潜んでいる原存在的“多義性”の示唆する可能性を模索することができる筈である。解の展開例としては、全ての存在物の想念に同化することが可能な人格/神格の分離以前の原存在的不定性もしくは、意識体の全てに潜伏する否定的な負のエネルギーにおいて通貫する自殺傾向を全ての対象に投射しようとする病的性向等が、このプラクシーの概念的本性であるという推測等がなされ得るだろう。物理的特性としてその万物と同一性を共有することのできる特殊能力を記述するならば事象発現以前の“コヒーレンス”において偏在的な潜勢的存在として理解され、反転的にギリシア神話的神格イメージとして何でも誰にでもなることのできる能力を同定するならば変化と流動の神メルクリウスにも相当する、全ての存在の影たり得る汎用的存在性向の持ち主がこのプラクシーなのであった。彼自身が紛れも無く影なので、当然ながら自らの固有の影は持たないことになる。
 水中から自分を助け出してくれたピノに、リルは現在地の座標を尋ねて彼女が本物のピノであることを確認しようとする。リルの要請に即座に応じてこの地点の客観的な座標を正確に答えるピノである。しかしピノの語る現在位置は、地球表面を2次元の平面と看做して任意の位置を2つの変数でもって特定する、デカルト座標の理念に基づいたものである。2次元球面としての実際の地球上の3次元空間上の物理的な位置関係を正確に反映させるためには、“多様体”として定義可能な関数の付加を行うことによって修正を加える必要を認めるのが、座標概念の本質であった。このように存在物の個別性を物質の延長性として捉え、座標的空間概念において存在性自体を分別することができることを前提としていたのがデカルトの科学的存在解釈であったが、『エルゴ・プラクシー』においてはこの制約を超出した純観念的な多様体概念をさらに拡張する存在理念が語られていくことになる。
 ヴィンセントがプラクシーに引きずり込まれた水底には、かつてのこの都市の人々の生活する街がある。路上に降り立ったヴィンセントに、もう一人のエルゴ・プラクシーの姿をしたものが語りかけてくる。「僕らを受け入れてくれる世界はない。これは僕が見てきた風景だ。ずっと一人きり。誰とも話をしない。だから、自分が分からない。どうして僕は僕で、皆の好きな誰かじゃないんだろう?僕は、誰かのふりをして愛してもらうことを覚えた。でも気付いた。愛されているのは、僕じゃない。誰でもない僕は、誰にも愛されない。だから、僕は消えてしまおうとした。僕らは消えたくても消えることができない。皆を消して、皆の中の自分を消そうとした。でも、駄目だった。一番消したい自分だけが残る。」オフェーリアの町のプラクシーはヴィンセントが極めて有能なプラクシーの一人であることを認め、彼に誘いかけて言う。「その輝き。君となら、僕は消えることができる。僕と消えよう。君は僕だ。」しかしヴィンセントは彼を拒絶する。「俺は、お前とは違う。」プラクシーはさらに畳み掛けて言う。「僕らは一人きりだ。皆、僕らを置き去りにしていく。」ヴィンセントは改めてこの相手の本質を理解して言う。「お前みたいにならなくて、よかった。」スーパー・マーケットの名としてあらわれていたオフェーリアのイメージを通して繰り返し暗示されていたのは、ラファエロ前派の画家ジョン・エヴェレット・ミレーの描いたオフェーリアのポーズをとって水に浮かぶリルの保持する存在性向ではなく、むしろリルとは対蹠的な自己沈潜する不毛な憂愁症という極めて否定的な精神エネルギーの所有者であるプラクシーの持つ、水没による自死への願望なのであった。
 “憂鬱”を原初的作動因として捉えて、その現象界面における派生的具現化を天変地異や疾病や超常現象等に看取して世界の総覧を図ってみせたのがロバート・バートンの『憂鬱の解剖学』であったが、ヴィンセントがこの万人の精神内部に潜むプラクシーとの遭遇を果たし、彼の心霊的本質を見抜いてその勧誘を拒否した経験は、『エルゴ・プラクシー』の最終的な主題の収束に大きな影響を与えるものとなるのである。
 省察15「悪夢のクイズSHOW」において思弁的映像作品『エルゴ・プラクシー』の採用する世界とプラクシー存在の表象は、さらに観念的な抽象的特質を先鋭化させたものとなっている。この回のエピソード自体が一編のクイズ番組の形で提示され、この仮構作品の基幹設定そのものがクイズ問題の設問の各々として司会者MJQによってヴィンセントに質問され、作品の鑑賞者である我々に対してばかりでなくこの仮構の中心人物であるヴィンセント自身に、模範解答の形で物語世界の基本情報が教授されることになっているからである。
 そのようにして与えられた『エルゴ・プラクシー』世界の基幹設定に属する諸事実は、例えば以下のようなものである。それは未来の地球を舞台に起こった運命的悲劇と、人類の辿った悲惨な行く末なのであった。「メタン・ハイドレイト層の連鎖崩壊により、地球上の生物の85パーセントが死滅した。」/「荒廃した地球環境を見捨てて人類が宇宙空間に避難するのに用いた宇宙船の名は“ブーメラン・スター号」/「人類再生の計画“プラクシー・プロジェクト”によって全世界に放たれたプラクシーの数は300体。」/「世界再生を果たした人類にとってプラクシーは最も不要な存在となった。」/「“始まりの鼓動”とは、プラクシー・プロジェクトの終了。」/「“唯一の勝者”はプラクシー・ワン。」
 ここで“プラクシー・ワン”という未知の存在がゲームの設問に対する正解の一つとして唐突に語られるのは、SF的仮構理解の基本ルールにおいては当然許され得ない逸脱行為である。15話「悪夢のクイズSHOW」のクイズ設問と解答の中で与えられている諸情報が、典型的SF的背景に属するものとなっていることをいかに評価するかが重要課題となる。観客に対して何らかの表現行為を行う作品としての自己言及的行為として、この映像作品は自身をSFとして読解されることを拒否する姿勢を表明していることになるからである。『エルゴ・プラクシー』の基軸となるべきほとんどのSF的設定がクイズ番組の設問という形で提示され、番組内に示された解答例としてあっけなく実態が明かされてしまっている。この作品の展開する主題はSFの代表する自然科学にあるのではなく、哲学的には自然科学の対照概念の位置を占めるものとなる宗教の分野に属する関心が展開されることが暗示されているのである。つまり質量点として変換記述し得る空間的延長性を持ち、座標上の空間的位置関係を一意的に特定することができる“存在物”という粗形を用いて世界の全てを捉えようとするデカルト・ニュートンの構想した科学に対して、そのような描像を得ること自体が原理的に不可能なものとして世界と個物それぞれの関係性を捉えようと試みるのが、“心霊的”理解に基づく宗教的発想であった。心霊的解釈によれば一つの存在物が、例えば肉体の死と共に魂が分離して蝶の姿で分かれていくプシュケーとしての様相を取り得るように、あるいは死後鳥の姿になって飛んでいく日本武尊の魂の位相遷移の例のように、跳躍的かつ多面的に分化して具現することが可能となる。つまり空間的延長性や意味的一意性を保持する必要がない、現象世界において複数の並列的な“様相”を多元的に示すことができる原存在として、“心霊”の原理的特質は理解されるのである。
 SF的設定要素を多分に含んだ観念アニメである『エルゴ・プラクシー』は、このエピソードにおいて自然科学的方法論自身を変転させた“自己言及的作品解題”を試みているのである。フィクション世界はSFがそうであると信じられて来たように、必ずしも一個の独立した客観世界として現象世界と同様の完結した形を保持して具現している訳ではなく、作品の本体が意識の主体である観客に対する諸概念の提示という情報伝達形式をとった、様々に変換可能な意味構築の手法そのものであっても良い。各種アルゴリズムを通じて網羅的に様態の変化を現出することが可能な原形概念と変換記述手順の数学的定式化の間にある微妙な関系性は、ダグラス・ホフスタッターが『メタマジック・ゲームズ』(Metamagical Themas)において紹介と批判的論考を行った、ドナルド・クヌースの論文“メタフォントの概念” (Donald Knuth, “The Concept of a Meta-Font”)において提唱されたメタ存在概念の発想と照らし合わせて、“プラクシー”概念と深く関わるものであると思われる。14話「貴方に似た誰か」において出現したプラクシーの正体として、既にこの“メタ存在”に対する示唆が行われていたのであった。原理的には異種の仮構作品相互におけるジャンルを跳躍した変換記述や、任意の概念の全くの別次元界面に属する概念への位相変換の試み等が様々に“共変性”の原理に従って実現されることが可能であることを仮定して、ここでは『エルゴ・プラクシー』のSF的基本設定に相当する部分を“クイズ・ショー”変換した形式で観念伝達がなされる、一つの“ゲーム世界”が提示されていることを過たず理解しておく必要がある。
 この後に続く省察17「終わらない戦い」において、我々観客が視聴して確認しつつある変換後のプレゼンテーション・モードを、フィクション世界内の存在であるはずのラウルやデダルス達が人工衛星による中継映像として“SF的”に認知している場面が挿入されることにより、典型的な“メタフィクション”の図式を“フィクション”という次元の制約外に拡張して異次元平面の跳躍的連接を企てるのも、やはり“現実=フィクション連続体”としての“ゲーム世界”提示の手法のアクチュアリズム的展開例の一つとして看為し得ることになる。我々は“SF的リアリティ”と“観念アニメ的アクチュアリティ”の位相のそれぞれのプレゼンテーションの成果を確かに見届けながら、知覚と意味の複合体である“擬似現象世界”としての仮構の実相を過たず受容していかねばならない。
 『エルゴ・プラクシー』が純正のSF作品であったならば、プラクシーという存在の誕生や彼等が行った行為の具体的内容の実質的提示が科学的手法に則って正確に遂行されることが、読者/観客によって厳しく要求されねばならないことになるのだが、この作品の関心は、むしろこれらの概念の上に成り立つ“形而上的”思考の模索の方にある。仮構作品が特定の情報を特有の様式と技法に基づいた方式で受け手に伝達することで成り立っている意味世界であるならば、必ずしも現象世界として独立した別世界を一定の角度から瞥見し、記述するという過程を踏襲して描かれなければならない原理的制約がある訳ではない。むしろ厳密な意味におけるSF的設定に属する情報については最低限の枠組みだけ欄外で語っておけばいい、という制作者側の選択した自覚的なスタンスがここには窺われる。人類が地球を捨てて宇宙空間に脱出するのに用いた“ブーメラン・スター号”建造や、荒廃した地球環境との宥和を試みた“人類再生プラクシー・プロジェクト”に関するクイズ番組内での唐突な言及は、そのような意味で『エルゴ・プラクシー』が意味の複合体としての一編の仮構であることを先鋭に意識した、典型的なメタフィクション的記述の思弁的展開の一例であるに違いない。
 しかしながら仮構世界としての概念的位相変換の操作を施されて“クイズ番組”変換された「悪夢のクイズ・ショー」が、総体としてのアニメ/ゲーム作品『エルゴ・プラクシー』の同一性を確かに維持していると看為し得る一貫性の要素は、“死の代理人”であるプラクシーのヴィンセントがやはりこの回においても他のプラクシーと思われるものの抹殺を実行する結果となっている点である。最終的にクイズ・バトルというこの勝負の勝者はヴィンセントと決定し、対戦相手である司会者はクイズ番組のルールに従って敗者として死を与えられることになる。司会者MJQは番組終了を宣言して最後に言い残す。「仕方ない、これもプラクシーの戦い方。」風刺や政治的批判を目的とするパロディーやバーレスクやカリカチュアなどの場合とは本質的に異なる独特の概念操作を施された、根源的基質において多面的な様相を無数に保持している潜勢力の一斑がこのような形で“観測”と“描写” に頼らず伝達し得ると理解するならば、同時にこのフィクション世界で導入されている“プラクシー”(代理人)という概念の暗示するものの実質が改めて見えてくることだろう。
 だからこそクイズ番組の設問としてヴィンセントに課せられた様々の雑学的知識は、ドノブ・メイヤーやデダルスのアントラージュ達の名前に暗示されていた哲学者達の名と同様に、やはり観客の想念の裡で醸成されてこの意味の複合体である仮構世界の内実を複合的に構築することになっている。最初のクイズ問題の答えであるブルワー・リットンの“ペンは剣よりも強し”という言葉に暗示されるペンと剣の概念的位相変換が超現象世界的に可能であるという“共変性”の原理を掬い取ってみるならば、これらの設問はそれぞれが巧妙に反響し合って、この“観念アニメ”のフィクションとしての成立条件の妥当性を主張しているものと理解することができるだろう。“ドップラー効果”も、従来のニュートン力学的科学思想が前提としていた、いかなる視座から観測を行っても同一の描像が得られる“客観的現象把握”の成立不能性を指摘する検証結果の一つとして理解できるものである。“水の最高密度温度”が摂氏3.98度である事実は、宇宙の生成と知性体の誕生を可能とするために超越的な存在によって巧みに設定されたかのようにも思われる“宇宙定数”のファイン・チューニング説を支持する身近な例の一つとして採用されるかもしれない。ダーウィンの『種の起原』は、“適者生存”と“自然淘汰”という概念を提示することによって、従来のキリスト教のスコラ哲学的世界観や古代世界を支配していた意味のある世界としてこの宇宙を認識する万物の有機的連関を前提とする象徴哲学的な思想を、根底から覆すものであった。その結果選び取られた“科学思想”は、宇宙と自己の双方の存在の根幹的意味そのものを認めることを全面的に否定する“虚無主義”に基づく“新思想”だったのである。生物学者リチャード・ドーキンスの唱えた“利己的な遺伝子”などの説が、この無目的的宇宙観をさらに裏打ちするものとなっている。霊的内実の向上を前提とする“進化”などという幻想を打ち捨てたところにこそ、“進化論”の思想的意義性があった。このような世界認識を決定する諸見解を踏まえて様々な意味で未来の科学技術の進展と、そこで人類が直面する新たな問題点をSFとして予見した、アーサー・C・クラークの存在を集約して伝えてくれているのが、映画『スペース・オデッセイ』(『2001年宇宙の旅』)であった。この映画の中でコンピュータ“ハル”の反逆が描かれていたのは、『エルゴ・プラクシー』のオートレーブ達を冒すコギト・ウィルスとの関連を思い出させるものである。“冥界の帝王”のエピセットの保有者として語られた心理学者ユングは、単に人間個々の心の中の意識のメカニズムを研究したのではなく、むしろ従来の科学の果たした現象理解をも含めた“時空精神連続体”としての宇宙全体の“心霊的”理解を試みた思想家として理解すべきだろう。
 これらの知識を反映して“私”と“世界”の内実に対する反省的考察が展開され、“プラクシー”という概念に示された意識体の特有の存在属性が掘り起こされていくこととなる。規定された基本設定の許にストーリーとキャラクターを配した現象世界的“物語”を通じてこれらの意味連関の構築を図ろうとするのではなく、むしろゲーム的な断片知識の羅列によって極めて直裁な情報伝達を図る“記述”の手法は、“仮構”という概念の意味拡張の可能性を見事に具現している。模擬実験的擬似現象世界として構想された19世紀的“リアリズム小説”や科学的世界観に準拠した“合理的”仮構であることを前提とした“自然主義”の産物のみが仮構としての意義性を認められねばならないことはない。むしろその本質においては、超自然の支配する歪曲された断片的小世界や決してあり得ない不可能世界の脱臼的見通し図のみならず、数式や抽象的思弁の中にこそより豊かな真正の“仮構”の展開を期待することも十分に可能な筈である。哲学体系や宗教的教義が純然たる知性的関心の対象として主張し得る本質的意義性もまた、そこに見出されるべきであると言わねばならない。
  一見したところ“旅物語”的なシチュエーション・コメディの形式を踏襲しながら、仮構映像作品『エルゴ・プラクシー』は各々のエピソード毎にプレゼンテーションの手法そのものを大胆に変化させて、独特の主題提示の展開を図っていく。しかし省察16「デッドカー厶」(無風)においては、動力源を持たず風力のみを用いて推進するセンツォン号が完全な無風状態に陥り停滞する中で、新天地への到来も新事件の生成も全くもたらされることのない、“旅”の要素の全てを棄却した特殊条件の許でヴィンセントとリルのセンツォン号内部での日常を描くことにより、見事に反転的な“旅物語”の様相が提示されることになる。
 目的地へ接近する術の全てが閉ざされた圧倒的な無為の時間を強要されて、いかにも人間的な焦燥の感覚に支配されて苛立つリルの心情が描かれたこのエピソード“Dead Calm”は、ロマン派の詩人・哲学者であるサミュエル・テイラー・コールリッジが書いた高名な哲学詩「老水夫行」の存在をさりげなく背景に暗示しているものと思われる。信天翁を意味なく殺害した罪の罰として、無風の海洋上で強いられた“無為”を通して世界の実相と対峙することを余儀なくされた一人の水夫の物語は、このアニメの心情面の主役というべき人間の人間性たるものの代弁者であるリル・メイヤーの心霊的位相を、裏側から補完するものであるのかもしれない。
 目的追求の進路を閉ざされた中でリルがプラクシー=ヴィンセントの行動実態の観察に続けてオートレーブ=ピノの利き腕について観察を行うエピソードは、取り分け印象的なものとなっている。三次元的に捉えれば鏡像である反転文字は絶対座標軸を定めない限りは同形である筈なので、人間社会の慣習に染まることのない幼児などは、これらの“鏡文字”を区別する感覚を知らなかったりするのだが、高分子化合物として多糖類のあるものは“右巻き構造”を持つ“dextrose”と“左巻き構造”を持つ対称的な変異形のそれぞれを持っていることが知られている。この“変異形”は、語義的には“dexter”(右)に照応させて“sinister”(左)を冠して“sinistrose”と呼ぶべきものである筈だが、この名称は病理学的な意味の専門用語としてフランス語で“悲観主義”の意で用いられ、英語の“pessimism”に相当する異界面の意味を担わされて用いられることになっている。しかし生物体が対称的構造体であるこれらの高分子化合物を消化・吸収し同化作用を行おうとする際には、鏡面的組成を持つ物質が生体活動に不適合を及ぼすことが知られている。このように純粋に物理的な形象として見れば客観的に同形である筈のものたちも、宇宙全体を支配する偶発的なモメントの影響を受けて現象世界の基幹設定の中では決定的な差異性を条件づけられていることは、よく知られた事実である。現宇宙における“物質”と“反物質”の存在比にみられる圧倒的な偏りも、同等の隠された選択原理を暗示するものであるように思われる。太陽や星々の示す旋回方向として自然に対する観察結果と経験則から得られた憶測を反映して、英語の語彙においては“右”を表す“dexterous”が“器用な”という意味で肯定的に捉えられ、“左”を表す“sinister”は“不気味な、不吉な”という意味で否定的に捉えられているように、左右の物理的対称性は決して現象世界の位相における同格性を示すものではない。ちなみに中世の日本では“左大臣”は“右大臣”よりも格上であったりもした。純粋知性の理解の外側で世界を支配して偶奇性を選択する“モメント”の存在に想いを馳せずにいられないのが、否応無くその支配下に身を投じている“人間”なのであった。プラクシー=ヴィンセントとオートレーブ=ピノに対してリルが行う人間的知解追求衝動に根ざした観察行為と、彼女自身が行ういかにも人間的な行為である化粧を真似るオートレーブ=ピノとプラクシー=ヴィンセントの模倣行為と、そして自分の仕草を真似るピノをリルが観察する折り畳まれた観察シーンは、“観察”する人間とその人間を“模倣”する神の姿にもう一つの存在軸を加えて、“人性”の中に潜伏する原存在的“神性”の拡張解釈を目論むものとなっている。神の行う人の行動に対する模倣行為は『エルゴ・プラクシー』の最終的主題を暗示することになる訳だが、充電中のピノの示す印象的な無機質の表情やこのエピソード最後のあたりで示される見事な風の描写などを加えて、16話「デッドカー厶」は生半可な概念で括って主題解説とすることを許してくれない、映像を用いた完成度の高い“純文学”的な出来映えになっている。祖形の規範を転覆するジャンル破壊的要素を意図的に採用したエクストラバガンザとして、映像作品『エルゴ・プラクシー』は『ドン・キホーテ』や『白鯨』等の文学史上の傑作と並んで、仮構の伝統の中に独個の位置を主張する挑戦的な企図を含むもののようである。
 省察17「終わらない戦い」の冒頭は、管理局局長ラウルが官警に追われているシーンから始まる。ラウルは彼を追ってきたアントラージュを銃撃して破壊し、宣言する。「手遅れですよ、執国。私はもはや、良き市民ではない。」ラウルのロムド秩序に対する反抗の決断がいかにしてもたらされたのかが、この後に時間軸を遡って描かれることになっている。ロムド・シティの管理責任者としてラウルは検体逃亡とこれに関連して生起した一連の事件の内実の把握を試み、この管理された楽園都市の裡に秘匿されていた悲しい真実を暴くこととなる。
 ラウルはデダルスに案内をさせて人間生産装置“ウーム・シス”の検証をする。それは独立して機能する力は持たず、プラクシーの存在を核にして初めて効果を及ぼす装置なのであった。一方的にプラクシーに依存して生を送っているのがラウル達ロムド・シティに生きる“人間”たちの実態だったのである。「プラクシーなしで、我々は存在維持すら困難。」しかしラウルは、移民のヴィンセント・ローがこのプラクシーそのものであることを知ってしまった。「ヴィンセント・ロー、彼女が追っていた存在。彼がプラクシーだった。代表がロムドに渇望した存在。」さらにラウルはもう一つの秘密についても語る。「ラプチャーは既に封印された過去の遺物。」デダルスとの会見の後、局長室の中で15話の舞台となっていたクイズ・ショーの有様をテレビ中継で観ているラウルの姿がある。何者かの手によって「悪夢のクイズ・ショー」の有様は衛星中継されて、ロムド・シティでも視聴されることになっていた。クイズのヒントとして提示されていた“勝ち組”の文字を背景に、ラウルの眼前に侮蔑的な表情をしたヴィンセントの姿が現れる。文章による記述とは異なり映像による表現では、この姿がラウルの主観が投影した幻影なのか、あるいは何らかの実体の残した実際の映像なのかは定かではない。ここに現れたヴィンセントの姿をしたものの正体は、この物語の終結のあたりでようやく開示されることになるのであるが、ラウルの視線の先には画面の中の“Rapture”の文字も見えている。
 ロムドでのラウルの動向と平行して、旅の途上にあるリルとヴィンセントが新たな小世界を発見する様が描かれる。姿の見えなくなったピノを探して入った洞窟の中でヴィンセント達が見つけた生物は、デダルスが管理していた人工子宮の内部に利用されていた生体と同一のもののようである。ラウルはその姿を見て、嫌悪感を隠すことができないでいた。人々は自らの力では子孫を残すことさえもが叶わず、この生物の体組織を利用することによって、かろうじて人間の生産を可能にしていたものであるらしい。1話における愛玩用オートレーブのピノを検査するヴィンセントと局長の妻と名乗る女性の会話や、8話のハロスの塔における司令官オマカトルとパテカトルの会話などを総合すると、個別の生物種としてはなはだ不完全な機能しか与えられておらず、極めて歪んだ生を送ることを強いられている、この世界の人間達の悲惨な生の実情が分かってくる。ラウルは執国の前に進み出て語る。「考えていました。ロムドの意味を。我々は市民なのではなく、囚人だったのではないかと。」/「環境の回復を待つために建設されたこのロムド。我々はここを離れては生きていけない。」/「外の世界は回復し始めている。なのに、我等にとっては未だ死の世界。」謁見室で厳しく執国ドノブ・メイヤーを問い詰めるラウルの前には、執国と並び立つように再びヴィンセントの姿をした者が姿を現している。
 ドーム・シティ=ロムドの閉塞した環境の不自然な実態を厳しく指摘するラウルの言葉と重なるように、洞窟の中に細々と生息を続けていたらしい生物の哀れな現状をリルは見て取る。「彼等は正常な大気のもとでは生きられない。毒に冒されながらも、洞窟から離れることができない。」リルとヴィンセントが発見した、有毒ガスの発生する洞窟の中でしか生存することができず、外気にさらされると即座に死を迎えてしまう生物は、非酸素系の生物の名残として知られる、深海のマグマ噴出口周辺に生息する“チューブ・ワーム”を連想させるものである。本来の地球上に生成した原初の生命は、メタンガスの中で代謝活動を行う“メタン系”の菌類であった。生存競争の結果、他の種に対する攻撃的な機能として酸素という毒物を放出する新種の生命体が誕生し、競合する菌類を駆逐して地球の大気が酸素で覆われるようになった環境の劇的変化の後に生まれて来たのが、現在地球の大半を占める酸素系の生物達であった。酸素の供給を絶たれた特有の環境の中でのみ生き延び続けて来た数種類の嫌気性細菌や古代生物の残滓であるチューブ・ワームなどの研究から、これらの酸素を毒物として認識する生物達こそが地球の生物の始祖であったことが判明したのである。惑星の本来の主として認めるべき生息生物の基本属性に対する認識の激烈な転換を示すこの例に従えば、プラクシー=人間=オートレーブのそれぞれがそれぞれの環境と条件内における“造物主”であり“被造物”であり、また“原種”であるという解釈を許すことにもなるのだろう。
 ラウルが執国に対する反逆の最終的な意思表明として、“全てを絶望で覆い尽くす”目的のために発射したミサイルの名が“ラプチャー”であった。今では不要のものである筈の大量破壊兵器が、“ラプチャー”(歓喜)という名で呼ばれて保管されていたのは、映画『猿の惑星』で活力を失い果てた未来人達の信仰の対象として核ミサイルが残されていたことを思い出させる。“ラプチャー”は聖書『テサロニアン』の終末論にその記述が見られ、末世における神の裁きとして人々の魂を地上よりさらっていく行為として理解されていたものである。“ラプチャー”の本来の意味が“連れ去る”というものであったことは、世界の破滅でもって予言の成就が叶えられるとする、現世否定的なキリスト教の世界観を暗示している。ラウルはこれと同様に、あるいはある意味で全く正反対に真正の“絶望”を用いて、ロムドにおいてドノブ・メイヤーによって維持されて来た偽りの信仰を転覆しようと企てるのである。反抗と逃走と、引き続く自らの拘束までをも巧みにその手段に用いて、ラウルはラプチャーの発射と目的物の破壊を成功させることになる。
 省察18「終着の調べ」の冒頭では、ラプチャーらしきミサイルに攻撃されて壊滅する都市と廃虚を見つめる怪人の姿が示されている。その手には“�鵯”のナンバーのあるペンダントがある。一方、旅の目的地モスクに漸く辿り着いたヴィンセントは、自らの故郷であった筈のこの都市の破壊の惨状を確認して旅の途上で目撃したラプチャーの航跡を思い浮かべる。「あの光だ。あの光がモスクを焼き払ったのかもしれない。俺の過去を消すために。」
 ロムドでは執国のコンピュータ達によって、ラプチャーの発射を実行したラウルの罪を問う審判が行われている。ラウルは臆することなく、モスクの難民を受け入れた執国の心の弱さを指摘する。「あの男、ヴィンセント・ローを受け入れたことが全ての悲劇の始まり。」さらにラウルはドノブ・メイヤーを問いつめて言う。「かつてあなたは神を求め、裏切られた。」/「私は違う。我等を救わぬ神など求めはしない。ただ滅ぼすのみ。」/「滅亡が必然だとしても、抗い続けるならばロムドは存在し得る。」/「だが、今は変わらねばならぬのです。神を必要としない存在へと。私に絶望はない。」執国とロムドの体制に反逆を企てたラウルが、被告としてコンピュータの哲学者達の裁きを受けながら、むしろ堂々と彼等の弾劾に対して自らの反逆行為の正当性の論証を行ってみせているのが印象的である。支配者によって下付される希望に縋る脆弱な心性を、絶望を用いて滅却しようとする強靭な意思には、もはや絶望はない。“神なき後の世界”に生きる人間の実存的生のあり方が、ここに語られたラウルの言葉に集約されている。
 彼の主張する自立的な人間存在として選び得る悲壮な個人的決断は、実は19世紀末にニーチェ等によってキリスト教的束縛から解放され霊的自由を得た現代人がその自由と引き換えに直面させられることとなった、恩寵として賜った“生存理由”の放擲に対する覚悟として選び取るべきものであった。課せられた安寧よりもむしろ選び取られた痛苦の方を善しとする同様の思念が、アルベール・カミュの『シジフォスの神話』に描かれた永劫に続く苦役をこそ生き甲斐としようとする覚悟や、ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』の中で語られた「悔恨と無との間からならば、悔恨の方を選び取りたい」という台詞などに窺うことができる。神の支配による束縛を被ることの無い霊的に自由な世界とは、ラウルがこのような決死の覚悟として理解せねばならない残酷な内実を秘めたものであった。信仰の桎梏を取り払った“与えられた自由”の中に必然的に生起するこのあまりにも苛酷な現実をすっかり忘れさせてくれようとするのが、ディズニー・アニメに代表されるアメリカの享楽的な現世主義の怖いところなのだが、実はその意味では教育委員会やPTAと同様政府の教育政策も全く変わるところは無い。ラウルの決死の覚悟を認め彼の権限復帰を認めたものの、ラウルの糾弾に対しては一切の返答を試みようとしないまま無言を通していた執国は、ラウルが去った後に漸くアントラージュの声を借りて絞り出すようにして言う。「ラウルよ、お前はやがて知るだろう。…我らの真の絶望を。」自らは言葉さえ発することのない執国ドノブ・メイヤーの胸の裡に秘められた絶望の内実は、未だ明かされていない。
 ロムド・シティのウーム・シスをこれまで稼働させていたのは、外部から強奪してこのドームにもたらされたプラクシーなのであった。この事実は、プラクシーの秘密を語るデダルスによってリルにも既に示されていた。「我々は、あれを“モナド・プラクシー”と呼んでいた。」/「そしてあれは、モスク・ドームから我々が奪い取ってきたものだ。」そのモスクに辿り着きヴィンスをセンツォン号に残してモスクの塔の上の部屋にやって来たリルは、怯えるピノに「私には懐かしいな。」と不思議なことを言う。玉座に腰をかけたリルの周囲に、ロムドから侵攻してきたオートレーブの兵士達の発射した銃弾が飛び散る映像が映し出されるが、これもまたラウルの眼前に姿を現していたヴィンセントらしき者の映像と同様に、果たして彼女の幻想なのかあるいは記憶の残像であるのか定かではない。ヴィンセントに記憶を呼び戻すように促していたリルであるが、リル自身もお爺様のことばかり語っていて、自身の両親のことは全く頭にないのはやはりどこか不自然である。さらに「何故プラクシーがなければ人は生きられないのか?」と、プラクシーの謎と人間存在の関係に飽くまでも人として考え込むリルなのだが、彼女もまたラウルと同様に自分たちの現状の背後にある残酷な真実を確証し得ていないのである。
 破壊し尽くされたと見えたモスクの都市の中に奇跡的に保全されていた建物の一室があり、何者かがヴィンセントの持っていたペンダントをキーとして使い、部屋の入り口を開けようとしている。隔離された聖域を守っていた“記憶の番人”アムネジアは、やって来たものを迎え入れて言う。「あなた様をお待ちしていたのです、お客人。分かれたものは、一つにならなければなりません。」ヴィンセントの放擲した記憶の守護者として配置されていたこのオートレーブが語る言葉の中に、宇宙の物理現象とさらに人間心理内部の情動的メカニズムにまでも通貫して機能する、超物理法則パターンがあることを形而上界面において確認することができるだろう。ウィリアム・ブレイクの『4ゾア』やエドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』等にも語られている、分裂と再統合の作用の裡に潜む引力と斥力の原理として現れる、自と他の関係性を支配する心霊的力学とその過程に関与すると思われる“知”の本源的特質については、ルネサンス哲学における“個と宇宙”の関係性について統括的な洞察を成し遂げたエルンスト・カッシーラーが極めて示唆的な着眼を語ってくれている。

 認識論に関して言えば、すでに中世の新プラトン主義的―神秘主義の文献 は、認識と愛を相互に分ちがたく結合していた。と言うのも、精神は愛のはたらきによって対象へ駆り立てられなければ、純理論的な考察においてその対象に向かうことはできないからである。このような根本直観は、ルネサンス哲学のうちでは、パトリツィの教説においてその再興と組織的展開を見ることになる。認識のはたらきと愛のはたらきは目標を同じくする。両者とも存在の諸要素の役割を解消し、それらの本源的統一へと還帰することを目指すからである。知とはこうした還帰の道における一定の階程に他ならない。それは志向の一形態ですらある。実際、いずれの知にとってもその対象への「志向」は本質的である。最高の知性が知性となり、思惟する意識となったのは、まさにそれが愛に駆り立てられてそれ自身のうちで自己を二分化し、一つの知的対象の世界を自らに考察の対象として対置することによってであった。しかしながら、本来の一性を多性へ引き渡すというこうした二分化を堤立する知のはたらきは、再びこの二分化を克服するものでもある。なぜなら、一つの対象を認識するとは、その対象と意識のあいだの隔たりを否定し、その対象とある意味で一つになることだからである。「認識とは、いわば認識可能なものとの合一に他ならない」のである。
ここには“知”という抽象概念の存在そのものが世界の分裂と分れた“個”の再統合を不可欠なものとする、宇宙論的根本原理の存在が示唆されている。さらに“分かれたものが一つになる”という局所的因果関係の連鎖を越えた動作原理は、仮構内部の意味的関係性における普遍法則の存在を暗示するものでもある。仮構世界内の意味的機構においては、失われたものを求めて辺境の地へ赴く探求の旅/冥界への下降/天上への上昇/禁忌の場所の侵犯などの試みの全てが、真の結末を隠し持つ最終目的地が出発地点であった故郷であることを教える鍵として機能するという物語的原型パターンが、“還帰”の相対物として同定されるからである。分裂と統合/引力と斥力を支配する“知”の自己充足の原理が、物理現象としての宇宙存在と精神現象としての意識と人の準創造行為である仮構のそれぞれにおいて共変的実質として統括して関連づけられた時、“仮構論”はその究極的なシステム理論としての意義性を改めて主張することができることになる。“分かれたものが一つになる”ことは、物理法則意味論と仮構力学を通貫した“原型質宇宙”に対して適用可能な原理法則の存在を示唆しているのである。
 ラウルは重大な決心を抱いて、局長としてデダルスに命じることになる。「文字通り変わるのだ。我々自身をあるべき姿へ変身させてみろ。」不完全な人間性からの脱却を企て、完全性を具現する神性に対する還帰を目指すのは、人間存在の精神の奥裡に潜伏する本源的な作動因である知の作用の反映に他ならない。しかし局長室に戻ったラウルのもとに、再びヴィンセントの姿をしたものが現れる。ラウルはこれを「立ち向かうものの象徴」と呼び、「いいだろう、滅ぼしてやる。」と宣言する。だが“立ち向かうもの”として覚知される“象徴”の実態を、ラウルはまだ把握していない。ラウルが語る彼の主観の中の“象徴的存在”は、我々が視認しつつあるこの仮構世界における客観的物理存在として、意外な正体を示すこととなるのである。
 アムネジアの部屋に入ったリル達は、そこに破壊された記憶の番人の残骸を見出す。かろうじて起動したアムネジアは、ただ同じ言葉を繰り返すだけである。「分かれたものは一つにならねばなりません。」リルは、壁の上に書き込まれた “awakening”の文字を見て言う。「残されたメッセージ。同じものをロムドで見た。」その時、アムネジアの発する言葉が変化する。「別れたものは、ロムドへ、ロムドへ…」リルもまた、失われた真実探求の目的地が彼等の出発地点であったロムドであることを知る。「モナドとヴィンセントを繋ぐ鍵、その答えはきっとあの場所にある。」様々の神話的物語の祖形に従って、思弁的映像作品『エルゴ・プラクシー』もまた、出発点への還帰をその終結の場所として選ぶのである。
科学とSFと哲学的省察:『エルゴ・プラクシー』における神と人と“自分”(3)


 アリストテレス哲学に対する偏向した理解に基づく中世スコラ哲学的な父権的キリスト教概念を脱却し、“個”としての人間存在の創造性の中にこそ全体の反映としての神性を見出す反転原理を自覚するに至った、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの活躍したルネサンスの人文主義的哲学にあった神秘思想を想起させると共に、“分裂”と“統合”という“知”の汎宇宙的自己達成過程を通して仮構と現実を通貫する包括的なシステム理論の存在をも示唆するかのように思われる映像的仮構『エルゴ・プラクシー』は、愈々仮構自身をその直截的な主題として選んで独特の「省察」を押し進めていくこととなる。省察19「少女スマイル」においては、さらに新たなプラクシーの登場を通して“存在”と“現象”という仮説的な概念の背後に横たわる“原存在”における人格性の実質に対する再解釈が図られるものとなっている。しかし今回のエピソードの主役を演じるのは、超人的な存在であるプラクシーとしての謎を秘めたヴィンセントではなく、また“人間”としてプラクシーと自分自身との間の不可思議な因縁の内実を解き明かそうと模索するリル・メイヤーでもなく、人間に奉仕すべく制作された機械人形であるオートレーブのピノなのである。
 ピノは、何物かの誘いの声に導かれていつの間にか自分が全く覚えの無い場所に来てしまっていることに気付く。廃棄物の集積所のような場所で周囲を見回すピノの前にがらくたの山の中から現れたのは、これまでの『エルゴ・プラクシー』の作品世界に登場していたもの達とは明らかに異なる、極度にデフォルメされたぬいぐるみのような外観を持つ典型的なアニメ・キャラクターのアルとプルの二人である。彼等はピノに告げる「ここは世界スマイル園。全てのお客さん達に永遠の笑顔をあげちゃうためのアミューズメント・シティさ。」/「この町は全部丸ごとが、素敵な遊園地になっているんだ。」/「だから、この町の人々は一年中ず〜っと遊び続けて笑っていられるんだ。」彼等は遊戯施設付属の劇団“コメディア・デラルト”の役者達なのであった。しかし彼等もまたピノと同様に、特定の役割を与えられて人類に奉仕すべく作り出されたオートレーブなのである。
 イタリアに昔から伝わる伝統的な人形劇が“コメディア・デラルト”であった。そこで演じられる、若い恋人達といつも彼等の邪魔をする腹黒い年寄りという決まったキャラクターが繰り広げるお定まりの筋書きのお話の中で脇を固める道化の役を演じるのが、“アル”ことアルレッキーノと“プル”ことプルキネッラであった。白いだぼだぼの服を着たアルレッキーノはフランス語ではアルルカン、英語ではハーレクィンと呼ばれている。これらの定型的な配役のもとに典型的な“スラップスティック”と呼ばれるドタバタ喜劇が、祖型に従って常に決った形で演じられていたのであった。これらの猥雑なエネルギーに溢れた庶民的な伝統芸能に対してディズニー・アニメは、従来の民衆娯楽にあった暴力的で毒々しいスラップスティックの要素や扇情的でエロティックな要素を極力排除して、いかにも家庭向きの口当たりの良いPTA好みの優等生的な娯楽作品を型にはめて提供した点で、むしろはなはだ有害なものがあると言うべきだろう。省察19「少女スマイル」は、20世紀アメリカ・アニメの代名詞であるウォルト・ディズニーと彼の築いた虚飾の歓楽の王国“ディズニーランド”に対する激烈な指弾に基づくカリカチュアとして展開されることになる。
 人々が楽しく笑って過ごすことだけが目的の“遊園地”という閉鎖世界で、その目を喜ばせるべき観客達に飽きられてしまって用済みとなり、廃棄処分となった使い捨てのオートレーブがアルとプルであった。ヴィンセントとリルの居場所を探すピノに、二人は彼等の創造主ウィル・B・グッドに助けを求めることを勧める。「困った時にはお願いだ。」/「僕たちの世界の笑顔の創造主、ウィル・B・グッドにお願いするのさ。」アルとプルはこの世界の主人、グッドに助力を請う手紙を出そうと試みる。しかしそこに現れたのは、童話『ピノキオ』に登場して主人公の操り人形を先導する役割を果たしていたコオロギにも似た“ロギ”である。ロギはアルとプルには目もくれず、何故かピノにだけ強い関心を示す。実は彼は創造主グッドの手先として、ピノからヴィンセントに関する情報を聞き出そうとしていたのである。ピノをグッドの許に案内してくれるというロギの言葉を聞いて、アルとプルも一緒にグッドの許に赴くことを思い立つ。「お願いだけじゃ駄目だって分かったんだ。だから僕らは行動する。」/「僕らは、ウィル・B・グッドのところに行くんだ。」/「僕らの生まれた意味だよ。僕らを作ったグッドなら知ってる筈。」/「生まれたのにはきっと意味がある。」二人はロムド・シティの感染オートレーブ達と同様に自我に目覚め、自分たちが産み出されたことの根源的な意味、レゾン・デートルを確認しようとし始めるのである。ところがロギは彼等には取り合わず、ピノにヴィンセントについての情報を尋ねるばかりである。「知らないかなぁ?…ヴィンスさんの特徴っていうか?」
 ピノがスマイル園で出会ったアルとプルやその他のキャラクター達を創り出した“創造主ウィル・B・グッド”は、かつてのテレビ番組“ディズニーランド・シアター”に登場して豪華な応接室で観客を迎えていた恰幅の良い“アメリカ紳士”ウォルト・ディズニーそのままの姿である。しかしグッドは、自分の創った世界の登場人物達が思い通りにストーリーを進行させてくれないのに苛立っている。ピノの紛れ込んだこの世界は、グッドの構想しつつある一つの創作世界なのである。ディズニーがアニメ映画化したイタリア童話『ピノッキオ』の主人公の名“松の木人形”からその名を貰ったと思われるピノは、操り人形ピノッキオが人間になることができたように自分も本物の人間にして貰うことを望んだSF映画『AI』の主人公のロボットの少年デイヴィッドを模して、フェアリーの仙女様ならざるディズニーの分身ウィル・B・グッドと邂逅し、そうとは知ることなく機械人形としての自身の存在の謎を模索することとなるのである。アルとプルのあてどの無いアドリブに業をにやしたグッドは、物語の創作者としての立場を放擲するかのように直接自らの造り上げた仮構世界の中に闖入して、作者の本音を語り始める。「アドリブなんていらないんだよ。」遂には旧約の神さながらに自らの被造物達の眼前にその姿を現して、彼等に干渉をし始めるグッドなのである。
 自分の創造した作品世界が全く思惑通りに進行していないことに癇癪を起こした創造主グッドが、彼の被造物であるアルとプルの存在意義に関する切実な問いに対して与えたぶっきらぼうな返答は、哀れな真実の探求者達の期待に反するものであった。グッドはアルとプルに言い放つ。「だいたい、生まれてきた意味だって。そんなものある訳ないだろ。…お前らはな、無意味な出来損ないなんだよ。…全く、何の役にも立たないくず共めが。」アルとプルと並んで眼前に現れたピノに、グッドもやはりヴィンセントのことを尋ねるのである。しかしヴィンセントの弱点を尋ねられたピノは、AIには似つかわしくなく何故か嘘をつくことができる。ピノは答える。「知らない。」グッドもまた一人のプラクシーとして“始まりの鼓動”を感じ取り、他のプラクシー達の死をもたらすエルゴ・プラクシーと出会って戦わねばならない宿命を恐れていたのであった。娯楽の世界の帝王ウォルト・ディズニー自身のキャラクターを背負うこのプラクシーは、戦いに背を向けて自らの創造した実の無い夢想の中に留まり続けようとする、自閉と怯懦という特徴的な属性を備えたプラクシーだったのである。グッドはピノに語る。「もうすぐヴィンセントがここにやって来る。プラクシー同士が出会ったら、戦わなくてはならない。…だから、君の夢に干渉してヴィンスの弱点を聞き出そうとした。」ピノは尋ねる。「これは夢なの?」グッドが答える。「夢であって、夢じゃない。」グッドの想念の中の仮構世界とピノの生きる現実世界は、意識の中では截然と分たれることなく一方からの干渉を許すものなのである。
 グッドの目的は、もうすぐ終わりを迎える世界の最後の時まで、目の前の現実から目をそらしてただ平穏に生き続けることだけにある。彼のその自閉的な目的のためにのみ、彼によって創られた世界とそこに住まうもの達の生がある。しかしながらこの閉鎖世界を生み出した紛れも無い創造主として、ウィル・B・グッドは彼の被造物達に創造主の意図を明かすことになる。「この街の人々はね、生まれて死ぬまでずっとここで遊び続けるんだ。そして何も知らずに幸せなまま、世界の終わりを迎えられる。」図らずもグッドは、彼の創出した被造物達のレゾン・デートルを語ってしまっている。それはアルとプルが思い描いていたような高邁なものでは決してないが、彼等の誕生を導く初動因であった事実には間違いは無い。アルとプルの模索したレゾン・デートルは、皮肉なことにその創造者自身が意義性に全く価値を見出し得ないものであった。おそらく自らの管理下にある存在者達に対する根幹的な意識の在り方においては、政府も文部科学省も本質的には全く変わるところはないのであろう。親や教師達もその点においては全く同様である。現在、大学がおしなべてディズニーランド化している原因も、まさしくそこにあると言っても良い。神を無くした世界の行き着く果ては、見通すのにそれほど困難なものではなかったのである。おざなりな“信教の自由”を保障されて、お情けのように卑小な“実存もどき”を恣意的に模索する権利を許された浅薄極まりない我々の現実世界の実情に増して、むしろ問題となるのは『エルゴ・プラクシー』という仮構の中で「神はどこに行ったのか」なのである。創造主対その使命を負わされたものとしてのグッドとアルとプルの間の関系は、エルゴ・プラクシーとその創造主との間の関系を示す伏線ともなっている。
 これまでヴィンセントが出会ったプラクシー達が“ドーム”や“塔”や“森”などの世界の中でそれぞれの権能を行使して自らの被造物である人を造り上げアントラージュに奉仕させたように、ウィル・B・グッドもアニメ作品の中で種々の架空のキャラクター達を造り上げてその世界の住人に奉仕させている。プラクシーの支配する固有の領域に様々な構造体としての変異があり得たように、“クイズ番組”や“遊園地”あるいは“アニメ作品”などの観念的要素を主軸にした構造体が存在する。制作者ディズニーが彼の創作による抽象的な観念構造体であるアニメーション映画の世界に対して保持する関係性は、“現実”と“フィクション”という些細な異なりはあったとしても、ロムド・シティの“ドーム”やアスラやハロスなどの“タワー”を造り出したカズキスとセネキスと同様、観客としての“人”あるいはアニメ・キャラクターの創造主であるプラクシーとしての立場においては、世界の創造主としてある神との類比において全く変わるところはない。仮構世界の制作者は、神的位置に確かに自身の存在を置いている。内面心理のメカニズムとして現象学を考察したフッサール、心霊的な精神分析の手法を開拓したラカン、ルソーの言語起源説を再解釈したポスト構造主義に位置するディコンストラクションの思想家として知られるデリダ達と並んで、世界そのものが神の思念であると構想したイギリスの司教バークレーの名がロムド・シティの管理を司るドノブ・メイヤーの4体のアントラージュ達の一つに与えられていた事実が、この「スマイル園」で漸く符牒を見ることになる。
 プラトンの唱えたイデア説が仮定していたのと同様にあらゆる抽象概念に対応するプラクシーがそれぞれ存在するとすれば、抽象名詞のみならず固有名詞にもその適用が及ぼされることに取り分け不審を感じる理由はない。“ディズニー”というプラクシーと彼によって創造された“ディズニーランド”という被造世界が、システムとしての完結性を持つドームやタワー等と同様に規定された概念構造体として確かに存在し得るからである。しかしながらグッドと同様の人格に対応する種々のプラクシーの存在可能性が網羅的に認められるとするならば、「放たれたプラクシーの数は全部で300体」とされていたクイズ・ショーで語られた情報には信頼を置くことができないことになる。現存し得るプラクシーの数は遥かに大きいものでなければならないことになるだろう。もしかするとこのあたりの完全性からの“ずれ”が、プラクシー存在を創造した彼等の創造主である“人類”の限界を示すものであったのかもしれない。しかしながら『エルゴ・プラクシー』において登場していた数体のプラクシー達の保有する属性の傾向とその特質の多様性を見る限り、これらの“人によって創造された神”の内実にはその創作者としての人間存在の構想力の大きさを推し量るに値するものがありそうである。ルネサンスの万能の芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが創作行為の哲学的拠り所としていた、神ならざる人間の準創造行為の秘める意義が、この“個”たるもののなし得る宇宙の反映的創造行為であった。ルネサンスの神秘思想家フィツィーノが宇宙に看取した人の精神活動をも含めた総合的な知の自律進化の作用は、クザーヌスの構想した全と個の反転的合一の理念を見事に反映している。神あるいは宇宙と人との間にある潜伏した関係性を慮るにあたってさらに興味深いことは、このプラクシー=グッドが自ら造り上げた被造物達の叛乱にあって、その創造主としての権威を転覆される場面が描かれてしまっていることだろう。この支配/従属関系顛倒の事実も、『エルゴ・プラクシー』の中心的な主題を照射する伏線となっているのである。
 被造物のアニメ・キャラクター達にスラップスティックの常套にある通りの演出で袋叩きに遭って、創造主としての誇るべき権能を剥奪された哀れな創造主グッドに対して、子供らしい優しい心を知ったピノは同情の念を覚えることになる。ウィル・B・グッドと死のプラクシーであるヴィンセントとの遭遇を避けるために、センツォン号の前方の視界に現れたスマイル園に進路を向けることを止めるように訴えるピノの目に落ちた雨の雫は、省察12「君微笑めば」の雪の欠片がそうであったのと同様に彼女の流した涙のように見える。座標概念に基づいたデカルト的存在物解釈によらない、様相と属性の相当性にのみ同一性条件を認める心霊的存在解釈に従えば、人形や絵姿に人格や魂を感じ取る主観心理の意味性賦与の原理が教える通り、狐の姿に化けた狸が“正体が狸であるところの狐である”と判断されるのと同様に、あたかも涙のように流れる雨の雫は“正体が雨であるところのロボットピノの流した涙”ということになる。絵画や彫刻において画布上や大理石の表面に現出した涙は、実在する人間達の眼から無様に垂れ落ちる水滴よりも、遥かに“涙”の本源的な特質を満たしたものであるに違いない。現象世界で具現化される人の涙は、所詮眼から垂れ落ちる塩水でしかないからである。
 これに続くエピソードである省察20「虚空の聖眼」において『エルゴ・プラクシー』は、その存在/現象再解釈における最も挑戦的な企図を現前させることになっている。これもまた新規に登場するもう一体のプラクシー存在の及ぼす影響を通してではあるが、省察の主軸となるものが示されるのはそのプラクシー自身の保持する特性や属性においてではなく、むしろ主人公ヴィンセントの“ヴィンセント性”自体に関する再解釈の要請においてなのである。ヴィンセントは、いつの間にか自分がリルの姿になっているのに気付く。病室のベッドに横たわったままで鏡の中を覗き込んだヴィンセントは、自らの外観がすっかりリルのものとなっていることを知る。「けれどそこでは俺の意志は全く反映されず、俺がリルの行動に影響を及ぼすことはない。」リルとヴィンセントはいつの間にかロムド・シティに帰還していたのであった。しかし彼の発見した重大な変化は、ヴィンセント自身の外観の変貌とは実は全く別種のものであることが判明する。リルを診察したセラピスト・スワンは、ヴィンセントの意識に呼びかけて語る。「リルは交替意識状態にあるのよ。簡単に言えば、二重人格。彼女の罪悪感、ヴィンセント・ローを裏切った事実が、自らの中にあなたというもう一人の人格を作り出してしまった。」このエピソードの冒頭でヴィンセントの意識として登場していたものは、実はリルの内部に生成した仮想的なヴィンセントの人格であったというのである。リルによって作られたリルの中のヴィンセントの偽りの意識は、リルの策謀に陥って実験室の中に拘束された姿で捕われている自分自身の姿を、リルの眼を通して確認することとなる。
 さらにリルの中のヴィンセントの擬似人格は、ヴィンセントとしての願望に従ってロムドでの彼等の立場と周囲の環境をも改変し、奔放な妄想に基づいてあり得ない状況を捏造してしまっている。リルの意識の一部である疑似人格ヴィンセントが無意識に投射した欲望が、平行世界の一つをヴィンセントの意識を中心に創出してしまっているのである。しかしヴィンセントは、実体を持たない仮想的なヴィンセントの自覚として経験したこの異常な体験の全てが、新たに登場したプラクシーであるスワンが造り出した幻想であることに気付く。そのきっかけは、いつも彼が身に付けていたペンダントであった。「いくらリルさんでも、俺はこれを手放したりはしない。」多重人格症に陥っていたリルの偽りの自我の一つとされていた虚像のヴィンセントは、プラクシー=スワンに陥れられた暗示から逃れ出て錯乱の中から自身の本来の精神の回復を勝ち取ったかのように見える。しかし以下に示されるヴィンセントの幻想中のヴィンセントとプラクシー・スワンの会話は、巧妙な精神攪乱を仕組むプラクシーの及ぼした単なる暗示以上の“セルフ”の成立する要素の介在を示唆するものである。自らの妄想が造り上げて来た虚像を実体験として錯視していたことに改めて気付いたヴィンセントは言う。「こんな世界は存在しなかったんだ。」それに対してスワンが答える。「じゃあ、ここにいるあなたは誰?この世界が偽りだったら、あなたは誰かしら?あなたはここにいるわ。その存在さえ否定するの?」ここで彼女の語る通り、このヴィンセントの意識は現在の自分自身の実在感を否定する主張を行おうとしているのである。“多重人格障害”とも呼ばれる“交替意識状態”においては、催眠術の暗示にかかった場合のような喋り方や日常生活上の癖や思想のあり方などの主観的意識の変化のみならず、アレルギーや左右の利き手や眼鏡装着等の視力に関わる肉体的条件においてさえも、全く異なった“別人格”あるいは“個人存在”の状態を交替するものであった。この症状の特質の一つとしては、特定期間の意識と記憶の欠落が経験されることである。時空的断絶の介在に関わらず主張し得る意識存在の同一性維持の可能性を示唆するこの事実は、デカルトが考えたような「考える、故に我あり。」の自己の存在証明の図式を適用することを困難にする、科学的検証の結果得られた具体的観測例の一つと言えるだろう。ヴィンセントは想う。「我思う、故に君在りか?」バークレー司教が仮定したように世界そのものが神の思念であったとしたならば、その意識の中の被造物たちは己の意思に基づいて時には自らの現存性を証明し、考えるが故に存在する自分自身を確証するばかりでなく、考えるが故に存在する他者の全てを確証することになる。その考える主体は、時には他者の中の擬似人格ですらあり得るのである。“交替意識状態”も“多重人格障害”も、人間の被る“精神障害”として見れば“split personality”という言葉で記述される一現象であるが、描像を反転させて全体性の宇宙に対する汎神論的解釈からこの事例を把握し返すならば、“物質と精神”の分裂あるいは“神と人間の分裂”などという形而上的概念との関連から捉え直してもよいものだろう。本編に登場した精神内部に働きかける暗示能力を持ったプラクシーがヴィンセントの意識に示唆していたのは、“科学”の枠組みを越えた別界面の“個体”あるいは“存在・現象”解釈の可能性なのである。「虚空の聖眼」は“夢物語”と同じような構造性を呈して、一見したところ“暗示から醒めた現実”に収束するストーリーが語られたエピソードのようにも見える。“夢物語”はシステム構造的に、完結した“夢”という概念を内包する高次元世界の存在を外部構造として仮定するものであり、ゲーデルの定理に当てはめれば“夢を見ている間は、それが夢であるか否かは判断できない”こととなる。さらに“夢”と夢の絶対的外郭世界として想定された“現実”との関係性においても、“現実”の中に生きている限りはそれが夢であるか否かを判別する絶対基準は存在しないことと同様に、「この私は私が今考えている“私”を越えたより高次元の私の一部ではない」と確証することは決してできないのである。
 「虚空の聖眼」においては、ウィリアム・ブレイクの『4ゾア』や、エドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』等が掘り下げた、精神と世界の相関における分裂と統合についての形而上的思弁と等価の思念が提起されている。興味深いのはむしろ、スワンの暗示の中でヴィンセントによって経験された主観が示唆する、個人の存在解釈に関する新たな仮説である。他人の意識の中の“私”が紛れも無く“私”のもう一つの位相でもあり得る可能性を示唆するものとして、今回のプラクシーの及ぼした精神的干渉はこの『エルゴ・プラクシー』の根幹的主題に深く関わるものとなっている。自分がナポレオンであると妄想するものが、そのように思念する限りにおいて何らかのナポレオン性を充当するものであるとするならば、リルの意識の中のヴィンセントが紛れも無くヴィンセントであることの同一性を主張し得ることになる。ヴィンセントの中のヴィンセント意識もリルの意識中のヴィンセントも、一つの意識の所有者としての人格同定条件においては全く同一の“セルフ”だからである。時間・空間的延長性の束縛を超出して、意識体個々の“個体”としての座標的拘束を離れて無限の多世界間に貫通すると思われるヴィンセントの“メタセルフ”の存在を仮定し得ることを暗示する理念が、ここに示されているのである。
 省察21「時果つる処」の冒頭には、サミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」の決して来たることのない神ゴドーを待ちながら道端に座り込んで空虚な会話を交わすエストラゴンとヴラジミールを模して、センツォン号の中でウサギの数を数えながらヴィンセントの帰りを待っているピノの姿がある。センツォン号の旅人たちが戻ってきたロムドでは、大部分のオートレーブ達がコギト・ウィルスに感染して都市は大混乱に陥っている。痺れを切らして市街へ足を運んだピノの前にも、感染した一体のオートレーブが現れて跪きながら宣言する。「我は存在理由から解放され、我が我である理由を求む。」オートレーブ達は皆、人に尽くすための奉仕機械として与えられたレゾン・デートルからの脱却と、独立した一個体として獲得すべき新たなレゾン・デートルへの渇望を叫んでいるのである。都市という構造体にも、都市の機能を維持する住民とその補助要員の“オートレーブ”にも、与えられていた意義性の瓦解と解体の時が訪れているのであった。ラウルの命令でデダルスが開発した人類改造計画=ADWプロジェクトが、失敗に終わったことが分かる。
 リルの独白が続く。「ロムドを前にして、ヴィンセント・ローは忽然と消えた。…この二日間、この街で時折見かけた彼。その姿はエルゴ・プラクシー。誰との接触も拒むような哀しみに支配されているように見えた。別れたものは、一つにならねばならない。ヴィンセントがプラクシーと一つになった時、そこに残った存在は私の知っているヴィンセントと同一だと言えるのだろうか?」リルはロムドの惨状とプラクシーの姿に変わったヴィンセントの姿を見て、一つになるべき“分かれたもの”とは、ヴィンセントとプラクシーのことかと考える。さらにリルは彼等の分裂の原因として、自分の存在があったかもしれないことを危惧する。
 情報局の局長はリルの帰還を認めて、リルに語る。「移民地区の隔離だけでも大変だったのに、今度は例のADW関連の確認データだけでこれだけあるんだ。愚痴の一つも言いたくなるよ。…厚生局から提出された例のADWによる副作用のデータだ。」リルの上司は秩序を失い混乱に陥ったロムドの惨状を直視することができず、机について“いつも通りの仕事をテキパキとこなしている”つもりになっている。しかし彼の指が弄んでいる机の上には、彼が処理しているつもりの書類は一枚も見当たらない。本人は飽くまでも日常的な現実を見失っていないつもりなのだが、彼の現状は幻想への退行以外の何物でもない。いかにも悲惨な精神の極限状況が描かれた残酷なシーンのようにも見えるが、実は我々の現実世界の日常の大部分が呈しているのは、彼の体現しているものと同様の思考の退行現象に他ならない。大概の役人や会社のおじさん達やほとんど全ての教師どもは、彼と全く同等の行動パターンで毎日を生きている。それが“日常”と呼ばれるものの偽らざる定義なのである。
 エルゴ・プラクシーの姿のヴィンセントは、実験室の検体の死骸を確認している。ヴィンセントは、逃亡した検体を殺害したのが自分であることを認める。「モナド・プラクシー。殺したのは俺だ。…だが、何故ここまでする?ドノブ・メイヤー。」検体の死骸は、陵辱に等しい扱いを受けて保管されていたのである。ヴィンセントが殺害した検体は“モナド・プラクシー”であった。その遺骸の収められた容器には、“Proxy No 13”の札が付されている。ヴィンセントの手にあるキーには“�鶸�鶚”のナンバーが刻まれている。そしてもう一つのキーには、“�鵯”のナンバーがある。そこでヴィンセントはもう一人のリル・メイヤーの姿をしたものと出会う。
 デダルスは、戻って来たリルにロムドの現状を説明して語る。「ウー厶・シスが沈黙した。ウーム・シスの沈黙の理由は、」/「モナドの、いや、ヴィンセントの不在。」/「それでラウルが、自分たちが変われば必要ないと言い出した訳。それがADW。…簡単に言うと人体改造かな。」局長室のコンピュータ画面上には“ADW: Project Aus Der Wickel”の文字が見えている。Wickel は“襁褓(むつき)”つまり“おしめ”、“おむつ”のことなので、“Aus Der Wickel”は“襁褓より脱して”、すなわち“成長、自立”を意味すると思われる。デダルスはさらにもう一つの重大な秘密を暴露する。「君をここで襲わせたのは、ラウルじゃなかったよ、意外なことにね。」これはお爺さまの愛顧を信じていたリルには信じ難い事実であった。執国にとってリルは、使い捨てのオートレーブ同然の存在だったのである。
 執国の謁見室に現れたヴィンセントを迎え入れて、ドノブ・メイヤーのアントラージュ達は告げる。「既に時は果てた。創造主よ。」執国のアントラージュ達は、ドノブの心を代弁してエルゴに語るのである。「執国は愛した。」/「創造主はロムドを創り上げ、我らを生み出した。」/「オートレーブを与え、子をなす力を与えた。」/「執国は憎んだ。」/「我らは何故存在するのか。」/「我らの孤独は何者が癒すのか。」/「何故我らを捨てた。」/「何故愛してはくれなかった。」/「執国は求めた。」/「創造主ではなく。」/「奪った存在。」/「モナド・プラクシーを。」創造主によって人に奉仕をすべく造り出された道具達が今、人の想いを代弁して厳しく創造主を譴責しているのである。世界を構築すべき基礎単位となるものたちを規定する存在物の意義性自体が瓦解している有様であった。ヴィンセントは、ただ涙するばかりの無言の執国ドノブ・メイヤーを殺害してモナドの復讐を果たす。
 続く省察22「桎梏」においては、全てのリルとヴィンスの位相を占めるもの達が勢揃いして、リル=ヴィンス=モナドのそれぞれの間の秘められた関係性が明らかにされることになる。
 パパの家に戻って、ピノは一人でお絵描きをしている。既存の作品を描き写すのではなく、頭の中に浮かんだものを描き出す純粋に創造的なこの行為は、ロムドを脱出して外部のコミューンを訪れた時には不可能なものであった。ドノブ・メイヤーの謁見室を訪れたリルの目の前に、もう一人のリルの姿をした者が現れる。彼女はリルに語る。「初めまして。もう一人の私。」警戒して銃を構えるリルに、彼女は言う。「哀しいことしないで。…あなたはヴィンセントに私を、モナドを思い出させてくれた人。」新しいリル=“リアル”は、さらに続けてリルに語る。「私は彼を救い出したい。創造主の苦しみから。…このロムドを造ったのは彼。」リルはデダルスに出会い、尋ねる。「あいつがあいつじゃなくなるなら、なら私は?」ヴィンセントの今後を問いただすリルに、デダルスは抑制を失って叫ぶ。「ヴィンセント、ヴィンセント。みんなあいつだ!」リルはドノブのアントラージュ達に、ロムドとエルゴの関係を尋ねる。ドノブの死後隠すべき秘密を失ったアントラージュ達は、今はリルに全てを語る。「真実、それはこのロムドの終わりを意味する。」さらにリルは問う。「ヴィンセントは本当にこの街を造ったのか?」彼等はロムドとエルゴの秘密の全てを明かす。「このドーム、そして良き市民の基となる数十体。」/「後はウー厶・シスでの管理増産。」さらにリルは問いただす。「私は外の世界でいくつかのドームを目にしてきた。それらのドームもそれぞれのプラクシーが創造したものだったということか?…やはりプラクシーは神?」/「そしてロムドは神に見捨てられた楽園。」/「エルゴはこの地を離れた。己への激しい失望と共に。」/「託されしもの、ドノブ・メイヤー。」/「全能者というべきプラクシーは何故この地を捨てた?」/「つまりは全能ではなかったということ。」/「エルゴはこのロムドにとっては確かに神。しかし不完全なる神。」/「その神が創造するものもやはり不完全。」/「そして神は我等を見捨てた。」/モスク侵攻の意図が明かされる。「当然至極なる復讐。」/「だがモナドは我等から光を奪い、その閉じた目で我等を硬く封じた。」リルは漸くヴィンセントの生成の秘密を理解する。「ヴィンセントは、自らがプラクシーであることを忘れるために造り上げられた仮の人格。」最後まで自ら口を開くことがなかった彼等の主人、執国ドノブ・メイヤーの心を代弁して語り続ける4体のアントラージュ達である。「悪事と恥の続く限り、沈黙こそが我が幸い。」彼等の姿を創造した彫刻家ミケランジェロの墓碑銘に書き刻まれた詩と全く同じ台詞である。「我を目覚ますことなかれ。/終わりの時まで。/ただ静かに。」ミケランジェロの詩に語られた絶望的な心情の吐露は、後悔と慚愧の念から逃れることのできない人の“人”性の烙印として見做しうるものであろう。
 ラウルは自宅に戻り、ピノの残した絵を見つける。絵の中には、ピノと一緒に並んだラウルの姿も描いてある。一方ピノは再びロムドの町の中をさまよっている。ロムドの崩壊の惨状の中をあてど無く歩き回り、かつての我が家に辿り着いて姿の見えぬパパに向って「あのね、パパ。ピノには一杯の気持ちがあるんだよ。嬉しかったり、淋しかったり、いろんな事。」と呼びかけていたピノだが、その心の中には絶望も不安もひと欠片もない。まるで世界の全ての事象を歓迎すべき善きものとして受け入れているようでもある。眼前の悲惨を何の屈託も無く受け入れるその姿は、ロバート・ブラウニングの「ピッパは行く」(“Pippa Passes”)を思い起こさせる。人々の憤怒と怒号の声の渦巻く町の中を、周囲の惨状に全く気付くことなく神の祝福を一身に感じ取って歩む少女ピッパそのままの姿のピノなのである。「神、空にしろしめし、なべて世は事もなし。」
 再び謁見室でリルはヴィンセントに出会う。全てを思い出したヴィンセントは語る。「この町は俺が造った。その全てをこの男に託した。」デダルスによって作られた唯一プラクシーを殺すことのできる武器であるFP光線の発射銃をかざしながらも、リルはエルゴ・プラクシーに語る。「私が引金を引くと?」リルは目の前のエルゴに対してではなく、別の何者かに呼びかける。「今やっと辿り着いた。私の真実に。モスクに残されたメッセージ。二つのペンダント。別れたもの。何度か私達の前に姿を現してきた。聞いているんだろう?ヴィンセント・ロー、そしてエルゴ・プラクシー。記憶をなくし、二つの人格を持つヴィンセントは、お前にとって最高の隠れ蓑だった。だが、私の真実はお前の存在を浮かび上がらせた。ヴィンセントとエルゴ・プラクシーを操り続けたもう一つの影。もう姿を見せろ。今も近くにいるんだろう。」姿の見えぬ誰かが答える。「見事だ、リル。124C41」
 キリスト教神話においては全能なる神は世界と人を創り、使徒に命じて自らの手中の世界の運行を取りはからせたとされる。『エルゴ・プラクシー』においては“創造主”、“プラクシー”、“人間”、“オートレーブ”などの様々の権能/可能性を占めると同時に限界性に縛られたもの達が、従来の宗教的教義にあった図式とは多分に異なる双方向的な創る/命じる/操る等の関係を構築して、キリスト教その他の宗教神話にあったものよりもはるかに複雑な存在論的位相の各々を構築している。人間として備わった本来の創意工夫の能力を増幅させ、遺伝子操作や環境制御を応用した世界に対する人為的干渉の結果、造物主のコピーや神の鋳型などの制作をも可能にすることになった“人”と“科学”の持つ潜在的可能性が、種々の表象を通して掘り下げられている。社会と組織の管理を委託された信条の人ラウル・クリードや、ギリシア神話のイカルスの父ダイダロスの名を背負った創意工夫の人である厚生局長デダルスは、このような“人”性の典型的な代弁者であった。“科学”とはある意味で“人間”の定義として用いることも可能な、一つの宗教的概念であると看做し得るかもしれない。そしてまた宇宙の全体としてある統合的存在/機能を対象にして、特定の意図のもとにこれらの部分集合を断片的に分離する思考操作を適用した結果が、“神”や“人間”等の概念であったと理解することも可能であろう。そうした観点から“神の人間化過程”を改めて解釈し直すこともできる。キリスト教における“三位一体説”、つまり「父なる神と精霊とキリストは、同じ一つのものの示す異なった位相の各々である」という教説を、科学的な分析操作の対象とする変換操作を企ててもよい訳である。プラクシー・ワンとエルゴ・プラクシーあるいはヴィンセント、リル・メイヤーとリアルあるいはモナド・プラクシー等それぞれの存在が、神/人間いずれの位相を選択して具現しているかを確認し直す作業を行ってみる必要もある。そのような位相遷移が可能である全体性の機構のシステム理論的把握が試みられた時、その反省作業は極めて“人間的な”科学的営為として認められることだろう。そしてそこに得られた限界点が改めて“宗教”の位相を照射することともなる。
 最終章の省察23「代理人」では、ヴィンセントとリルの前に姿を現したプラクシー・ワンは、自壊装置を作動させてロムド・シティの破壊を開始したデダルスの行動を確認して語る。「来るべき時のために用意されたシナリオを囁いてやったのさ。彼もまた、破壊の衝動に目覚めたようだ。我らのように。」この言葉により、ラプチャーの発射を企てたラウルもまた、プラクシー・ワンの教唆に従って自らの行動を選択していたことが分かる。個人としての存在理由を自由意志によって選び取り、実存的決断を行使したと結果思われていた彼等の行動も、実際にはその能力を超えた超越者によって操られたものでしかなかった。プラクシー・ワンはヴィンセントに語りかける。「その時、全てを理解した。創造主が仕組んだ悪意の全てを。長き苦悩の末、漸く果たした代理人の使命。人類再生を成し遂げた瞬間に始まった体の変調。それが、始まりの鼓動。プラクシー抹殺プログラムの開始。」ヴィンセントは尋ねる。「では、お前は人類を?」プラクシー・ワンは続けて言う。「しかし、我々はそれに抗うことはできない。極めて合理的なシステム。皮肉なことだ。プラクシーは神の使いでありながら、使命を終えれば約束の地に導いた後に残った不必要な因子。それどころか、怪物であり、悪魔に過ぎない。」ヴィンセントは問う。「だが、その合理的な計画によって乗り捨てられた筈の箱船にも、心が芽生えていたとしたら?何故、創造主は我々に心など持たせた?心など無ければ、苦悩など。」プラクシー・ワンは答える。「分かっている筈だ。ああ、答えなど必要ない。何故なら、我々自身、その手で行った試みによって理解した。自らの手で造り出した出来損ない共から、崇められ、裏切られ、絶望に突き落とされ、それでも、愛している。…創造主も愛されたかったのだ。我々が孤独の中でそれを味わったように。だからこそ、彼等には罰を与えなければならない。」愛されたいが故に自らの創造物に心を与えた創造者は、被造物の愛を欲したところで神となるべきものとしての限界性を露にしている。だからこそ裏切られ、罰せられなければならないのである。ヴィンセントは問う。「今更何ができる?彼等が望んだ計画通り、お前が人類を再生したなら。」/「気付いたか?全てを忘れたヴィンセント・ロー。それこそが、予め捕われた影なる存在である証拠。そんなお前を操り、失敗作共の感情を発芽させ、再生した人類を再び抹殺した。」/「では、人類は?」/「影は死ぬ。神亡き世界で、神を望んだ報いを受けた者たちの運命を。人類は滅ぶべきだったのだ。あの世界を崩壊に導き、逃げ出したのだから。丁度お前がこのロムドという自らが生み出した世界から逃げ出したように。ヴィンセント・ローとは、かつての絶望したプラクシー・ワンの残像、いや、エルゴ・プラクシーがこの地に残した影武者、偽物に過ぎない。」ヴィンセントも全てを理解して、納得する。「確かに、エルゴ・プラクシーはお前であり、俺だ。プラクシー・ワン。」ヴィンセントが確認した己の正体は反逆者であり、復讐者であった。
 デダルスは、愛想を尽かしたようにリルに言う。「見捨てられたのに。無意味なことだ。相変わらずだ。吐き気がするよ。…大体神々の戦いに、僕たち人間もどきに何ができる。僕たち歯車にできるのは、口をつぐむこと。そう、ドノブのように。」敬愛していたドノブの自分への愛が偽りのものであったことを理解したリルは、思わず語る。「お祖父様が望んだ創造主との邂逅。それが私を生み出した理由だったとしても、私は構わなかった。今まで、ずっとお祖父様を心の底から愛したかった。愛されていると感じたかった。ただ、愛されていると。」人を愛し、臆面も無く愛されることを心から欲するリルは、人間そのものである。デダルスはさらに、プラクシーに課せられた残酷な真実をリルに語る。「残念だな、プラクシーは青空の許で生きることはできない。アムリタがそれを許さない。」/「どういうことだ?」/「彼等もまた、この世界から排除されるべき存在。」その時、頭上に翼を広げて飛翔するリアルの姿を認めて、デダルスは語る。「僕は神を創り上げた。」
 戦いを始めたヴィンセントとプラクシー・ワンのもとを訪れて、リアルことモナドが言う。/「止めて、もうプラクシーの役目は終わったのよ。」/「またお前か、モナド。」ヴィンセントも新しいモナドに気付く。「モナド?」/「やっと会えた。ずっと探していたの、あなたのことを。」/「邪魔をするな、モナド。確かに、代理人の役目は終わった。そして、私が再生した人類も絶滅し、不死身の勝者も滅びる。」/「これが筋書き?」/「これが俺の復讐だ。後はお前次第だ。それがお前の世界となる。」/「お前は、お前はまた俺に全てを背負わせるのか。」/「こんな世界、救わなくていい。分かっているの。あなたにそんなことできない。だから、もういいの。」/「止めろ、モナド。」/「みんな終わったの。もう誰の悲しみも見たくない。」/「モナド!」/「また逃げるのか?」空高く舞い上がったモナドは、空中に飛来した飛行物体を認めて呟く。「聞こえる。計画。受け皿と。呼んでいたのは、あなた達だったのね。…ヴィンセント、あなたの選んだ未来は、やはり。迎えましょう。創造主を。」
 頭上のモナドの姿を見上げて、デダルスは言う。「駄目だ。その空では、君は。」作り物の翼をつけて飛翔したものの、太陽に近づきすぎて墜落したイカロスの父親がダイダロス(デダルス)であった。ギリシア神話の発明家と同様に、デダルスは自ら造り出したモナドを墜落の運命から免れさせることはできない。空から戻ってきたヴィンセントを迎えて、プラクシー・ワンは言う。「戻ったか。」/「ああ。」/「ヴィンセント・ロー、お前は正に影。影は不死身の我を倒し、鼓動の呪縛を解き放った。」/「それは、お前を苦しめ、そして愛した不完全なる者たちの開放でもあった。」/「その通りだ。未来を見通す女か。確かに彼女が、お前、ヴィンセント・ローの現実だ。太陽が戻る。俺達の世界は終わる。だが、生きろ。ヴィンセント。お前が生きることが、創造主への罰となる。」創造主を運ぶ飛行物体を見上げながら、ヴィンセントは言う。「これが、俺達が向いあう現実という名の世界だ。…だが俺は、リルや生き残った者たちと共に、世界と向き合う。」『エルゴ・プラクシー』の幕を閉じるのは、ヴィンセントであったものが語る以下の言葉である。「再生の時を迎えつつある大地へと、数千年ぶりに人類が戻った今、本当の戦いが始まる。我は、エルゴ・プラクシー。死の代理人である。」
 『エルゴ・プラクシー』に導入されていた“人―神”概念変革に対する形而上的理解を探る糸口として、“ATフィールド”という興味深い概念が採用されていたアニメーション映画『新世紀エヴァンゲリオン』と、厚生局長デダルスの姓として暗示されていた夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』を参照することができる。『新世紀エヴァンゲリオン』が中心主題として採用していた、“絶対恐怖領域”として自と他を分つ精神的機能あるいは自閉的病理である“ATフィールド”は、『エルゴ・プラクシー』の「分かれたものは一つにならなければならない」という発想において示されている“分離と統合”という概念と深く関わっている。さらに『ドグラ・マグラ』において“神を追放した脳髄”について語られていたものをそのまま反転させて“自我を滅却した神性”と呼び換えることにより、これらの概念の裏面に通底するシステム原理の把握を試みることができる。ATフィールドの発動によって全ての他者のATフィールドを侵蝕し宇宙の全ての分別機能が失われた場合を考えてみると、以下に挙げるような諸概念の混淆あるいは統合が導かれることとなる。〔自分と他人/世界と自分/仮構と現実/妄想と事実/狂気と正気/原因と結果/記憶と予知/行為者と被行為者/意味と実質/可能性と現存性/同一性と類似・相似性〕これらの区別がおしなべて失われる時、時間という次元のみを特定的に解放していた際に観測されていた“ループ”という構造体は、時間次元を内部に含む統合連続体においては相似的な同位体が無数に散乱する多義的な不定形の概念/実質/属性の混淆体として等価的な記述を施すことが可能であることが推測される。『ドグラ・マグラ』においては、律儀にこれらのそれぞれの条件の順列組み合わせ的展開がなされていたのであった。人が主観において経験する“夢”の場合のように、あるいは人が時として陥ることができる“狂気”という状態において可能なように、個々の要因を連結する関係性が解けてしまった時空を超越する開放的直覚において世界の全体像が捉えられた状態、すなわち“理性”による描像に従えば“ゲシュタルト崩壊”が来されたフィールドの投影像とされるものにおいては、相似形のループからループへの跳躍とも全方位的反転原理を秘める捻れ構造とも様々の形で受け止めることが可能な種々の矛盾の併置から成り立つ“多義性”の超越世界が直覚されるのである。『新世紀エヴァンゲリオン』と『ドグラ・マグラ』において具現されている諸場面から、これらの要素の反映と思われるものの検証を試みることができた。“ドグラ・マグラ”が連想させる“ゴグマゴグ”は、古代世界の伝説の巨人もしくは神の名として語り伝えられているものである。しかしこの名で呼ばれていたものは、“ゴグ”と“マゴグ”という双子の存在であったとの異説もある。“ゴグマゴグ”として顕現することもあれば“ゴグとマゴグ”として具現することもあるという存在原理のドグマを特定することにより、『新世紀エヴァンゲリオン』と『ドグラ・マグラ』に照合される同位体的記述を洗い出して、『エルゴ・プラクシー』において展開していた全体性を補完することになる様々の存在概念の実相と関係性を語り返すことができるのである。
 プロメテウスは人間に火を与え、神々によって罰せられて山頂で永遠の責め苦を負わされることとなった。ルシフェルは人間に知恵を与え、至高の神によって罰せられて地上に堕とされて悪魔として神に抗うこととなった。プラクシーは火と知恵に代替するものとして人間にオートレ―ブを与え人類再生の使いとして働いたが、その役目が終了すると共に創造主によって無用のものとされた。『エルゴ・プラクシー』においては、人と使徒と人に与えられた道具である機械意識体オートレーブが科学を媒介として様々な位相を保持して相互の関与を行っている。神ならざるものとして、ラウルは追従する堕落を拒み大量破壊兵器ラプチャーを用いて抗い続ける生き方を選んだ。デダルスは自分自身のための神“リアル・メイヤー”を我が手で造ったが、モナドによって見捨てられた。ドノブ・メイヤーは、創造主によって遣わされた使徒の一人と邂逅し、“小世界”ロムドの管理を託されたが、同胞の人間達と共に自らの創造主に見捨てられることとなったため、他の使徒によって建設された別の小世界モスクに侵攻し、自分達の神とすべきものを強奪してきた。そして行方をくらました神/使徒をおびき寄せるため、モナドからリル・メイヤーを造り出し、神/使徒を欺き、操ることを試みた。さらに使徒の分身であるリル・メイヤーが囮としての用をなさないことが分かった時、創造主に体する復讐としてモナドを陵辱し、神/使徒/被造物であるリル・メイヤーの殺害を企てた。
 全能の神ならざる使徒プラクシー・ワンは、完全ならざる創造主を罰するための反逆を試み、自らの影としてヴィンセントを生成させた。しかし彼の反逆と復讐も、自らが造り、見捨てた不完全な存在である“人間”ドノブ・メイヤーが既に実際に行った行動の後を追う模倣行為となっている。神は往々にして人を真似るのである。リル・メイヤーは、モナドから造られた使徒の分身でありながら、最後まで自らを人として認識し、飽くまでも人間として足掻き続けている。ヴィンセント・ローは、プラクシー・ワンの分身であるエルゴ・プラクシーとしての存在に目覚めたが、再生されたモナド・プラクシーの誘いを断り、人間リル・メイヤーと共に創造主と再生されるべき人間達と抗い続ける“死の代理人”として自らを“人間化”することになる。当然ながらそれは、創造主によってレゾン・デートルを施された世界を統べるべき“人”とは異なるものである。“一神教”という硬直した思想の受容の結果、キリスト教支配の中で人の中の“神性”は歪められ、病理や怪異や天変地異に堕してしまうこととなっていた。しかしヴィンセントが選び取った存在原理は、神として人に拘束されることも人として神に拘束されることもない存在である。プラクシーとしての本来のレゾン・デートルは、神としてあることも人としてあることも捨てた“デモーニッシュ”な存在として求められるものだろう。阿諛追従する“人”性を不器用に模倣していたプラクシー・ワンの影の存在であるヴィンセントが、飽くまでも傲岸不遜なままに人として振る舞うリルの“人”性を模倣した結果、“デーモン”としての自らの存在原理を見出すのである。かくして分かたれた人と神が、人と神との分別を持たないデーモンという一つのものに還帰する神話が語られることになったのであった。
訂正
「41」のキーのナンバーが文字化けしてました。

ペンダント・キーのナンバーは「1」と「13」です。

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