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日本古代史ミステリーコミュの邪馬台国は徳島にあった

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阿波の国は不思議な国。
徳島には膨大な古墳群があるのに邪馬台国論争からも無視されています。

徳島の古墳群からは他の古墳群に無い
ローマンガラスを始め特異な出土品が数多くあるのに、
なぜ阿波の古墳群は正史から無視されるのでしょう?

魏志倭人伝の「邪馬台国」までの道のりを
その通りに読めば阿波に到達します。
近畿説も九州説もどこかで無理矢理方向をねじ曲げたり
記述を無視したりして目的地をねつ造しています。

私は阿波徳島こそが邪馬台国の本命だと思っています。

トピック
「イザナギ、イザナミは予言者イザヤ?」
にも書きましたが、
徳島の狭い範囲の地名と同じ地名が
奈良県から和歌山県に広範囲に広がっている。

これらの地名から考えても、
明日香の大和朝廷が徳島から移動した人々によって
形成されたと考えるのが自然だと思うのです。

アメリカ合衆国はイギリスを逃れた清教徒達によってその基礎が築かれました。
したがってアメリカの地名には故郷イギリスを偲んだ地名が散見されます。
そして昔メキシコ領だったカルフォルニアには
メキシコそなわちスペインの地名やキリスト教にちなんだ地名ばかりです。

地名はそこに移り住んだ人々の思いが込められています。
阿波と奈良和歌山の地名の関係は
何らかの事情により新天地を求めて
奈良和歌山に阿波の人々が移り住んだと考えるのが自然だと思うのです。

コメント(14)

気延山麓にある
天石戸別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめ)

祭神は「大日霊女命(おおひるめのみこと)」。これは天照大御神の別名。
徳島藩の史書「阿府志」は天照皇太神、「入田村史」には
「大日霊女命(おおひるめのみこと)」を祭ると書いてある。
また京都押小路家所蔵の延喜式神名帳の阿波国八倉比売神社の項には「祭神が」
大宮売神と注記されているが、これも天照大神の尊称であるkと記されている。
上記 八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)の社格は式内大社である。
平安時代当時、神社の数は3万社とも言われていた。
そのうちから国家祭祀に組み入れられた神社が「延喜式」の中に登録され、
その数は3132に及んだ。この神社が、延喜式内社または式内社と呼ばれていた。
八倉比売神社(わけやくらひめじんじゃ)はその式内大社なのである。
そこで行われていた祭祀の起源の説話などを調べてゆくと、
延喜式に取り上げられるはるか以前の7世紀末にはすでに存在していた事がわかる。

阿波国国史研究会によると

魏志倭人伝には卑弥呼の没後、当時13歳の崇女、壹与(とよ)が
邪馬台国の女王になるが、この壹与(とよ)が豊玉比売命に当たる事は
内外の文献から「天照大御神」=「卑弥呼」と異常にその属性が一致する。
したがって皇室にとってもっとも重要な女神である「天照大御神」、
及び神武天皇の出生にかかわる豊玉比売命がそろって式内社に祀られ、
しかもいずれも神陵(葬場)として今日たどれるのは阿波以外になく、
とりわけ八倉比売神社(やくらひめじんじゃ)は
皇室とは最も最も関わり合いの深い神社と言う事が出来る。
以上のことから耳を疑うよなこと、
すなわち皇室の皇祖の地は、阿波そして気延山にその神陵の地がある
という事になるのである。
まいは、徳島の子ですほっとした顔裏の富士山が、その山です手(チョキ)足跡ありがとーございますほっとした顔
まい(*^_^*) さん 初めまして

私は徳島とはまったく関係ないのですが、いろいろと調べていくと、
阿波には秘められた何かがあると思うようになりました。
地元の情報お願いしますね。これからも宜しくです。
徳川幕府は本当の阿波の歴史を知っていたらしい。

以下阿波国国史研究会編「道は阿波より始まる」からの抜粋

徳川幕府は江戸時代を通じて多くの注文を阿波藩に突きつけてきた。
松平元康は自らの家系は鴨族の末裔であると称して名字を松平から徳川に改めた。
その後阿波の蜂須賀藩に、阿波藩を徳島藩に解明せよとの命令を下した。
それ以降阿波の国に徳島という地名が現れたのだという。
 その後水戸光圀は1697年突然徳島藩江戸留守居役だった老中土屋相模守を呼びつけ、
阿波及び淡路二州の古代天皇葬場を調査せよとの命令を下した。
それ以降徳島藩では阿波及び淡路二州の古代天皇葬場を調査が続けられた。

四国、中でも阿波の国には隠された歴史があるらしい。
それがまた日本の歴史の根幹をなすもののようだ。
それらを明らかにするのは「阿波風土記」しかない。
しかし「阿波風土記」は現存しないとされている。
しかし「阿波風土記」から百数十年前に引用されたとされるものが、多くの本に取り上げられている。
「阿波風土記」は徳川家が持っていた事が分かっている。
また明治初年まで徳島藩自体も持っていたといわれている。
しかし明治5年、小杉すぎおみ氏が「阿波古風土記考証」を出版した時点で、
それらがいっせいに消えてしまった。
もちろん「阿波古風土記考証」も同じ運命をたどった。
なにか秘密があるとしか考えられないのである。
剣山には、いろんなお話があるよーですほっとした顔ユダヤにまつわるものが多いですが、アークやソロモンの財宝の話やいろいろ…イザナギ・イザナミのメッセージは、宇宙人のおばーから去年の9月に聞かされました。イザナギ・イザナミが阿波の地に帰ったとゆー話で、阿波国に生まれしことを喜びなさいとゆーことでしたほっとした顔阿波の地名を運んでいるところは、千葉もそーですねほっとした顔
あと、天皇家に献上する麻を作っていることから麻植とゆー地名がありました。。。昭和天皇がなくならはったときは大変だったよーですほっとした顔
まいの実家の近くの八幡さんには、天照さんがまつられていました。神社の横っちょなんで、こないだまで全く気づいてなかったですほっとした顔すごくパワーの強いとこです。もしよかったら日記にいっぱい出て来ますのでみにきてくらさいねウッシッシ
あんまし勉強してないんで知らないことだらけなんですけど、ホツマツタエやムーの記憶やらみんな繋がっているよーですほっとした顔また、教えてくらさいねひよこ
徳島市民です。

徳島市の眉山には神武天皇の像があり、その麓の忌部神社は警察がよく巡回しています。知り合いの話では、天皇陛下が来県された時には公安が来てたそうです。

まい(*^_^*) さん が書かれているように、その大麻を作っていたのが忌部一族です。その忌部一族が房総半島に渡り、そこから大麻が広がっていったと以前テレビで見ました。大麻を肯定的に検証する深夜の特集で、大麻比古神社や阿波の歴史などにも触れていました。一族はかなりの大移動だったため、多くの者がそこに住み着いたそうです。その為、千葉の人と徳島の人はどこか雰囲気が似ているそうです。(僕も高校野球などで千葉の人を見てそう感じた事があります。)DNAを解析すれば解かるのでしょうが・・・。以上、かなり前に観たテレビの記憶です・・・。

因みに僕は日本人のルーツを3系統の融合と仮定しています。
その3系統とは、熊襲族=南方ポリネシア系、蝦夷族=渡来大陸系、そして大和族=シルクロード経由の十部族ではないかと。
それは、そのまま古事記の国津神や八百万の神と天津神ではないかと。
これらもDNA解析のレベルが上がれば色々と解かるのでしょうが・・・。

とりあえず、日本人の宗教観と十部族の宗教観には近いものがあると思います。
十部族は偶像崇拝や多神教に流され、罰を受けたことになっていますが、旧約聖書の成立がバビロン捕囚の時期とすると、十部族にとってはそんなこと知るよしもありません。

「ヤハウェ(一神教)ってなんでそんなに厳しいの?金の子牛像(仏像)くらいでやいやい言うなや。厳しい戒律を守って、餓死したり、(争ったり)するより、頼れる神全てに頼っていけばいいやん?全ては神の顕現なんやから。お!あの神を祭れば豊作(ハッピー)になるのか!試してみよう。アシュトレト・・・バール・・・(仏教・・・クリスマス・・・)。」

こんなアバウトな宗教観でも団結する時には団結し、戦いにも強く、おまけに頭も良い。そんな日本人は十部族だと思います。
つまり、僕の考えでは、日本=北イスラエル王国で、イスラエル=南ユダ王国です。
どうでしょうか??








まい(*^_^*) さん

地元の情報ありがとうございます。
邪馬台国は徳島にあり卑弥呼→壹与→神武天皇というのが
正しいのではと思います。
正倉院の御物にローマンガラスがありますが、
そこ以外で古墳からローマンガラスが見つかったのは徳島古墳群と
韓国カヤ地方の前方後円墳だけです。

プレスト♪ さん 

貴重な情報ありがとうございます。
日本に古代ユダヤ人が来ていたという仮説ですが
私のトピック「イザナギ、イザナミは予言者イザヤ?」に
詳しく述べられています。

要約すると
今のイスラエルを建国した人々はユダヤ教徒カザール人で
ユダヤ人との血のつながりはまったくない。
従ってユダヤ12部族の復活の地は現在のイスラエル国家ではない。

本当に古代ユダヤの血を引く人々は
イスラエルの中で2級市民として虐げられているアジア系の
スファラディ・ユダヤ人である。

ユダヤ10部族についてですが、
ダビデの子ソロモンの子レハベアムの時代に国中が腐敗したので
ダビデ王朝の血とは無関係なヤロブアムが12部族の中の10部族を率いて
北王朝を建国した(国名イスラエル・首都サマリア)のが始まりです。

北王朝は紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、
ユダヤ10部族はアッシリアに連れて行かれます。
その後アッシリア帝国は文字を持たないスキタイ騎馬民族に滅ぼされるのですが
ユダヤ10部族はそれっきり消えてしまったのです。
この史実が「失われた10部族」といわれているものです。
たぶんスキタイ騎馬民族に奴隷として連れて行かれたのだと言われています。

紀元前722年に北王朝が分裂した時、
12部族の残りユダ族とベニアミン族はそのままレハベアムについて残り、
南王朝を建国します(国名ユダヤ・首都エルサレム)。

南王朝もアッシリアによって攻撃され包囲されますが、
国中の金銀を貢ぎ物にして滅亡をまぬがれます。
しかしその後紀元前607年ついにバビロン帝国によって滅ぼされ、
紀元前586年にはついにエルサレム神殿も破壊され
ユダヤ2部族の人々はバビロンに連れて行かれます。
これが有名な「バビロン捕囚」です。
その後バビロンは滅び、
ペルシャの時代にユダヤ2部族は今のイスラエルの地に返されます。
このときからそれまでヘブライ人と呼ばれたこの人々が
自分たちをユダヤ人と名乗るようになったのです。

この南王朝が滅ぶ前ユダ族の中に「予言者イザヤ」が現れ、
ユダヤの滅亡を予言します。
南王朝がアッシリア帝国によって包囲され国中の金銀を捧げてなんとか滅亡を
免れた後、
イザヤは次に攻撃されればユダヤは確実に滅亡すると唱え
密かにモーセと神の契約の石版の入った「契約の箱」を保護し、
ダビデの王統を次ぐ者と「契約の箱」を守りながら東へ東へと逃亡したと
考えられます。
その「契約の箱」が四国剣山の山頂に隠されているのではないか?
その辺の詳しい話は
トピック「イザナギ、イザナミは予言者イザヤ」に書かれていますので
ご一読下さい。

私が思うのは
消えたユダヤ10部族(北王朝)は
スキタイ人の奴隷として日本に連れてこられた。
日本全土にある前方後編分はスキタイ騎馬民族の遺跡ではないか?
前方後円墳からは馬具やスキタイ人特有の水筒そして彼ら特有の金細工の宝物が
次々に発掘されています。
しかも日本各地から見つかっているストーンサークルこそ
全世界に広がるスキタイ人(文字を持たない)特有の遺跡なのです。
イスラエル10部族は、
このスキタイ騎馬民即に奴隷として連れてこられたと考えられます。

またイザヤに率いられたユダ族とベニアミン族の2部族が
モーセが神と交わした契約の石版の入った「契約の箱」を持って
四国山上に小国家をつくったと考えられます。
(トピック「イザナギ、イザナミは予言者イザヤ?」に詳しく説明)

全国の小国家が統一される過程での必要性から
統一のシンボルとして
イザヤ→卑弥呼→壹与→神武天皇と続く皇室を中心とした
部族連合国家が形作られていったのではないでしょうか。

従ってイスラエル10部族とユダヤ2部族が古代の日本において
すでに合流したにもかかわらず、
彼らはその事にまったく気がつかないまま現在に至っていると考えられます。

日本史には紀元後300年〜400年の間の空白の100年があります。
この空白の100年の間に日本で何が起こったのか?

日本の古代史は本当にミステリアスです。
おもしろいハートmixiでこのお話できると想いませんでしたあハート
フリーメイソンが、四国を買いにきはったはなしや、いまだにイスラエルの人は、古い地図を持って、剣山にお忍びできてはるよーです。SPつきの人も多いですほっとした顔祖谷にくりすととゆー神社もありますよねほっとした顔キリストと呼ばれています。剣山の奥院には、六芒星つまりハートですよねほっとした顔型どられているとこが続くよーです。剣山の一部分は、空洞になってるともいわれますほっとした顔
お神輿の形…
お稲荷さんの鳥居…
山伏のおでこにのっかってるもの…
共通の形っていっぱいありますよねぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)

徳島に帰ったら、駅前の本屋さんで、地元の歴史本をしこたま買って帰りますいつも…ハート空海の暗号本もおもしろいですよほっとした顔
まい(*^_^*) さん 乗って来ましたねわーい(嬉しい顔)

祖谷のクリスと神社の話がでたのでおもしろい話がもう一つ。

イエスは紀元前4年、パレスチナで誕生しました。
イエス誕生について「新約聖書」に克明な記録があります。
特に「マタイ伝」には、東方から3人の博士がやって来た事が書かれています。
博士という言葉はギリシャ語では「マゴス」、正確には「知恵者」の意味です。
欧米ではこの3人の知恵者はイラクかイランから来たのだろうと想像されています。
しかし、イザヤ達が四国剣山の山頂に「契約の箱」を隠し終え、
四国山上に古代ユダヤ小国家を築いて平和りに生活をしていたとするならば、
「旧約聖書」の予言の成就ともいうべき「イエス」の誕生を確かめるために
はるばるパレスチナの地を目指したとは考えられないでしょうか?

この東方からの「マゴス」達はまずエルサレムに向かいます。
そして当時の王ヘデロに会って
「ユダヤ人の王として生まれたお方はどこにおいでになるのか。
私たちは東の方でその方の星を見たので拝みにやって来たのです」と訪ねます。
彼らはイエスのことを「ユダヤの王」と呼んだのです。

ヘロデ王はユダヤ人ではななく、イドマヤ人でした。
この頃ユダヤはローマ帝国の属国となっており、ローマ人はイドマヤ人をユダヤの王にして統治していました。
ヘロデ王はユダヤの本当の王が生まれることを恐れ、旧約聖書の学者達に問い
「ミカ書」の預言で「キリスト」がベツレヘムで生まれるという事が分かり、
3人の博士達に教えます。
そして自分も行って拝むから詳しい場所を教えるようにいうのです。
3人の博士達はベツレヘムに着き、
母と共にいるイエスを見てひれ伏しておがみ、
東方から持って来た宝の箱を開け「黄金」「乳香」「没薬」を贈り物として捧げます。
そしてイエスの身を案じてヘロデには会わずに東に帰ります。
博士達の話を聞いた母マリア達は身の危険を感じ直ちにエジプトに逃げるのです。
数日後、
イエスの居場所を教えないまま博士達が帰ってしまった事を知りヘロデは怒り狂います。
そして兵士に命じてベツレヘムの2歳以下のすべての男子を殺してしまうのです。

剣山、そのなかでも日本のチベットといわれる東祖谷村に、
栗枝渡(くりしと)神社とう神社があります。この神社には鳥居がありません。この栗枝渡(くりしと)神社にあげられている由来書には
元は栗須戸(くりすと)神社といったと書いてあります。
これは江戸時代の禁教令の頃に付けられた名ではなくもっと古代からの名前だそうです。
ちなみに「クリスト」とはキリストのギリシャ語読みで「救世主」の意味です。
栗枝渡(くりしと)神社まら目を上げると遙か彼方に剣山山系が見えます。
場所によっては剣山そのものが見えるのです。
この栗枝渡(くりしと)神社の記録書には
「剣山参拝者は栗枝渡神社を参拝しなければ意味が無い、と毎年5月から11月頃まで、白衣の行者姿が、毎日のように「ロッコンショウジョウ」を高らかに唱えて長蛇の列が続いていた」と書いてあります。
この事からも分かるように剣山と栗枝渡神社は一体と理解されているのです。
そしてなんと東東祖谷村栗枝渡神社のハッピには
天皇家の「十六菊紋」が染め抜かれているのです。

なぜ東祖谷村のこの神社が栗枝渡神社と名付けられたのか?
イザヤの連れて行った人々が居た四国剣山の周りの人々の中から
3人の「マゴス」が代表としてイエス誕生の預言を確かめに行った。
彼らこそが「マタイ伝」の東方から来た「マゴス」達だったのではないか?
当時のユダヤ国家ではアラム語と共に
ギリシャ語も一般の人々の言葉として使われていました。
彼らはエルサレムやベツレヘムで「クリスト」というギリシャ語を耳にしただろう。
そして彼らはイザヤの遺言通り、ベツレヘムで誕生したばかりのクリスト
すなわちイエス・キリスト自身に会った。
東祖矢には彼らの帰りを待ちわびる多くの人々が居た。
当時はイザヤが亡くなってまだ700年しか経っていない。
鉄と稲をもった弥生人達はまだ九州までしか来ていない時代。
四国山中にあったであろうユダヤ小国家には
まだイザヤの精神が生きていたであろうからである。

以上の発想は「宇野正美氏の考えです」ちょっと突飛ですが、
もしかしたらと思ってしまいますよね〜わーい(嬉しい顔)
剣山をいっさい見せないようにした空海の遍路設定

四国・吉野川の上流には古代ユダヤ小国家があった四国の山々があるとともに
その真ん中に「契約の箱」を隠匿したと思われる人工の山「剣山」が控えている。
弘法大師・空海はその真実の隠匿場所を隠すためにわざわざ近畿地方の吉野川の
上流に高野山を開いたと言われている。
弘法大師は剣山の重要性を心得ていた。
四国の吉野川沿いから剣山を見ることの出来る場所はわずか100メートルである。
それが出来る貞光町のある場所に立って、晴れた日、はるかに剣山を臨むと、
あたかもその剣山の前の山が切り取られて、
わざと剣山が見えるように作られているかのように見える。
弘法大師といえば四国八十八札所を定めた人物である。
その第1の札所は鳴門から始まる。
しかし八十八札所に至るまで、いかなる所からも剣山を見ることは出来ない。
いや、見ることが出来ないようにつくられているかのようである。
非常に興味深く読ませていただきました。

四国→死国でわざと隠されているとか・・
50年ほど前に剣山の発掘で大量のミイラが発見されたとか・・
奈良の吉野川と四国の吉野川の周辺地名が一致しているとか・・

尾根を結ぶ古代の道路網、そして大嘗祭用の麻布も
この地のみというのも意味深ですね。わーい(嬉しい顔)
ともきち さん こんにちは

そうなんです。
四国の山々には何かが隠されている。
安徳天皇は壇ノ浦に行っていないという伝説がある。
そして今でも四国の山の中で安徳天皇陵を守っている人々が居る。
平氏の紋章「2蝶」は何を意味するのか?
徳川の水戸光圀も阿波を徹底的に調べている。
古代から日本のエスタブリッシュメントは四国の秘密を知っている。
そして常に何かを必死に隠しているように思えてなりません。

今後ともよろしくお願いします。
NPO法人「阿波国古代研究所理事長」 笹田 孝至さん (徳島市)


「邪馬台国阿波説を広くPRしていきたい」と語る笹田さん(徳島市で) 「邪馬台国は阿波にあった」。近畿説と九州説が有力な邪馬台国の所在地について、“異端”とも言える阿波説をとなえ、昨年12月に仲間15人でNPO「阿波国古代研究所」を設立した。先月開いた記念講演会には約100人が参加。「みんな半信半疑かも知れないが、阿波を抜きに日本の古代は語れない。『これは研究に値する説だぞ』と、いつか学者や専門家たちを振り向かせたい」と意気込む。

 徳島市出身。徳島大の工業短期大学部を卒業後、1967年に徳島市役所に就職した。古代史とは無縁だったが、観光課に配属された79年、「おい、これを観光のネタに使えないか」と上司から1冊の本を手渡された。

 それは、郷土史家による古代阿波研究会が当時発刊した「邪馬壱国は阿波だった」。魏志倭人伝に登場する邪馬台(壱)国の舞台は阿波で、女王・卑弥呼の墓は、徳島市国府町の八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院、居城は神山町神領、などとする新説にのめり込んだ。

 翌年、さっそく市の観光キャンペーンに取り入れた。モデルに卑弥呼の衣装を着せてパンフレットを作成。八倉比売神社などをめぐる観光コースも設け、観光課に席を置いた4年間で、約600人を案内して回った。「みんな半分疑っていたかも知れないが、『そうであってほしい』という期待のようなものを肌で感じた」と振り返る。

 その後、郷土史家の一人、岩利大閑氏(故人)の研究書「道は阿波より始まる」に衝撃を受け、頼み込んで師事、勉強を重ねてきた。2004年3月に退職すると、「先人の研究成果を受け継ぎ、記録に残したい」との思いから、NPO設立に向けて仲間に声をかけた。

 笹田説によると、日本書紀や古事記の神話に登場する主要な神々はすべて県内の神社にまつられている上、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの行程も論理的に合致。そして最近の考古学の成果も阿波説を有力にしているという。

 「九州は邪馬台国の時代にはすでに衰退している。奈良には箸墓古墳など巨大古墳があるが、それを支えるだけの集落跡がない」と九州説や近畿説をばっさり。その上で、邪馬台国の所在地は鮎喰川下流の徳島市国府町と主張する。一帯の矢野遺跡や名東遺跡など弥生時代の集落遺跡を合わせると全国有数の約400ヘクタールにもおよぶ。

 また、魏志倭人伝が「その山に丹あり」と記載する赤い顔料の材料は、阿南市の若杉山遺跡から出土した水銀朱。列島各地の市場を監督する役職「大倭(おおやまと)」は、鳴門などに本拠を持つ海人(あま)族が担っていた――などと考える。

 最近の県教委の調査で、鳴門市の萩原2号墳が奈良・ホケノ山古墳の起源とされたことから、阿波の海人族が列島全体を監督するために奈良に拠点を移し、阿波の技術を受け継いで奈良で巨大古墳を築いていったと推測する。

 記念講演会では「疲弊している地方の観光活性化にもつながるのでは」との反応もあった。今後、勉強会を開き、調査報告書も作っていく。「偏見を持たずに、多くの人に耳を傾けてもらいたい」と、広く訴え続けるつもりだ。(松本航介)

(2009年3月2日 読売新聞)

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