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ネオヒューマニズムコミュのネオヒューマニズムと「哲学入門」

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佐々木:やすいさん、ネオヒューマニズム宣言が出てもうすぐ五年目に入ろうとしていますが、WEBなどを見ますと、相変わらずサルカール派の人間愛の対象を生物や非生物にまで広げようと言うネオヒューマニズムと、やすいさんの人間を身体的な個人や人格に限定しないで、社会的事物や環境的自然の存在性格として捉え返そうという立場が並走していますね。

やすい:正直言って、まだ私以外の哲学者や思想家が「ネオヒューマニズム宣言」に立脚した思想戦線の形成に参加していないということですね。まだ思想運動として動き出すまで至っていないということでしょう。

佐々木:論客やすいゆたかの存在はある程度見えているのだけれど、ネオヒューマニストを名乗って評論活動や実践運動をする活動家が出てきていないということですね。組織運動家としての才覚がやすいさんには欠けているということでしょうか?

やすい:その通りですね。ただWEB時代の思想運動の有り方を考えますと、以前のようなきっちりした活動家組織を作って、具体的な課題を挙げて、どのような組織活動をするというのとはかなり違ってくるかと思います。

佐々木:組織的に動員されるのをいやがりますからね。それぞれの個人的なノリで面白そうなのには集まってきますが、何かやらされそうになるとすぐに離脱してしまう傾向がありますね。ですからmixiのコミュニティに集まった人々は、ある意味見に来ているだけであって、しにきているわけではないのです。非常にゆるい組織ですから、たとえ左翼や右翼のコミュがあってもコミュの参加者は決して左翼や右翼の団体に参加しているつもりはないわけです。

やすい:そのようですね。左翼・右翼でもそうですから、ましてまだ海のものとも山のものともつかないような、新思想に対しては余計にそうでしょうね。かといって、じゃあ旧来の形の組織ならちゃんと規律をもって組織的に行動させられるかというと、やはりなかなか動かないというのが現状らしいですね。

佐々木:組織的に動きたくないけれど、別に現状に不満が無いわけではないので、好き勝手な議論のできるコミュでの議論を楽しんでいるのです。でもWEBをきっかけにした大運動は起こり得ないのかというと、私はそういうゆるい組織性がかえって幸いして、WEBの呼びかけがきっかけになって、一気に参加者が増えることだって考えられると思います。つまり縛りがなくなっただけ、みんな自由で自発的な意識で自分のやりたいようにやれるので、組織的に疎外されていないだけに、爆発するときは巨大な力が発揮されるのかもしれません。

やすい:ネオヒューマニズムは、いまのところ爆発的な性格はありません。ごく地味な「ものの見方、考え方」の変革ですから、自然に多数派の思想になっているということはあっても、一気に世の中をひっくりかえそうとするものではありません。それでも時代は現代ヒューマニズムを脱却してネオヒューマニズムを採用せざるを得なくなってきているので、いずれ増えていくとは思いますが。

佐々木:さあ、このまましぼんでいく可能性もあるでしょう。そうならないためには、組織家・運動家としてインパクトに欠けるやすいさんの役割としては、哲学者としてネオヒューマニズムの哲学を確立して、いずれ実践家と結合したときには芯のしっかりしたものになるようにしておくということでしょうね。それで今日は、「ネオヒューマニズムの哲学」について大いに語っていただくことにしたわけです。

やすい:まあ今まで語ってきたことも、ネオヒューマニズムの原理であり、哲学的な内容だったと思いますが、そろそろ整理してネオヒューマニズムの哲学的基礎付けを行なっておくというのは重要かもしれません。

佐々木:何事も端緒が一番むつかしいのですが、「ネオヒューマニズムの」ということに力点を置くのか、「哲学」に力点を置くのかということですね。前者はpdf版『ネオ・ヒューマニズム宣言』で行なってきていることですね。後者は哲学を論じながらそこにネオヒューマニズムの観点を入れたらどうかと言うことになると思います。私は同じような議論になってしまうのを避ける意味から後者がいいかと考えていますが。

やすい:そうですね、私としましても大学の講義でテキストとしても使える『哲学入門』的な著作が必要ですので、それが兼ねられるになっていれば助かります。

佐々木:ネオヒューマニズムというのは、やすいさん自身に体質化されているでしょうから、あまりネオヒューマニズムということは気にせずに「哲学入門講座」のような気持で進めていただければいいですね。

コメント(15)

-------------------------第一章「哲学とは何か」--------------------------

---------------------------1哲学か反哲学か-----------------------------

佐々木:まず取っ掛かりとしては「哲学とは何か」という問から始めましょう。と言いますのが、この問がかなりインパクトがあり、ホットな話題にもなっていますので、問題意識を持って哲学に入るにはいい導入になるかと思いますので。

やすい:そうですね、「哲学」をどう定義するかで、場合によっては哲学から脱却したり反哲学的な立場をとるべきだということになりかねませんからね。

佐々木:ええ、木田元さんは、『反哲学入門』(新潮文庫204頁)で、「超自然的原理」つまり頭の中で作り上げた理窟である形而上学原理を立てて、それを媒介にして自然を見、自然と関わるような思考様式こそが「哲学」とされています。

やすい:木田さんによれば、神が予め智恵の木で世界を構想されて、それを外化して世界を作ったとして、その真の実在としてのイデアを追求するのが哲学だというような捉え方ですね。

佐々木:それではあまりに現実ばなれしているというか、現実を認識する場合でも、自分勝手な理念を基準に世界を見ようとすることになる観念論だということでしょう。それで、木田さんたちは、あくまでも自然に即して、自然の中に実験・観察や日々の生活や生産の実践を通して確かめられる知識に基づいて知を形成しようという反哲学を打ち出されておられるわけです。

やすい:たしかに世界を生み出している原理は何かを問うのが哲学だという捉え方は、一つの哲学観としては分かりますね。しかしその原理が神や哲学者の頭の中でひねり出された観念だという限定はあったでしょうか。元々哲学は「アルケーへの問い」によって始まったと言われていますね。

佐々木:哲学史は根源物質であるアルケーが何であるかという問いから出発しました。アルケーとは総ての物質は元をただせばその物質から生じ、いずれその物質に還るような物質です。言い換えれば、総ての物質はアルケーの様態にすぎないと考えるわけです。そういう形で、アルケーつまり原理を明らかにしたのがイオニア哲学です。ターレスは水、アナクシマンドロスは無限定なもの(ト・アペイロン)、アナクシメネスは空気をアルケーだとしたわけです。

やすい:自然(ピシュス)の原理を求める自然哲学は、自然の現象を通して原理を見極めようという態度ですから、木田さんの言われるような「哲学」としては未完成だったわけですね。でもいったん水なら水をアルケーと覚ってしまうと、後は水が変化したもので、水に還るというように総て、自分で発見した原理で説明してしまうので、やはり形而上学的な独断論になってしまっていますね。

佐々木:それはそうですが、あくまでも自然に内在する原理だったわけです。それが自然から超越したところにイデア界を考えて、現実の事物をイデアの模造だとか、イデアの分有と捉えるのがプラトンの二元論ですね。知の世界が現実と別にあるというように、現実から超越しているわけです。

やすい:それはプラトンのイデア論のお話ですね。「哲学」は「フィロソフィー」でしょう。「フィロ」は「愛する」で「ソフィー」は「知」ですから「知を愛する」ということです。この言葉には謙遜の意味が込められていて、「無知の知」を唱えたソクラテスに由来するのでしょう。

佐々木:ソクラテスは既成の哲学者やソフィスト(智者)たちの独断的な議論や一面的な議論をしりぞけます。その矛盾を衝いて、彼らの議論が思い込みや独断を論拠にした知にすぎないこと、従って無知に陥っていることを指摘したわけです。この無知の知に導く対話法を「無知の知を産む産婆術」と称したわけですね。

やすい:しかしソクラテス自身も積極的な意味で真理を知っていたわけではなくて、自分自身、真理はまだ何も分かっていないという自己の無知を自覚していたわけです。自己の無知を知っていて、対話を通して賢者たちの無知を暴露したことによって、彼が随一の智者であるというアポロン神殿のお告げを実証してしまったということですね。

佐々木:それでソクラテスは、自分は無知なので智者ではないのだ、でも真の知を求めているので、独断的な知を退ける「愛知者」つまり「フィロソファー」だというわけで、そこから「フィロソフィー」も由来したということでしょう。

やすい:だったらその求めていた真の知がプラトン的なイデアであったということは証明されているのですか。ソクラテスは自ら著書を書いたわけではないので、プラトンの著書で活躍するソクラテスの言動からは証明できないでしょう。

佐々木:それが木田さんによりますと、初期の対話篇ではまだプラトン独自の思想は完成していないので、『ソクラテスの弁明』などは彼の思い出を忠実に再現したものと解釈してよいそうです。

やすい:その場合、ソクラテスは自らの真理を積極的に打ち立てるのではなくて、ひたすら賢者たちの知を破綻に導き、あらゆる原理を無に帰そうとしているのでしょう。そういう態度がアテナイの市民たちの反発を招いたのですね。愛知者なら誰もが納得できる合理的な知を積極的に打ちたてようとするはずなのに、矛盾していませんか。

佐々木:それは中途半端にこれが正しいというのを打ち出すと独断に陥るということを警戒したのでしょうね。ですからソクラテスは民主派が権力を握っていたときには、民主主義に疑問を呈し、寡頭政体派が権力を握っていた時には、寡頭政治を攻撃していたといわれます。もっともソクラテスの弟子たちはほとんど反民主主義派だったそうですが。

やすい:プラトンはソクラテスを裁判にかけて殺したのが民主派だったことから、アテナイの民主政治を師の仇のように考えて、哲人王政治の理念を打ち立てていきました。しかしソクラテスが反民主主義というのは、現実政治次元で言えることで、アテナイの衆愚政治を怒ったからといって、ソクラテスの政治哲学が反民主主義ということにはならないでしょう。むしろ真に民主主義を生み出すためには、既成の権力者や賢者たちの独断論を打破して、皆が納得できる普遍妥当的な知を確立することを目指していたと解釈する方が、すんなり理解できるのではないでしょうか。

佐々木:ソクラテスの反民主主義的な言動を弟子たちは、誤解して真の民主主義を目指すためとは考えずに寡頭政体を目指してしまったということですか。しかし弟子たちが間違った方向に行こうとしたら、ソクラテスは説得したでしょう。

やすい:ソクラテスにとっては、政体は入れ物ですから、問題は中身で、しっかりした議論に基づいて皆が納得できる普遍妥当的知の積み上げこそが重要だったということです。そのためには徹底的な対話で独断論を破綻させ、皆がゼロのところから出発しようとしたわけです。そこであらゆる独断や偏見を捨て去って話し合おうというのですから、これはルソーの人民集会の原理に通じるもので直接民主主義の原理なのです。

佐々木:ところがプラトンは、その普遍妥当的知というのをイデアという超越的観念に求めてしまったわけで、それを窮められるのはいつも思索にふけっている哲学者であって、欲望の原理で生きている庶民ではないということになってしまったというわけですか。

やすい:もちろん私はギリシア哲学は素人ですから、プラトンがソクラテスをどの時期から歪めて捉えていたのかを論証できるわけではありませんが、プラトン自身は貴族出身だし、ソクラテスを殺したアテナイ民主主義への怨念は尋常ではなかったでしょうから、彼の記憶がそれほど客観性のあるものだとは思えません。

佐々木:そこまで言ってしまうと、確かにあとは水掛け論になるでしょうね。つまりやすいさんが仰りたいのは、ソクラテスが求めていた知は形而上学的な知とは限らないということですね。みんなが議論の末で納得せざるを得ないような、現実に裏付けられた知、現実によって反証されれば変更可能な知ではないかということですね。

やすい:誤解のないように断っておきますが、ソクラテスには著書がないので、彼が求めていた知が何かは分からないということですね。それについて私は無知なのです。そして弟子のプラトンの書いたことは、彼のバイアスがかかっていて、素直に信用するのは警戒した方がいいということです。

佐々木:つまりこうですね。形而上学的な知であれ、自然的な知であれ、みんなが納得できる知を形成しようということで対話を哲学にしていたのではないか、つまり知を求める方法にしていたのではないかということでしょう。この捉え方を取り下げる必要はないと言いたいのでしょう。だったら木田さんみたいに「反哲学」なんて言って、頑張らなくてもいいわけですか。

やすい:ええ、その通りです。私たちは独断でない、皆が納得できる知を探し求めているわけでして、そのためには納得いくまで対話しなければならないということですね。対話や問答をやめてしまったら哲学は死にます。ソクラテスは、彼の問答法が有罪だというのなら。それは哲学の死であり、それをアイデンティティにしていたソクラテスの死を意味するから死刑にすべきだという想いだったわけです。つまり対話を通して国づくりをしていくというのは、アテナイの国制であり、民主政体なのです。寡頭政体や独裁だったら対話は要らないということですから、現実政治でいかに民主派のデマゴーグと闘っていたとしても、政治哲学としてはソクラテスは民主主義者だった、民主主義のために殉教したヒーローだったと思いたいですね。その精神を引き継いで我々は哲学すべきではないかと考えているのです。

------------------------2マルクスは反哲学者か---------------------------

佐々木:しかし反哲学的傾向は、マルクスやニーチェ、ハイデッガーにも見られますし、メルロポンティなどははっきりと反哲学を標榜しているようですね。

やすい:メルロポンティの場合は、哲学を頭の中で作り上げた観念や理念で現実を捉えたり、裁断したりする態度というように捉えて、そういう哲学に反発しているわけでしょう。そういう独断論では駄目だというのがソクラテスのデモクリストスの自然哲学を勉強したけど納得できなくなったという立場で、それは既成の独断的な哲学や、ソフィストの一面的な態度に対する批判にもつながったわけです。そういう意味では形而上学は独断論に陥りやすいので、ソクラテスのいう哲学的な立場ではないと言う面も持っています。

□マルクスやニーチェ、ハイデッガーの場合は、哲学一般を形而上学として批判していると言い切れるでしょうか?形而上学的な傾向の哲学からの脱却を説いていると解釈してもいいのではないでしょうか?

佐々木:そこが『『ソフィーの世界』の世界』以来の田畑稔さんたち哲学批判派とやすいさんたち哲学擁護派の対決軸だったわけですね。『フォイエルバッハ・テーゼ』で「哲学者たちはあれこれ解釈してきたに過ぎない、肝心なのは変革することである」と言っています。

やすい:ええ、田畑稔さんは『マルクスと哲学』という大著を出されまして、マルクスが哲学の外に立とうとしたことを実証しようとされましたが、それはそう解釈できるということであって、マルクスは一時的にそういう立場になったことはあるにしても、全体としては、そう解釈しないこともできるというのが私のマルクス解釈です。

□つまりマルクスは既成の哲学は、あれこれ思弁的に解釈して、合理化したり、理由付けしてきただけであって、それでは現実の問題は解決しない、そういう哲学の立場を脱却して、批判的に現実を変革しなければならないと強調しているのです。それを哲学の止揚や、哲学批判という言葉で語っているわけですね。

佐々木:マルクスが批判しているのは哲学一般ではないということですか?

やすい:田畑さんの引用を見ますと、確かに「哲学的」を批判的に扱っているので、哲学一般を批判している可能性は大いにあるわけです。しかし敢えて言うならば、マルクスも「哲学を実現するためには、哲学を止揚しなければならない」としているように、哲学は理念を掲げて現実を批判するけれど、それは現実の外に立って、現実を批評するものだから、解釈学に堕してしまいがちだったわけです。そういうあれこれ解釈する立場を脱却して、現実変革に立ち上がるのでなければ、その批判は実現しないわけですね。

佐々木:「ペンを捨てて武器を取れ」というメッセージですか?

やすい:情勢によってはそういう場合もマルクスは想定していたでしょうね。しかしそれが言いたいのではなくて、実践の学になるためには現実の社会的諸関係から出発して、具体的な社会の矛盾を構造的に明らかにし、一人ひとりの労働者が階級としての自己の立場に目覚めることが出来るような「導きの糸」になる変革的な実践的知を提供すべきだということでしょう。

佐々木:つまり哲学者は理念ばかり語って、彼らの理念を体現しようとしない大衆を高踏的に見下して批判していたので、そんな「哲学」なんて無用だとか、脱却しろと言ったわけで、マルクスが語ろうとしていたのもやはり「哲学」なんだということですね。

やすい:それをやはり「哲学」とマルクスが考えていたか、それはもう「哲学」ではないと考えていたかは、微妙です。『ドイツ・イデオロギー』の次の箇所などははっきり反哲学的な立場としか解釈できませんね。

□「それゆえ思弁が止むところで、現実の生活のもとで、現実的でポジティヴな学が、人間たちの実践的活動と実践的発展過程の叙述が、始まる。・・自立的哲学は現実の叙述によって生存基盤を失う。哲学に代わって登場しうるのは、たかだか人間たちの歴史的発展の考察から抽象される、最も一般的な諸帰結の総括である。これら抽象されたものは現実の歴史から切り離されると、それだけでは何の価値もない。それら抽象されたものはただ歴史的素材の整理を容易にするのに、また素材の個々の層の連なりの概略を示すのに役立つにすぎない。それらはしかし 、けっして哲学のように、それに基づいて歴史の諸時代が適当に刈り込まれるような、処方箋ないし図式を与えるのではない」

佐々木:それならマルクスは反哲学だと認められるわけですか?

やすい:ここで言われている「哲学」は歴史哲学でたとえばヘーゲルのように自由の発展史として図式化して捉える立場ですね。マルクス主義で言えば、史的唯物論の公式で、原始共産制―古代奴隷制―中世封建制―近代資本制の図式を作って、それで各国史を描こうとしたことなども入るでしょう。田畑さんの解説はなかなか見事なので、紹介しておきます。

□「つまり経験的観察を基礎に暫定的に一般化して獲得された一般諸モデルが、逆にさらなる経験的観察のために一般作業仮説、一般方法論として機能していくが、歴史認識の深化とともに不断に再構成されるべき暫定性を失うことはないのである。
 後に例の『経済学批判』の序言でも、マルクスは「私に明らかとなり、いったん獲得した後は私の研究に導きの糸として役立った一般的な諸帰結」と、まったく同様の表現を用いている。この「導きの糸」という了解も、我々の右のような認定を裏付けるものであろう。『経済学批判』でも眼目はあくまで「システムの叙述であると同時に叙述によるシステムの批判」なのであった。この点から見れば、マルクス死後の「マルクス主義」が「哲学」へと退行したという事態は、本来の眼目であるべき「現実の叙述」または「現実的でポジティヴな学」における無関心無能力と、単なる「導きの糸」であるべき「最も一般的な諸成果の総括」の実体化・法則化との、表裏一体的進行という形態で進んだと言わねばならないだろう。」

佐々木:なるほど一応現実の歴史的展開を見てきて、いろんな作業仮説やモデルが立てられて、それで歴史的展開を了解していくのですが、それで解けなくなったら、その原因を探って、仮説やモデルの変更も考えていくということで、頭の中で考え出した理念やモデルに縛られないようにしようということですね。頭の中で考え出した理念やモデルで図式化して、それを「導きの糸」以上に実体化・法則化してしまったということですから、原理や法則の否定としてはまさしく哲学の否定にふさわしいですね。

やすい:しかし『資本論』は、商品が固有の論理によって貨幣、さらに資本へと展開していくのをヘーゲルの論理学を応用して見事に哲学しています。そして『資本論』が明らかにしたのは、価値法則に基づく剰余価値の搾取構造ですし、それが資本を増殖して、労働者の窮乏化を深めていく原理でした。科学的社会主義も歴史が階級闘争の歴史であり、資本主義的矛盾の解決は共産主義的な解決しかありえないという科学的必然性を法則的に説いたからこそ成立したわけです。『ドイツ・イデオロギー』の執筆過程で原理や法則を説くこと自体を哲学的と退けたとしても、結局公刊されなかった著作に過ぎませんし、一貫して反哲学だったかは疑問です。

□彼の経済学批判や歴史の弁証法的な捉え方は、それが既成の学を批判的に乗り越えようとすればするだけ、現実を貫く法則性を見出して、展開していく哲学にならざるを得なかったのではないでしょうか。それを退行とみなすのは、やはり説得力がありません。


佐々木:しかしマルクス自身は哲学への還帰を明言しているわけではないでしょう。

やすい:それはそうですが、マルクスは哲学者をやめたつもりでいたので、論理一貫して、原理展開してもそれを哲学とは反省していなかったかもしれません。しかし我々の基準からはそれは哲学であると言うことですね。

佐々木:結局、哲学はどう定義されるのですか?形而上学との区別を踏まえて述べてみてください。

やすい:「ものごとを根底的に捉え返して、そこに原理を見出し、誰もが納得できるようにその原理で論理一貫して説明しようとする態度ですね。」

佐々木:それならヘーゲルがフィロソフィーからフィロを取ったのと同じで「学」が「哲学」だということですね。「ものごとを根底的に捉え返して」と言う部分が一般的原理を帰納するinduce general principlesプロセスを意味していて、後半が演繹deductionになっており、演繹の部分だけだと形而上学だということですか?

やすい:そういうことですね。誤解を避けるために言っておきますと、形而上学だから駄目だと言うのではないと思うのです。物事を理念や観念で捉え、原理に当てはめようとするのが学問であり、その面が欠けてしまうと学として成り立ちません。「導きの糸」に成り得るのは原理にまでなっているからでしょう。

佐々木:いや原理だと宣言してしまえば、引っ込みがつかないけれど、暫定的な仮説でいつでもぼろが出たら修正に応じますというのが、科学的な態度ですね。

やすい:それはないでしょう。科学者は法則を打ちたて、原理を宣言しますが、その際、その根拠や妥当する範囲をはっきりさせておいて、矛盾するデータが出ればいかなる原理と言えども修正に応じるわけです。問題は形而上学が宗教や権力やアイデンティティと結びついて、いかなる実証的な反証があろうとも、原理を信じ込むこと自体に意義を見出すことがあります。これは徹底的に批判すべきですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー3あらゆる学は哲学であるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

佐々木:ヘーゲルのように哲学を学として捉え返しますと、あらゆる学は哲学ということになり、すべての学は哲学の一分野だということになり、結局哲学は学の体系であることになりますから、やすいさんもヘーゲルにならって『学の体系(エンチュクロペディー)』を書かれるべきですね。

やすい:そういうことですね。まあその能力はありませんが。先ほど述べました哲学定義は総ての学問に当て嵌まりますので、どんな学問でも学問である以上哲学でなければならないということになります。実際、数学は数や点の観念から定義して、それを誰もが納得できるように推論して展開していきますね。経済学は、富の要素形態を見出して、それをアルケーにして展開します。その見事な例がマルクスの主著『資本論』です。

佐々木:『資本論』は実証科学ではないということですか?

やすい:そうなんです。哲学が実証科学を含まないということではありませんよ。哲学には当然原理を見出す下降の過程も含まれます。その上で原理の展開である上向過程を展開すべきです。

□とにかく原理を見出す根拠になったデータを開示しておく必要が実証科学にはあるわけですね。そうでないと、どの範囲で妥当するのか明確でなくなってしまいます。『資本論』には全くそういうデータがないわけです。ですから商品―貨幣―資本の展開は、完全な論理学になってしまっているわけです。私が『資本論』は哲学でしかないというのは、そういう批判を込めているわけです。

□だからマルクスは『ドイツ・イデオロギー』の執筆過程で批判していた哲学者に彼自身が堕してしまっていることになります。とはいえ、経済学も学である以上は原理展開つまり哲学でなければならないわけですが。

佐々木:あらゆる学が哲学だと言い方をしますと、あまりふだん学問としては意識されていないことでも、良く考えると学であり、哲学だと言うことになりませんか。たとえば箸の上げ下ろしや、歩き方、呼吸法や調理法も皆哲学だということになってしまうのですか?

やすい:そうなんです。それは重要な指摘ですね。現代は教育が大衆化しまして、大学や専門学校に多くの人が進学するので、様々な学びたいニーズの多様化に応えまして、学問分野も広がっています。礼儀作法は最も古い学問の一つですし、体育学では呼吸法は大切ですね。もちろん調理学というのも立派な学問で、そこには原理が貫かれています。

佐々木:ただし、家庭料理と料亭の料理、あるいは大衆食堂やB級グルメ、居酒屋など誰を相手に、どういう場所で何を目的に調理するかで調理法が違ってきますし、調理する人の個性によって一概に普遍的な調理の原理があるとは言えないのではないでしょうか?

やすい:ええ、それはもちろんそうですね。自然科学的な法則性とはまた違うわけですが、煮る・焼く・炒める・蒸すなどの加熱法、甘・辛・苦・塩辛・酸などの味付け法、切り盛りする配膳法などの原理は共通しますし、どうすれば栄養バランスのよい、元気の出る美味しい料理が作れるかの方法には共通の原理があるわけですし、またそれぞれの分野には、その分野固有の原理があり、それぞれの哲学があるといえます。

佐々木:それなら人付き合いの方法や世渡りの方法というのも哲学があると言えそうですね。そうなると世智と哲学の区別が出来なくなりませんか。

やすい:実際、人生哲学には交際術や出世術も含まれますし、成功者の人生哲学が学ばれたりします。世智は個々の智恵ですが、それをうまく人生に生かした生き方には人生哲学が貫かれていることが多いようです。もちろん人生は山あり谷ありで、茨の道を掻き分け掻き分けということがよくあるのですが、それを通して原理を掴むのも哲学ですね。そういう意味では私の人生は非哲学的だったといえるでしょう。

佐々木:生き抜いていくのに必要な導きの糸を見出そうとするのが哲学だということで、誰もが日々習っている、また習わなければならないものだということですね。ところでネオヒューマニズム独特の哲学観というのはあるのですか?

やすい:それは別に無いと思いますが、私は「哲学の大樹」の構築を目指しています。それがネオヒューマニズムとどう連関しているのかはまだはっきりしていません。

佐々木:『『ソフィーの世界』の世界』130頁から「哲学の大樹」についてのやすいさんの発言を引用してみます。

「いやへーゲルの死後の百七十年余りの歴史を清算的にとらえるべきじゃない。それに哲学の歴史は二千数百年あるんで、それぞれの哲学は未だにプラトンでもアリストテレスでも先哲といわれる人は、それぞれ物の見方、考え方、人間に対する捉え方、生き方、学の方法について受け継ぐべきものを持っている。そしてそういうものを総合して大きな哲学の大樹があるんで、その全体像をいかに示すかが今後の課題なんだよ。哲学批判や哲学揚棄などという問題の立て方は、西暦紀元二千年代を前にして人類史の総括の時期に相応しいとは思えないね。」

 要するにヘーゲルの『哲学史』のようなものを書きたいということですか。

やすい:ええ、その気持はすごくありますね。でも時間も能力も無いでしょう。この『哲学入門』では存在論・論理学・認識論などの各分野でのいろんな哲学の位置づけにも触れたいのですが、余り突っ込んでそれをやりすぎますと、難しくなり『哲学入門』ではなくなってしまいます。匙加減が難しいところですね。
----------------------第二章 存在への問い-------------------------------

----------------------1最初に読むべき三冊-------------------------------

佐々木:では具体的に哲学の中身に入っていきたいのですが、哲学で一番やっかいなのが端緒ですね。ヘーゲル哲学では有から始まり、無規定な有は無と同じだといって、無にいたり、そしてそこから成が出てきます。デカルトは絶対確実な真理から始めなければ、学の体系は真理の体系にならないといって、少しでも疑わしいものは間違いであるとして却下するという「方法的懐疑」を行いますね。

□そして感覚的現実は見間違いがあるし、数学的推理は間違える可能性が有り、心に思い浮かぶすべての想念は起きているときと寝ているときの区別がつかないので、夢想かもしれないとして総て却下してしまいます。結局疑えないのは疑っている私だけである。ということで、「我思う故に我有り」という絶対確実な真理に到達して、これを哲学の第一原理におくわけですね。

やすい:哲学入門ですので、哲学は何から始めるべきかというそれ自身大問題に取り組んでしまうと、結局哲学に入門できないことになりかねません。哲学初心者が哲学の古典を読んでみたいというのに対して、私はいつも次の三冊を紹介しています。

□まずはプラトン著『ソクラテスの弁明』ですね。独断論を避け、「無知の知」の大切さ、対話によって普遍妥当的真理に近づこうとする哲学の基本がわかります。

 次にデカルトの『方法序説』です。まず独断や思い込みを捨て、己の考える力だけを信じて、自分自身から出発しようとする態度、自我の自覚の大切さが分かります。

 そしてサルトルの『実存主義とは何かーそれはヒューマニズムである』です。認識すること、決断すること、行動すること、すべて己の主体性と責任において為すところに人間の自由と尊厳があり、人間であることの意味、素晴らしさがある、それはとてつもなく恐ろしい、残酷なことでもあるかもしれないがということですね。そういうことがよく分かって、哲学を体験できるからです。

佐々木:なるほどうまくまとめましたね。それだけ聴いたら、その三冊を読んだつもりになって、哲学が分かったつもりになる学生もいるのじゃないですか?

やすい:それは受験体制の弊害ですね。できるだけ少ない時間の勉強で合格点をもらおうとする。予備校の名物先生は赤鉛筆を持って、参考書に赤線を入れるのです。「こことこことこことここはやらなくてもよろしい」すると効率的な勉強ができて合格できちゃうというので、いい先生ということになり、年間億を超える収入を得ることになる。もちろんそんな先生ばかりじゃありませんが。やはり哲学書はじっくり読まないと、身に着きませんよね。
------------------------2端緒としての存在それ自体----------------------

佐々木:やすいさんはその三冊で哲学が体験できると言われたわけですが、その場合の哲学観があると思いますが、その内容はなんですか?

やすい:対話によって、互いに同意できるところと出来ないところ、肯定と否定が明確になり、普遍的真理に近づいていく仕方が哲学だということですね。

佐々木:それは一人で思索する場合でも同じですね、常に対立する見解とぶつけて、その疑問点を解消する道を探ることで真理は深まっていくと言うことですから。それはそうとして、結局突詰めて行くと、哲学は「考える我(コギト)」であったり、ヘーゲルのように有そのものであったり、スピノザのような唯一実体である神という聴こえはいいかもしれないけれど非常に単純なというか抽象的なものから始まってしまいますね。唯物論だって哲学となると物質の形而上学になりかねないでしょう。

やすい:始まりは総ての媒介を取り去った、まっさらの状態ですから、それは我であったり、神であったりといったなんらかの規定されたものであってもならないはずですね。考えている以上、考えている我の存在は疑えないといっても、じゃあその我とはなんなの、どうしてそれが「我」なのですか、そんな、のっけから、我とか汝とかあるのはおかしいでしょう。

佐々木:そういえば唯一実体が神や物質だというのも変ですね、なんの規定もないのなら神や物質とは言えないはずだし、むしろ存在の方がいいですね。結局はじまりは我や世界を超えた、それらを包括するような存在ということですかね。

やすい:だから「哲学は存在への問い」だと言われますね。しかし存在を問うことによって初めのまっさらに戻ったら、それは何でも無いことになり、展開できなくなってしまいます。

佐々木:我も汝もない、神も自然もない、つまり意識と事物が分かれる前の存在それ自体というのは、まさに仏教的な空というか、さとりの境地のようにも思えますね。

やすい:ええ、始まりであるのはそこから総てが展開してくるのですから、全存在がそこに含まれているということで、ギリシア精神を表していると言われるエレア派の「一にして全(ヘン・カイ・パン)」なのです。『華厳経』でいうと「一切即一」ですね。

佐々木:最初にすべてがあったのですが、しかしすべてが分かれていない状態なので何も無いのと同じなのですね。それは言い換えれば何ものにも囚われない最も自由な状態で、この境地おいて我と世界の合一が成就されると考えて、真言密教では原始音である「オーム」に戻ろうとします。これが呪術の出発点でもあるわけでしょう。そういう意味では真言密教は哲学的な始源論を極めようとしていたと言えますね。

やすい:哲学というのは、初めにある真理というのは全くの可能性にすぎず、展開された体系にこそその全容が現われるわけですが、純粋無垢のはじめにこそもっともいいものがあると思いがちです。そして真理の展開である現実が、真理の堕落した穢れた姿のように思われ、穢れた現実を脱却して、無垢の始原に戻ろうとするわけです。

佐々木:最初の主観・客観に別れる前の、存在そのものであった状態に覚りがあったとしたら、その最初というのはその後の展開は、最初にあったものの展開に過ぎないと言う意味では、その後の展開の中にもやはり保存されているはずですね。もっと積極的に言えば現実はいかに穢れていて矛盾に満ちていようとも、それは真理の展開である限りでは、現実の中にも、現実に生きている我々の中にも、最初の覚りは、つまり元々あった真理は隠れているはずだということになりますね。

やすい:そういう肯定的な意識が大切ですね。つまり元々覚っているということです。本来の自分にもどれば、世界は自己であり、自分は本来世界と合一した仏陀に他ならないのだということですね。これが天台本覚思想なのです。

佐々木:世界と自己が一つだというのは、インドのバラモン教のプルシァ説話に既に原型がありますね。プルシァつまり最初の人間(ファーストマン)を全能の神がコスモスの前に創造されて、そのプルシァの死体から天や地や太陽や星が、あるいは動植物や神々も生まれ、いろんな階級も生まれてくるということで、元々コスモスや諸神、諸物と人間は一体だったということが説かれています。それを前提にすれば、呪術の有効性が信憑されやすいですね。

やすい:確かにそういう始原の真理というのは、世界が人間と別ではない、人間が認識するということと世界が存在するということは別ではないという覚りが感覚的にしろ感じられていたから生まれた説話でしょうね。

佐々木:やすいさんはネオヒューマニズムの立場から存在の根拠を人間の意識に求めるプルシァ説話を、世界を人間の現れとして捉える点で、ネオヒューマニズムの先駆として評価されていますね。

やすい:ええ、コスモス全体が人間の身体を素材に出来ているということで、あらゆる事象を人間の生命活動として捉え返したり、人間的世界を構成する人間的存在として捉え返しやすくなりますからね。
ーーーーーーーーーー3デカルトの方法的懐疑への疑問ーーーーーーーーーーー

佐々木:しかし人間が認識することと存在することは別ではないということは、存在の根拠を人間の意識に置くことですから、必然的に独断論に陥ってしまいますね。それは宗教では有っても、哲学ではないのではないでしょうか?

やすい:有ることと知ることとが一つの始原にあっては、有るは有るでしかなく、何であるかは規定されていないわけでしょう。つまり意識が働いていないから、と言うか、意識が有ることから離れていないわけですから、それは始原として後から想定された<物と意識が未分化な状態>と言えるかもしれません。

佐々木:そういう理念化された覚りの状態を端緒において哲学が出発すると言うことですか。そういうのは哲学というより仏教や道家の覚りのような気がしますね。だってデカルトの方法的懐疑は理詰めだし、有るものは一者だとしたパルメニデスは極めて論理的に、「有るものが有り、有らぬものは有らぬ」という真理から、「有るものは一者」であり、多様・変化・運動は思い込みだということを証明していますからね。

やすい:デカルトの方法的懐疑はどうも納得がいかないところがありますね。感覚的現実、数学的推理、あらゆる想念が懐疑し得るとされ、それですべての観念は懐疑しうるのだけれど、疑っている我の存在だけは疑えないというわけです。そこに急に「我」が出てきてしまいます。確かに「疑っている」という事実、「考えている」という事実は絶対確実でしょうが、それをしているのが「我」であるというのはどうして言えるのか、疑問でしょう。

佐々木:それは考えるという行為が主体の行為だということではないでしょうか。考える行為は主体的行為だから、その主体の存在は考えている以上否定できないというように受け止めているのですが。

やすい:その主体こそが最も分かっていないですし、認識し、意志する主体というものは、主体であることによって、対象になりえず、原理的に認識できなくなってしまいます。

佐々木:いや、認識できるかどうかは最初は問題ではなく、絶対確実な存在は何かが問題であって、だから結局、己が考えていることから出発するしかなくなったということでしょう。これが近代的自我の自覚なのです。

やすい:先ず存在しているのは、疑っているという事実ですよね、その疑っているのは己だということは、疑っている事実を反省したものです。ところが疑っているという事実の中には、その疑っているのがだれかということは含まれていないのじゃないでしょうか?

佐々木:それじゃあ思考過程が有っても、思考主体がないということですか?

やすい:だって我というのは他者を意識するなかで形成されるものですが、疑っている過程の中にはまだ思考しか存在していないわけでしょう。思考の方が我より絶対確実なわけです。我の存在の確認というのは、かなり手間取るもので、なかなか見つからなくてみんな自分探しをしているじゃないですか。

佐々木:自分が考えているかどうか疑わしいということですか。

やすい:ええ、この対話をしているとされる「やすい」や「佐々木」だって、勝手にだれかがでっち上げたキャラかもしれず、ヘーゲル的に言えば絶対精神か自称哲学者が考えているのかもしれないわけでしょう。

佐々木:それでも考えている以上は、思考内容と区別される思考主体が存在するとは言えるのではないでしょうか。

やすい:それこそ大問題で、大陸合理論とイギリス経験論の大きな対立点と言えるかもしれません。ホッブズは、思考を無数のイマジネーションつまり「薄れゆくメモリィ」の運動として解釈したのです。つまり思考内容それ自体が思考しているという立場です。

佐々木:つまりホッブズが言いたいのは、思考内容とは別に思考主体である「我」は存在しないということですね。しかし考える主体である我が存在するからこそ、思考し、判断すること、つまり哲学が展開できるわけでしょう。

やすい:つまり仰りたいのは、思考の運動である哲学が成立するためには、一定の原理によって思考を展開させる傾向性が思考に宿っていなければならない、それを与えるのが主体としての自我ではないかということでしょう。だとしてもその自我がどうして生じたのか、思考内容から説明しなければ、それは初めからあったことになり、神と等値されてしまいます。
>>[12] なるほど。「疑っているわたしはたしかに存在する」といっても実は前提条件があったのですね。そのわたしは、宇宙の中のたった一人の人間として考えているのではなくて、デカルトは底の部分はおおらかに、そのわたしは、社会の中の大勢の人間の中のひとりとして設定しいている、あるいはそこは疑いの対象ではなかった。
あきらかに疑っているないようも西洋的であり、社会というものの前提があった上のような気がしてきます。
とんちんかんな感想になってたらごめんなさい。ぼくなりには非常に示唆を受けました。ありがとうございます。

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