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YKC(横須賀国語サークル)コミュの2010年度第1回国語サークル報告(追加)

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○2010年度第1回サークル報告 (2010・5・8開催)
 
(内容)今回はかなり盛りだくさんでしたね。

?浅間雅彦先生
  論理的に考える練習・・安野 光雅絵 野崎昭弘〈数学者〉の本にヒントを得て授業案とした。
  人間が何かを考える時 A 経験 B かん C 論理的  ?つあるがCは殆ど出来ていない。そこを揺さぶる授業。
? 工藤先生(長井中)
  道徳の研究授業について 研究授業指導案 「道徳は生徒を揺らすことである」。
? 服部先生
文学の多様性について  斉藤茂吉の短歌を教材に文学の多様性を探る研究授業案 6月下実施
文学の多様性とは何なのか考えさせられました。 
? 橋本先生
 斉藤茂吉の短歌 みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
Tossの授業方法(分析批評)による授業 テンポよく流れる授業。   見ん みん→なぜ2回目はひらがななのか。
? 伊藤先生
 俳句 岩鼻やここにもひとり月の客
 Tossの授業方法(分析批評)による授業  岩鼻の上でのお花見(お月見でした)の俳句と理解できました。 岩鼻の写真もありわかりやすい。
? 千章先生
言葉の力
志村さんの「言葉の力」とはまさに」・・・・」。良くわかりました。

※次回も皆様提案・模擬授業お願いします。
(参加者)浅間・千章・敏高・岩堀・伊藤・橋本・工藤・工藤・服部・斎藤(敬称略)

※自分としての感想は斎藤茂吉の短歌で分析批評にかかわる授業の流れは有効であり分かりやすいとは思う。しかしあれで終っていいのかという感じは残る。自分としての疑問は斎藤茂吉がなぜあそこまで母を思うのかが分からない。これは作品だけでは分からないと感じた。彼の生い立ちや作品(短歌集)成立のことを追わないと出てこないと思う。授業は分かりやすく頭にすっと入るが、今一つ茂吉に迫った感が残らない。生徒も同じではないかな?

○自分で少し茂吉について調べたが、斎藤家の養子となり、実母に会いに故郷に帰った訳である。単純な母ではないのだ。実母なのだ。そのあたりは触れなくて良いのか、触れるべきではないかと思う。中学生でもそこまでは補助的に最後は説明するべきではないか。更に僕は、彼はなぜあんなにも実母を思う和歌を詠んだのかも知りたくなつた。調べ途中だがまだわからない。幼少期に関連するものかもしれない。彼は三男である。かわいがられていたのか?マザコンなのか?そんなことを調べることも、文学の多様性ではないかとも思う。そして高校生ならばそこまで入り込ん混むべきだと感じた。だから作家論は必要なのだと改めて思った。次回までに調べてみます。自分でも使うために。

□斎藤茂吉といえば「実相観入」の写実主義である。その辺との関わりは説明しなくていいのかな・・?

実相観入とは・・「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」と本人が説明してます・・。難しいが高校なら触れてもいいですね。

□また、向井去来の「岩鼻や ここにもひとり 月の客」についても調べると面白いことが分かったので報告します。

去来は芭蕉の10の門人(弟子)の一人です。芭蕉なら生徒は名前は知ってます。だから弟子は知識として伝えていいのでは・・。またこの俳諧(俳句)
・・・後、気になつたのですが江戸時代ないので俳諧と教えるべきではないのでしようか。俳句は明治以降正岡子規以降と僕は教えてます。


去来が、先師(芭蕉)にこう尋ねた。
「洒堂はこの句を『月の猿』にした方がよいと申しましたが、
私は『月の客』の方がすぐれていると申しました。
先生はどうお考えになりますか」
(注)『和漢朗詠集』に「五夜の哀猿月に叫ぶ」とある。
(注)洒堂は近江の医師、浜田珍碩のこと。

先師は、
「『月の猿』とは何事だ。お前はこの句をどのように考えて作ったのか」
と言われた。
「明月の夜に山野を句を案じながら歩きまわっておりました。その時、
岩頭にもう一人の風流人を見つけ、この句を詠んだのです」と、去来。

それを聞いて、先師はこう言った、
「このすばらしい月を愛でている人は多くいることだろうが、
ここ岩鼻にもひとり、月を鑑賞する風流人である私がおります、
と自分から名乗り出た方が、どのくらい風流さが増すことか。
ただ自分から名乗り出た句とするのがよい。」

去来『去来抄』より/■注:岩鼻=岩の端

※つまりこの俳諧について去来は別の俳諧を考えていたわけです。それを師匠である芭蕉に注意され、芭蕉の解釈通りに直したのですね。そのあたりも作家論から作品に迫れるのではないでしようか。

(説明)作者の向井去来は、最初「岩鼻やここにもひとり月の猿」という句を考えていました。つまり、岩鼻をのぼり月を見に行くと、そこには先客がいた。という意味で作ったそうです。しかし、向井去来の師匠である松尾芭蕉は「岩鼻よ、ここに私が月の客としているぞ」という意味の方がよいと言ったそうです。向井去来と松尾芭蕉の解釈も違うのです。これを使えば結構面白い授業ができそうです。

※有名な文学者はそれなりの思想・考え・背景があり、作品にその影響が現れます。やはり作家論に少しは触れないと、太宰・茂吉等に迫ることができないのではないでしようか。彼らに迫らなくてもその作品の奥底にです。そう僕は考えてます。 ご意見くださいね。

※toss横浜での5月の会でそのあたりを安部公房の「棒」で授業された鈴木先生に伺いました。回答は分析批評で読んだ後も安部公房については特に言及しないとの回答でした。書いてないことは説明しないと。僕は最後にでも必ず安部公房の作家としての背景・文体・考え方を教えるべきだと思いました。高校で教えないでどこで教えるのですか?安部公房の作品を読んだだけで良いのでしょうか。そこが水村美苗さんの「日本語が滅びるとき」につながるものです。日本文学の代表者については特徴を教えるべきだと思いま

高校の国語便覧に茂吉についてこんな説明が載ってます。僕の調べる方向の示唆になります。参考までに・・。

山形県南村山郡金瓶村に誕生。生家守谷家は農家である。農家で蚕種を営む。村では裕福な方であつた。母いくは⇒家付きの娘で(これはなにを意味するのか)信仰心厚い家庭であった。

○家付きの娘とは何を意味するのか気になる・・。

○またあの茂吉の和歌は文語である。和歌の解釈論で説明ができるのではないか。次回説明します。古典文法ですね。


◇2010年度第2回は 6月19日(土曜) PM6時〜 ヴェルク横須賀です。

コメント(9)

芭蕉の存在を認めてもらえるのでしょうか?作家論に近づきますね。

向井去来は、岩鼻をのぼり月を見に行くと、そこには先客がいた。という意味で作った。しかし、松尾芭蕉は「岩鼻よ、ここに私が月の客としているぞ」と読んだほうが風流だといった。話者が一人だからです。

作品だけからより芭蕉のアドバイスを提示したほうが生徒にはより明確になる気がしますが・・。どうでしょうか。 

まあこれは僕の方向性です。
○分析批評の方々が全員伊藤さんのように研究されてれば(つまり作者の背景を知った上で授業をするのであれば)凄いとは思いますが、ただ追試だけしてるのであればそれは良くないと思います。そういう追試も見られる気もしますので。

○でも芭蕉と去来の背景を知りながら教師が触れないことに僕は疑問を感じます

そこが回答の趣旨です。

⇒これが分からないと、生徒に芭蕉と去来のやりとりを説明しても、
あいまいなまま終わってしまうからです。とありますが、たとえそうだと仮定しても、※知識としてこの句は芭蕉と去来との掛け合いの中で生まれた句と教えるべきでは。そのほうが生徒の中に知識として残ります。その知識こそ文学史・歴史的に後世に伝えるものです。これが作家論の方向性です。

あくまでも極論ですが・・。「作品を完璧に分析できなくともこの俳諧は去来と芭蕉の掛け合いの中で生まれた句であり、芭蕉の指導が入った句である」と知識として生徒が分かり、この句が記憶に残れば、学習として価値のあることです。

それを教えずして内容だけ分析しても高校生ではどうなのかということです。

○この前のとssの「棒」でもそうですが、小田原高校の生徒があの分析批評だけで満足するとは思えません。そうだとしたら反対に内職されます。知識として安部公房を考え(シュールリアリズム)・背景を伝えるべきです。若しくは調べさせる。⇒高校生は用語が難しいほうがプライド(高校生だという)があり以外とついてきます。小中と同じことしてても仕方ないのです。




聴き方が凄いですよね。芭蕉以上なのですか?
雰囲気がそうですよね。笑いとかも。⇒革新に触れないようにやんわりとしても通じないのですね。

仕方なし。では。4の回答します。

僕が提示した発問は、では芭蕉は去来に向かって、
A)「なぜ自分から名乗り出た方が風流さが増す、と言ったのか」
です。渡辺さんの答えは、
「話者が一人だから」
です。これでは答えになりません。
→そうですか?発問が明確でないですよね。そう答える可能性ありますよ。それを変ですとは理解できません?

”自分から名乗り出る”イコール”話者が一人だということにしろ”です。
芭蕉は「自称の句にしろ」と言ったのです。
僕は、芭蕉が言っていないことを尋ねているわけです。
→伊藤さんは芭蕉を越えてるのですか?

伊藤:B「なぜ自分から名乗り出る、つまり話者が一人のほうが風流さが増すのですか」
渡辺:「話者が一人だからです」

渡辺さんの答えはこうなっているわけです。変ですね。
もう一度回答考えてみてくださいね。

※ABでは発問が変わってます。同じ発問とは思えません。
Bの発問なら答えは当然変えます。こうです。(変ですとかもう一度回答くださいとか、心外ですね。発問の精度は問題にならないのですか。)

(回答)
○月の客とした方がのを主格「の」と捉えることができる。つまり月が客です。つまり中心は月となり。岩鼻のうえで一人お月見。月に照らされ静かにお月見出来る様子となる。岩鼻と月の中に自分が一人いるとなる。だから風流なんだと。

△月の猿では所有各の「の」となり、岩鼻の上に誰かが既にお月見をしている、そこに私も同じ感情でお月見をする。となります。、猿と客では全く解釈が異なる。中心が変わります。主格のほうが風流ですよね。

□この前のサークルで猿の句の紹介は無かったですよね。でもAの句をB的に考えた人はいました。だからこそ去来と芭蕉の掛け合いについて話す必要があるのではないでしょうか。

風流とは何ですか
 辞書では?煩わしい日常から解き放たれて詩歌や趣味の道に心を慰むめること
     ?しみじみとした心休まる趣向のある様子 ?風変わり ?で解釈

これが僕の読みです。

※まあ誰も絡まないのでここまでとしましょう。中間試験前ですし。横須賀国語サークルが分析批評の会になるのですかね・・?

浅間です。
あの後、こんな激しい討論が行われているとはつゆ知らず、失礼しました。
いつも思うのですが、サイト上のやりとりってのは、どうしてこうきつくなるのかねえ・・・って感じです。

私読んでみまして、おそらく芭蕉は、俳諧の持つ「笑い」への傾斜をやや嫌ったのかなあ、という程度に思いました。だから「猿」はねえだろ、ってことかな、という感じです。

で、前回から話題になっている「作家論」「作品論」ですが、中学でも、最低限の作家のプロフィール的なことは教えているし、教えるべきだと思います。最近は「初恋」を3年生でやりまして、いちおう便覧で島崎藤村を押さえました。というか、触れました。必要だと思います。
ただし、それは「初恋」の読解後ですね。
藤村が若いころ恋をしてねえ、という話をしてから「初恋」ではない。
というか、作品にはそれだけの力があると思います。
しかし、作家論的授業を否定するつもりも毛頭ありません。
とりあえず子規の句を学び、子規の人生に立ち返り、そして、そこから数作品の子規の句に進む形を取ると、生徒は「作家の人生観や死生観がどれだけ作品に反映しているか」「作家によってどれだけ作品が違うか」を学ぶことになります。
つまり、「作家論的読み方」を教えることは必要だと思うってことです。
ただ、高校や大学の授業を考えた時に、まず作家論で入って、これはこのように解釈するのがセオリーだから、こう読みなさい、となってくると、それは既成に読みに収斂させるだけではないか、という感じを持つってことです。
まず作家のことを知らないで、とりあえず作品を読み、そして考え、理解し、その後に作家について学ばせ、そして、作家論的な道筋を教える、という3段階で指導するのがもっともよいのではないかと思うのですが。
ながくなってすみません。

ところで、携帯に入れましたが、今から6/12ってのはダメですか?
一応検討してみて下さい。
いつもすみません。

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