ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

現在思想の会コミュの戦争とはなにか

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
明治大学でもたれたシンポジウム「戦争と人間」をこの土日の二日間にわたり一人の聴衆として聴いてきた。

この会の運営に携わっている友人がいるという事情もあって、以前から毎年開催されるシンポジウムに出たいと思いながら、あいにく日程の調整がつかずにいたが、今回初めて参加した。

全部で6名の講演者のレクチャーがあり、その後会場からの質疑応答というごくありきたりの形式で進められたシンポジウムだった。

手短に感想を述べると、何人かの話し手の話の内容はきわめて刺激的であった。腰の痛みを感じつつ長時間薄い木製の椅子にしばりつけられる思いをしたが、その甲斐はあったようにおもう。

記憶に残った講演の概要を紹介しておきたい。

「霊長類学からみた戦争の起源」
山際寿一氏

人間(動物学的にいえば「ヒト」)を他の霊長類と比較する視点から、人間性について実証的な考察をするのが霊長類学の目的である。山際さんの研究はとりわけゴリラと人間の比較をながねんにわたりフィールドワークに基づいて実施してきたことで名高い。

最近、その成果を矢継ぎ早に書物のかたちで世に問うているし、ときどきNHKのテレビなどで研究内容が取り上げられるのでご存知の向きは多いだろう。

さて、問題は「戦争」である。ゴリラは世の中の既成概念とは反して、同種の間で殺し合いなどはしないし、そのかぎりで戦争とは無縁である。

その他の霊長類、チンパンジーやボノボの場合にたしかに仲間内での争いはあるし、チンパンジーが肉食であることも今ではよく知られている。だがこれはライオンが鹿を食べるのと同じように「狩猟」であって「戦争」には結びつかない。

結局、ある進化の段階にいたった人間だけが戦争をするようになったのだ。逆にいうと、戦争は人間の本性から出てきたものではない。あくまで進化の過程において一定の条件が揃って初めて成立する、人間集団の行動様式なのである。

ではその条件とは何か。山際氏は最近の霊長類学の研究を紹介しながら、初期の人類は、これまで信じられてきたように、狩をして他の動物を捕獲しそれを食べる「狩猟者」ではなかった、という。むしろ他の肉食獣に食べられる弱い動物に過ぎなかったという。(その証拠はいろいろあるがいまは立ち入れない。)

初期の人類は、斃れた動物を食べることはあっただろうし食べられる植物(根菜など)や木の実を大量に食べていたのだ。ところがいつしか「農業」が発明された。食料の収穫量が飛躍的に増大するとともに、貯蔵できるようになり、おそらく集団のなかに分業という生産の方式や支配-被支配という社会関係が成立しただろう。(このあたりは19世紀以来の経済学者はたいてい誰でもそういう認識をもっていた。)

その結果として「農地」を境界で囲い込むことが必要になる。ある意味の「領土」の成立である。そこを踏み越えて侵入するよそ者の集団が現れたら、これには対抗策をとらなくてはならない。このようにして「軍事」という行動の様式が成立すると同時に人を殺傷する「武器」も生まれる。

この話を聞いて、農業こそ人類が犯した最大の<自然破壊>だとあらためておもう。そして山際氏の指摘のように、農業つまり土地への定着(定住)が戦争の条件であることはほぼ確実だと思わざるを得なかった。

山際氏は言語活動が戦争への傾斜に拍車をかけたという発言をしたがその論点を詳しくは展開しないまま話を終えられた。

じつはそこが個人的には最大の関心事だった。シンポジウムのあとの懇親会の席で質問をしようとおもっていたのだが、多くの人との話の間に割ってはいる機会がみつからず疑問はそのままになっている。

言語活動には二つの面がある。ひとつは話しことば(speech)であり、これは多分分業を可能にする条件であった。分業が逆に言語を発達させたという循環があったのかもしれない。

例えば、意思決定者が作戦などを指揮官に伝え、指揮官が兵士に命令を与えるにはそうするための話しことばの発達が必要だ。

ところで現在のたとえばアフリカの見られる悲惨な部族同士の戦争は単に話ことばだけでは遂行できない。話しことばは話されるとすぐに消えてしまう。これでは大規模で長期にわたる戦争は遂行できない。

いわば本格的な戦争の成立には書きことば(writing)が必要なのではないだろうか。このあたりを訊ねてみたかったのだが…

「帝国主義/民族・宗教対立と戦争」
板垣雄三氏

アラブの歴史研究者として名高い人である。じかにお話を聞くのは初めてだが、そのテンションの高さに圧倒されてしまった。

氏によれば世の中に出回っているアラブ世界のイメージはまったくの誤解だという。

あいだをはしょらざるを得ないが、イスラムの世界観=宗教観には、基本的に自分と他者を対立的に捉える思考様式が含まれていないという。イスラム教徒でないもの、異教徒は敵などという思想はイスラム教の教義のどこにもない、というのだからおどろく。

ではタリバンはじめボンバーシューサイドをいつまでも繰り返している人々はどういう考えでああした過激な殺戮行為に走るのか。

細部の重要な点で納得できない箇所が残ったが、しかし板垣氏の話に関してこころから納得できたのは、いまの学問が欧米中心主義の枠に縛られていてそこを打破しない限りダメだという点だ。

一例をあげれば、「近代」という観念がある。

我が国でもかなり以前に近代化論争などという(今にして思えば)安手の議論が横行した時期があった。しかし「近代」などという観念は単に欧米の学者が捏造したものにすぎないので、西洋近代が到来するはるか以前にアラブ世界では実質的に「近代」が実現していた…


板垣氏は再三、自他の二項対立を克服しなくてはならないと説いた。イスラムの世界観はたとえば東アジアの華厳思想にも同じだとさえ言うのだ。

しかし、二項対立的な<他者>が厳存しない世界――多様性がそのまま自己に帰一し、自己が多なるものをそのまま含むような世界――は思想のレベルでは成り立ちうるとしても、しかしそのような思想を生きる人間の世界でそれがそのまま成立するとは思えない。必ず後者には葛藤や亀裂が生じるだろう。


この疑問はさいわい懇親会の場で板垣氏に直接お尋ねすることができた。ぼくの疑問のポイントは肯定できるとして、しかしそれについては別の考え方がある、という示唆をされていた。


「崩壊国家と戦争」
松本仁一氏

ながくアフリカを取材した新聞記者の経歴をお持ちのジャーナリストによるまことに具体的なアフリカにおける「戦争」の話である。

第二次大戦後、陸続としてアフリカに独立国が生まれた。その大半の国がいま内戦状態にある。

戦争にはいろいろなタイプがあるが、国家の間の戦争はまだ「理性的」であるが、いま繰り広げられているアフリカ諸国における戦争はまことに「非合理」なものだ。

西欧列強が恣意的に線引きした国境をそのまま受け継いだこれらの国は、多数の部族から成っている。しかし大別すると、アラブ系の人々とアフリカ系の人々がつねに対立し抗争を起こしているのだ。

戦争の原因は要するに資源あるいは資源にまつわる利権の奪い合いにある。わかりやすいことはわかいやすいが、対立者同士が話し合いで利益を配分すればいいのにそうできない点が「非合理」なのである。

松本氏は深いため息とともに、こうした戦争を止めさせる可能性はいまのところどこにも見出せないと言った。


シンポジウムから学んだ教訓をすべて書くことはできないが、最も危機的だと感じたのは、ぼくらは世界でいま起こっている戦争の現状について、あるいは過去の戦争の真相について、ほとんど何も知らないし、これまで知らされてこないできた、という点だ。

判断するには、判断すべきテーマについてありのままに知ることが必要だろう。

現実を直視すること、これはお宅的な「物知り」になることとはまったく別のことである。


今回のシンポジウムで多少わかったことを背景に、たとえば北朝鮮の核保有化問題を考え直すとどうなるのだろう。気持ちは暗くなるばかりである。





コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

現在思想の会 更新情報

現在思想の会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。