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☯映画解放区コミュのセシル・B・デミル/Cecil B. DeMille (1881〜1959)

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〔作品歴〕
1914  『スコウ・マン (The Squaw Man)』
 〃  『Brewster's Millions』
 〃  『The Master Mind』
 〃  『The Only Son』
 〃  『The Man on the Box』
 〃  『The Call of the North』
 〃  『The Virginian』
 〃  『What's His Name』
 〃  『The Man from Home』
 〃  『農場の薔薇 (Rose of the Rancho)』
 〃  『The Ghost Breaker』
1915  『The Girl of the Golden West』
 〃  『After Five』
 〃  『The Warrens of Virginia』
 〃  『The Unafraid』
 〃  『The Captive』
 〃  『The Wild Goose Chase』
 〃  『The Arab』
 〃  『Chimmie Fadden』
 〃  『Kindling』
 〃  『カルメン (Carmen)』
 〃  『Chimmie Fadden Out West』
 〃  『チート (The Cheat)』
 〃  『Temptation』
 〃  『The Golden Chance』
1916  『孤松の桟道 (The Trail of the Lonesome Pine)』
 〃  『The Heart of Nora Flynn』
 〃  『マリア・ローザ (Maria Rosa)』
 〃  『The Dream Girl』
1917  『ヂャンヌ・ダーク (Joan the Woman)』
 〃  『Lost and Won』
 〃  『A Romance of the Redwoods』
 〃  『小米国人 (The Little American)』
 〃  『神に見離された女 (The Woman God Forgot)』
 〃  『Nan of Music Mountain』
 〃  『悪魔石 (The Devil-Stone)』
1918  『嘆きの合掌 (The Whispering Chorus)』
 〃  『醒めよ人妻 (Old Wives for New)』
 〃  『浮世の常 (We Can't Have Everything)』
 〃  『Till I Come Back to You』
 〃  『情熱の国 (The Squaw Man)』
1919  『夫を変へる勿れ (Don't Change Your Husband)』
 〃  『連理の枝 (For Better, for Worse)』
 〃  『男性と女性 (Male and Female)』
1920  『何故妻を換へる? (Why Change Your Wife?)』
 〃  『人間苦 (Something to Think About)』
1921  『禁断の果実 (Forbidden Fruit)』
 〃  『アナトール (The Affairs of Anatol)』
 〃  『愚か者の楽園 (Fool's Paradise)』
1922  『土曜日の夜 (Saturday Night)』
 〃  『屠殺者 (Manslaughter)』
1923  『アダムス・リヴ (Adam's Rib)』
 〃  『十戒 (The Ten Commandments)』
 〃  『Felix in Hollywood』 *出演(?)
1924  『勝利者 (Triumph)』
 〃  『霊魂の叫び (Feet of Clay)』
1925  『金色の寝床 (The Golden Bed)』
 〃  『明日への道 (The Road to Yesterday)』
1926  『ヴォルガの船唄 (The Volga Boatman)』
1927  『キング・オブ・キングス (The King of Kings)』
1928  『Walking Back』
1929  『破戒 (The Godless Girl)』
 〃  『ダイナマイト (Dynamite)』
1930  『マダム・サタン (Madam Satan)』
1931  『スコオ・マン (The Squaw Man)』
1932  『暴君ネロ (The Sign of Cross)』
1933  『新世紀 (This Day and Age)』
1934  『恐怖の四人 (Four Frightened People)』
 〃  『クレオパトラ (Cleopatra)』
1935  『十字軍 (The Crusades)』
1937  『平原児 (The Plainsman)』
1938  『海賊 (The Buccaneer)』
1939  『大平原 (Union Pacific)』
1940  『北西騎馬警官隊 (North West Mounted Police)』
1942  『絶海の嵐 (Reap the Wild Wind)』
1944  『軍医ワッセル大佐 (The Story of Dr. Wassell)』
1947  『征服されざる人々 (Unconquered)』
1948  『California's Golden Beginning』 *短編
1949  『サムソンとデリラ (Samson and Delilah)』
1950  『サンセット大通り (Sunset Boulevard)』 *出演
1951  『The Fallbrook Story』 *出演(?)
1952  『地上最大のショウ (The Greatest Show on Earth)』
 〃  『腰抜け二挺拳銃の息子 (Son of Paleface)』 *出演(?)
1956  『十戒 (The Ten Commandments)』

コメント(14)

 ★「名前はジョン・フォード。西部劇を撮っています」(朝日新聞2002年12月11日) 蓮實重彦

 ごく簡潔な一句が事態を急変させることがある。1950年10月22日のアメリカ映画監督協会の臨時総会で口にされた「名前はジョン・フォード。西部劇を撮っています」がそれだ。彼は有名な監督だから、いかにも人を喰った自己紹介である。だが、この簡潔な一語で、『駅馬車』の監督は、「赤狩り」派の急先鋒セシル・B・デミルの策謀を粉砕してしまう。

 サイレント期以来の大監督で、ハリウッド一のヒットメイカーだったデミルは、いかにも「左翼知識人」然とした協会長ジョゼフ・L・マンキーウィッツを「危険人物」視し、その解任を画策していた。冷戦が激化し、議会の非米活動委員会がハリウッドを標的にしていた1940年代後半から50年代の初めにかけてのことだ。時期が時期だけに、臨時総会の出席率は過去最高で、誰もが自分の意見を表明した。議論は紛糾し、会議は深夜にも及ぶ。

 不意に、それまで沈黙していたフォードが起立し、律儀な自己紹介の後、デミルを攻撃する。会場は水を打ったように静まりかえり、誰もが彼の言葉に耳を傾けた。あなたの態度は気に入らないというフォードの言葉でデミルは協会評議員の地位を追われ、マンキーウィッツは会長の地位にとどまる。野球帽にスニーカーといういでたちのフォードは、パイプをくゆらせながら、「さあ、家に帰って寝よう。明日は撮影があるのだから」と会場をあとにしたという。

 そんな挿話を知ったのがいつのことだったか。臨時総会の開催に尽力したジョゼフ・ロージー自身の口から聞いたようにも思うし、ロバート・パリッシュの『わがハリウッド年代記』の原書で初めて読んだのかも知れない。だが、「名前はジョン・フォード」の一句は、たえず脳裏を鮮明に旋回しつづけている。これほど律儀な自己紹介をいつかはしてみたいと思いつつ、今なおまともな自己紹介の言葉を口にしえずにいる。
 ★「フレッド・ジンネマン自伝」 (キネマ旬報社) F・ジンネマン著/北島明弘訳

 その当時、1951年はマッカーシー時代が最高潮の時で、巨大なプレッシャーと不安感が安定を欠くハリウッド社会にもたらされ、反共産主義ヒステリーは、人々が考えることをやめ、感情的になり、とてつもなく誇張された噂の餌食となるまでに達していた。人々は疑いの目で互いに見あった。セットではクルー、俳優が敵対するグループに分極化された。
 撮影所は政治家に屈伏した。シンパは上院の委員会に出席せねばならず、そこで共産主義者と思う人の名前を告げなくてはならなかった。もし拒否すれば、彼らは非友好的証人とされた。職を失い、彼らの映画はアメリカではどこでも上映されなかった。多くの無実の人々が告発され、人生を破滅させられた。
 映画界全体の非公式ブラックリストが存在した。我々の多くが信念を持ってすることを拒否した、忠誠の宣誓を強化しようという試みがなされた。監督ギルドでは、間もなく、「我々に同調しない者は敵対する者だ」というところまでいった。理事会はジョー・マンキーウィッツ会長が一時的にいない間、セシル・B・デミルに率いられていた。
 内規によって宣誓をすることに賛成か反対かを決める投票用紙がギルドのメンバーに送られ、理事会からの強い言葉を使ってイエスの投票を勧める手紙が同封されていた。従わぬ者は失業する可能性があることを強くにじませた個人的な脅迫が強烈だったので、メンバーのうち547人がイエスと投票し、14人がノーと投票し、私を含めて57人が投票を拒否した。その結果、理事会によってメンバーを脅して政治的道具にするという信じられないような試みがなされた。反対にブラックリストという言葉を発したマンキーウィッツの会長辞任を要求する投票を求めて長い電報が全員に送られた。
 幸いなことに、正会員25名で臨時総会の開催を要求できることを発見し、まだ地位を確立してなく、したがって我々の中で切り捨てられやすい監督たちは自分のキャリアが危うくなくことを十分に認識しつつ、ジョージ・スティーヴンス、ジョン・ヒューストンやその他の著名な監督とともにグループ内での忠誠の宣誓をした。
 ジョージ・スティーヴンス、ジョン・フォードが口火を切った印象に残る公開討論の結果、我々の側が勝った。理事長は辞任を余儀なくされ、新しい理事長が選出された。(p151〜152)
 ★「監督ハワード・ホークス[映画]を語る」 (青土社) H・ホークス&ジョゼフ・マクブライド著/梅本洋一訳

H・H: 私はジミー・ウォン・ハウがカメラ助手をはじめたのと同じ時期に小道具係の仕事を始めた。ジミーが最初にやったのは…。当時は皆、フェードアウトにしはじめるフィート数をふっていた。たとえば275からフェードアウトにし、285で完全にアウトするというように。彼はデミルの映画でそのナンバーを全部消してしまったのだ。私はセシル・B・デミルの小道具係で、戦争で爆弾が城に落ちると、会議用のテーブルの上に飛び乗って、全部に着いた漆喰を剥がすことになっていた。爆弾が発火すると、バケツ6杯分の発火粉落ちてきた。私はキャンバスの下にいたが、息ができなかった。テーブルから落ちてしまったのだ。ジミーと私はひどい仕事を選んでしまったわけだ。(p35)

H・H: こうして一巻物で研鑽を積んだわけだ。フランク・キャプラも、ジョージ・スティーヴンスも、ケーリー・グラントだって、皆、一巻物で練習したものだ。コメディの研鑽は全部積んだ。
J・M: 長編の監督になりたいために、それらを撮影したのですか?
H・H: 忘れたな。映画を監督するについてはまだ十分でないと感じていた。他の人が監督で、私は指示に従っているのがだんだん嫌になってしまった。だから6ヶ月間毎晩映画を見に行った。で、もし私がその映画が研究するに値すると考えれば、監督するのに十分だと感じられるまで、その夜に2度同じ映画を見た。私はジャック・フォードから最初のころすべきことを学び、セシル・B・デミルからやるべきでないことを学んだ。(p36〜38)
 ★「サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生」 (晶文社) J=P・M&ルイ・ノゲイラ/井上真希訳

R・N: それでは、あなたの有名な63人の戦前のアメリカの映画監督のリストに、チャールズ・チャップリン、ラオール・ウォルシュ、あるいはセシル・B・デミルといった名前がないことはどう説明なさいますか?
J=P・M: あの時代、アメリカ映画は有名な三人組からなっていた。フランク・キャプラとジョン・フォードとウィリアム・ワイラーだ。私はここで、私たちの審美眼についてではなく、当時の映画のヒエラルキーのなかに彼らが占めていた真の重要性について話そう。さて、映画監督が私のリストに入るには、たった1本、私を熱狂させる映画を撮っただけで十分だった。チャップリンを入れなかったのは、彼は神で、したがって、どんな格付けにも入らないからだよ。私はあのリストを(トーキーに関してだけだが)実に入念な研究を重ね、少なからぬ熟慮と批判的分析をしたあとに作ったんだ。さて、戦前のウォルシュの映画だが、たまたまどれも私の気に入らなかったんだよ。傍流のものばかりで、何らかのしくじりがあった。それは確かだ。ウォルシュは哀れな監督なんだ。どれほど若者がだまされたかを考えると痛ましい。どれほどひとりの青年が同世代の人間に影響力を持ち得るか。今まさに、ピエール・リシアンのことが念頭にあるんだが。リシアンには審美眼がない。彼はウォルシュに才能があると信じ、それを口に出し、あまりに繰り返しそう言ったので、パリでウォルシュ愛好家に一種のばかげた信仰を生み出してしまった。私が生涯で唯一好きなウォルシュの作品は、『目標、ビルマ (Objective Burma)』、1945年に作られたものだ。しかし、最終的に判断を下す前にもう一度見なければ。持ちこたえていないかもしれないからな。
 完全にうまくいったデミルの作品も見たことがないよ。思うに、『サンセット大通り』を見たあとでよりそう思ったんだが、デミルは何よりも俳優、それも名優だった。問題は、彼が一度として本物の監督ではなかったことだよ。図らずも監督になってしまうあらゆる俳優たちと同様にね。まさにオーソン・ウェルズとは対極にいるのさ。(P31〜33)
 ★「オーソン・ウェルズ その半生を語る」(キネマ旬報社)O・ウェルズ&P・ボグダノヴィッチ/宮本高晴訳

P・B: デミルをご存知でしたか?
O・W: もちろん。わたしには良くしてくれた。わたしは好きだった。年季の入ったショウマンらしい独特の魅力があった。
P・B: 語りの巧みさは大したものだと、ずっと思っていました。
O・W: 人づきあいの巧みさも大したものだった。撮影現場で最高の役者ぶりを見せた映画監督としては空前絶後といっていいかな。“自称”フォンの二人(エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ジョセフ・フォン・スタンバーグ)を別格にすればだが。(p182)
 ★「映画千夜一夜」 (中央公論社) 淀川長治、蓮實重彦、山田宏一共著

淀川:「そう、そう、アンソニー・クインはメキシコ人なのね。初めはほんとの端役だったけど、セシル・B・デミルいう監督がメキシコの女の人をつまんで子供つくったのね、娘を。キャサリン・デミルをね。」
山田:「あ、キャサリン・デミルはセシル・B・デミルの本当の娘だったんですか。『征服されざる人々』なんかにチラッと出ていた女優ですよね。たしかセシル・B・デミル監督の養女になっていたので本当の娘ではないと思っていました。」
淀川:「ほんとの娘でしたよ(笑)。アンソニー・クインは、そのキャサリン・デミルと結婚したのよね。そうするとデミルは、いやでもアンソニー・クインを使わざるを得なくなったの。デミルは大巨匠ですからね、アンソニー・クインの出世の糸口はそれが初めだったね。」
山田:「それで、セシル・B・デミル監督の『平原児』とか『大平原』に出演しているんですね。」
淀川:「そうなの。それで有名になってきたね。でも力持ってるから有名になったんだけど、やっぱり義理のおとっつぁんに上げてもらってるね、初めはね。有名になったら、キャサリン・デミル捨てちゃったんだよ、アンソニー・クインは。」
山田:「だいたいそういうコースですね(笑)。」(p112〜113)

淀川:「ぼくのころは、悪女はみんな男を鼻であしらって、笑っちゃいましたね。そんな女を大メロドラマでたのしませることを知ってる人が、セシル・B・デミルだったね。デミルという監督は、歌舞伎と同じでお客さんはそういうのが好きだということをよく知ってるからね。『愚か者の楽園』というのもありました。これも主人公がちょうど山田さんみたいなおとなしい人で(笑)。」(p135)

淀川:「デミルはお風呂場のむしろデザインね。」
蓮實:「絢爛豪華でしたね。」
山田:「クローデット・コルベールが牛乳風呂に入る『暴君ネロ』を観たんですが、豪華な美しさでした。」
淀川:「綺麗だったでしょう。スワンみたいなのね。ああいうふうにスワンが羽をひろげた形のお風呂だとか、いかにも「こんな風呂場があったらいいな」いう、デラックスな風呂場のデザインをデミルは好きだった。女の人のそういう風呂場だとか、化粧室だとか、鏡台だとかを豪華にデザインして、女の人が映画を観にきたら豪華な気持ちにさせなきゃいけないいうのがデミルの主義だったからね、よくやりましたよ。」(p141)
 ★「映画千夜一夜」 (中央公論社) 淀川長治、蓮實重彦、山田宏一共著

淀川:「デミルの映画では毒婦というのやなかった。『男性と女性』でも、毒婦とは違う。デミルはやっぱり毒婦の映画はつくってないな。毒婦の映画をつくるのは、監督がちょっとそういうのを好きな人やったんやね。趣味の映画ですね。デミルはメロドラマの人。もう、大メロドラマ。とにかく映画とは娯楽であるいうて、もう大芝居が好きでね。フェリーニの『甘い生活』に似てるね、デミル映画は。デミルは金持ちの女と若い男のスキャンダルがあったり、社会のいろいろな種類の人をだしたりするのが好きだったね。フェリーニは非常にデミルに影響されているところがあるな。そう、デミルの映画はちょっと社会劇だったもんな。『何故妻を換える?』とか『夫を変える勿れ』とかね。でも、娯楽でした。娯楽映画をつくった監督でした。」(p150〜152)

淀川:「デミルの映画、『マダム・サタン』ね。そういうふうにデミルの映画はとにかく観とって文句なくたのしいんでね。」
山田:「飛行船のなかで仮装舞踏会というのも気狂いじみてますし、パラシュートというのも映像的にすごいですね。セシル・B・デミルの映画ですから、たぶん乱痴気パーティーというか、豪華絢爛のスペクタクルといった感じだったんでしょうね。」
淀川:「そうなの。だからツェッペリンのなかで、モダンバレエがあったりして、余興でね。でもデミルに訊いたら、『マダム・サタン』が一番嫌いだ、自分としてはへたな映画だった言ってたけどさ(笑)。『男性と女性』は好きだって言ってたな。」(p153〜154)

山田:「『カルメン』を演ってる女優で、ジェラルディン・ファーラーがいますね。これもセシル・B・デミルの監督で。」
淀川:「パラマウントという会社は、もうスター、スターで、有名なスターならどんな人でも招んだのね。もう活動写真の初めだから、金ができて、金ができて、困っちゃったのね。とにかくスターだったらいいので、ジェラルディン・ファーラー、オペラの有名な歌い手だったのね。それで招んで、もう一人はカルーソー、これも有名な歌い手招んで、映画つくろうとしたの。で、カルーソーで一本映画撮ったら大失敗したのね。ジェラルディン・ファーラーは、これはデミルに使ってもらわなあかんと、デミルに『ヂャン・ダーク』だとかいろいろ撮らせて、もうすごく有名で人気が出たけど、女優じゃないのね。オペラのシンガーだから、「あッ、ジェラルディン・ファーラーが出てるのか」いうので、みんなが観に行ったわけよ。綺麗な人でしたよ、デミルの『ヂャン・ダーク』なんか見事でした。そんなんで悪女じゃないけど、名物女優でしたね。有名なオペラのスターだいうんでね。」
山田:「なるほど、セシル・B・デミルという人は、女優をまるでスペクタクル映画みたいに撮って見せた監督だったんですね。」
淀川:「そう、そう、そうなの。もうデミルが使った女優は綺麗で贅沢な役で、セットもいいし、衣裳もいいので、みんな黄金色に光るような感じやったね。」(p169〜170)
 ★「ジャン・ルノワール エッセイ集成」 (青土社) ジャン・ルノワール著/野崎歓訳

 オットセイはお色気を振りまき、喜びの叫びを上げ、つやつやと輝くそのドレスを波打たせたが、それを見ていると私はセシル・B・デミルの初期の傑作を思い出した。アメリカの女性が本当にふるいつきたくなるほど魅惑的だった時代である。(p214)

 ※マルセル・アシャールとアンリ・ジャンソンによる『ラ・マルセイエーズ』評に感激して計画したパリのヴァンセンヌ動物園への訪問。
 ★「夢の引用」 (岩波書店) 武満徹著

 外国映画の輸入禁止が解かれて、1939年には、多くの、今日名作と謂われる映画がはいってきた。地球の広汎な地域で、いまにも戦火が燃え上がろうとしていた緊迫した時期ではあったが、昭和14年(1939年)9月からの半年ばかりは、安岡章太郎氏の回想(「僕の昭和史」講談社/新潮文庫)によれば、北国でいう三寒四温のようなかりそめの平和が続いた時期であった。
 ジョン・フォードの『駅馬車』、フランク・キャプラの『我が家の楽園』、デュヴィヴィエの『望郷』、リーフェンシュタールの『民族の祭典』や『美の祭典』のような映画が相次いで封切られていった。1941年の12月まで、僅かな時期ではあったが、この間に上映された映画が、映画的記憶として私の思考に少なからず作用していることを否定することはできない。
 私は小学生であったが、キャプラやデュヴィヴィエ、エルンスト・ルビッチ、ジョージ・キューカー、ウィリー・フォレスト、セシル・デミルと謂うような映画監督の名を、日常のことのように口にしていた。(p22〜23)
 ★『映画について』 (フィルムアート社) ジャン・コクトー=著/梁木靖弘=訳

 そもそも映画の虜になった切っ掛けは何か。1946年に『エクラン・フランセ』誌からこう尋ねられて、ジャン・コクトーは答えた。「ウィリアム・S・ハートの映画1本(…)、早川雪洲主演の『チート』(セシル・B・デミル監督、1915年)、チャップリンの映画だ」と。ジャン・コクトーは「新しい手法」による「新しい芸術」の来たらん事を望んでいる。「そうしたご馳走を待つ間、出されるもので満足したまえ、そしてその中に最良のものを探す事だ」。(p13)

 ※アンドレ・ベルナール、クロード・ゴドゥールによる編者序文より。
 ★『映画の小さな学校』 (青土社) 中田耕治=編

 ヒッチコックは、セシル・B・デミル監督を自分以外では不世出の監督の一人だと考えている。デミルは聖書を扱った映画で、歴史に残る観客動員をやってみせたからだ。(p260)

 ※「アルフレッド・ヒッチコック―破壊行為の名匠」ジョン・ウィトカム=著/朝倉隆男=訳より。
 ★『インタビュー ジョン・フォード』 (文遊社) ピーター・ボグダノヴィッチ=著/高橋千尋=訳

 ジョゼフ・L・マンキーウィッツは語る。
「1950年代のひと頃、マッカーシーの赤狩り旋風が吹き荒れていた頃だが、私はディレクターズ・ギルドの会長を務めていた。そしてある時、セシル・B・デミル監督を頭とするギルドの一派が、マッカーシーに胡麻を擂ろうとしてか、全会員に国家に対する忠誠の誓いの署名を強制しようと試みた事があった。それが画策されていた時、私はたまたまヨーロッパに行っており、ハリウッドを留守にしていたが、彼らがその通知を送って来るや、直ぐに折り返し電報を打った。ギルドの会長という立場で、「そのような如何なる事にも大反対だ」という内容のね。すると、たちまち私の事をあげつらう記事が、ゴシップ欄に続々と現れたのだ。『ジョー・マンキーウィッツは可哀想な男だ。彼が赤だとは知らなかった』という調子の、根も葉もない中傷記事だった。知ってのようにその当時、デマは、ほぼ証明済みの事実同然に信じ込まれたものだ。そのような訳で、事態は深刻になり、私は将来の道が閉ざされ始めた事に気付いた。ついにギルドの会員全員が召集され、総会が開催される事になり、私は飛ぶように帰国した。当日、会場には全員が厳しい顔を揃えた。デミルの一党が次々に立ち上がっては演説し、その集会は4時間にも及ぶ極めて陰惨なものになった。
 議事が進行している間、私は(そして、居並ぶ会員の面々の中にも私同様、そう思っていた映画作家が少なからず居たのを知っている)、ジョン・フォードが何を考えているのか、知りたくて仕方がなかった。フォードは、言ってみればギルドの最長老であり、人々は彼によって影響を受けて当然だった。しかし、いつもの野球帽とスニーカーというくだけた恰好で出席したフォードは、通路寄りの席に座った切りで、押し黙ったままだった。デミルが長々と弁舌を振るった後、しらけた間が出来た。と、フォードが手を挙げた。会場には全ての発言を記録するよう速記係が同席しており、発言者は自分の言った事が記録に残る事を覚悟しなければならなかった。指名されて立ち上がったフォードは、先ずこう言った。『私の名は、ジョン・フォード。西部劇を作る男だ』。
 フォードは、デミルの作品を誉め、映画監督としてのデミルを称讃した。『ここに御列席の方々で、アメリカ大衆の求めるものを最も良く知っているという点では、セシル・B・デミル氏に敵う者はおるまい。デミル氏は、確かに如何にしてそれらを大衆に与えるか良く御存知だ』。そこまで述べて、フォードはホールの反対側に座っていたデミルを冷たく睨み据え、後を続けた。『しかし、私はあんたが嫌いだよ、C・D。そして、あんたが今夜ここで長たらしい演説を打った事も好かん』。そして、『私は、ジョー・マンキーウィッツに信任の一票を入れる事を提案する。それが済んだら、みんな家へ帰って、下らない事なんか忘れて寝てしまおうじゃないか』と。そして、皆、その通りにしたものだった」。(p.35〜37)
 ★『アメリカ映画の大教科書 (上)(下)』 (新潮選書) 井上一馬=著

 東部から遣って来た人々がハリウッドで映画を撮り始めたのは、1907年頃からの事だと言われているが、この地に最初に撮影所を構えたのは、ネスター・フィルムという会社で、それは1911年の事だった。ネスター社は、現在のハリウッドのほぼ中心地にある、サンセット大通りとガワー通りの角に撮影所を建て、その翌年には、カール・レムリのユニヴァーサル映画が、通りを挟んだ向かい側にスタジオを建てた。そして更にその翌年には、ジェシー・ラスキーに雇われていた、草創期のアメリカ映画界の三大監督の一人、セシル・B・デミルがハリウッドに遣って来て撮影所を建て、『スコウ・マン』という映画の撮影を行った。この撮影所がやがて、パラマウント・スタジオへと発展して行った。(上巻p.39〜40)

 初期のハリウッドの三大監督の一人、セシル・B・デミル(1881-1955)は、演劇の世界では既に良く知られていたデミル一家の生まれで、彼の父親も、兄も、劇作家として成功していた。その彼が映画界に入ったのは、29歳の時に、兄のウィリアムの紹介で、自分より一つ年上のジェシー・ラスキーの為に、芝居の脚本を何本か書いた事が切っ掛けだった。デミルはその仕事を通じてラスキーと意気投合し、やがてラスキーと彼は、映画を作る決意を固めたのである。ラスキーが総大将で、デミルが監督、そして、ラスキーの義弟のサミュエル・ゴールドウィンが、映画の売り込み役だった。デミルは数シーズン前にブロードウェイでヒットした作品の中から、インディアンの女を妻にした白人の男の話を見付け出し、ハリウッドに納屋を借りて、手始めに『スコウ・マン』(1913年)という映画を作った。この作品は、今では、ハリウッドで撮影された(実質的な)最初の長編映画として知られている。
 三人は、「最初の一本で会社が潰れてしまわなければ、これからも映画を作り続けよう」と話していたが、幸いにも、ゴールドウィンが巧く売り込んだお蔭で、この映画には買い手が付き、それを切っ掛けにして、デミルは本格的に映画監督として活躍するようになって行ったのだ。
 だが、彼の名前が一般的に知られるようになったのは、何と言っても、1918年からグロリア・スワンソンと組んで『醒めよ人妻』(1918年)、『夫を変へる勿れ』(1919年)、『何故妻を換える?』(1920年)、『アダムス・イブ』(1922年)などのヒット作を次々に世の中へ送り出して行くようになってからの事だった。そうした作品の大半は、「夫婦のよろめきもののメロドラマ」で、デミルはその中でいつもスワンソンを美しい邸宅に住まわせ、浴室の場面などでは巧妙にタオルで身体を隠しながら、徐々に彼女の肢体を見せて行った。そんな彼のテクニックに、初期の映画ファンたちは皆魅了された訳だが、セシル・B・デミルの映画と言えば、やはりそれ以上に有名なのは、衣装の華やかさと豪華さである。デミルはスタジオに衣装部を設け、スワンソンにはいつも最新のモードを身に付けさせた。そして彼は、ニューヨークやパリからヘア・ドレッサーを呼び寄せ、靴も、メーカーから直接一番新しい型を取り寄せた。下着や帽子、アクササリーなどをデザインするスタッフも特別に置いた。
「セシル・B・デミルのスタジオで仕事をするのは、世界で一番高級なデパートでままごと遊びをするようなものだった」。
 スワンソンはそう自伝の中で述べているが、デミルの映画のそうした華やかさ、絢爛さを、私たちは今、彼が1923年に作って、1956年に再び、チャールトン・へストンとユル・ブリンナーを使って自分の手でリメイクした映画、『十戒』や、彼にアカデミー賞の作品賞を齎した、『地上最大のショウ』(1952年)などの作品の中で見る事が出来る(この『地上最大のショウ』では、ジェームス・スチュアートが、映画の中で一度も素顔を見せないという珍しい役を演じている)。(上巻p.149〜151)

 ビリー・ワイルダーは『サンセット大通り』(1950年)の中で、スワンソンが演ずるノーマ・デスモンドの昔の夫で今は執事を務めている男の役に、『クイーン・ケリー』(RKO/未完成)の揉め事で彼女の女優人生を凋落させる一因を作り出したエリッヒ・フォン・シュトロハイムを配し、彼女が若い男に書かせた脚本を持ち込む監督には、本物のセシル・B・デミルを使っているのである。デミルは、この映画の中で、撮影所に脚本を売り込みに来たスワンソンをていよく追い返した後で、溜め息まじりにこう独白する。「十代の頃の彼女は、かわいくて、度胸がよくて、それはたいした女だった」と。(上巻p.159〜160)
 ★『アメリカ映画の大教科書 (上)(下)』 (新潮選書) 井上一馬=著

 早川雪洲をスターにしたのはトーマス・インスだったが、インスとは6ヵ月の契約しか結んでいなかった為、その契約が切れると、さっさと、より高い条件を提示したパラマウントへ移ってしまった。そして彼は、今度はそこで、セシル・B・デミル監督の『チート』(1915年)に主演して、更なる知名度を掴んだのである。(上巻p.357)

 映画監督の中で、共産主義者のブラックリスト作りに最も積極的に協力したのは、ハリウッドの映画史に残る大監督の一人、セシル・B・デミルだった。デミルは、このリスト作りに協力する為に、「監督は、一つの映画の撮影が終了したら、その映画の撮影中に気付いた関係者全員の政治的傾向について、包み隠さず監督組合に報告しなければならない」とする規定を設けるよう監督組合に提案し、その規定を組合の理事会で強引に通過させようとした。が、その当時、監督組合の委員長を務めていたのは、常識とバランス感覚に優れている事で知られたジョゼフ・マンキーウィッツであり、彼がそんな提案を認める筈もなかった。そこでデミルは、マンキーウィッツが『イヴの総て』を撮り終えてヨーロッパへ休暇旅行に出掛けている隙に、組合の理事会を開いて自分に賛同する仲間たちの票を集め、勝手にその提案を認めさせてしまったのである。帰国したマンキーウィッツは、この決定に怒りを爆発させた。そして彼は、「こうした重要な問題は、組合員全員で討議すべきだ」と主張して譲らなかったのである。そこで監督組合では、組合員全員(618名)による全体集会を開く事になったのだが、この情報が伝わると、一部の新聞には早速、「マンキーウィッツは赤で共産党のシンパだ」といった記事が一度ならず掲載されるようになった。当時はそういう時代だったのである。だが、そうした攻撃に遭っても、マンキーウィッツは断固として自説を曲げなかったし、集会でも1時間に及ぶ熱のこもった演説を行って、デミルの提案を葬り去ろうとしたのである。フレッド・ジンネマン、ジョン・ヒューストン、ジョージ・スティーヴンスといった面々も、マンキーウィッツに味方して立ち上がった。これに対してデミル派もマンキーウィッツを非難する演説で応酬し、やがて彼らは委員長の解任動議を提出した。両陣営の非難合戦は延々と続けられた。この対立に最終的にケリを付けたのは、ジョン・フォード監督だった。それまで長い間無言で集会の行方を見守っていたフォードは、おもむろに立ち上がると、こう切り出した。
「私の名はジョン・フォード、西部劇を作っている。私は、この部屋にいる人間の中でセシル・B・デミル以上に、アメリカの大衆が見たいものを知っている者はいないと思う。そして彼はそれを人々に提供する術を知っている。その点で私は彼の事を尊敬する」。
 そこでフォードは一旦言葉を切って、デミルの顔を睨み付けた。
「だが、デミルよ、俺はあんたが嫌いだ。あんたの意見も、今夜ここで言った事も大嫌いだ。俺はマンキーウィッツに信任の一票を投じたい。そしてもう家へ帰って寝ようじゃないか」。
 このフォードの一言で、監督組合の論争には終止符が打たれた。そして、フォードのこの言葉に続いて行われた投票の結果、マンキーウィッツは改めて委員長として信任され、デミルは組合の評議委員を辞任する事になったのである。(下巻p.230〜232)

 ハリウッドの映画人たちが一致してテレビへの対抗策として考え出したのは、テレビの画面では決して実現する事の出来ない超豪華な大作を作り出す事だった。その為にハリウッドは、この1950年代から、時に一本の映画に数百万ドルもの大金を投入するようになっていったのである。かつて演劇が映画の登場によってその質を高めたように、映画もテレビの出現によってその質を高める方向に向かったのだ。その先駆けになったのが、セシル・B・デミルの、『十戒』(1956年)で(デミルはこの作品をサイレント時代にも一度撮っている)、この映画が大ヒットした事によって、アメリカ映画界は一斉に大作指向へと走り出したのだ。(下巻p.299)

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