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☯映画解放区コミュの『散り行く花』 (1919年)

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原題: BROKEN BLOSSOMS OR THE YELLOW MAN AND THE GIRL
製作: D・W・グリフィス(D.W. Griffith)
監督: D・W・グリフィス
脚本: D・W・グリフィス
原作: トーマス・パーク(Thomas Burke)
撮影: G・W・ビッツァー(G.W. Bitzer)
編集: ジェームズ・スミス(James Smith )
セット: ジョセフ・ストリンガー(Joseph Stringer)

出演:
 リチャード・バーセルメス(Richard Barthelmess) …中国人青年(The Yellow Man)
 リリアン・ギッシュ(Lillian Gish) …ルーシー(Lucy)
 ドナルド・クリスプ(Donald Crisp) …ルーシーの父・バロウズ(Battling Burrows)
 アーサー・ハワード(Arthur Howard) …バロウズのマネージャー(His Manager)
 ジョージ・ベランジャー(George Beranger) …バロウズの友人(The Spying One)
 エドワード・パイル(Edward Peil Sr.) …悪の目(Evil Eye)
 ノーマン・セルビー(Norman Selby) …ボクサー(A Prizefighter)

コメント(21)

 ※以下は、1960年代初め、スペインで創刊された映画雑誌《グリフィス》の創刊号に掲載されたオーソン・ウェルズの追想文です。

 私がD・W・グリフィスに会ったのは、只の一度で、それもハッピーとは言い兼ねる体験だった。1930年代も最後の年の大晦日、雨降る午後のカクテル・パーティーだった。1930年代はハリウッドの黄金時代だった。しかし、この史上最高の監督にとっては、悲しくも空虚な10年間だった。彼が発明したと言っていい映画はアメリカの四大産業の一つに成長し、追従を許さぬ地位を築いたが、マンモス化した映画工場の大量生産工程には、グリフィスの為の場所は無かった。彼は自分の都市にいながら亡命者同然、信用を失った預言者、道具を取り上げられた工匠、仕事を奪われた芸術家だった。彼が私を嫌っても当然だ。映画について無知同然の私が、ハリウッドで空前の自由を保障する契約を結んだ直後だ。彼こそ、この契約に相応しい人物だったのだから…。私が見ても、彼は老人ではなかった。彼から見たら、私は若造だった。彼と私は、そこに立てられていたピンクのクリスマスツリーの下に立ち、酒を飲みながら、絶望的な奈落を隔てて、お互いを見詰めていた。私は彼を愛し崇拝していた。だが、彼が必要としていたのは弟子では無く、仕事だった。このD・W・グリフィスへの仕打ちに関しては、私はハリウッドが許せない。ハリウッド、映画産業、映画人は、この人に全てを負っている。彼に続いた映画製作者がやった事は何か? 彼の真似をしただけだ。クロースアップ、キャメラの移動、それらは彼の発明である。彼は創始者であり、改革者だった。しかし、そうした過去の栄光を超えて、彼の発明と彼の作品は、これからも生き続けるに違いない。ピンクのクリスマスツリーの下で、一緒に飲みながら自分の(我々全員の、と言うべきか)思いを伝える事に惨めにも失敗した、あの時から四半世紀が過ぎたが、グリフィスの映画は些かも古びる事無く、更に輝きを増している。私は、またも失敗した。今になって讃えても、彼はもういないのだ…。 (「オーソン・ウェルズ その半生を語る」O・ウェルズ&ピーター・ボグダノヴィッチ著/河原畑寧訳/キネマ旬報社より)
 まずは、字幕画面について。

 背景に絵が描かれていない字幕画面へは、全てD. W. Griffith を略した“DG”のロゴ・マークが入っていました。このロゴ・マークの存在によって、厳粛な雰囲気や格調のようなものが生じていたように思います。単に動く映像を補足する為のものとしてではなく、文学への敬意として動く映像と同格に扱われていたような印象です。とかく物語ばかりに求められる文学性も、活字その物への尊重によって、何か面白い効果は得られそうです。例えば、北野武監督の『アキレスと亀』(2008)では書家の柿沼康二の書体を、そのまま字幕画面として活かしていました…。
 船のシルエットについて。

 字幕画面の後、港に入港する船のシルエットが入ります(※写真左)。シルエットは大型蒸気船のような形状でした。この後、米国海兵たちの騒動が映し出されるので、軍艦と考えるべきでしょうか…。仮に、港町の風景に西洋人の姿が目立って見られたならば、客船の可能性も考えられたのでしょう。主人公の青年がロンドンへ出国する際にも、同構図のシルエットが使用されていましたが、こちらは帆船でした(※写真中央)。米国と中国、軍隊と仏教を対比させたようにも思えます。共に、画面右側から左側への船の動きだったので、入港と出港を積極的に表現する意図は無かったようです。この二つの船のシルエットに挟まれた映像群は、最初の1シークエンスでした。因みに、この作品のラスト・カットも、ほぼ同構図のシルエット(※写真右)で、主人公が心に抱いていた穏やかな故郷の風景のようにも映ります。
 最初のシークエンスは、港町の大通りを捉えたドキュメンタリー風の映像と、寺院内でのドラマ風の映像とで構成されていました。前者は、画が繋がっていない所為もあって、一見乱雑な編集に感じますが、画面サイズへの規則性が見られます。

 ?《ロングショット》→?《フルショット》→?《ミディアムショット》→?《クローズアップ》or《フルショット》
   ?全体像を捉えた《ロングショット》。
   ?その中の、ある状況を捉えた《フルショット》。
   ?人物の表情を捉えた《ミディアムショット》。
   ?更に、手元へ寄る《クローズアップ》であったり、逆に、《フルショット》へ戻ってみたり…。

 大通りのロングショットは、船のシルエットと同様、シークエンスの冒頭(※写真左・中央)とその最後(※写真右)に置かれ、途中、寺院から大通りへの場面転換に際しても基点として置かれていました。勿論、同じ構図です。
 冒頭のロングショットは、2つのカットを繋げていましたが、1つ目のカット(※写真左)では、駕籠屋が画面奥から手前へ移動するアクション、次のカット(※写真中央)では、人力車が画面手前から奥へと移動するアクションが含まれていました。この2つのアクションを、シークエンスの最後のロングショットでは、反転させて見せています(※写真右)。駕籠屋は画面手前から奥へ、逆に人力車は画面奥から手前へのアクションです。
 大通りを捉えたロングショットの後は、中国の風俗を捉えたようなドキュメンタリー風の映像が続きます。一見、粗雑な編集にも映りますが、ここに、画面サイズへの規則性が分り易く表されていました。

  ?《フルショット(※写真左)》→?《ミディアムショット(※写真中央)》→?《フルショット(※写真右)》
  ?《ニーショット(※写真左)》→?《ミディアムショット(※写真中央)》→?《ニーショット(※写真右)》
  ?《フルショット(※写真左)》→?《ミディアムショット(※写真中央)》→?《フルショット(※写真右)》
  ?《ミディアムショット(※写真左)》→?《クローズアップ(※写真中央)》→?《ミディアムショット(※写真右)》
 寺院の場面に移ってからも、画面サイズを変化させた流麗なモンタージュは続きます。
●コメント10〜15について

 主人公の青年と僧侶のツーショットが起点で、青年のカットと僧侶のカットの切返しが基本のモンタージュです。そこへ、手元の数珠のカットを挟み(コメント11)、更に、僧侶が鐘を鳴らすカットを切っ掛けにして、画面奥を見やるツーショット(コメント13)→画面奥の祈祷のカット→本尊のカット(コメント14)を往復します。

 青年のミディアムショット(コメント10)を挿入する事によって、僧侶の手元のアップ(コメント11)が、青年から見た画のようにも映ります。同様の効果は、祈祷のカット(コメント13)から本尊のカット(コメント14)へと繋いだ箇所でも見られました。本尊のカットが、祈祷する僧侶たちから見た画のようでもあります。

 主人公と僧侶のツーショットや、各々を捉えたミディアムショットの背後には、本尊と祈祷する僧侶の姿が小さく映り込んでいました。本尊はやや離れた位置にありましたが、その箇所へ画面を移行させる為に、あえて鐘を鳴らすカット(コメント13)を一つ挟んでいます。これは見事でした。直後のツーショット画面からは、鐘の音が聞こえて来るような演出で、その音に誘われるまま本尊のカットへと導かれて行きます。鐘を鳴らすカットは、これ以降のシークエンスでもアクセントとして効果的に使用されていました。主人公の青年の純粋な志、仏教の教え、郷愁を表現したカットです。以下は、冒頭の字幕画面に記されていた言葉です。
It is a tale of temple bells, sounding at sunset before the image of Buddha; it is a tale of love and lovers; it is a tale of tears. (夕暮れ時になると 仏教寺院の鐘が鳴る これはそれを映した 愛と涙の物語である)
 主人公の青年が寺院を去り、場面は再び大通りへと戻ります。大通りのロングショット→海兵同士の諍いを仲裁しようとして巻き込まれる青年→青年の出発→帆船のシルエット。ここ迄のシークエンスで、大変重要な働きをしていたのは、通り沿いにある『詳發油糖雑貨』という店の看板です。この看板を画面の背後へ映り込ませる事によって、各々人物の位置が判るようになっていました。『詳發油糖雑貨』を基軸に、大通りの町並みが立体的に描かれて行きます。
 建造物や看板などの町のシンボルを基軸にカメラ位置を設定し、特徴的な被写体を捉えた後で、その被写体を再び背後へ映り込ませるという配慮は、建物と人物、人物と人物の距離感を測る上での貴重な視覚情報です。
 人物がその町のどの辺りに位置しているのかを理解する事は、結果的に時間を感じる事でもあります。人物が移動する距離には、必然的に時間が発生して来るからです。
 例えば、上の写真3枚のカットを組み合わせると、易者の位置が判ります。易者の位置が判れば、今度は3人の少女たちの位置が判ります。これによって、青年を乗せた人力車が移動する風景にもリアリティーが加わり、実際に人力車が移動する際の時間を、町全体が共有しているようでした。
 ※以下は、1966年にフランスで出版された『Le cinéma selon Alfred Hitchcock』の邦訳『映画術‐ヒッチコック/トリュフォー』の序文から一部抜粋したものです。

 …アメリカに於いては、映画演出という芸術の最大の発展は、1908年から1930年までの間に、主としてD・W・グリフィスによって推進され、達成された。サイレント映画の巨匠たちは、殆んど皆、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムも、セルゲイ・エイゼンシュテインも、F・W・ムルナウも、エルンスト・ルビッチも、グリフィスの影響を受けたが、既にこの世には無く、まだ存命中の他の監督たちも最早映画を作ってはいない。1930年以降にデビューしたアメリカの映画作家たちは、遺憾ながら、グリフィスによって切り開かれた領域の十分の一も発展させていないので、トーキーの発明以降、ハリウッドは、オーソン・ウェルズという例外を除けば、真に偉大な視覚的才能を持った強烈な個性を全く生み出さなかったと書いたとしても、あながち誇張ではないように私には思われるのだ。率直に言わせて貰えば、もし、今、突如として、映画が1895年から1930年までの間そうであったようにサウンド・トラックを一切奪われてしまって完全に《サイレント芸術としてのシネマトグラフ》に逆戻りしてしまったとしたら、現在の映画監督は殆んど皆転職せざるを得ないに違いない。1966年現在、ハリウッドを眺め回してみて、グリフィスの偉大な秘密の真の後継者として私たちの目に映る映画作家は、僅かにハワード・ホークスとジョン・フォードとアルフレッド・ヒッチコックだけである。彼らがその映画的キャリアを終えた後になってから、あの《偉大な映画的創造の秘密》は何処へ行ってしまったのかなどと言って嘆いてはいられないではないか。 (「映画術‐ヒッチコック/トリュフォー」フランソワ・トリュフォー著/山田宏一、蓮實重彦共訳/晶文社より)

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