『あなたのかわいい手にくちづけを、マダム Ich Küsse Ihre Hand, Madame』* (1929年/撮影助手)〜ビリー・ワイルダーの脚本で、マレーネ・ディートリッヒも出演していた。 『掘鑿1010号 Sprengbagger 1010』 (1929年/撮影助手) 『日曜の人々 Menschen am Sonntag』* (1929年/撮影助手)
1928年、ヨーロッパへもトーキー映画が到来。その技術を学ぶ為に、アメリカへ渡る事を決意する。1929年10月、フランスのシェルブール港から出航のリバイアサン号に乗船。七日後の24日、ニューヨークへ到着。その日は、なんと世界恐慌が始まった“暗黒の木曜日”だった。ニューヨークで二週間滞在した後、グレイハウンド・バスで七日間掛けてハリウッドへ。当初、撮影カメラマンの職を希望していたが、ユニオンのメンバーになれず、断念。ユニヴァーサルのカール・レムリに紹介されて、『西部戦線異状なし All Quite on the Western Front』にエキストラ出演する。その後、FOXがオーストリアから招いた舞台・映画監督のベルトホルト・ヴィアテルの助手(脚本・配役・シーンのヴィジュアル面の構築)として働く。
『マン・トラブル Man trouble』* (ベルトホルト・ヴィアテル、1930年/助監督) 『ザ・スパイ The Spy』* (ベルトホルト・ヴィアテル、1932年/助監督)
当時、サンタモニカにあったB・ヴィアテルの邸宅には、錚々たる訪問者が連日現れた。セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、エドゥアルド・ティッセ、グリゴリー・アレクサンドロフ、フリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウ、ジャック・フェデール、ウィルヘルム・ディーテルレ、マックス・ラインハルト、チャールズ・チャップリン、グレタ・ガルボ、ロバート・フラハティ…。その後、R・フラハティの助手を志願し、ベルリンへ渡る。資金不足で企画は流れたものの、彼の下でドキュメンタリー・アプローチを学ぶ。帰りに、ウィーンの実家へ立ち寄り、家族と再会。それが、両親との最後の別れとなってしまう(その後、両親はホロコーストの犠牲となる)。アメリカへ帰国後、B・ヴィアテルの『ザ・ワイザー・セックス The Wiser Sex』*(1932年)に助監督として参加する。その後、R・フラハティの紹介状でゴールドウィンの重役と面接。『カンターの闘牛士 The Kid from Spain』(レオ・マッケリー、1932年)のカメラアングルを提案する仕事に就く。撮影カメラマンは、『市民ケーン』(1941年)のグレッグ・トーランドだった。再び、B・ヴィアテルの助監督として、パラマウントの『昨日から来た男 The Man from Yesterday』*(ベルトホルト・ヴィアテル、1932年/チーフ助監督はヘンリー・ハサウェー)へ参加する。1934年、メキシコ政府文化省から依頼されたドキュメンタリー『波』を、友人ヘンワール・ロダキエヴィッツが降板し、代わりに監督を務める事となる。
『波 The Wave』 (1934-35年/ドキュメンタリー)
1935年、パラマウントの『永遠に愛せよ Peter Ibbetson』(ヘンリー・ハサウェー)で第2班の監督を務める。そこで衣装部のレネー・バーネットと出会い、1936年に結婚。息子ティムを授かる。その後、ウィーンのコーヒーハウスのシーンのテクニカル・アドバイザーとして『孔雀夫人 Dodsworth』(ウィリアム・ワイラー、1936年)へ、ヴィアテル夫人のサルカやグレタ・ガルボの援助で『椿姫 Camille』(ジョージ・キューカー、1937年)へ参加させてもらう。その頃、漸くハリウッドのフィルマーチ劇場で『波』が上映され、それを見たゴールドウィンの重役が、MGMの短編部部長だったジャック・チャートクへ感想を伝える。1937年2月、MGMから『皇帝の蝋燭』*(ジョージ・フィッツモーリス、1937年)でリサーチするからと呼ばれ、テクニカル・アドバイザーを務めるが、ミスを犯して直ちに解雇される。数週間後、再びMGMから呼ばれ、ジャック・チャートクから10分間の無声映画を依頼される。以降、三年以上をMGMの短編部で過ごす。
『本当の友達 A Friend Indeed』* (1938年) 『カ−ヴァー博士物語 The Story of Dr.Carver』* (1938年) 『あの母親たちは生きる That Mothers Might Live』* (1938年) 『睡眠病を追って Tracking the Sleeping Death』* (1938年) 『彼らは再び生きる They Live Again』* (1938年) 『天気の魔術師 Weather Wizards』* (1939年) 『アメリカが寝ている間に While American Sleeps』* (1939年) 『求人! Help Wanted!』* (1939年) 『世界に抗う一人 One Against the World』* (1939年) 『灰は飛んでいく The Ash Can Fleet』* (1939年) 『忘れられた勝利 Forgotten Victory』* (1939年) 『オールド・サウス The Old South』* (1940年) 『スタッフィ Stuffie』* (1940年) 『荒野の道 The Way in the Wilderness』* (1940年) 『偉大なおせっかい焼き The Great Meddler』* (1940年) 『禁じられた道 Forbidden Passage』* (1941年) 『君の最後の演技 Your Last Act』* (1941年) 『女か虎か? The Lady or the Tiger?』* (1942年)
『キッド・グローヴ・キラー Kid Glove Killer』* 1942年) 『夜の目 Eyes in the Night』* (1942年) 『第七の十字架 The Seventh Cross』* (1944年) 『リトル・ミスター・ジム Little Mr. Jim』* (1946年) 『不思議な少年 My Brother Talks to Horses』 (1947年) 『山河遙かなり The Search』 (1947年) 『暴力行為 Act of Violence』 (1949年) 『男たち The Men』* (1950年) 『テレサ Teresa』* (1951年) 『ベンジー Benjy』 (1951年/短編ドキュメンタリー) 『真昼の決闘 High Noon』 (1952年) 『結婚式の参列者 The Member of Wedding』 (1952年) 『地上より永遠に From Here to Eternity』 (1953年) 『オクラホマ! Oklahoma!』 (1956年) 『夜を逃れて A Hatful of Rain』 (1957年) 『尼僧物語 The Nun's Story』 (1958年) 『サンダウナーズ The Sundowners』 (1960年)
1961年〜1964年、アメリカ映画監督ギルドの副会長を務める。
『日曜日には鼠を殺せ Behold a Pale Horse』 (1963年) 『わが命つきるとも A Man fof All Seasons』 (1966年) 『ジャッカルの日 The Day of the Jackal』 (1973年) 『ジュリア Julia』 (1977年) 『氷壁の女 Five Days One Summer』 (1983年)