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☯映画解放区コミュのフレッド・ジンネマン/Fred Zinnemann (1907〜1997)

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 ※「フレッド・ジンネマン自伝」 フレッド・ジンネマン著/北島明弘 訳 (キネマ旬報社)より


 1907年4月29日、オーストリアのウィーンにて、ユダヤ人の父オスカー、母アンナの間に長男として生まれる。弟はジョージ。代々、医師の家系で、父も医師だったが、決して医師が裕福な時代ではなかった。音楽好きの一家で、父はヴィオラを、自身はヴァイオリンを弾いていた。登山にも興じ、後に『氷壁の女』(1983年)を撮る。もともとは音楽家志望だったが、ウィーン大学では法学を専攻し、1927年には学位を取得する。映画館へは良く通い、その頃のお気に入り作品は、『グリード』(エリッヒ・フォン・シュトロハイム、1924年/米)、『ビッグ・パレード』(キング・ヴィダー、1925年/米)、『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、1925年/ソ連)、『裁かるゝジャンヌ』(カール・テオドール・ドライエル、1828年/仏)など。未開拓の可能性でいっぱいの新しい芸術形成に魅了され、映像の世界へ進む事を決意する。1927年夏、反対する家族を説得し、フランスへ向う。パリで新設の映画技術学校エコール・テクニク・デ・フォトグラフィ・エ・シネマトグラフィへ入校。

   『機械の行進 La Marche des machines』*(1927年/撮影助手)

 一年後、フランスでのビザが切れ、ドイツへ向かう。ベルリンで、オイゲン・シュフタンの撮影助手として働く。

   『あなたのかわいい手にくちづけを、マダム Ich Küsse Ihre Hand, Madame』*
     (1929年/撮影助手)〜ビリー・ワイルダーの脚本で、マレーネ・ディートリッヒも出演していた。
   『掘鑿1010号 Sprengbagger 1010』 (1929年/撮影助手)
   『日曜の人々 Menschen am Sonntag』* (1929年/撮影助手)

 1928年、ヨーロッパへもトーキー映画が到来。その技術を学ぶ為に、アメリカへ渡る事を決意する。1929年10月、フランスのシェルブール港から出航のリバイアサン号に乗船。七日後の24日、ニューヨークへ到着。その日は、なんと世界恐慌が始まった“暗黒の木曜日”だった。ニューヨークで二週間滞在した後、グレイハウンド・バスで七日間掛けてハリウッドへ。当初、撮影カメラマンの職を希望していたが、ユニオンのメンバーになれず、断念。ユニヴァーサルのカール・レムリに紹介されて、『西部戦線異状なし All Quite on the Western Front』にエキストラ出演する。その後、FOXがオーストリアから招いた舞台・映画監督のベルトホルト・ヴィアテルの助手(脚本・配役・シーンのヴィジュアル面の構築)として働く。

   『マン・トラブル Man trouble』* (ベルトホルト・ヴィアテル、1930年/助監督)
   『ザ・スパイ The Spy』* (ベルトホルト・ヴィアテル、1932年/助監督)

 当時、サンタモニカにあったB・ヴィアテルの邸宅には、錚々たる訪問者が連日現れた。セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、エドゥアルド・ティッセ、グリゴリー・アレクサンドロフ、フリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウ、ジャック・フェデール、ウィルヘルム・ディーテルレ、マックス・ラインハルト、チャールズ・チャップリン、グレタ・ガルボ、ロバート・フラハティ…。その後、R・フラハティの助手を志願し、ベルリンへ渡る。資金不足で企画は流れたものの、彼の下でドキュメンタリー・アプローチを学ぶ。帰りに、ウィーンの実家へ立ち寄り、家族と再会。それが、両親との最後の別れとなってしまう(その後、両親はホロコーストの犠牲となる)。アメリカへ帰国後、B・ヴィアテルの『ザ・ワイザー・セックス The Wiser Sex』*(1932年)に助監督として参加する。その後、R・フラハティの紹介状でゴールドウィンの重役と面接。『カンターの闘牛士 The Kid from Spain』(レオ・マッケリー、1932年)のカメラアングルを提案する仕事に就く。撮影カメラマンは、『市民ケーン』(1941年)のグレッグ・トーランドだった。再び、B・ヴィアテルの助監督として、パラマウントの『昨日から来た男 The Man from Yesterday』*(ベルトホルト・ヴィアテル、1932年/チーフ助監督はヘンリー・ハサウェー)へ参加する。1934年、メキシコ政府文化省から依頼されたドキュメンタリー『波』を、友人ヘンワール・ロダキエヴィッツが降板し、代わりに監督を務める事となる。

   『波 The Wave』 (1934-35年/ドキュメンタリー)

 1935年、パラマウントの『永遠に愛せよ Peter Ibbetson』(ヘンリー・ハサウェー)で第2班の監督を務める。そこで衣装部のレネー・バーネットと出会い、1936年に結婚。息子ティムを授かる。その後、ウィーンのコーヒーハウスのシーンのテクニカル・アドバイザーとして『孔雀夫人 Dodsworth』(ウィリアム・ワイラー、1936年)へ、ヴィアテル夫人のサルカやグレタ・ガルボの援助で『椿姫 Camille』(ジョージ・キューカー、1937年)へ参加させてもらう。その頃、漸くハリウッドのフィルマーチ劇場で『波』が上映され、それを見たゴールドウィンの重役が、MGMの短編部部長だったジャック・チャートクへ感想を伝える。1937年2月、MGMから『皇帝の蝋燭』*(ジョージ・フィッツモーリス、1937年)でリサーチするからと呼ばれ、テクニカル・アドバイザーを務めるが、ミスを犯して直ちに解雇される。数週間後、再びMGMから呼ばれ、ジャック・チャートクから10分間の無声映画を依頼される。以降、三年以上をMGMの短編部で過ごす。

   『本当の友達 A Friend Indeed』* (1938年)
   『カ−ヴァー博士物語 The Story of Dr.Carver』* (1938年)
   『あの母親たちは生きる That Mothers Might Live』* (1938年)
   『睡眠病を追って Tracking the Sleeping Death』* (1938年)
   『彼らは再び生きる They Live Again』* (1938年)
   『天気の魔術師 Weather Wizards』* (1939年)
   『アメリカが寝ている間に While American Sleeps』* (1939年)
   『求人! Help Wanted!』* (1939年)
   『世界に抗う一人 One Against the World』* (1939年)
   『灰は飛んでいく The Ash Can Fleet』* (1939年)
   『忘れられた勝利 Forgotten Victory』* (1939年)
   『オールド・サウス The Old South』* (1940年)
   『スタッフィ Stuffie』* (1940年)
   『荒野の道 The Way in the Wilderness』* (1940年)
   『偉大なおせっかい焼き The Great Meddler』* (1940年)
   『禁じられた道 Forbidden Passage』* (1941年)
   『君の最後の演技 Your Last Act』* (1941年)
   『女か虎か? The Lady or the Tiger?』* (1942年)

 そこは、新進気鋭の監督や脚本家たちの貯水池であり、実験室であり、その中のオタマジャクシにはジュールス・ダッシン、ジョージ・シドニー、ジャック・ターナーらがいた。そして、1941年に、ジャック・チャートクがBピクチャーのプロデューサーポストへ昇進すると、その第一作目『キッド・グローヴ・キラー』*(1942年)を監督する事となる。

   『キッド・グローヴ・キラー Kid Glove Killer』* 1942年)
   『夜の目 Eyes in the Night』* (1942年)
   『第七の十字架 The Seventh Cross』* (1944年)
   『リトル・ミスター・ジム Little Mr. Jim』* (1946年)
   『不思議な少年 My Brother Talks to Horses』 (1947年)
   『山河遙かなり The Search』 (1947年)
   『暴力行為 Act of Violence』 (1949年)
   『男たち The Men』* (1950年)
   『テレサ Teresa』* (1951年)
   『ベンジー Benjy』 (1951年/短編ドキュメンタリー)
   『真昼の決闘 High Noon』 (1952年)
   『結婚式の参列者 The Member of Wedding』 (1952年)
   『地上より永遠に From Here to Eternity』 (1953年)
   『オクラホマ! Oklahoma!』 (1956年)
   『夜を逃れて A Hatful of Rain』 (1957年)
   『尼僧物語 The Nun's Story』 (1958年)
   『サンダウナーズ The Sundowners』 (1960年)

 1961年〜1964年、アメリカ映画監督ギルドの副会長を務める。

   『日曜日には鼠を殺せ Behold a Pale Horse』 (1963年)
   『わが命つきるとも A Man fof All Seasons』 (1966年)
   『ジャッカルの日 The Day of the Jackal』 (1973年)
   『ジュリア Julia』 (1977年)
   『氷壁の女 Five Days One Summer』 (1983年)

   『暗い時計の下に立つ Stand Under the Dark Clock』* (1989/出演)


     *日本未公開作品


 戦後、MGMとの契約を解消して、独立プロで映画を撮るようになるが、ハリウッド流の口当たりのよい規格品ではなく、論争を巻き起こさずには措かないような作品を好んで取り上げた。この主流に逆らうような彼の態度は、学生時代に読んだスタンダールの「赤と黒」に影響されたのだという。(訳者あとがきより)

 「プライベートな部分にとどめておくべき事柄もある。人々が自分の人生について記した中には、無作法なものもある…」(本書より)


 1997年、心臓発作でこの世を去る。

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