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探すのをやめたとき愛は見つかるコミュのケイティ語録−18♪

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 予期せぬことがなぜ私たちに起こるのか、その美しい理由に気づくと、人生は不可解なものではなくなる。

 「この予期せぬ出来事が、私に起こったのではなく、私の“ために”起こった本当の理由を考えてみる」というのはゲームではない。

 それはエクササイズなのだ。

 それは、あなた自身を現実(つまり物事の性質のやさしさ)に引き戻す方法なのだ。

********************************

第8章−P227

 「予期せぬことがなぜ私たちに起こるのか?」

 ケイティのこの問いかけについて私も考えてみました。その予期せぬことがなぜ起こるかというと、そのすべては、自らが作り出した無意識の世界に気づきなさい、ということだと思います。つまり、今も存在しているように見える私と私の世界は、実際には存在していない、という真実に気づくためだけにあるということです。

 ケイティの打ち出している「人生を美しく変える4つの質問」と主体と客体を「ひっくり返し」て考える技術の目的および意図していることは、『相対的な現実のなかに真実はない』という結論を導きだすことになると私は考えています。

 つまり、私(主体)と私以外の誰かや何かあるいは出来事(客体)があると信じ、自分の期待に反する出来事を真に受け、真実だと信じたときには、つねに世界という客体を中心に考えていて、その状況はいかにも“私に”起こったことのように見えるわけです。

 そこで、ケイティの「4つの質問」の中の2番目の「それが本当だと絶対に言い切れますか?」と問いかけることにより、相対的な事実から、絶対領域から考えなおすきっかけを生みだすことになります。

 その過程において、主体と客体の構成要素−人生という夢の投影元−である私(たち)の無意識(夢の総体)を見つめることを通して、バラバラかつ自動的に機能しているようにみえる主体と客体のすべては、私が完全な自己から離れたと信じ、“その意識を無く”した瞬間からすべてを見直すことになります。その状態で、主体と客体が織りなす無意識を見つめるとき、その2つを越えて見つめている自己が存在することに気づき始めます。

 また、相対的な見方から、自己探求つまり「問い直し」に入るとき、予期せぬことが私たちに起こっているように見えますが、私(主体)と私と違うように見える出来事(客体)を、「ひっくり返し」の手法によって見つめ直すと、自分に起こったように見える出来事のすべては、「私が起こしている出来事」として眺めることになります。

 ケイティのプロセスは、まず真実は、相対的な出来事の中に見つけることはできないということや、この物質世界の中でくり広げられる善悪などの二元性の視点は、すべて見方−考え方−次第であることを明確にしてから、ワーク−信念体系の見直しに取りかかります。

 そして、ワークシートの「ひっくり返し」のプロセスによって主体と客体の逆転を行うことで、私に起こっている出来事を、“私が起こした出来事”という気づきを促します。

 そして、自らの人生の出来事のすべてを、主体である“私”の探究へ連れ戻し、そこから見直すように仕向け続けます。また、その時はじめて無意識(主体と客体が織りなす世界)に翻弄されていた人生が、自分の無意識を見ていたと気づくわけです。そして、真の私、「本当の私は誰か?」、唯一の視野から、その間違った考えを自らが生みだしていることに気づき、ただそれを自らが訂正するだけで、ここでの現実−人生のすべてを完全に自分への贈り物として受け取れるようになります。

「その美しい理由に気づくと、人生は不可解なものではなくなる。」というケイティの言葉は、主体と客体(無意識、二元性が価値あるモノと考える複雑さ、分離の概念)の超越を意味していると私は考えています。

 ほんとケイティのメソッドは良くできています。
 彼女は天才ですね♪

 ところで、今の私を育ててくれた考え方のなかに「ダ○○ネティックス」と「サ○○ントロジー(応○宗○哲学)」という現在、海外ではカルトとして指定されている考え方も、私に大きな影響を与えています。そして、それ以外にも「神との対話」、3in1キネシオロジーという2つの考え方と方法論を長期間信じ実践してきた経緯が、私の中にあります。

 上記の考え方はすべて、「人生はゲームのようなものだ」と考えている節があります。この思考体系のなかでは、以前として分離の存在を肯定しているからです。

 たとえば、「サ○○エントロジー」のピクチャーブックから一部抜粋しますと、

 ゲームとは人対人の、あるいはチーム対チームの競争を意味します。(中略)。ゲームの要素を研究することによって、私たちは自分自身がその人生を所有していることに気づきます。人生はひとつのゲームなのです。ゲームは、自由、障害、そして目的から構成されています。ゲームする能力は、参加への選択権を伴い、自由と障害に対する忍耐力と目的への洞察力から成り立っています。これら4つの要素−自由、障害、目的、そして選択権−が人生を導く要素です。

 とあります。確かに「人生」を事実だと考える視点における洞察においては、その通りであるかもしれません。

 しかし、私たちの源−存在−の状態において、唯一者とそれが生みだした創造以外に何も存在していないという絶対領域の考えを導入したとき、上記の思考体系はどうなるでしょうか? 

 そう、ゲームで競う相手など存在することもありえないので、無意味な考えとなります。またゲームの必要性など最初からありませんし、唯一者と唯一者が創造した考えのなかでは、すべてがそこにおいて完成されているわけです。ですから、そのような考えこそが存在し得ないし、誰かと競い合うという概念自体が、まったくもって馬鹿げた考え、ということになります。存在は、存在する以外に何も必要が無く、そこから生みだされた存在の考え−生命−意識−は、存在の愛する偉大な子供たちでしかあり得ないからです。

 ここで少しだけ、私が体験した「存在−ある」の状態について、私のつたない言葉で表現したいと思います。その体験は、私が東京で3in1キネシオロジーのワークショップに始めて参加したときに起こりました。そして、ワークショップの番外編で、お互いの心臓の音を聞きあうというワークを行っていたとき、その不思議な状態に入る前触れがありました。順番にお互いの心臓の音を聞きあうことになり、私が一人目の方の心臓の音を聞いたとき、ドクンというような心臓が割れるような感覚がまずやってきました。そして、私が二人目の方の心臓の音を聞いたとき、その鼓動がとても大きくなっていき、急に苦しいような切ないような気持ちになりました。そのあと、深い絶望の闇のなかへと沈み込み、ガラガラとこの世界が崩れ去り、私自身も足元から地面が割れたところへ落ちていくような感覚に陥りました。そして、私自身が消えてしまったと感じました。またその瞬間に、私のまわりの景色、そして私自身も消え去り、光そのもののなかいることがわかりました。
 その状態にあるときは至福としか表現することができません。つまり、全ての感覚を同時に感じるエクスタシーのなかにあり、何も考える必要すらなく、「ただすべてを感じる」「わかる」「完全にある」という強烈な状態でした。
 その私の身体としての意識が消え去っている間、私の身体がどのように見えていたかを、そのセミナーの主催者が、ミクシィを始められたとき尋ねる機会がありました。意識が跳んでいたときの私は、ただただ涙を流していたようでした。私は自分の身体のことを完全に忘れていて、その至福になかに完全に包まれていました。そして、あるとき、ふと我(私)に帰ると、みんなが私の周りを囲んでくれていて、私をいろいろな言葉で励ましてくれているのが聞こえてきました。そして、人との一体感にも包まれ、幸福なひとときを体験させてもらいました。私は、今でもその体験を決して忘れることができません。

 そして、私にとって「真実とは何か?」と尋ねられたなら、その存在の体験がいつも私にとっての真実の基準になります。今までの人生の中で、その体験と比較できるものなどはなく、存在の状態は、肉体的な体験、思考、そして感情的な一時的な幸福感のすべてを越えており、その状態より素晴らしい状態があるとは思えないからです。

 そのような私の体験と、その当時学んでいた上記の思考体系や技術は、表面的にはとてもよく似ているモノではありました。しかし、どうしてもうまくいかないことがあり、「やがてどこかで何かが違う」という違和感を私に与え続けました。

 最終的にその違いに気づいたのは、「奇跡のコース」「神の使者」という本がきっかけでした。それまでは、なにがどのように私の得た体験と異なるのかが、どうしてもわからなかったのです。そのような意味で、本という媒体を通しての学びではありますが、意識的にいろいろな思考や信念体系を、いつも見直す作業をつねに怠ってはいけないと思いました。

 それらの思考体系の見直しによって、私があらためて気づいたこととしては、上記の考え方のすべては、二元性の考え方を完全に放棄しきれていない、ということです。私が感じていた違和感の正体は、完全かつ純粋な意識である存在、一切の分離が存在しない状態と無意識の状態との違いだったということです。つまり、存在−ある−の状態において、ちがう何かが存在するという考えのかけらなどはまったく存在することはできないし、私という意識すらも考えられない状態になるわけです。

 ですから、完全かつ純粋な意識の状態と、暗闇そのものである無意識そして、そこから作り出された自我を真実と考えている間は、以前とした闇の中をグルグル空回りを続けることになり、決して真実へたどり着けない分離の壁を残してしまっている、という結論に至りました。

 つまり、上記の思考体系を前提にしたままだと、完全かつ純粋な意識の一部が“意識を無くした”と信じた瞬間である無意識そして自我(バラバラな自分が私であるという考え)を存在の源だと錯覚し続け、無意識の世界を自分の居場所や遊び場だと勘違いし続けることになります。その結果、一時の形の中に見える幸せこそが、自分の到達し得る楽しみのすべてであると信じ続けることになります。

 それらの思考体系を前提に考えるとき何が起こるかというと、神という存在の源(この神は無意識の世界を司る神を、すべての前提あるいは原因と考えた場合の神のことです)が、私たちを地獄(物質という重力の支配下にある不自由な牢獄のような世界)へ送り、その無意識の神が作り出す人生のプログラムは「神のみぞ知る」ということになります。そうなれば、私たちに選択の余地などはあり得ないということになります。そして、私たちの側から考えるなら、すべての責任は神にあり、神がこの愛と憎しみに満ちた、不完全で出来損ないの世界を創造したなら、「私が何をしてもいいはずだ」ということが正当化されるようになります。

 つまり、二元性の世界を神が創造したと信じ続けるなら、かつての宗教や哲学を、ニューエイジあるいはスピリチュアルという名前に置き換えただけになります。ですから、二元性を信じる限り、私たちと神はつねに切り離され壁があることが現実だと考え続けられることになります。そこで、もし存在−神−が分離を創造したとするなら、それは私たちが変更することなどできないでしょう。つまり、もし私たちが無意識の世界を司る神を本当の神だと考えるとしたら、それによって作り出された「輪廻転生」の世界の夢を、永遠に回り続けるしかないわけです。その中で、どうやって救いを見いだすことができるというのでしょうか? 

 そのような相対的あるいは二元性の考えを、自らの意識的な選択によって放棄しない限り、無意識の世界−輪廻転生の宇宙、あるいは*メビウスの輪を無限だと信じ、結局、同じ無意識の中を堂々巡りし続けることでしょう。

*メビウスの輪は、無限大のシンボルとしてよく紹介されていますが、よくよくそれを見るとわかるように、それはまさに無意識−二元性−あの世とこの世をめぐり彷徨い続ける魂を現すイメージ、シンボルと言ってもよいように思います。自らの選択によって、無意識が作り出した世界にとらわれずに、今ここ(この世界のなかであったとしても)で、真実だけを見続けると、やがて無意識が悪夢を見せるのをやめるようになります。そして、無意識が完全に幻想だと完全に理解したとき、それはただの記憶となり、光のなかにその二元性(無意識)のシンボルが沈み込んでいき、完全に光の中へ溶け消滅する状態になると思います。

 ですから、私たちは無意識を越え、バラバラな意識が存在していないところ−真の故郷−存在−を自らの心が選ぶ必要性があります。
 つまり、選択の本質は、「全か無か(すべての存在としてあるか、無・夢のままであるか)」の二つしかないということです。
 
 私たちは、この物質宇宙のなかに生きていると信じている間中、本当の意味で自由な存在として生きるためには、無意識のなかにいない真の自己に気づく必要があります。その真の自己を発見するために、この世界がどのような仕組みでできているかをまず理解し、自らが主体的になり、今何を選ぼうとしているかに気づき、自らを、真実−存在−すべて−の視野へ戻し続けなければなりません。

 そのような意味で、ケイティはそれを「エクササイズ」だと言っていると私は考えています。

 無意識は、完全な意識から創造された意識の一部が眠りについたときできた境界点と考えることができます。それが自己喪失、自分探しの旅、放蕩息子の話のメタファー(暗喩)だと思います。そして、形而上のなかにある夢のなかで様々な次元、あの世の概念のイメージ映像の宇宙、そして、形而下においては、さらにそこから相対性−物質宇宙がビックバンという形が現れ出た(ように見える)のかもしれません。

 ここで無意識のおもしろいところとして、形而下の世界においては「私は身体である」という意識が眠りにつくとき、無意識に入るという構造があります。つまり、私たちは毎晩、この無意識の世界へ行き来する状態をくり返しているということです。

 このような無意識の構造から、無意識の世界こそが、“無い−幻想−夢−眠り”だと気づくなら、無意識によって作り出されたようにみえるあらゆる複雑さ、難しさ、を選ばないことで、“真の目覚め”をいつか体験することになると思います。そして、存在としての唯一の自己から今を始め続けるなら、私たちが本来持っている完全かつ自然な姿を取り戻すことになります。

 無意識は、本当の自分を忘れた夢であり、闇の中に自分を置いたがゆえに、そこに自らの意識によって物質的な現実を存在させているように見せていますが、それは消えたり現れたりする状態ですから、そのすべては真実とは言えないと思います。

 世界という私の無意識が見せる世界−宇宙−に抵抗せず、完全な意識−存在−として、まず私自身の見方に責任をとるとき、すべてが私を思い出すための贈り物だと自覚できる日が来ると思います。

 ケイティの「それは、あなた自身を現実(つまり物事の性質のやさしさ)に引き戻す方法なのだ」という言葉は、「無意識の世界が見せる現実、そしてそれが起こることに対して、そのすべてを自分が見せていることに気づきなさい」、そして、「すべての出来事は、私のために起こっており、それ(すべての無意識)がある理由は、ただ私の真実や、すべてとひとつであること、を思い出させるために起こっている」と言っているように思います。

 まずは私自身が、無意識が見せる物語にとらわれず、いつもひとつであることを望みそれを選び続けたいと思います♪

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