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ベン村さ来「と言えば・・・」コミュの【51・ユニフォーム】 平成13年11月21日(水)

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原典:http://www.owarai.to/ben/51.html
written by ベン村さ来
挿絵:橋本ポンセ

◆ 日南学園(宮崎)の剛腕投手・寺原隼人投手の交渉権をドラフト会議でダイエーホークス が得た。この寺原(157キロ出ても年下だから呼び捨て)、最初は「九州のダイエーホー クスは意中の球団です」と言っていたのに原監督との接触後から態度を巨人の方へ大きく 変えた。急に「実は巨人ファンで」と言い出したり、なぜか野球部の監督までが巨人のマ ーク入りネクタイをしたりと下心を丸だしにしてきた。そして今回のドラフト会議。ダイ エー・王監督は見事に寺原を引き当てたのだ。最初に言っていた意中の球団である。それ なのに指名直後に見せた憮然とした態度、そして昨日(11月20日現在)の王監督対面後の インタビューでは「五分五分ですね」ととんでもなく失礼な発言をしてくれた。これでは まるでレストランで「スパゲッティーが食べたい」と駄々をこねて親に注文させたのに隣 のお子様ランチを見て「あっちが良かったのに!」とか言うガキと一緒である。そりゃ年 齢的には18歳のガキだが、これから就職をするのだから眉毛ばかり手入れしてないで脳み その方もしっかりと手入れをして欲しい。


◆ その昔、どこぞの球団に指名された選手の父親が意中の球団でなかった為に行き悩む息子 にこう言ったそうだ。「お前は株式会社プロ野球界に入社するんだ。会社の中でどこ部署 に配属になろうと新入社員のお前が決めることではない。お前が欲しいという部署に喜ん で入りなさい」素晴らしい言葉である。しかも、現在ではFA制度というものがあり実力 と年期を重ね、相思相愛であれば意中の球団に移籍することも可能なのだ。寺原君(急に 親しげ)、『世界の王』の心意気に応えてダイエーで男を磨いてみないか?いや、寺原君 の気持ちもよくわかる。自分に例えると私も胸が痛い。強引な設定だがもし私が157キロ の剛腕投手だとする。私は東京都目黒の在だから家から1番近い球団は神宮球場を本拠地 とするヤクルトスワローズになる。ヤクルトならば家から電車で10分とかからず、単身赴 任となる関西の球団などと違い家族も心配しないであろう。そこで思わず「ヤクルトが意 中の球団です」と言ってしまった。そのあとでの巨人との接触。毎日あるテレビ中継、日 本人の9割を越えるファンたち、その知名度が呼ぶテレビ出演とCM出演、美人女子アナ との出会い、主軸選手たちの年俸の高さ、中堅どころの選手でも年俸が高い、クソみたい な選手でも年俸が高い、どれをとっても巨人は魅力たっぷりの球団である。そりゃ寺原君 も悩むわな。ただ、例えられた私の方が悩みが深い。私は熱烈的な阪神ファンで、しかも 熱狂的なアンチ巨人なのだ。『侍ジャイアンツ』のように巨人に入団して内側からチーム を壊すのもいいが、 巨人のユニフォームを着た人間と同じ空気を吸うのもイヤなので無理 であろう。


◆ 『ユニフォーム』と言えば思い出すのが…少年野球である。私は小学校4年から6年まで 「上大崎スパローズ(すずめ)」という地元の少年野球チームに入っていた。そこで生ま れて初めてユニフォームというものを買ってもらった。もちろん、それまでも半ズボンに ズックで野球遊びはしていたが、真剣に打ち込んだのはここからである。さすがにユニフ ォームを作ると聞いた時はうれしかった。当時、阪神タイガースの田淵幸一捕手に憧れて キャッチャーをやっていたことから監督に背番号「22」を申し入れたが、一歩遅く後輩 に取られていた。仕方なくこれからの阪神を担う掛布雅之選手の背番号「31」をつける ことにした。後輩に背番号を取られるとは情けない奴とお思いだろうが、私はこのあとが スゴイ。「背番号31でキャッチャーは変である!」という訳のわからない理由を監督に 押し付け、勝手に掛布選手が守るサードにコンバートしてしまったのだ。元々、打順は5 番に固定されていたのでここに「5番・サード・田中」が完成した。いい響きである。と ころが、この「5番・サード・田中」は試合には出たことがない。別に本番に弱い選手だ った訳ではない。これには悲しい理由がある。少年野球の練習日は当然、小学校のない日 曜日。しかも、グランドが全コート空いている早朝6時から午前11時というのが決まりだ った。しかし、試合となると早朝5時という訳にはいかない。午前なら10時から12時、午 後なら1時から3時などというのが定番であろう。つまり、試合となると終わるのが午後 にかぶるのである。これが私の試合に出られない理由であった。私には日曜日の午後12時 30分から中学受験の為に進学塾に通っていたのだ。代々木にある開成中学・麻布中学に入 るならここしかないと言われたあの「四谷大塚」! に落ちた子が通う「日進(日本進学 教室)」である。この進学塾により私の野球人生は途切れ、中学では卓球部、高校では応 援団、大学では右翼と(悪い方へ悪い方へ流れていくなぁ)すっかり野球は観るものと化 していた。


◆ そんな私が17年ぶりにバットを握ることになったのは4年前のことである。私が構成の末 席を汚しているニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』のタレント&スタッフで 草野球チームを作ることになったのだ。久々の野球遊びは球団設立からの参加である。こ れはうれしい。まずは高田先生とスタッフとでチーム名会議が開かれた。私は強さをアピ ールする為に高校野球の名門・沖縄水産に対抗して『高田水産』を推薦した。高田先生は 大笑いしてくれたが結果はボツ。結局、高田先生からの「ノーマルでいいよ」との提案か ら『高田ビバリーヒルズ』となった。チーム名が決まってからの動きは早かった。オーナ ー兼部長の橋内チーフディレクター(当時)は元・ニッポン放送スポーツ部。草野球の全 国大会『ニッサン・グリーカップ』でエキシビジョンマッチをやるのを条件にスポンサー の日産自動車に選手全員のユニフォームを無償で作らせのだ。そして待望の背番号登録。 私は少年時代につけていた背番号「31」を名乗り出たが、今度は2名、阪神ファンの先 客がいた。1人は大の掛布マニアである山田雅人さん、もう1人は太の掛布マニアである 松村邦洋さんだった。2人とも先輩芸人である。当然のごとく私は辞退することにしたが、 問題はあの熱狂的な2人が譲り合うことをするかである。この戦いには非常に興味があっ たが、結果は2人とも「31」ということで落ち着いた。さすがお笑い番組のチームであ る。やることがメチャクチャだ。ちなみに私は構成作家という裏方ということもありカッ コイイ背番号は避け、その年に29歳だった記念と、自分の腹から「29(肉)」とした。


◆ 生まれて初めての公式試合、そして17年ぶりの野球は派手の極致だった。球場は花の都の 神宮球場、相手のニッポン放送スポーツ部チーム『チキンハーツ』のピッチャーは大魔神 佐々木(現・シアトルマナリナーズ)。これだけでも豪華なのに、我が高田監督率いる 『高田ビバリーヒルズ』のメンバーがまた豪華!山田雅人・松村邦洋・立川談春・出川哲 朗・東貴博(Take2)・U−turn・ビビる…お笑いの特番が平気で組めそうな3度の早 朝練習に集い、試合では談春さんが大魔神から打点をもぎ取り、最後は高田監督のサヨナ ラ内野安打で勝つという派手加減だった。ちなみに私は途中代打で出場。サードゴロでア ウトとなったが、神宮球場の電光掲示板に「べん村さ来(なぜかベンが平仮名だった)」 と出たのがなによりうれしかった。あれから4年…あれ以降、試合どころか練習もない。 私は人生2度目の試合に出るのは何十年後だろうか?


 
原典:http://www.owarai.to/ben/51.html
written by ベン村さ来
挿絵:橋本ポンセ

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