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ベン村さ来「と言えば・・・」コミュの【31・ジャンボ鶴田】 平成12年5月18日(木)

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原典:http://www.owarai.to/ben/31.html
written by ベン村さ来

◆ ニュースや新聞でご存じではあろうがプロレスラーのジャンボ鶴田さんが肝臓移植手術中の出血多量によるショック症状で亡くなった。どのスポーツよりも長く現役を続けられるプロレスラーという職業でありながら、あまりにも若すぎる49歳であった。死に対する悔しさもあったが、報道に対する悔しさもあった。どの報道機関も誰が言い出したのか「全日本プロレスの元エース」という紹介をしているのだ。プロレスを知っている人なら、この腹の悔しさを理解していただけると思う。「元エース」じゃ、まるで体力の限界で辞めた選手みたいではないか。ジャンボ鶴田という選手は気力も体力も充分だった時期に持病の肝臓病が悪化し、涙を飲んで現役を引退したのだ。せめて「悲劇の元エース」、もしくはプロレスファンの間に今も語り継がれる「日本人最強説レスラー」と紹介して欲しかった。

◆ ジャンボ鶴田選手は昭和47年のミュンヘンオリンピックに出場しているアマレス(グレコローマン・100キロ以上級)の選手であった。その年に全日本プロレスに入門。昭和43年生まれの私がプロレスファンとなった時には、すでに全日本の大エースであった。同世代のプロレスファンなら誰もが同じ思いだろうが、子供の頃から

    「将来、新日本プロレスは藤波社長!全日本プロレスは鶴田社長!」

になるものだと思っていた。藤波さんは現役選手のまま新日本の社長になった。鶴田選手の引退、馬場社長の死去という困難を越えて全日本プロレスは鶴田選手の背中を見て育った三沢選手が社長になった。それでも「鶴田の存在は全日本にはデカイわな」なんて思っていた。ジャンボ鶴田は永遠に生き続けるものだと信じていた。単純で身勝手なプロレスファンの独り言だが、本当に残念でならない。心からご冥福をお祈りいたします。

◆ ジャンボ鶴田と言えば思い出すのは…卓球部である。(またか!)
以前、私が在籍していた立正中学卓球部は不良の巣だったと書いたが、なぜか同期の卓球部員にはプロレスファンが多かった。教室で『ファイト』や『別冊ゴング』(当時は『週刊プロレス』がなかった)を読み、先輩が来るまでの間は部室でプロレスごっこ(当時はハーリー・レイスの360度回して見せるパイルドライバーがブームだった)をやり、帰りはキヨスクで『東京スポーツ』(当時は1面が紫色だった)を買って帰る日々。
まぁ、基準はわからないが典型的なプロレス少年だった。

◆ 特に全日本プロレスはよく会場に行った。当時はマスクマンブームで全日本には大好きな「仮面貴族」ミル・マスカラスや弟の「飛鳥仮面」ドス・カラスがよく来日していたのだ。手元にある1番古いパンフレットに『82年 サマー・アクション・シリーズ』がある。全日本は当時から選手ひとりひとりに細かなキャッチフレーズがついているので面白かった。チョイと思い出にひたってみよう。(82年8月1日/後楽園ホールのモノだと思われる)



 第1試合      「アポロ・パワー」菅原伸義
                 VS
           「力道山ジュニア」百田光雄


(百田選手はご存じ力道山の次男。
 ちなみに兄の百田義浩選手は「力道山二世」と呼ばれていた)


 第2試合       「極道コンビ」大熊元司
                 VS
        「和製アメリカンドリーム」ロッキー羽田

 大熊選手は
 日本テレビ『たけしのテレビに出たいヤツみんな来い』の
 退場係として有名だった。
 しかも当時は隣駅の五反田在住で、学校帰りによく見かけた。
 羽田選手の「和製」で「アメリカン」というのがスゴイ)


 第3試合     「極道コンビ」グレート小鹿
               VS
       「ブロンドパンサー」スティーブ・リーガル

 小鹿選手と大熊選手は極道コンビの名で
 アジアタッグ王座に着いていた。
 映画『修羅の群れ』の飯場の親方役が絶品)


 第4試合  「ガッツファイター」三沢光晴
        「ダイナミックファイター」越中詩郎
              VS
       「SFファイター」ウルトラセブン
             「飛鳥仮面」ドス・カラス

(三沢社長の初々しいキッチフレ−ズに感激。
 ウルトラセブン選手は国籍不明と呼ばれながら
 日本テレビの『番組対抗運動会』で
 「いやぁ、疲れちゃったぁ」という名言を残した)


 第5試合    「アジアタッグ王者(当時)」石川隆士
          「風雲昇り龍」天龍源一郎
              VS
        「まだら金髪狼」上田馬之助
         「流血王」キラー・トーア・カマタ

 余談だが天龍選手は
 三遊亭楽太郎師匠の両国中学時代の同級生。
 さらに余談だがおデブで目黒在住だった私は
 目蒲線の関係からよく
 「キラー・トーア・メグロ」と呼ばれていた


 第6試合   
       「和製マットの魔術師」マイティー井上
        「野生ダンプガイ」 阿修羅・原
              VS
       「ジョージアの山猫」ジェリー・オーツ
         「美獣」ハーリー・レイス


(井上選手・原選手は前年に国際プロレスから移籍。
 原選手が国際時代に使っていたテーマ曲『阿修羅』は
 世界一カッコ悪いから好きだ)


 第7試合     「炎の稲妻」大仁田 厚  
              VS
        「小さな巨人」チャボ・ゲレロ

(「涙のカリスマ」で売った大仁田選手も、
 当時はちょっと恥ずかしいキャッチフレーズ。
 パンツにローマ字で「ONITA」と入れていたので、
 よく「オニタ!」とヤジった。
 当時は顔も若く、とある芸人さんに似ていたので
 「鶴太郎!」ともヤジった)


 第8試合  「UNヘビー級・インタータッグ王者」
            ジャンボ鶴田    
              VS
            「仮面貴族」
           ミル・マスカラス

(『全日本プロレス中継』のテーマ曲で
 「ジャーンボ、ジャーンボ、ジャンボ鶴田!」
 などと唄っていた少年時代を思い出す…。
 ちなみに生まれて初めて買ったプロレスラーのテーマ曲は
 マスカラスの『スカイハイ/ジグゾー』だった)


 第9試合 「PWF認定ヘビー級・インタータッグ王者」
           ジャイアント馬場  
              VS
           「インドの猛虎」
         タイガー・ジェット・シン

(当時、中学2年だった私は後楽園ホールのトイレで
 馬場さんにタバコを注意されたことがある。
 その時のセリフは「子供がタバコ吸っちゃダメだよ」だった)

このパンフレットには現役選手として「猛牛ファイター」ミスター林の名があったことを付け加えておこう。(どういうオチだ?)

   …ジャンボ鶴田のテーマ曲『J』を聞きながら。


原典:http://www.owarai.to/ben/31.html
written by ベン村さ来

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