ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

チャンの小説コミュのレジスタンス

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
・ 新井 さくら(24)……主人公。フリーター



・ 野田 優衣(24)……主人公の勤める仕事先の社員



・ 井口 仁  (26)……主人公の勤め先の社員。真紀の彼氏



コメント(26)

レジを開けて閉める。その単純作業動作。でもその閉め方が乱雑で、それが気に入らなくて、サクラは激怒した。


「どうして、そんなに乱暴に閉めるの」
 


すみません。と半ば怯えている表情でスタッフの黒川さんがサクラに謝る。
 

でも、これがサクラだから。それがサクラのスタンスだから。



「あと、ちょっとレジ開けてみん」
 


はい。と心もとない声で、黒川さんはタッチパネルを操作してレジを開ける。
そしてサクラはその開けた中を指差す。



「ほら、何その一万円札の仕舞い方。諭吉の顔の向きがバラバラじゃない」
 

はい。とまた心もとない声で、返事をする黒川さん。どうせ、心の中ではバイトの癖にうるさい奴だなとかサクラのことを思っているのだろう。わかっている。わかっているけど、わかっていながら、こういう態度を取られるとどうも腹が立って口調もキツくなる。




「そういう細かいところに性格が出るとサクラは思うんだよね。それさ、仕事としての前に人間として直した方がいいと思うよ」
 


今にも泣き出しそうだった。黒川さんは俯き加減に必死で涙を堪えている。
 



言い過ぎだ。サクラもそれはわかっている。でも、それがサクラのスタンス。変えるつもりはない。




「どうしたの? え?」
 


そこにのん気な店長、鈴野大悟がやってくる。



「どうしたの。黒川さん」



「どうしたもこうしたもないですよ。黒川さんのレジの使い方が乱雑すぎて……」




 黒川さんに鈴野は訊いていたが、彼女が答える前にサクラが事情を説明してやろうとした。どうせあんな状態じゃちゃんとしゃべれないだろうし。



「そっか。じゃあ、黒川さん、今度から気をつけような」
 



と、鈴野はサクラの説明を最後まで聞かずに黒川さんの肩をポンと一回軽く叩いて、この問題と言って大下ださだけど、サクラと黒川さんの一件を終わらそうとする。黒川さんも黒川さんで、かも早く終わりたいと訴えているように誰から見てもわかりやすいように大きく頷く。
「いやいやいや。何それ。ここは幼稚園じゃないんですよ。わかっていらっしゃいますよね。店長さん。ここは仕事場なの。遊びじゃないの。働いているの。それが何? 今度から気をつけような。だよ」
 


ここで引き下がるわけには行かない。これじゃあ、注意したサクラがうるさいスタッフみたいじゃん。サクラは間違っていない。ちゃんと仕事をしてそれができないスタッフに指導しているだけ。




「ちょっと、大きいかな。新井さん。声が」



確かに、サクラなりの仕事スタンスというところはある。でも間違ったことは言っていないし、していない。そこだけは譲れない。
 


サクラはまた腹が立ってきて口調がキツくなる。



「店長が、若いスタッフの肩を持っていい格好見せたいのもわかる。そりゃあ、黒川さんはまだ二十歳になっていなくて可愛いし、それはわかる。でも、今は自分のプレイベートの私欲を出していい場面じゃないんですよ」



「え? 何だよ。その言い方」
 



また言い過ぎた。鈴野のト音が少し下がったのと下唇を軽く歯でかんだしぐさで、彼が少しムッとしているのがわかる。鈴野とはこの映画館の売店で働き出して、二年来の付き合いだ。わかりたくなくてもわかってしまう。



わかっている。それは十分わかっている。でもサクラは自分のスタンスを変えるつもりはない。今言った発言に謝罪するつもりもない。




「店長」
 



と、気まずい雰囲気の三人に水を差すように横から声がする。野田優衣だった。売店の上にある事務所にいた彼女がいつの間にかレジに姿を現していた。サクラは話に夢中ですっかりその降りてきた気配すら感じれなかった。




「あの、あちらはお客様でしょうか」
 


優衣は、手のひらでレジの向こうに立つ一人の中年男性をさす。



「あ」
 


サクラと鈴野は声を合わさった。そして次の言葉も合わさる。




「どうも申し訳ございません。いらっしゃいませ」
 


サクラと鈴野と黒川は少し慌てふためく。すると、優衣がレジの前に立ってお客に聴こえないような小声でサクラたちに囁く。



「私が対応するんでどうぞお話を続けてください」
 


サクラと鈴野はそんな優衣に軽く会釈をする。



「わかったよ。後でそのことはよく聞くから。そう。黒川さん休憩入って」
 


あ、はい。と言って黒川さんはサクラの横をすり抜けサクラの後ろにあるスタッフルームと書かれたドアを開けその中に消えていった。



「サクラももうそのことはいいです」
 


話に夢中でお客の存在に気づけないという失態をしたことが効いてすっかりサクラのボルテージも下がってしまった。



「話は終わったんですか」
 

接客を終えた優衣が、サクラたちの方を振り返り訊く。



「ああ、うん」
 


鈴野は中途半端にそう答え、サクラは何にも答えられなかった。
 


次の上映まであと三十分ある。お客も途切れて売店が静けさに包まれる。三人の間にも会話はない。



「じゃあ、あとは頼むな」
 


と鈴野はそう言って、この場から逃げるようにレジから姿を消していった。
 


サクラと優衣は二人残される。
 


優衣は何事もなかったかのように、レジの中のお金を数え始める。
 


そうだ。この女だ。この女が来てから、サクラのスタンスを出す度にこの売店スタッフに嫌なムードに包まり始めたのは。
 


サクラはお札数えに夢中な彼女を、嫌悪の気持ちを込めて、思いっきり睨みつけてやった。
野田優衣はサクラと同い年の24歳で、サクラがバイトで働いている映画館の社員だ。
 



彼女は、二ヶ月くらい前に他の店舗からサクラの働く店舗に転勤してきた。顔はぶっちゃけ、サクラの方が勝っていると思う。



仕事の出来具合もバイトの分際ながら社員の彼女よりもサクラの方ができる気がする。



だって、あの出来損ないの店長の鈴野は、何かと仕事でトラブったり、悩み事があると優衣ではなく、サクラに相談を持ちかけてくるのだから。でも、仕事ができないわけじゃない。性格は。性格はというと……。




「じゃあ、サクラは何にしようかな。前はハンバーグセットだったから……」
 


ファミレスの女性店員が、サクラに笑みを浮かべて立ってサクラが注文を決めるのを待っている。たぶん心の中では、おい、呼んだなら早く決めろよ。こっちは七時の夕飯時で忙しいんだからよ。おい、またベルが鳴ったよ。ほら、早くしろよ。と思っているのはわかっている。
 



でも、わかってはいるけれどサクラはそんなことは構いはしない。



「えっと、このエビフライ定食」



「エビフライ定一つでございますね」



「あ、ちょっと待って」



「え……」
 


と、サクラが注文したかとフェイントをかけると、え、と店員の方もとうとう本音を声で出し始める。それでも、サクラはサクラでスタンスを崩さずにまだメニューと睨めっこして迷い続ける。
 


一方、向かい側に座る優衣はさっきから五分くらい携帯を弄ってメニューを見ようとしない。ちなみに彼女はまだ注文をしていない。でも、彼女の注文するものはもう決まっている。




「じゃあ、エビフライ定食でいいかな。エビフライ定食で」



「はい、エビフライ定食で。かしこまりました」
 


結局、そっちかよ。と言いたかったのだろうけれど、そこはあっちもお金をもらうプロとして偽りの笑顔で、はい。と甲高い声で応対してくる。



「私も同じので」
 


そして、間を空けずに優衣が携帯を弄りながら店員にそう継げる。



「はい。では、エビフライ定食二つで。かしこまりました」
 


そう。優衣はいつもそうだ。優衣とこうしてファミレスで食事をするといつも彼女はサクラと同じメニューを頼む。



「ねえ、どうして同じメニューを頼むの?」
 



店員が去った後、メニューを閉じながらサクラはわざと声のト音を落として怪訝そうな態度を装って優衣に訊く。
「別に、意味はないけど」
 


優衣は相変わらず携帯から目を離さず、淡々とそれに答える。



「意味がないって……自分が嫌いなもの。好きなものってないの?」
 


彼女は少し間を置いて。



「うん。基本的に何でも食べれるから」



「いや。いや。いや。そういう問題じゃないでしょ」 
 


最初、彼女と食事に行ったときにこれをされた時、サクラへの嫌がらせかと思った。



でも、嫌がらせをするんだったらサクラに夕食代を奢らせるとか、ドリンクバーで変なジュースを作ってサクラに飲ませるとか、子供じみた嫌がらせしか思いつかないけど、そういうことをすればいいわけで、サクラが頼んだのと同じ料理も彼女は残さず全部食べてお金もちゃんと割り勘で払っていく。



どうやら、嫌がらせではなさそうだと思ったと同時に、ホント変な人間だと思った。それはサクラに言われたくはないだろうけれども。



「それはいいや。でさ、昨日の黒川さんと鈴野のあれどう思う?」



「あれって?」
 


優衣はやっと携帯を閉じて、サクラと目を合わせて話を返した。



「あれはあれだよ。昨日、黒川さんにサクラが怒ったでしょ。聞いていたでしょ」




「ああ、もめていたね。そのせいでお客さんに気づかなかったんだよね」
 



痛いところを突く。でも、彼女の淡々とした喋りと無表情な顔からしてそのお客の対応に対して何か言いたげな様子ではなさそうだった。サクラは話を続ける。




「あれ、サクラが悪いわけじゃないよね。サクラはちゃんとレジをして欲しいからああいうふうに言ったんだよね。ちょっとキツく言い過ぎたところもあったかもしれないけどさ」
 


彼女はまた少し間を置いて。




「うん。サクラは間違っていないと思うよ」




「だよね。サクラは間違っていないよね。なのに何よ。あの鈴野の奴。サクラを口うるさいスタッフみたいに扱ってさ」



「そんなふうにしていたっけ?」




「え? してたじゃん。なんかさ、今度から気をつけようななんて肩なんて叩いちゃってさ。怒りもしないの」



「うん」



「うん。うんじゃないよ。もうちょっと店長としてさ、しっかり叱ってほしいってサクラは思うの」



「うん」



「だから、うんじゃなくてさ」
「いいんじゃない。鈴野さんには鈴野さんのやり方があるんだよ。別に、サクラが悪者扱いしようとしてそういうふうにしたわけじゃないと思うよ」



「鈴野のやり方?」




「うん」



「……」




まただ。とサクラは思った。



優衣に愚痴を零したり意見を訊くような話をすると、いつも彼女はどっちつかずというか、お茶を濁すというか、半端な答え方をしてくる。



これも最初はサクラへの嫌がらせだと思った。でも、これが彼女のスタンスのようだった。スタンスといえば、さっきの食事の昼食選びもそういうことになるか。
 



そしてそんな彼女に、サクラは腹が立った。腹が立ったけれども、どうしてだかこうして彼女にいろんなことを話したくなる。こうして彼女と話してみたくなる。
 



どうしてだろう。たぶん、サクラとはどことなく全く違う雰囲気を持つ人間だから興味がある。そんな感じなのだろうか。腹立つのに放っておけない。むしろ、彼女に近づいて彼女について知りたくなる。
 



そう。サクラがそう思うからこうして彼女と時々時間が合うときは食事を一緒にしている。いつもサクラから彼女を食事に誘う。そう、サクラのペース。なのに。
 



なのに、彼女と一緒にいると何故か彼女のペースに巻き込まれている気がしてならない。



サクラは基本的に、人に流されない。悪く言えば我が強いタイプの人間だと思う。なのに、そんなサクラはどうしてだか彼女と一緒にいると彼女のペースにいつの間にか流されている。
 


現に、今の会話だって、口喧嘩ではあまり負けたことのないサクラなんだけど、彼女と話すと一言二言で言葉を失うというか、負かされてしまう。




それはサクラにとってやっぱり腹立たしいけれども、どうしてだか、この野田優衣という人間が気になって仕方ないという気持ちが増して襲ってくる。



「ねえ、そういえば、オーディション。どうだった?」
 



話が途切れていつの間にか沈黙が続いていた二人に、優衣が話を切り出す。サクラは少し不意を突かれる。



「え?」



「だから、アイドルのオーディション」



「あ、ああ」
 


サクラは一応、アイドルを目指している。それは高校生のころから現在に至るまで。様々なアイドルオーディションを見つけては受けまくっていた。



「落ちたよ」
 



サクラは乱暴にそう返す。でも、その高校の時から受け続けているオーディションに最終審査はおろか、一次審査も受からないというのが現実で、今年で24歳になるサクラは、映画館のバイトで古株のアルバイトスタッフになりながらその夢を諦めずに追いかけているというのが現状だ。就職も結婚の予定も彼氏も好きな人もいない。




「そう。残念だったね」




その後、また沈黙。



彼女はそれ以上深くそのことに首を突っ込んで訊こうとはしなかった。うん。それでいい。自分の失敗談など話すのは嫌だし辛いし、できれば避けたいからでも、こうまであっさり「そう」だけで終わらされると、被害妄想かもしれないけれどもまるで訊いた答えがわかっていてあえて訊いている気がいて、ちょっと腹が立つ。




「何? 何か言いたいの? そうですよ。サクラは叶いもしないような大きな夢を抱いて、いまだにフリーターでフラフラしてますよ。そりゃあ、同い年で同じ職場で同い年で社員になっている人もいますよ。悪い? 生き方なんてひとそれぞれでしょ」
 


サクラは、これでもかというくらいツンツンと話してみた。かなり被害妄想を飛躍しても言ってみた。




「別に。いいんじゃない」



「え?」
 


それからまたまた会話の間が空く。



「それだけ?」



「うん。だって悪いって思っていないんでしょ。いいと思っているんでしょ」



「うん……」



「だから。他に言うことなんてないじゃない」



「……」
彼女がサクラの前に現われてから、何かが少しズレて来たというか変ってきた気がする。



それは、サクラと同い年の子がサクラの一応上司として入ってきたという焦りから始まり、彼女のこの妙な性格にサクラも流されていると言ったけれど周りも流されている気がして、今まで何もなくすんなりことが進んでいたものがすんなり行かなくなったり、その逆もあったりして、とにかくちょっとずつだけど狂わされている気がする。




「じゃあさ、その社会人の先輩としてさサクラを……」




「お待たせいたしました」



と、そこにタイミングがいいのか悪いのか、さっき注文したエビフライ定食が店員によって運ばれてくる。




テーブルに皿が置かれていく。全て並べ終わると、店員はごゆっくりと言って、レシートをレシート入れの筒にしっかりと入れて去っていった。




サクラの前に、比率的にはキャベツの千切りが半分以上で、その三分の一のエビフライのフライが二本置いてある皿が置かれている。



そしてその両サイドにはご飯と味噌汁の入ったお椀が一つずつある。サクラと予想していたのと少しというかかなり違う。




「ん? 店員が来たから途中で話しが終わっちゃったね。何? 社会人がなんとか、かんとかって」



「いや、それはもうどうでもいい。それよりも、このエビフライ小さくない?」
 



サクラは店員に聴こえるようにわざと大きな声で叫ぶように言う。近くにいた店員が一瞬サクラを見た気がした。
 


だけどやっぱり優衣は動揺しない。



「うん。まあ、食べようよ。いただきます」
 



優衣はメニュボードの隣にあった箸ケースから自分の分とサクラの分の箸を取ってサクラにそれを渡して、そのまま自分はサクラの気に入らないエビフライを一口口にする。口をモゴモゴとさせながら、彼女は今度は味噌汁に手を伸ばしそれをすする。
 



暫くサクラは彼女の食べっぷりをジッと見ていた。何の変哲もない食べっぷりだった。




おいしそうにも不味そうにも食べない優衣。それを見るのに飽きるのは早かった。
 



サクラは首を小さく右に傾げて、持っていた箸でご飯を一つまみ掴んでそれを口に運んだ。

アイドル。
 


サクラがアイドルになろうと思ったのは、いつ頃のことだろうか。



確か、中学の頃だったと思う。その頃付き合っていた彼氏が好きな子がきでたと言って、突然別れたいと言い出して、サクラは今みたいに反論できずに言われるがまま別れてしまった。その彼のことがかなり好きだったサクラは、彼と別れた瞬間、この世の終わりみたいに落ち込んで自殺まで考えたほどだった。




でも、彼の私を差し置いて好きになった女というのが、まあ、一言で言えば可愛くなくて、サクラは自信過剰な方ではないけれど、サクラの方が何倍も可愛いと思って、それでその女がその時テレビに出ていたアイドルにすごく似ていて、それが無性に悔しくて、そんな彼を見返すためにアイドルを目指す今になっている。
 




だから、アイドルにどうしてもなりたいからとアイドルを目指しているような、純粋ではないんだ。傍から見れば不順な動機? でも、サクラにとってはちゃんとした正当な動機だと思っている。
 



現に、その時付き合ったか例外に今まで付き合った人はいるけれど本気で付き合った人はいない。別に、今昔のその中学の頃の彼が好きというわけじゃない。



たぶん、彼が今サクラの前に現われて「付き合ってくれ」と懇願しても、彼とは付き合わない。



たぶん、自分のため。アイドルになって昔の振られた自分と今の自分が違うことを証明したい。誰にもどの女に負けない女になるのは無理としても、普通の女のとは少し違う女だという証が欲しい。そういう思いで今アイドルになりたがっているのだと思う。
 



そう。普通じゃない。サクラは普通じゃ幸せにはなれない。
 



サクラが家に帰ると、玄関に新井拓海の革靴が置いてあった。拓海というのはサクラの二歳上の兄である。兄はもう実家を出て某食品会社の勤めて一人暮らしをしている。結婚はしていない。彼女はいるかわからない。そしてサクラはこの兄ととても仲が悪い。
 




サクラが家に入ると、兄はリビングのソファーでテレビを見つめながらふんずり返っていた。




「おう」
 



兄はサクラのことを見つけるなり、機嫌が良さそうに馴れ馴れしく手を上げて挨拶をする。




「どうしたの」
 



サクラはため息混じりに乱暴に言葉を返す。




「どうしたのって何だよ」
 



彼もサクラの言い方が少し気に入らなかったらしく、声が低くなり手に持っていたチャンネルを前のテーブルに放り投げる。



「どうして帰って来たの?」




「何だよ。帰ってきちゃいけないのかよ」
 



まずい、このままだとあと十秒後には喧嘩が始まる。まだサクラが帰ってきて兄と話して五分も経っていないのに、もう何か二人の間には不穏な空気が流れているのがわかる。




「別に。特に意味はないよ」
 



サクラはこの歳になってまでも喧嘩をしたくなかったので、サクラのほうからそれを回避した。それにしても、この歳になってもサクラと奴は兄妹じゃないみたいに馬が合わなすぎる。どうして、この男の下にサクラは生まれて来たのだろう。




「で、アイドルさんの方はどうなんだ。なれそうなのか?」
 



兄がさも、サクラを馬鹿にしているように目を細めてほくそ微笑む。




「何よ。それ。馬鹿にしているの?」
 



仮にもサクラが一生懸命頑張っていることをこんな態度で言われて、すぐにでも殴りたかりたい気持ちを抑えてこの一言でだけで済ませるので一杯一杯だった。




「何だよ。その態度。ただ訊いているだけだろう?」
 



また喧嘩が勃発しそうな雰囲気になる。でもサクラはここでもサクラが一歩引く。




「別に。同じだよ」



「同じって?」



「落ちているってこと」
 



サクラがそう言うと、兄が鼻で笑って、テレビのチャンネルを手に取ってテレビを消す。




「馬鹿だなあ。相変わらず」
 どうしてだろう。どうしてこの男はサクラが腹が立つような言い方、態度しかできないのだろう。




昔からそうだ。というより、サクラが物心ついたときからそうだ。それでサクラは奴が気に入らなくて喧嘩になる。



喧嘩になってサクラが負ける。殴り合いの喧嘩は勿論、口喧嘩も奴の方がサクラより上手で、兄は妹だからとか女だからと言って喧嘩の時に手加減をするような人間じゃなかった。





「サクラだって頑張っているんだから、そんなこと言わないでよ」
 



サクラはそういうふうにいじけるというか、兄の情に訴える言葉しか言えなかった。でも、そんな言葉も彼には通用しない。




「全く。何やっているんだかお前は。女はいいよ。気楽で。働かなくても何にも言われないし、結婚だって好きな時に好きなようにすればいいしさ」
 



たぶん、サクラが「負ける」とか「間違っている」とかというフレーズに敏感に反応し始めたのはこの男のせいだと思う。彼がサクラのことを全て否定して全て馬鹿にしてきたから。




「そんなことない。サクラだってサクラなりに考えている」



「何を?」




「え? だって、ダンススクールに通っているし、他にも毎日腹筋、腕立てやっている。アイドルのオーディションだって見つけたら応募している」



「で、結果は?」
 



兄はサクラが必死で考えて言っている言葉を簡単にあしらう。




「結果……それはまだだけど……」
 



兄はそれを訊いてまた鼻で笑う。




「あのな、結果が全てなんだよ。結果が出ないものをいつまでも追いかけるのは馬鹿だってどうして気づかないかな」
 



何よその言い方。サクラはもう、怒りを抑えるのが限界に来ていた。




「お前みたいなさ、ブサイクで性格も悪くて、何の取り得もない人間がアイドルなんかなれるわけないじゃん」
 



この男にサクラの何がわかるっていうんだ。サクラのことを何も知らないくせに。そんなやつにここまで言われる筋合いはない。



気が付いた時には兄の前に置いてあった兄が飲んいるのであろう、半分くらいビールが残っているコップを手に取り兄に向かって思い切り投げつけた。
 



そのコップは兄の額あたりに当たり、兄の髪の毛と顔にそのビールの残りが飛び散り、当たった瞬間に彼はイタと額を押さえた。グラスは割れずに兄の座っていたソファーに落ちていた。




「ふざけんな!」
 



サクラは叫んで、リビングを駆け足で去っていく。
 




サクラはサクラ。サクラのスタンスがあって生き方があるの。それに正解も不正解もないんだ。
 



階段を駆け上がって自分のへ部屋に向かう途中、兄の怒鳴り声が聴こえる。
 



誰が否定しようと、サクラは負けない。大人気ないのかもしれない。馬鹿なのかもしれない。それが原因でこれから一生結婚も好きな人もできないかもしれないも。でも、それがサクラだ。サクラはサクラだ。
 



階段を登り終え、二階の廊下を駆けて廊下奥の自分の部屋に入り、サクラは急いでドアを閉めて鍵をかける。
 
レジを閉め、時間を見上げる。夜の二十二時。
 



二十二時十分から上映の映画のお客ももう来ないだろうし、この売店は二十三時三十分で閉店である。もうそろそろクローズの準備をしても良いころだろうとサクラは思い、サクラの立っているレジの真後ろにあるポップコーン機の電源を切って機械の中の掃除を始める。
 



中に残っていたポップコーンを捨てるために、それをポリ袋に入れながらサクラは妙なことに気づく。




「お疲れ様」
 



そこへ優衣がサクラの前に現われる。サクラはさっそくたった今気がついたことを優衣に訊いてみる。




「あのさ、サクラ今気が付いたんだけど、他のスタッフはどうしたの? さっきまで二人ぐらいいたけれど」




「ああ、帰ったよ」
 


優衣はレジを開けてお札を数えながら淡々と答える。



「え? 帰った?」
 


サクラはしばらく声を失った。そして沸々と怒りが込み上げてくる。




「どういう意味よ。どうするのラストは。サクラと優衣とあと店長だけ? ありえないでしょ」
 



普段、ここのラストというのは、最低でも三人は必要だ。それもサクラのようなアルバイトスタッフがだ。社員はラストの際は二階の事務所に行って他の仕事をしていて売店のラストはバイトスタッフが行うのだ。



それが今日は、サクラ一人と社員二人。ふざけるのもいい加減にして欲しいほど、呆れた状況だ。絶対に定時に帰れない。というより、この人数でやって何時に終われるか検討もつかない。
 



ちなみに、ここの売店のアルバイトスタッフのシフトを考えているのは優衣だ。だから、シフトで何か不具合があったら全て彼女の責任だ。




「あ、店長は……」
 



優衣が何か話そうとすると、店長鈴野がサクラたちのレジに現われる。その姿はスタッフの制服ではなく、あたかももう帰りますみたいな、スーツ姿の右手には鞄を持った姿で。




「じゃあ、お先に。あとは頼んだね」
 



そう言って、鈴野はサクラたちにバックを持っていない片手を挙げる。




「え?」
 



サクラはまた不意を突かれる。状況が上手く飲み込めない。




「え?」
 


そのサクラの態度に、鈴野も不意を突かれたように、はとが豆鉄砲を食らったような顔になる。



「店長も今日は、ラストまでいないから」
 


その二人の間に割って入るように、優衣がいつものように淡々と話す。



「は?」
 


サクラはとっくに怒りを通り越して、混乱していた。



「何それ……」



「いやあね、今日はちょっと外せない用事があるんだよ。だから、優衣ちゃんに頼んで早く帰らせてもらったんだ」
三人の会話が途切れる。サクラは立ち尽くした。何なのこの状況。



「じゃあ、お先に」
 


そして鈴野は、何の悪気もなくスタッフ専用ドアを開けてレジを去っていった。
 



サクラはしばらく何もできなかった。これからどうすればいいのか。不可能だ絶対に二人でラストなんて不可能だ。
 



そんなサクラなどお構いなしみたいに、優衣は何事もなかったかのよういまたレジのお札を数え始める。




「ねえ、どうするのよ」




「どうするって?」




「いやいやいや。だから、これから。無理に決まっているじゃん。二人でラストの作業やるなんて」




「……やるしかないじゃない」
 



淡々と事の結論みたいなのを言い放つ。それはそうだけど、こうなっては仕方ないけど、その結論に至るまで少し事情っていうか、そのサクラの怒りが治まるような説明、いや言い訳でもいいから言ってよ。




「その一言で済めると思っているの?」



「じゃあ、どうして欲しいの? 謝ってほしいの? ごめん」
 



この女、サクラに喧嘩を売っているのか。サクラだって大人だ。別に事情があるな方ないけど我慢してこの状況でもやるよ。



でも、こんな言い方をされたらホント我慢しないとけいないものも我慢できなくなるし、むしろ、仕事じゃなかったらこの女を今すぐ殴っている。確実に。




「何? その言い方? わかった。サクラ、ラスト終わんなくてもシフト通り帰るからね。あとは優衣一人でやってよね」



「うん。わかった」
 



うん。わかった? 確かに今、この女はそう言った。あまりにも大変なことをしてしまって気でも狂ったのか。開き直ったのか。サクラがもし優衣の立場なら確実にそれしかない。




「わかったって……絶対にサクラのシフト通りに帰るとだと、仕事ホントに終わらないよ」
 



たぶん、サクラがいても夜中の三時にまでかかるかもしれない。ちなみに、サクラの勤務終了時間は十一時だ。もしサクラがシフト通り定時に帰ったら、ホントに何時に終わるかわからない。もしかしたら、朝のオープンまでクローズの作業をしているなんていう珍事になるかもしれない。




「そうだね」



「そうだねって……どうするの」



「……やるしかないじゃない」
 



え? レジのお札を数え終えて、それをレジ下に置いてあった小バックに丁寧に入れている優衣。一体彼女は何を考えているのだろう。もうサクラには全くわからなかった。



「明日、優衣、事務の仕事もあるんでしょ? シフトでしょ?」



「うん」



「え? うん。じゃないよ。どうするのよ」



「やるしかないじゃない」




「だから、やるしかない。やるしかないって、そればっかり。答えになっていないから!」
「サクラ。ちょっとまだクローズしていないんだから、もう少し声を落として」
 



優衣は真顔でサクラをチラリと見て、淡々と注意する。サクラは素直に反省して声のト音を下げる。




「……ごめん。やるしかない。いや、それはそうだよ。結論そこに行くよ。だけどね、それまでの経緯それはこの場合かなり大切だと思う。だって、こんな状態になるの異常だよ。こんな状態になったのサクラがここのバイト始めて初めてだよ。もう、何時までかかるのかわからないよ」
 



サクラは泣きたくなった。サクラだって、明日は週一で通っているダンススクールのレッスンが午前中からある。それなのに、遅くまで仕事していたら、電車でここまでかよっているから、朝始発で帰るしかない。



だとすると、殆どっていうか眠らない状態でそこに行かないといけない。なのに、やるししかないじゃない。だけ? ふざけないでよ。




「だから、サクラはシフト通り、定時で帰っていいって」




「いや。いや。無理だって。帰れないよ。それはあまりにも……」




「ありがとう」
 



サクラは一つため息を吐く。ありがとう。じゃないよ。もう。もう怒りなんて遠の昔になくなっていた。それにしても、これまでサクラが憤怒して、泣きべそをかいても顔色を変えずに作業を淡々とやるしかないじゃない結論しか言わないところ。投げやりに謝ってほしいのごめん。と言うところ。もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。いじめとか。




ここは訊いてはいけないのだろうか。いや、でも彼女のミスかどうかわからないけど、事情で定時を大幅に超えて仕事をしないといけないんだから訊く権利はある。




「で、どうしてこうなっちゃったの?」
 



サクラが単刀直入にそう訊くと彼女はお札を仕舞う手を止め、しばらく考えている様子だった。やはり、特別な事情があったのだろうか。




「えっと、アルバイトの子達は、みんなに訊いてみたんだけど、この日はみんなテスト前だから休みたいとか、彼女と遊びたいとかでみんな都合がつかなかったの」





「は? 何それ? それでいいって言っちゃったの?」




「うん」
 



何だ。この女は。サクラはいったん治まった怒りがまた込み上げてきて、二度目は怒りでお腹が痛くなってきた。




「うん、じゃないでしょ。あなたは誰ですか?」




「野田優衣」



「違うよ。そうじゃなくて、あなたは社員でしょ。ここの社員」



「うん」




「それで、シフトを作っているのはあなたですよね」




「うん」




「で、どうして、こんな……彼女と遊びたいなんてもう……ありえないし」
 




わかった。優衣は馬鹿なのかもしれない。馬鹿と言っても、普通の馬鹿じゃなくて、サクラが今までに会ったことのないくらいのありえないくらいの馬鹿。



特別な事情があると思って訊いたのに、サクラもいくつもバイトしてきたけど、こんなアルバイトの事情を全て真に受けて受け入れて作る馬鹿な社員なんて今までにいない。
「で、今どうなっている? サクラと優衣だけでラスト。大変。わかる?」



「うん」




「迷惑かけているでしょ。サクラに」
 



全く呆れた。よくこんなんでここの社員になれたな。この女が社員になれるこの会社。たぶん、近いうちに潰れるな。




「だから、サクラは定時に帰っていいよ」




「まだ言うか。いいよ。もういいよ。今度は気をつけてね」




「うん」
 



サクラはもう、それしか言えない。




「で、店長は? 今日確かラストまでだったよね」




「うん。店長も、今日ね、サッカーの日本代表の試合があるんだって。で、店長、サッカー大好きじゃない? 今日だけはホントにテレビを観ないといけないんだってさ。だから、早く帰らせてくれって」




「はぁ?」
 



サクラは気持ち悪くなってきた。お腹を片手で抑えて前のめりになる。そしてため息。




「大丈夫? お腹痛いの?」




「いや。大丈夫。何だよ。それ。一番ありえないパターンだよ。あの、もしかして鈴野に反抗っていうか、不満を言うことってできないの? これは明らかに鈴野が変だよ。今日、こんな状態になっているのに、そんなこと言って帰るなんて、社員としてどうかしているよ」




「うん」



「うん。じゃなくてさ」
 



そうか。もしかしたら優衣は究極の馬鹿ではなくて、ホントは内気な性格なのかもしれない。確かに、口数もあまり多くないし、自己主張? っていうか自分のことも殆ど話さないし、内気な性格であまり人と接るのが得意じゃないのかもしれない。



そんな人間が接客しているのはどうかというのは別にして、そうだから、アルバイトスタッフにも店長にも言えない。
 



確かに、内気な性格だったらまで転勤してきて二ヶ月。アルバイトスタッフともまだ話せていないだろうし、店長とも売店の社員は二人。あとはアルバイトスタッフ。



しかも男と女。まだ上手くコミュニケーションが上手くいっていないのかもしれない。そうか。そういうことなのか。



「わかった。サクラが言ってあげるよ。みんなに」




「え?」




「あれでしょ? 優衣はまだみんなと上手く話せていないんでしょ? サクラ、どうせみんなにうるさい奴だって嫌われているし、これからも仲良くなる気もないからさ。いいよ。店長にもアルバイトの子達にも言ってあげる」



「うん。でも大丈夫だと思う」
 



大丈夫だと思う? それは強がっているのか? それとも、サクラは信用できないということか。まあ、でも人が大丈夫だというなら深入りをしないのがサクラだ。余計で面倒な情けはかけない。
 



そう。と言って、サクラはポップコーンで一杯になったポリ袋を持ってレジを出て行く。
 



サクラはレジを離れて、非常用階段を降りて一階のゴミ置き場に向かう。
 



野田優衣。何なんだろう。彼女のことが読めない。彼女は一体何なのだろ。このサクラがここまで人に振り回されている感覚に襲われたことが今までにあるだろうか。今度、彼女がこんなラストの状態にしたら、サクラはまた同情で残ってあげるのだろうか。
 



というより、こんな彼女にプライベートでも会って彼女のことをもっと知ろうとしているサクラは一体何なのだろうか。


フッと。サクラは鼻で笑う。変。二人とも変ということだ。何が変だかわからないけれど、変だということでいい。
 



それ以上優衣のことを考えることをサクラはやめた。それよりも今は、今日のラストをどう乗り切るか考えなければ。
野田優衣が、内気で人と接するのが苦手であることがサクラの勘違いだったと確信したのは、彼女の誕生日会でのことだった。
 



そう。サクラは優衣の誕生日会に招待された。場所は新宿のとある飲み屋。だいたい、十人くらいの彼女の友達が来て、彼女の誕生日を祝うというか飲み会を開催した。サクラはその中の一人として、一人で何も話さずにウィスキーのロックをチビチビと席の奥で飲んでいた。
 



サクラは大人気だった。それは祝われる当人ということもあるかもしれないけれど、入れ替わり立ち代りみんな彼女は人と会話をしている感じで、何より優衣と会話している人たちは楽しそうだった。
 




それにしても、どうして誕生日なんて祝う気になるのだろう。何を祝うんだろう。全然嬉しくないとサクラは思ってならない。




だって、誕生したって自分の意思でできない、唯一のことだと思う。産まれたいと言った覚えはサクラはない。サクラは今までサクラの思い通りサクラのスタンスでやってきた。それがサクラの生き方。




でも、この誕生ということばかりは自分では決められていない。それがサクラは気に入らない。だからサクラはこんな日を祝うなんてナンセンスだと思ってならないんだ。




そんなことを言っているからサクラには友達が少ないことなんてサクラにだってわかっているけどさ。




「遅くなりました」
 



と、そこに声が高くも低くもない優しい声がサクラに聴こえてくる。
その声にサクラが顔を上げるとグレーのスーツ姿の身長が180cmくらいの細長い男が頭を何度か下げてサクラたちの飲み会の席に入ってくる。




どうもどうもと言いながら、男はサクラのところに近づいてきて、ここいいですか? とサクラに訊いて、サクラが答える前に腰を降ろしてとりあえずビールでとビールを頼んで近くにあった枝豆を一口口に含んだ。




彼が来ても、気づいた人間が会釈するくらいであまり反応がなかったところを見て、ここにいる小学校の頃の同級生とかそういう「枠組み」の人間ではないらしいということがわかった。言わば、サクラと同じか。




男が頼んですぐに店員がビールを持ってきた。そして男はビールジョッキを一気に飲み干す。



「こんばんは」
 



そして男は何を思ったか、サクラに向かって挨拶をしてくる。サクラは思わず、こんばんはと軽く会釈する。
「優衣とはどういう関係で?」



「えっと、優衣が働いている映画館のアルバイト店員で、それで……」
 



仲良くさせてもらっていますと、言うとしたが、別に特別仲を良くしているわけではないので、それは言うのは止めた。



「へぇ。で、映画とか好きだったりするんですか?」



「いや、そういうわけでは……」



「じゃあ、どうして映画館に働いているんですか」



「あ、あの、求人雑誌で目についたから……」




「あ、それだったら優衣と同じようなものだ。優衣も俺に誘われてバイトで入って、そのまま社員になったんだから。映画なんて全く興味がないんだからさ」
 



へぇ、そうだったんだ。サクラはそんなことは始めて知った。優衣はホントに自分のことを話さない。まあ、訊けば話すのだろうけれども。



「歳はいくつですか?」
 



サクラは人見知りじゃないつもりだけど、女性に歳をいきなり訊くなんて随分初対面の人間に馴れ馴れしい人間だとちょっと引く。




「えっと、24です」




「あ、じゃあ、優衣と同じか。あ、俺の名前言うの忘れていた。井口仁。さいたま店で働いています。歳はちなみに26」



「え? ウチの映画館のですか?」



「うん。ちなみに社員だけどね」



「そうだったんですか」
 


そっか。そういう好か。前の店で仲良くしていた社員でいまだに優衣と交流があるからこの誕生日会に呼ばれた。



「タバコ吸っていい?」



「あ、はい」
 



井口はポケットからタバコを取り出して、それを咥えて火をつける。煙が彼の顔を覆う。その横顔を横からサクラは観ている。サクラには珍しく少し胸がキュンとした。彼はサクラが思うに、美男子、イケメンだ。性格はともかくとして。




「で、何処に住んでいるの?」
 



それにしても馴れ馴れしい。いくら同じ会社の社員だからって、初対面というのは変らないんだから会話をするならもう少し会話の内容を考えて欲しい。



「えっと、中野……です」



「え? 中野? 中野の何丁目?」



「えっと、中野四丁目」



「四丁目の?」



「え? 四丁目の高層マンション」



「高層マンションって、あの、小学校の前にあるあの高層マンション?」



「そうです」



「マジで?」




どうしたのだろう? 妙に深くサクラの住んでいる場所を訊いてくる。



「俺、そのマンションの三階に住もうと思っているんだ」
 



中古だけどね、と付け加えるように小声で恥ずかしそうにニコリと笑う。
 



住もうと思っている。マンションに住もうと思うということは、一人ということはありえないから誰かと住むということだろうか。




「で? その、どうなのその中野四丁目って?」



「う〜ん、どうって言われてもな……」
 



それから井口とサクラは、ほぼ二人でその飲み会の間話していた。そしてサクラは井口仁のことをいつの間にか本気で好きになっていった。何年ぶりだろう。サクラが好きになったのは。久しぶりの感覚だった。
 



でも、彼にはもう彼女、いや、婚約者がいた。それがあろうことか野田優衣だった。


サクラが野田優衣に食事に誘われるのはこれで二回目だ。
 



この前の飲み会とそして今日。二人で食べようと呼ばれるのは今日が初めてだった。サクラは優衣と待ち合わせをしているファミレスの前に来ると、一応念のため携帯の電源をオフにして店内に入った。万が一、彼女に井口仁と付き合っていることが知られるのを避けるために。
 



サクラは性格上そこまでモテるタイプの女ではないと思うし、恋人がいる人を自分に振り向かせられた経験など全くなかった。でも、仁の場合は違っていた。彼はサクラの思いに答えてくれた。




今サクラは、仁と付き合っている。仁はそのことを優衣に話していない。要するに浮気である。仁サクラにとっては、それは嬉しい誤算であると同時に、優衣とは気まずい関係になっているのは否めなかった。




彼女にはまだ仁と付き合っていることはバレていない。はずだ。バレないように注意して接してきたつもりだ。



優衣とは別れると言っている。ただ、そのこのまま言わずにはいわれないし、もし言った場合彼女に対して少し申し訳ないと思いが最近サクラの心を巡っている。仮にも彼女は仁と婚約までしていたのである。



それを奪ってしまったのだから。話したらもちろん今までの関係には戻れないと思うし、多少は殴られても仕方ないと覚悟はしている。




それはどうでもいいとして、いつかは彼女に言わないといけないと思うのだが、そのタイミングをサクラは失っていた。仁が言ってくれればいいのだが、彼もまだ彼女にそれを言うタイミングをうかがっている様子だった。




サクラが店内に入ると、入ってすぐの席にもう優衣が席に座っていた。今日は携帯電話を弄っていなかった。




彼女はサクラにすぐに気づき、視線をサクラに向けた。



「ごめん。ちょっと待った?」



「大丈夫。私も今来たところ」
 



優衣と向かい合わせに座ると、暫く優衣と目と目を見つめ合う。言われてみれば、仁と付き合い始めてから優衣と食事に来ていなかった。




「えっと、何頼もうかな?」
 



サクラはテーブルの左端にあったメニューを取る。




「優衣はサクラと同じでしょ?」



「うん」
 



サクラはメニューを見つめながら高鳴る鼓動を必死で抑えていた。バイトでは毎日のように会っていたけれど、やっぱりこうしてプライベートで二人で会って話すとなると違う。
果たしてサクラは彼女にいつまで仁との関係を隠し通せるだろうか。いや、むしろもう早くバレてしまってはっきりさせたほうがいい気がする。
 



ふと、サクラはメニューから目を離し顔を上げる。優衣がジッとサクラの方を見つめていた。サクラは一瞬ビックと背筋が張って少し吊りそうだった。



「何?」



「ん?」



「いや、サクラの方ずっと見つめているから何かなって」



「別に。目の行場がないからずっと見ていただけだけど」




「そう。そういえば今日は携帯弄っていないね」
 


そうサクラが訊くと、優衣はチラリとバックの方を見つめて。




「今日は誰からも来ていないから。仁からもメール全然来ていないし」
 



仁という言葉でまたサクラはビクッとさせられる。仁の奴、サクラと付き合ってから優衣とメールしていないんだ。それじゃあ、優衣に怪しまれるじゃないか。ってサクラはやっぱり優衣に仁とのバレてほしくないと願っているのだろうか。




「基本私、自分からメールしないんだ。メールが来たら返すって感じでさ」



「え? あ、そうなんだ」
 


危ない危ない。いつも通りのサクラを装んないと。今一瞬、優衣への返答が遅れてしまった。




「えっと、何にしようかな」
 



サクラはまたメニューに目を通す。
 



それにしても、優衣がサクラと仁の関係をバラしたらどういうリアクションをするのだろう。
 



殴られる覚悟があるとは言ったものの、彼女が仁との関係を知ってどういう行動に出るか検討もつかない。もしかしたら、泣きじゃくるかもしれない。



もしかしたら自殺してやるなんてことを言ったりして。何せ婚約していたんだから。そんな婚約者を振ってまだ他の女と付き合う仁はどうなのだろうと思う。さらに、そんな仁と付き合うサクラはもっとどうなのだろいうかと思う。



でも、好きになってしまったんだから仕方ない。
 



さあ、これからホントにどうしようか。それにしても、どうして今日は優衣の方からサクラを食事に誘ったのか気になる。




「ねぇ。サクラ」
 


珍しく優衣からサクラに話しかけてくる。



「ん?」



「私、別れるからね」
 



サクラは一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。



「え?」




「私、仁と別れるから。心配しないで」
 



まだサクラには彼女が何を言っているのか言わんとしているのか理解できない。




「え?」
「サクラ、私に気を遣っているでしょ?」



「……」
 



何だ? 何なんだ。サクラはまだ理解できない。




「な、何のこと言っているの?」



「ああ、ごめん。仁とサクラのこと」
 



サクラと仁のこと? まさか。というと優衣はサクラたちの関係を知っていたのか。知っていてそれで今の言葉は何だ。




「知っていたの?」




「うん。何となく」




「……」
 



サクラはどうして良いかわからなくなっていた。いきなりのことで頭が混乱してとっさに言葉が出ない。




「あの、その……」




「私は別れるよ。だから心配しないでもいいよ。仁にはちゃんと私から伝えておくからね」




「……」
 



サクラは少しずつ彼女の言っている日本語が理解できるようになってきた。でも、まだ言葉は理解できても、彼女がどういう意味合いでそれを言っているのか理解できない。




「ど、どういう意味それは」
 



彼女の表情はいつもと変らない。飄々としていて無表情のまま、いわばポーカフェイス。




彼女の顔からはその言葉で何を言いたいのか伝えたいのかうかがい知れず、サクラは直接彼女に訊いてみる。



「え? 言葉の通りだけど」
 


言葉の通り? それはまたどういう意味だろう。




「だって、婚約していたんでしょ」



「うん」
 


サクラは言葉を詰まらせる。こんな重要というか深刻な状況の上に、話している相手の心境がわからない状態で言葉を選んだ方がいいのは誰にでもわかるかれども、サクラには言葉を選べるような器用な人間じゃなかった。




「どうしてそんなことを簡単に言えるの? サクラは優衣の婚約者を奪って付き合っているんだよ」




「うん」
 



ここまで人の心が読めないのは生まれて初めてだった。人の心が読めないのはここまでサクラは恐怖に襲われるのだと初めてわかる。サクラは焦り始める。




「あ、もしかして、ひょうひょうとした態度を見せて、サクラを脅す作戦? 悪いけど、サクラは仁と別れる気はないよ。ぶっちゃけるとね、仁はね、サクラが久しぶりにこれだと思った人なの。諦められないからね」




「うん」


 うん? それは何がうん。なのだろう。サクラはますます取り乱す。




「わかった。許せないのね。わかった。それはわかっているよ。サクラもね、中学の頃、好きだった人に好きな人ができたって振られてしまったときあるから。でもね、それはお互い様っていうのはあれだけどさ、サクラの方が優衣よりも仁にとって魅力的だったんだよ……」
 



言いすぎだ。何を言っているんだろ。いくら毒舌なサクラでも、奪った相手に対してこんない方をするつもりなどなかった。これは謝らないといけない。サクラの苦手な謝罪をしないと。



「ごめ……」



「うん。そうだと思う」
 



サクラが謝ろうと頭を下げようとすると、優衣はまた、妙なことを淡々と言い出す。え? とサクラは繭をひそめてその後何も言えなくなってしまった。
「うん。だから、私が別れるって言っているの」



「……」
 



何だ? もうわからない。優衣という人間がわからない。怖い。サクラはもうその場に硬直するしかなかった。




「あれ? 今日は何か頼まないの?」
 


優衣は顎でサクラの持っているメニューをさす。



「え? いやその……」
 



サクラはそんな食べ物を頼んで食べる気になどなるはずがなかった。
 



優衣はふうと言って、後ろの椅子に深々と腰をかけて、サクラをジッと見つめる。サクラはそんな彼女に恐る恐る訊いてみた。




「ねえ、サクラのこと怒っている?」
 



と、優衣は当たり前のように即答する。



「怒っていないよ」

一ヶ月も経っていただろうか。
 


仁と出会って付き合って、もしかあしたら一ヶ月も経っていないかもしれない。サクラと仁は別れた。別れを切り出したのはサクラから。彼と会って直接別れると言うのは辛いと思ったから、メールで初めに別れようと伝えて、後で電話で話して別れることになった。
 



仁は始め、驚いていた。動揺していた。どうしてかと理由も訊いた。別れることをなかなか承諾しなかった。当たり前だ。彼は別れる理由にここの当たりなどないと思う。全部、サクラのせい。サクラのわがまま。勝手にサクラが舞い上がって勝手に冷めたまでのこと。



それが人間。普通の人間の反応。




こんな女、見た事もない。最低だ。最低な女だ。仁は電話越しにそう叫んで怒りを露にしていた。サクラはそんな彼に反抗しなかった。当たり前だと思うから。それが人間。普通の人間だと思うから。でも彼は別れてくれた。彼は普通の人間よりも優しい。




そんな彼と別れてから会いたいと言い出したのは、別れてから数日経ってのことだった。彼が大阪に転勤することになったということで、彼は最後にサクラに会いたいということだった。




サクラは彼が会うことにした。ホントはもう会いたくないというのが本音だったけれども、これで彼と会うのも最後になると思うとせめてその彼が会いたいというのなら会おうと思った。




待ち合わせの喫茶店に入ると、彼は窓際のカウンター席でスーツ姿でタバコを吸いながら外を見つめていた。その顔はどことなく寂しそうだった。




「お待たせ」
 



サクラはそんな彼に、ぎこちなく一礼する。つい数日前まではラブラブで付き合っていたようには見えない。




「ああ、ごめん。忙しいのに会いたいだなんて」
 



彼はタバコの火を吸殻に消しながら、サクラの方に顔を向ける。この顔だ。この顔にサクラは惚れたんだ。つい数日前まではこの顔に見つめられるたびに胸が高鳴って大変だった。




「ここ、座るね」
 


サクラは彼の隣に腰を降ろす。サクラと彼は互いに窓の外を見つめながら、互いに顔を見合わせることもなく無言でいた。




「なあ、どうして別れるって言ったんだ?」
 


唐突にボソッとさりげなく彼はサクラに訊く。サクラは隠す理由はないと思い、正直に話す。



「うん。あのさ、別れようってメールした二日くらい前かな。優衣に会ってさ」



「優衣に会ったのか?」
 


彼は身体をサクラの方に向け、驚いた顔を見せる。



「それでね、彼女、サクラたちの関係知っていてさ」



「そっか、それで気まずくなって俺と別れるって言ったのか。ごめん。俺がしっかり彼女に言っていなかったから。俺、お前が好きだからさ。だからちゃんと言うよ」




「違うの。最後まで訊いて。それで知っていた彼女がなんて言っていたと思う?彼女、別れてもいいよ。って言ったの」




「え?」




「サクラもさ、びっくりしていろいろ訊いてみたよ。そしたらやっぱり優衣はいいよって言うの。もうさ、彼女のことがよくわからなくてさ。もう、混乱してさ。結局、何を考えているのかわからなかったよ。彼女が何を考えているのか」




「で、別れるってどうして思ったんだ」




「何か。そんな簡単に別れるよって言われたら、凄く失礼なんだけどさ、仁が好きな気持ちが急に冷めていってさ。だってさ、そんな簡単に別れてもいいよって言われちゃさ。そんな、サクラが騙されている気になってさ。だって、優衣と仁は婚約までしていたんだよ。それをさ……簡単に……」
仁は身体をサクラから前に戻し、テーブル上に置いてあったタバコの箱を取り出し、タバコを取り出してそれを口に咥える。



「ウケる」
 



彼は微笑みながら、咥えたタバコに火をつける。





「原因は優衣か。結局、別れても俺はあいつに振り回されちまったってことか」




「……でも、きっかけはそうかもしれないけど、別れようって決断したのはサクラの意思だから。優衣は関係ない」




「そんなの、わかっているよ。俺もそこは優衣のせいにしようとは思わない」



「うん」




「俺さ、サクラに最低な女だって言ったけど、婚約者がいるのに浮気した奴の方が最低な男だよな」




「そ、それは」




「そうだと思うぜ。でもさ俺が思うにたぶん、俺はお前が優衣に感じたことをそのまま俺も感じたんだ」




「どういうこと?」



「お前、優衣が何考えているかわからないだろ。それで怖いとか思っただろ」



「う、うん」




「俺もだよ。優衣が急に怖くなった」




 サクラだけではなかったんだ。優衣のことが怖くなったのは。人と一緒は嫌なサクラだけど、サクラは自分の感覚が人並みであったことに何故か安堵を覚える。




「最初は俺の言うとおりに何も文句も言わずにやる優衣が好きだった。好きというか、ハッキリ言えば都合がいい女でいいなと思っていた。けど、いざ婚約しようとしてアイツと一緒に暮らし始めると、アイツがホント人間じゃないように見えてな」




「人間じゃない?」




「ああ。気づいているかもしれないけど。アイツ、人間として一番重要なモノが欠けていると思わないか?」




「人間として一番重要なモノ?」




「感情だよ。アイツには感情がまるでない」
 



感情がない。優衣には感情がない。そう考えれば、今までサクラが彼女に抱いた疑問や不審は一気に取り払われてつじつまが合う。どうしてすぐにそれに気づかなかったのだろう。



たぶん、それは、そんな人間が存在しないという固定観念がサクラの中であったからかもしれない。現に、今でもそんな人間がいるのだろうかとまだ疑う自分がいる。





「感情がないから、欲もない。欲もないから自分もない。優衣は生きているだけなんだよ。ただ、時の流れに沿って生きるだけ。それを知ったら、俺のことも好きで一緒にいるんじゃなくてさ、ただ、偶然出会って偶然俺がアイツを引っ掛けたから引っかかるままに一緒になったんだってわかってさ、何か一緒にいる意味ないなと思ってさ」
 



仁の話は最もだ。サクラだってもし自分が好きになった相手がそうであったら、いくら自分が好きでも耐えられない。





「だからさ、サクラ。優衣と正反対のお前を好きになったのかもしれないな。お前は、ホント我が強いし、わがままだし、それでしまいには急に自分が気に入らなくなったからって、俺の気持ちも考えずに別れようって言ってくる」




「……そうだね」





「でも、それが人間だよ。人間だよな。普通だよ。みんな感情があって、それを抑えようと努力しても結局それに振り回されて結局自分のことしか見えなくなっしまう」
 



感情。サクラはその象徴かもしれない。自分の感情のまま突き進んで、それを間違っていないと信じてやまなくて、でもそれが人間。そうなのかもしれない。




「さてと、これで俺はお前への未練もないし、もうそろそろ行くかな」
 


仁は立ち上がって、テーブルに千円札を置いてサクラの前から去っていく。




「今日は俺のおごりでいいから」
 


サクラはそんな彼の後姿を彼が店を出て行くまで見つめていた。
 



彼はいったい今何を思っているのだろう。寂しいのか。それとも言葉通りすっきりした晴れやかな気持ちでいるのだろうか。どちらにしろ、彼の心の中には何らかの感情があること。それだけは確かだと思うし、サクラの感情としてそうあってほしいと素直に思った。

家に帰るとまたあの男がいた。サクラの兄貴、拓海だ。
 



彼は二ヶ月くらい前に、サクラの家に来てサクラにグラスを投げつけられ激怒して帰っていった。この男、大学を出てからすぐに家を出て行ったっきり、ホント実家に帰って来るのは一年に二回かもしくは連休中の一回くらいなのに、一週間くらいでまた来るのは珍しい。そしてサクラは兄の姿を見た瞬間、兄の顔もよく見ずに慌ててリビングを出て二階へと階段を駆け上がろうとする。




あの日、サクラは自分の部屋に篭って兄にグラスを投げつけたことを一階も詫びていない。イコール、兄になにをされるかわからないので、すぐさま逃げようとしたのである。




「おい。ちょっと待て」
 



と、サクラが階段の一段目に足をかけようとした時にリビングから兄の声がする。




「話がある。殴ったり暴力とか振るわないから、ちょっと来い」
 



サクラは暫く、その階段で静止していたが声のト音からして冷静で怒っている様子はないことと、怒っていないならば、いくら兄がサクラを怒らすような発言をしたとは言え、謝らないで有名なサクラでも詫びないといけないと思い直し、階段から足を外し恐る恐るリビングに向かう。
 



リビングに入ると、あの人同じ兄がソファーに座っていた。一週間前と違かったことは、その座る姿勢が今日はふんずりかえっておらずソファーの背もたれにしっかりとまではいかないけど、背もたれに自分の背をくっつけて座り、ついていたテレビをサクラが部屋に入った瞬間にテーブルの上のリモコンで消していた。そして、兄の右のおでこの上にはバンソウコウが一枚貼られていた。





「おい、ここ座れ」
 



リビングのドアの前に立って兄の様子を見ていたサクラに、兄が自分の座っている左隣の空いているスペースを左手で軽く叩いてサクラに座るように指示する。
 



サクラは一つ頷いて、身を縮めながら恐る恐る兄の隣に座る。
 



こうして兄と隣同士で座ったのは何年ぶりだろう。いや、人生でないかもしれない。子供の頃は、座っても向かい合わせで座っていつも攻撃態勢になっていた気がするし、ましてや大人になったら一緒に会話を交えることもなく、会話をするとしたら、一週間前のような大人気ない戦争になってしまう。




「ビビるなよ。俺がそんなに怖いか?」




「ビ、ビビッてないよ。ただ、警戒しているだけ……」
 



内心ビビッていた。でも意地っ張りなサクラはそれを必死で隠そうとしたけど、口調が完全に動揺しているそぶりで全然隠しきれていなかった。




「この前は……悪かったな」
と、突然、兄が軽く会釈してサクラに謝る。予想だにしていなかった兄の謝罪にサクラはなんて言ってよいかわからなかった。



「お前だって、お前なりに考えてアイドル目指しているんだろ?」
 



兄は続けて、サクラに優しく語り掛けるように話しかける。サクラはまたその言葉にどうして良いかわからなからず、「う、うん」と頷くことしかできなかった。




「だよな、でもさ、どうしてアイドルにそこまで拘るんだ? 俺はそこがわかららなくてさ、前もちょっときつい言葉を言っちまった」



「え?」




「あのさ、俺が何もなくて盆や年末でもないのに家に帰って来るわけないだろ。しかも二回も」




「どういうこと?」



「頼まれたんだよ。父さんと母さんに。サクラのこと」




「お父さんとお母さんに頼まれた? サクラのことを?」




「ああ。あれで結構心配しているんだぞ。サクラのこと」
 



サクラの両親は、共働きで仕事オンリーな二人で家には殆ど帰らない。だからサクラと兄には幼い頃から殆ど構うことなく放任主義という人たちだった。幼い頃から怒られたことも一回もないし、サクラの決めた進路に反対や意見することもなかった。そんな二人が、サクラの今について兄に相談しているとは思わず、さらにそれに兄が協力するとは思いも寄らなかった。




「違うぞ。俺はお前のことが心配じゃなくて、親孝行したいっつうか、とにかく父さんと母さんが心配しているんだよ」
 



心配している。そうか。それなりに心配してくれているんだ。でも、心配してくれたところでどうにかなるサクラじゃない。




「わかったけど、サクラは……」




「サクラはアイドルになるのを諦めない。だろ? だから、もう一度訊くけど、どうしてそんなにアイドルに拘るんだ? 普通だっていいじゃないか」




 普通だっていい。普通の人は普通でいいんだ。でもサクラは違う。




「サクラは普通じゃダメなの」




「は? どうして普通じゃダメなんだ」




「それは……普通の女の子とは違うことを証明したいから……」



「は? 何だそれ。お前何様のつもりだよ。アイドルになったからって、偉くなるわけじゃねぇんだぞ。それを何か勘違いしていないか?」
兄の言うとおりだった。それに、サクラは偉くなろうと思っていたわけじゃない。でも。




「兄ちゃんにはわからないよ」




「わからないな。俺には。だいたい、アイドルになれると思っているのか? 見込みはあるのか? いや、これは馬鹿にして言っているわけじゃなくてだ」




普通ではサクラはダメなんだ。普通でいようとすると、サクラは不幸になる。仁のことは久しぶりに好きになったけど、結局ダメになったし、今のアルバイト先だってスタッフの中で嫌われてうるさくて浮いていることも知っている。




だから、サクラは普通じゃいけない。普通の女の子とは違う女として認められないといけない。認められたい。そうだ。それが答えだ。サクラは頭の中で答えが出る。





「見込みがあるとか、なれるかどうか、それはわからない。でも、サクラにはそれしかない」
兄にサクラの気持ちを言っても、たぶん理解できないだろう。今は端的にそれしかないとしか言わない方がいいと思った。




「それしかないって……そんなことないだろう」
 


それは違う。サクラにはこれしかない。もうサクラは負けたくないんだ。負けられないんだ。それを植えつけたのはアンタじゃないか。でも、今更それを言っても始まらない。




「兄ちゃん。これはサクラの人生なの。サクラが決める」
 



兄は呻って黙り込んでしまった。これでいい。理解されなくてもいい。ただ、理解されなくてもサクラはサクラのスタンスを守り続けるんだ。間違ってなんかいない。
 



ふと、サクラは野田優衣のことを思い出す。感情がない野田優衣。感情がない彼女には、こういうある意味頑固なスタンスみたいなものが何処にもないのだろうか。



小さなことでも例えば、料理を食べる時は必ず箸を味噌汁など汁に浸して飲んでから他のモノを食べるとか。そんな人生、意味があるのだろうか。あるはずがない。いや、意味があるとか感情がないんだから、それすら考えないんじゃないか。ホントに野田優衣という人間は変った人間である。




「サクラ……」
 



と、兄が話し始めようとした時に、サクラのポケットにあった携帯の着信音が鳴る。携帯を取り出すとちょうどタイミングが良いか悪いか野田優衣からの電話だった。




「あ、サクラ? 私。優衣だけど」




「うん。どうした?」




「あのさ、今から出れる? シフト?」



「シフト?」
 



今日は日曜だったが、サクラは映画館のバイトは休みだった。確か、優衣は今日出勤はずだ。何かあったのだろうか。




「あのさ、今シフトに出ている子で調子の悪い子と怪我をした子が出ちゃったの。で、一人はちょっとポップコーン機で焼けしちゃたから、店長はその子と病院に行っているのね。今日は日曜日で映画デーでしょ? 私とバイトの子二人じゃ売店が回らなくてさ。できればヘルプに来て欲しいんだけど」




 映画デーというのは、通常一般の大人が映画を鑑賞するのに1800円料金がかかるところを、1000円でやるという月一のキャンペーンだ。勿論、その映画デーの日は来客数も増える。増えるから売店も忙しくなる。



さらに、今月は日曜と重なるから、いつもの月に増して来客数が増える。それで今日は、社員を含めていつもなら昼間は五人体制のところを今日は六人体制でやっていはずだ。




それが、今聞いた話によると三人でやってるというのだ。売店のレジにお客が長蛇の列をなして並んで、エンドレスで対応しているスタッフの姿が目に浮かぶ。




「何それ。ありえないよ。それじゃ回っていないでしょ」



「うん。だからヘルプに来て欲しいんだけど、無理ならいいよ」
 



こんな時でも電話越しの優衣は冷静な声で慌てていそぶりはなかった。もしサクラがその場にいたら、完全に慌てて取り乱しているはずだ。しかも、こんな状況に関わららず、無理ならいいよという余裕。




「行くよ。行かないとまずいでしょ。行く」




「うん。ありがとう」
 



サクラは電話を切る。



「どうした? サクラ」




「ああ、兄ちゃん。その話は後で聞くから。今ちょっとバイト先に行ってくる」
 サクラはそう言って、リビングを駆け足で出て行った。
サクラは電車でバイト先に行く途中様々ことを考えた。慌てて出てきたけど、サクラがヘルプで着いたところでどれだけの助けになるかわからなかった。サクラが行ってレジは四人。まだ二人いて欲しいところに人がいない。



きっと、優衣もサクラ以外のアルバイトスタッフにも電話をしているだろう。でも、今サクラの映画館売店のアルバイトスタッフは、サクラを入れて11人。果たして、どのくらいのスタッフがヘルプで着てくれるだろう。




ふと、数週間前の優衣と二人でやったラストの作業を思い出す。あんなどうでもいい理由で職場のことも考えずに休んでしまうスタッフだ。二人。いや、一人も来ないってこともある。そしたら、サクラが入っても全く回っていかない。そしたら、お客さんの方から苦情も出たりして……。悪いことを考えると止まらない。とにかく、急がないと優衣が困る。
 



サクラは映画館に付くと、急いで裏口から映画館に入り更衣室で着替えを済ましてスタッフ通路から売店へ駆け足で走っていく。サクラはスタッフ専用ドアを開け、売店を見る。するとそこには予想だにしなかった光景が広がっていた。
 



レジにはもう七人くらいのスタッフが立っており、レジにはお客も殆どならんでいなかった。それでもサクラは慌てて売店のカウンターへ入る。アルバイトスタッフがサクラに挨拶をする中、挨拶をてきとうに済ませて一番右端にいた優衣のところへ歩いていく。




「大丈夫だったの?」
 



サクラは優衣の横顔を覗き込むようにして見つめる。




「うん。大丈夫だった。ありがとう」
 


優衣はサクラの方を向かずに、レジを閉めていつものように無表情で飄々とした横顔をサクラに見せる。




「大丈夫って……四人だけだったんでしょ?」
 



サクラは周りを見渡す。サクラがざっと見るからに、店長と体調の崩したスタッフ二人以外はスタッフ全員が集まっているような気がする。




「うん。でもみんなすぐに来てくれたから。大丈夫だった」
 



みんな来てくれた? みんなというのは、やはりサクラがざっと見渡した通り、スタッフ全員いる気がしたけれどそうだったんだ。




「どうして、どうしてみんな来てくれたの? だって前にラスト二人でやっていたのに……」
 



サクラがそう言うと、周りのスタッフに視線を送られた気がした。まあ、その次の日、サクラが機嫌が悪そうにそのことを連呼していたからサクラにビビッているんだろう。




「野田さんに頼まれたから……」
 



と、サクラの左隣に立っていたスタッフの黒川さんが恐る恐るサクラの顔色を伺うように口を開く。確か、彼女にはこの前レジの仕舞い方が乱暴だと叱った。




「野田さんには、いつもシフトで無理言ってもいいよって空けてくれるし、仕事で失敗しても怒らないで淡々と処理してくれるし、お世話になっているから……困っている時ぐらいは助けないとと思って……」
 



黒川さんが言ったことに賛同するように、周りのスタッフもどっかの青春ドラマで観たように全員頷くみたいなわざとらしい演出はないけれど、彼女の言葉に同意するように眼差しをサクラに向けていた。
 



そんな様子に対して、当の本人はそんなことはお構いもしない様子でやっぱり無表情のまま飄々とした感じでレジの前に手を前に組んで立っていた。


サクラのスタンス。サクラが決める。サクラの人生。サクラ、サクラ、サクラ……。
 



でもサクラのスタンスって何なんだろう。それにそれは、必死で保持していかないといけないものなのか。サクラはあの日曜日の映画館出来事があった時以来そのことをずっと考えていた。
 




野田優衣。彼女は一体、何なのだろうか。常識の人間では考えられないくらい風のように生きている人間。でも、その生き方は一見無謀で単調なものであるかに見えた。でも、実際はその生き方で人が集まりそれなりに充実し、どんな出来事も無難に過ごせているのではないかと考え始めてきた。それは感情のあるサクラよりも。





「ねえ。メニュー決めないの?」
 



いつものファミレス。いつものテーブル越しに向かい合わせで座るサクラと優衣。
 



ただ、違かったのはサクラの心情。




「あ、ああ。うん」
 



メニューを見ながら考え事をしていたサクラは、優衣に声をかけられ我に返る。




「えっと……そういえばさ、優衣はサクラのことどう思う」
 



唐突にメニューを見ているふりをして優衣に訊いてみる。




「どうって、言われても……友達?」




「ああ、言い方が悪かった。えっと、じゃあ、サクラがアイドルを目指していて、フリーターでいることは?」



「……別に。いいんじゃない」




「じゃ、じゃあ。優衣の彼氏を取ってそれですぐに別れてしまったことは?」



「……別に。仕方ないよね」
 



質問が間違っている気がする。彼女に何を聞きだしたいのか。こんな質問をしても彼女から来る解答は端的で、わかりきったことしか言ってこない。彼女に聞き出したいことはもっと別のところにある




「ねぇ。どうしてさ、そんな性格になっちゃったの?」



「そんな性格って?」




「いや、だからぶちゃけて言うと、いつも飄々としていて無表情で淡々としていて、まるで何にも感情がないような性格」
 



優衣は少し間を置いて。




「猫かな?」



「猫?」



「うん。私、昔猫を飼っていて、で、十歳の頃かな。それでその猫が死んじゃったのね。私、その猫が死ぬ前すごく看病していたの。でも、猫は死んじゃった。それからかな。でも、私は物心ついた時からこうな気もするけど」
 



そう。サクラが訊きたかったのはこれだ。どうしたら優衣みたいな性格になれるのか。サクラはどう考えても性格上、頑固だし我が強いから自分の感情を持たずに生きれない。例えそれが、持たないことよりも厳しく苦しいことだとしても。





サクラは最近、優衣のことを好きでもないのにどうして気になっているのかわかった気がする。優衣はサクラが持っていないものをあまりにも持っているからだ。




「で、どうして猫が死んだことがその性格になった原因だと思うの?」
 



また優衣は少し間を置いて。




「一生懸命やっても、ダメな時はダメなんだなって思ったからかな。運命には逆らえないからかな。ほら、生まれることだって選べないでしょ。それと同じように、大半のことは自分で選べないのかなって」
選べない。確かに。生まれたことはサクラの意思では選べない。それがサクラは嫌だった。



でも、他のことも選べないとは思わない。思えない。そう信じたいサクラがいる。と、言っているところも感情があるサクラの思考なのだろうか。




「でも、逆を言うと選ばなくてもいいのかなと思ったりしてね」




「選ばなくてもいい?」




「うん。流れに沿っていけば生きれるし、そうしているとそれが一番自分らしくいられるのかなって」
 



選ばないこと、流れに沿うことが自分らしい。




「どうしてそう思うの?」




「どうしてって……今そうなっているからだよ」
 



今そうなっている。




確かに優衣はその感情がないのが優衣だ。確かにそうなっている。一方、サクラはどうなのだろう。サクラのスタンスと言いながらそれがサクラらしく生きていると言えるのだろうか。スタンスと言いながらそれは果たして自分なのだろうか。




「ねえ、もう一度訊くけど、サクラのことはどう思う? サクラはサクラらしく生きていると思う?」
 



優衣はまたまた少し間を空けて




「というより、そうしていることがサクラなんじゃない?」
 


予想外の言葉だった。そうしていることがサクラ。




「だって、サクラは優衣の言ったように選ばずになんでも受け入れている人生じゃないよ。いつも、何かを選んで選べない時はいつも戦うというか抵抗してきた」
 



『抵抗』そう。サクラの人生は今まで『抵抗』の連続だった。そしてこれからもそれは止めることはできないと思う。



「うん。だからそれがサクラなんじゃない?」
 



またサクラは予想外の言葉を優衣に浴びせられる。




「何か矛盾してない?」





「うん。よくわかんないよ。あまりそんなこと考えたことないし」
 



考えたことがない。確かに、確かに。こんなこと考えることなんてないのかもしれない。サクラがサクラであることは当たり前。




それにしてもホントに野田優衣という人間はサクラとは正反対だ。そしてそういう生き方もいいなとサクラは心のどこかで恨めしく思い始めている。感情を持ってあらゆるモノに『抵抗』していくのもそれなりに疲れるのだ。




「ねぇ、サクラもさ、少しだけ優衣みたいに生きてみようかな?」
 



優衣はまたまたまた少し間を空けて




「うん。いいんじゃない?」
 



そう言うとサクラは予想できた。そしてサクラは彼女の返す言葉を予想しながら次の言葉を口にする。




「ねぇ、サクラは幸せになってもいいのかな」
 



優衣は今度はあまり間を空けずに




「うん。いいんじゃない」


ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

チャンの小説 更新情報

チャンの小説のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング