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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』は日蓮正宗大石寺9世法主・日有の偽作だ」PART1

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「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮正宗大石寺9世法主・日有の偽作だ」PART1

「アンチ日蓮正宗」コミュニティの「本門戒壇の大御本尊」偽作説は二段構えになっています。まず
「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」
これは、現在、日蓮正宗大石寺奉安堂に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が、日蓮の真筆でも何でもない、日蓮とは全く無関係の後世の偽作である、ということを様々な証拠を元にして論証しているものです。
これにつづいて
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺九世法主・日有の偽作だ」
このトピックは、日蓮正宗大石寺奉安堂に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊は、いつ、誰が、どうやって偽作したものなのか、ということを、明らかにするもので、それは、具体的に12の証拠と3の傍証を元にして、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、ドス黒い野望をもとに偽作したニセ本尊であることを明らかにしています。

日蓮正宗にとってはもちろんのこと、その日蓮正宗から破門された創価学会、顕正会、正信会などの日蓮正宗の分派団体にとっても、その信仰活動の根本は何かといえば、それは日蓮正宗総本山大石寺の奉安堂に安置・格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊である。
その「本門戒壇の大御本尊」なくしては、日蓮正宗はありえないし、創価学会も、顕正会も、正信会もありえない。
日蓮正宗は、この「本門戒壇の大御本尊」は、宗祖日蓮自身によって作られたものだと教え、その本尊の上に無数の仏教教義を組み立てている。それは創価学会、顕正会、正信会も同じだ。
そしてこの「本門戒壇の大御本尊」を中心にして、創価学会は第二次世界大戦以後、延べにして数千万人もの信者を獲得し、今は日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会が角をつき合わせて、信者の争奪戦を繰り広げている。
日蓮正宗問題、創価学会問題の謎の解明と解決のためには、それらの問題の根底にある、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の正体と、その陰に潜む、日蓮正宗と創価学会の陰謀を徹底的に解明していく必要がある。

この「本門戒壇の大御本尊」は日蓮正宗や創価学会が言うような日蓮自身が作ったものではない。それは日蓮が生きていた時代よりもかなり下った、室町時代中期から戦国時代にかけての日蓮正宗大石寺九世法主である日有(にちう)が偽作したものである。
まさに「本門戒壇の大御本尊」が突如として世に現れてくるのは、その日蓮正宗大石寺九世法主である日有の時代である。
大石寺のごく近隣にある、同じ富士門流の本山寺院・北山本門寺の六代住職である日浄が「未聞未見の本尊なり」と言ったのが、その最初。つまり、日浄は大石寺に「本門戒壇の大御本尊」があるということを知って、「そんな本尊は、見たことも聞いたこともない本尊だ」と言ったのだ。
北山本門寺とは、日蓮正宗大石寺から二キロ足らずの距離のところにある、日蓮正宗大石寺の開祖・日興が大石寺を退出したのちに住み、死去した寺院である。
室町時代中期に突如として出現した、日蓮真筆を詐称する「本門戒壇の大御本尊」なる黒漆塗りに金ピカの板本尊をすぐそばで見せつけられた日浄は、黙っておれなかったのであろう。

これに対して日有は、「唯授一人の血脈相承」なるものを偽作して
「日蓮大聖人・日興上人から相承を受けていた大石寺の法主だけが知っていた」
「『本門戒壇の大御本尊』は唯授一人の血脈を相承してきた大石寺の御法主上人だけが、内密に相伝してきた御本尊です」
「広宣流布の暁までは、蔵の中におしまいして、決して公開されぬ御本尊なのです」
と言って、対抗した。

それにしてもこの「本門戒壇の大御本尊」を盾に取ってきた日蓮正宗大石寺は、数百年来、多くの大罪を積み重ねてきた。
戦後、創価学会というカルト教団とくっつくことによって日本最大の宗教団体になったという事実…
そして今、その宗教を信じたがために、家庭内騒動や近隣騒動などにとどまらず、さらには地域騒動、事件、犯罪、社会的不祥事の当事者になり、あるいはそれらに巻き込まれるなどの事件を起こしているという事実…
そして日蓮正宗と創価学会の戦争、日蓮正宗と顕正会の戦争、日蓮正宗と正信会の戦争、創価学会と顕正会の戦争、創価学会と正信会の戦争…、こういったはざまで、たくさんの人たちが苦しみ、悲痛な叫び声をあげている。
この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の偽作という悪質な欺瞞と宗教詐欺の陰謀によって、日蓮正宗は「この本尊に帰依しなければ地獄に堕ちる」「絶対に成仏できない」などという脅迫的・強引な布教を行い、信者は「この本尊に帰依しなければ地獄に堕ちる」という強引な罰論に怯えて離檀をためらい、大石寺「登山」「御開扉」に信者が参拝することによって供養金を大石寺に差し出すことによって、これが日蓮正宗の最大の収入源になっているということである。
つまり、日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、まさに日蓮正宗の屋台骨であり、心臓部なのである。

日蓮正宗大石寺も創価学会も顕正会も・・・この本尊を楯にとって自分達を正当化し、そればかりか毎年のように、数千億円ともいわれる大金を信者から集めているのである。

日蓮正宗と創価学会の『宗創和合時代』は、昭和40(1965)年の正本堂供養で360億円を集めたことはあまりにも有名で、さらに創価学会や法華講の団体登山会・個人登山が毎日のようにおこなわれており、昭和40年代前半は年間300万人、500万人、800万人が登山していた。
昭和47(1972)年の正本堂落慶のときは1000万人登山が行われている。一人1000円の御開扉供養だけでなんと100億円の大金が大石寺に転がり込んでいた。昭和47年当時の100億円は、総務省の消費者物価指数の統計から計算すると315億円、昭和47年当時の360億円は、今の1132億円に相当する金額である。
さらに昭和五十二年路線以降においても、年間で200万人の登山者がいたので、供養金が2000円に値上がりになって一人2000円の御開扉供養で40億円の収入が大石寺に転がり込んできていた。
日蓮正宗は、平成3(1991)年の宗創戦争以降も、平成6(1994)年の広布坊供養で6億円、平成10(1998)年の客殿供養で41億円、平成14(2002)年の奉安堂供養で168億円以上の特別供養金を集め、さらに2009年の「日蓮・立正安国論750年」では50万総登山を行い、一人2000円の御開扉供養を取っているので、これだけで10億円。これらと別途に特別供養金として90億円にものぼる金集めを行っている。

さらに創価学会が毎年行っている財務や広布基金、特別財務と称するカネ集め。毎年恒例の財務は一度に1500億円を越えるカネを集めていると言われている。
顕正会でも広布御供養と称するカネ集めを毎年12月に行っていて、こちらも莫大な額を集めている。 つまり日蓮正宗、創価学会、顕正会、正信会の金集めの中心には、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊がいるのである。

しかし騙すほうはいつまでも永遠に人々を騙していくつもりでいるのかもしれないが、ウソはどこまでいっても所詮、ウソにすぎない。騙されるほうは、いつかその欺瞞に気づき、目が覚める日がくるにちがいない。騙すほうは、その都度、手を変え、品を変え、人をだましていこうとする。こういう図式は変わることがないだろう。
しかし、この悪循環、欺瞞の連鎖をどこかで断ち切っていかねばならない。
インチキな宗教に騙される人をこれ以上、出さないために、インチキな宗教に騙された苦い思いをした人たちの経験を、未来に向かって無駄にしないためにも、日蓮正宗と創価学会、顕正会の信者欺瞞の構図を徹底的に暴いていく必要がある。
そしてそのための第一歩として、日蓮正宗の歴代法主の悪辣な黒い陰謀、なかんずく日蓮正宗大石寺9世法主・日有が行った「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の偽作という悪質な欺瞞と宗教詐欺の陰謀を徹底的に暴いていく必要があるのである。

このトピックに書かれている内容について、質問その他のコメント(絶賛でもOK)をしたい方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点の分析・検証・批判」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

質問等をしたい方はこちらへ。

「アンチ日蓮正宗・教学基礎講座」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63259676&comm_id=406970
「関連質問&質疑応答」トピック
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46300303&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『本門戒壇の大御本尊』日蓮真造論者からの反論・文句は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊の真偽について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41378641&comm_id=4011664

出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」
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取材調査協力/
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■検証45・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した六万坊思想2

□真言宗総本山・高野山金剛峯寺の巨大宗教都市をモデルにした六万坊思想

高野山は、平安時代に京都の東寺との確執もあり、正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという、衰亡の時期を迎えた。
荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、祈親上人定誉によって再興され、治安3年(1023年)には藤原道長が参詣。平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え、寺領も増加した。源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に3,000もの堂舎が立ち並んだという。

戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、比叡山焼き討ちや石山合戦を行った織田信長と対立するようになった。天正9年(1581年)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求にも応じなかったため、信長は日本各地にいた高野山の僧を数百名殺害し(1000人強とする説も)、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変に倒れたため、高野山は取り敢えず難を免れた。続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって豊臣秀吉に服従を誓ったため、石高は大幅に減らされたものの、高野山はなんとか存続することができた。

江戸時代に入ると、徳川将軍家が高野山を菩提所と定めたこともあり、全国k諸大名を始め多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多く並んでいる。

こういう高野山の歴史を見ていくと、最も高野山が繁栄したのは、鎌倉時代から戦国時代以前の室町時代あたりだったと考えられる。
そうすると日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都天奏に旅立った1432(永享4)年ころは、まさに高野山の最盛期であり、三千を超える塔頭寺院が林立していたころと考えられる。
塔頭寺院だけで三千ということは、僧侶だけで高野山には少なくとも1万人以上が居たと考えられる。これだけ大規模な宗教都市は、日本国内では高野山をおいて他になく、ここを訪れた日有は、たいそう衝撃的だったことだろう。

日有が偽作した「百六箇抄」の中に出てくる「六万坊」の三文字には、高野山の巨大宗教都市に対抗する意図が読み取れる。
「広宣流布の日には高野山の巨大宗教都市をはるかに超える六万坊を建立するのだ」と。
最盛期には塔頭寺院が三千を超えたという高野山の巨大宗教都市を全く見ずして、日有が「六万坊」の三文字を書くなどとは考えられない。
即ち、日有は高野山に行ったことがあり、高野山を超える宗教都市をイメージして「六万坊」と書いたと考えられるのである。





■検証46・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した伽藍・客殿


大石寺の伽藍・建築物を見ると、京都の仏教寺院の影響もしくは京都仏教寺院から採り入れたもの・輸入したものと思われるものがいくつかあるが、大石寺を代表する伽藍・堂宇である客殿もそのひとつである。大石寺の客殿は、1465(寛正6)年3月、日蓮正宗大石寺9世法主日有がはじめて建立・創建した伽藍である。
この客殿という伽藍は、京都・貴族の屋敷や寺院などで、客を応対するために造った殿舎で、いわば京都・奈良の貴族文化を象徴するもの。寺院では、世界最古の木像建築・法隆寺の塔頭・西園院に客殿という名前の堂宇が存在する。
日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都から輸入したと思われる京都・奈良の客殿は
天台寺門宗総本山・三井寺(勧学院客殿・光浄院客殿)、法隆寺西園院(貫首の住居)客殿、教王護国寺(東寺)客殿、東寺観智院客殿、真言宗大覚寺派・西明寺客殿、臨済宗天龍寺派・臨川寺客殿…である。

□日有が京都天奏の折に輸入した法隆寺の本坊(貫首の居所)・西園院客殿

この中で、まず真っ先に挙げなくてはならないのが、奈良の法隆寺西園院客殿である。日有は、法隆寺夢殿の秘仏本尊である救世観音像をモデルにして、「秘仏」「楠木」「等身大」の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作しているわけだから、法隆寺西園院客殿も真っ先に輸入したい伽藍になったであろう。
法隆寺の西園院とは、貫首の住居であり、大石寺で言えば大坊・大奥に相当し、西園院客殿と言うところは、言わば客間であり、大石寺の大奥対面所に相当する。

三井寺の勧学院客殿・光浄院客殿、教王護国寺(東寺)、真言宗大覚寺派の寺院・西明寺、臨済宗天龍寺派の寺院・臨川寺の客殿といった中で、法隆寺の西園院客殿は、
1 法隆寺がこれらの寺院の中でもっとも創建が最も古いこと。
2 その法隆寺の塔頭院の中に「客殿」という名前の堂宇があること
が大きなポイントと言えよう。

私は、この法隆寺にも何度も実地調査に行っているのだが、この法隆寺西園院客殿の創建年代を調べようと、法隆寺境内にある宗務院に行って係員に質問したところ、係員が、奥にいた僧侶に聞いたり、奥にあった分厚い本をめくって調べたりして、ようやく答えを持ってきてくれたのだが、その答えは「いつ創建されたのか不明」とのこと。
ただし「法隆寺重宝」という分厚い本によると、創建年代は不明だが、中に狩野派の画家の絵が描かれた襖があるので、桃山時代ではないかと推測されるという回答であったが、ただしこれは推測で、確定しているわけではないとのこと。
狩野派の絵が描かれている襖は、創建年代を特定する証拠にはなり得ないでしょう。
建物は前から建っていたが、襖は後から入れたということも考えられるし、再建した建物に襖を新調したとも考えられる。西園院そのものは、法隆寺の本坊(住職の居所)であるので、これは法隆寺の草創期から存在していたことは明らか。法隆寺は、創建当初は官立であり、今風に言うと朝廷による国営の寺院であり、朝廷と直結の寺院であった。
もちろん、天皇をはじめ、皇族、親王、摂家、貴族、公家といった身分の高い人たちが法隆寺を訪れ、参拝・修学・修行をしているわけだから、法隆寺の本坊・西園院の客殿が創建後、数百年が経ってから建てられたとは、とうてい考えにくいものがある。
そういうふうに考えると、法隆寺の本坊・西園院客殿は、創建まもなくのころからあったと考えられ、京都天奏の折に日有が法隆寺を訪れた際にも、当然、西園院客殿は存在したと考えられるのである。






■検証47・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した伽藍・客殿2


さてもうひとつ、日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都天奏の折に訪れて、大石寺に輸入したと考えられる天台寺門宗総本山・園城寺(三井寺)の勧学院客殿・光浄院客殿はどうだろうか。

現在の勧学院客殿は、入母屋造りに柿葺きになっていて、1600(慶長5)年、毛利輝元を奉行とした豊臣秀頼による再建だが、「三井続灯記」によれば、園城寺勧学院の創建は1313(正和2)年となっている。現在、園城寺勧学院は一般には非公開となっているが、資料によると妻側に唐破風(からはふ)を付けた車寄せがあり、東南部に中門があるという。
勧学院客殿の中は、表列(南側)、中列、奥列(北側)に各3室、3列9室からなり、表から奥にすすむにしたがい、公的な対面所から私的な部屋になる。
ただし、各室の襖を開放すれば大部屋になり、勧学院、つまり学問所として対応できるしくみになっている。客殿において、儀式や行事を修するという点においては、日有は、法隆寺の西園院客殿よりも、むしろ園城寺の勧学院客殿をモデルにした可能性が高い。

さてこの園城寺という寺院は、天台寺門宗総本山で、866年に比叡山延暦寺の天台宗5世座主・円珍がここを伝法灌頂の道場とし、諸堂を整備して寺域を拡大。そして多くの高僧を輩出して、東大寺・興福寺・延暦寺とともに四箇大寺に数えられた。
円珍の没後、天台宗は円珍門流(寺門派)と慈覚大師円仁門流(山門派)の対立が激化。993年に円珍門流1000人余りはついに延暦寺を下山して、園城寺に一大勢力を形成した。
その後、天台宗は山門・寺門の2派に分裂して抗争を続ける。1081(永保1)年には山門宗徒が園城寺に乱入し、伽藍・堂宇のほとんどを焼き払った。以後、山門宗徒の園城寺焼き討ちは7度に及ぶ。又、政治的な抗争にも巻き込まれ、源平の戦では源氏に組して平家の攻撃を受け、南北朝の抗争でも足利氏に組して戦禍を受けた。1595(文禄4)年には、豊臣秀吉に堂宇を破却され、その死の直前に再興の許可が降りた。
今の諸堂の多くは慶長以降の復興であるが、園城寺は焼き討ちや戦乱で焼失後も、そのたびに再建を繰り返している。

京都上洛の折りに、園城寺をはじめ京都の仏教大寺院の威容をはじめて目の当たりにした日有にとって、これはたいそう衝撃的なものに映ったであろう。

もともと客殿とは、寺院に来訪した客人をもてなすための建物のことであるが、日有は「信者は『本門戒壇の大御本尊』の客人である」などという意義を言い出して、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を格蔵する御宝蔵の前に客殿を創建した。大石寺に供養をもってくる信者は、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の客人であるとは、よく言ったものである。

日蓮正宗大石寺9世法主日有が本門戒壇に祀るべき本尊として「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して御宝蔵に格蔵し、客殿を創建して客殿の根本本尊として、開祖日興の「座替わり本尊」を祀ったことによって、信者が大石寺に参詣して、御宝蔵で「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を行い、客殿で御講や法要を行い、それらの行事・法要に参詣する信者が供養を大石寺に差し出して、大石寺が経済的に潤っていくというシステムが、史上はじめてここに確立することになった。



■検証48・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都・妙顕寺から輸入した客殿・勅使門の配置

□大石寺の客殿・勅使門から書院・庫裡・宝蔵の配置までそっくりな日蓮宗大本山・妙顕寺

さて京都仏教寺院から客殿・勅使門を輸入した日蓮正宗大石寺9世法主日有であったが、そもそも大石寺の客殿と勅使門の配置は、客殿の前に勅使門が建てられていた。1964(昭和39)年の旧客殿の解体・大客殿の落慶、その後の大客殿前にあった大化城の解体、1989年(平成元年)の大客殿前広場の造成等々の変遷を経て、客殿と勅使門の位置がずれたこともあったが、元々の位置は、客殿の前に勅使門が建てられていたものであった。

この大石寺の客殿・勅使門の配置とそっくりな寺院がある。それは、日蓮宗の大本山・妙顕寺である。妙顕寺とは、日蓮の京都布教の遺言を受け、日蓮門下では京都ではじめて布教をした日像が開祖になっている寺院である。
大石寺と妙顕寺は、客殿と勅使門の配置が似ているだけではなく、庫裡、大玄関、大客殿、勅使門、さらにその裏手の宝物殿(宝蔵)、書院の配置までそっくりなのである。
そもそも妙顕寺とはどういう寺院かというと、開祖・日像は、六歳の頃から日蓮に薪水給仕して、日蓮から経一丸という名前を授かり、本尊も授与されている。13歳のとき、日蓮の入滅に臨んで、日蓮から直々に枕元に呼ばれ、京都開教を遺命された。
1294(永仁2)年、日蓮の京都布教の遺命を果たすべく、京都に上洛。日像は、京都の街角にて辻説法を行い、たちまち京都の町衆から帰依を受けた。しかし比叡山延暦寺等々から排斥を受け、1307年(徳治2年)から1321年(元亨元年)までの間に3度京都から追放する院宣を受けた。
1321年(元亨元年)に追放を許されて、後醍醐天皇より寺領を受け、ここに妙顕寺を建立。さらに、1334年(建武元年)4月には、妙顕寺を勅願寺として法華宗号の綸旨を受ける。
勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことだが、実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺のほうが数多い。勅願寺は全国で34ヶ寺あるが、日蓮宗では唯一、妙顕寺だけである。

松島青龍山 瑞巌寺 (臨済宗、宮城県松島町) - 淳和天皇
小比叡山 蓮華峰寺 (真言宗、新潟県佐渡市) - 嵯峨天皇
法輪山 正明寺 (黄檗宗、滋賀県日野町) -後水尾上皇
定額山 善光寺 (無宗派、長野県長野市)
普門山 長久寺 (真言宗豊山派、滋賀県彦根市) - 後三条天皇
石光山 石山寺 (東寺真言宗、滋賀県大津市) - 聖武天皇
巌金山 宝厳寺 (真言宗、滋賀県長浜市) - 聖武天皇
阿星山 長寿寺 (天台宗、滋賀県湖南市) - 聖武天皇
瑞龍山 南禅寺 (臨済宗、京都市左京区) - 亀山法皇
音羽山 清水寺 (真言宗→法相宗、京都市東山区)
大内山 仁和寺 (真言宗、京都市右京区) - 宇多天皇
深雪山 醍醐寺 (真言宗、京都市伏見区) - 醍醐天皇
具足山 妙顕寺 (日蓮宗、京都市上京区) - 後醍醐天皇
正法山 妙心寺 (臨済宗、京都市右京区) - 花園法皇
竜宝山 大徳寺 (臨済宗、京都市北区)
大悲山 慈眼院 (真言宗、大阪府泉佐野市) - 天武天皇・聖武天皇
躑躅山 林昌寺 (真言宗、大阪府泉南市) - 聖武天皇
薬師寺 (法相宗、奈良県奈良市) - 天武天皇
秋篠寺 (単立、奈良県奈良市) - 光仁天皇
東大寺 (華厳宗、奈良県奈良市) - 聖武天皇 総国分寺、三大戒壇
西大寺 (真言律宗、奈良県奈良市) - 称徳天皇
忍辱山 円成寺 (真言宗、奈良県奈良市) - 聖武天皇・孝謙天皇
鼻高山 霊山寺 - 聖武天皇(真言宗、奈良市)
塔尾山 如意輪寺 (浄土宗、奈良県吉野郡) - 後醍醐天皇
三身山 太山寺 (天台宗、兵庫県神戸市) - 元正天皇
比金山 如意寺 (天台宗、兵庫県神戸市) - 推古天皇
泉生山 酒見寺 (真言宗、兵庫県加西市) - 聖武天皇
慶徳山 長保寺 (天台宗、和歌山県海南市) - 一条天皇
那智山 青岸渡寺 (天台宗、和歌山県那智勝浦町) - 推古天皇
天音山 道成寺 (天台宗、和歌山県日高川町) - 文武天皇
七宝山 本山寺 (真言宗、香川県三豊市) - 平城天皇
太田山 豊楽寺 (真言宗、高知県大豊町) - 聖武天皇
清水山 観世音寺 (天台宗、福岡県太宰府市) - 天智天皇 三大戒壇
龍池山 大雲院 (単立、京都府京都市) - 後陽成天皇



■検証49・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都・妙顕寺から輸入した客殿・勅使門の配置2

□大石寺の客殿・勅使門から書院・庫裡・宝蔵の配置までそっくりな日蓮宗大本山・妙顕寺2

妙顕寺2世・妙実は、1341(暦応4)年に妙顕寺を四条櫛笥に移転。
1358(延文3)年に大干ばつが起きたとき、天皇の勅願によって僧侶300人を従えて桂川のほとりで祈雨の祈祷を行ったところ、たちまち数日の間に雨が降って、山野田畑が潤ったことから、その功績によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号が、そして妙顕寺には四海唱導の称号が、妙顕寺2世貫首・妙実には大覚の称号と大僧正の位が下賜された。これにより妙顕寺の寺勢は隆盛を極めた。

ところが日蓮宗の京都における教線拡大を心良く思わない比叡山延暦寺の僧兵・衆徒が妙顕寺に攻め入ってきて妙顕寺を焼き討ちにしてしまい、妙顕寺宗徒は若狭国(福井県)小浜に一時的に避難する。しかし1393年(明徳4年)、室町幕府三代将軍・足利義満の斡旋と寺領安堵により、京都・三条坊門堀川に妙顕寺を再建し、名前は鎌倉・妙本寺の名前を移して妙本寺と称した。
このように京都・妙顕寺という寺院は、日蓮宗、法華宗、富士門流等々の全日蓮門下においては、京都布教の先駆けであり、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた特別な存在であった。
その妙顕寺と大石寺が、客殿と勅使門の配置が似ているだけではなく、庫裡、大玄関、大客殿、勅使門、さらにその裏手の宝物殿(宝蔵)、書院の配置までそっくりになっているというのは、まことに注目すべき事である。
1432(永享4)年3月、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、京都天奏で上洛した時、妙顕寺は比叡山延暦寺とは厳しい対立関係にあったものの、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇から日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜されて、大隆盛期にあった。

京都仏教寺院の客殿や勅使門をパクった日有が、大石寺に客殿や勅使門を建てるに当たって、その配置をどこの寺院の配置を真似るだろうか。
はやりそれは、日蓮門下において唯一の勅願寺であり、歴史上はじめて天皇が日蓮に大菩薩号をはじめ菩薩号、四海唱導、大覚の称号等々を下賜せしめた京都・妙顕寺の堂宇の配置なのではないか。
日有が京都天奏に成功して、仮に日有の申状が時の天皇の元に伝奏されたとしても、それくらいで大石寺が天皇の勅願寺になったりするなどということはあり得ない。あり得ないことだが、日有としては京都から大石寺に帰った後、大石寺の宗徒の前に京都伝奏の答えを出さなくてはならない。それが、大石寺に絶対に来るはずのない天皇からの勅使を迎えるための勅使門と客殿。
まさにそれは京都に実在していた日蓮宗で唯一の天皇の勅願寺になっていた妙顕寺のパクリということである。




■検証50・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した伽藍・本堂

□大石寺には創建当初から「本堂」と呼ばれる堂宇はなかった

日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都・奈良の仏教寺院から輸入した伽藍は、勅使門や客殿だけではない。本堂もそうである。
こう言うと驚くかもしれないが、日有以前の大石寺、大石寺門流の寺院には「本堂」というものがなかった。住職や僧侶の持仏堂はあったが、本堂はなかったのである。
持仏堂というのは、持仏や先祖の位牌(いはい)を安置しておく堂、または室。仏間のことで、仏壇をいうこともある。つまり住職や僧侶個人の本尊を祀っている仏間のことである。
日蓮正宗では、住職や僧侶個人授与の本尊、ないしは個人授与の本尊を祀っている仏間のことを「御内仏」と呼んでいるが、持仏堂とはまさにこの御内仏を祀る仏間ということである。

これに対して本堂とは、仏教寺院において、本尊仏を安置する建物。寺院で中心本尊を祀っている堂宇のこと。寺院の中心的な堂を指して「本堂」ということが多い。
ただし「本堂」という名称は、宗派によって名前が異なっている。
「金堂」が、南都六宗や真言宗など飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代創建の寺院で多く使われているのに対し、「本堂」は宗派にかかわらず、古代以降も含め広く使用される。
ただし、奈良時代創建の寺院でも、新薬師寺、西大寺のように「本堂」という名称を使用している寺院もある。
比叡山延暦寺など天台宗寺院では「根本中堂」もしくは「中堂」と呼称し、禅宗寺院においては「仏殿」と呼称することが多い。しかし、禅宗にあっても特に方丈形式の中心堂宇を指して「本堂」と称する場合もある。
一般的に南都六宗や真言宗など大陸より初期に渡来した系統の伽藍においては「金堂」、禅宗にあっては「仏殿」、天台宗では「根本中堂」もしくは「中堂」、日本的発展を遂げた寺院では「本堂」と称する場合が多い。
室生寺や當麻寺のように「金堂」と「本堂」が別個に存在する寺院もある。
呼称は宗派によって違うが、本堂とは、寺院において、中心本尊を祀っている堂宇のことを指すわけであり、これは住職や僧侶個人の本尊を祀っている仏間である持仏堂とは区別される。

富士門流において、最初に本堂らしき伽藍が出来たのは重須本門寺(北山本門寺)の御影堂だが、これはあくまでも御影堂であって、本堂とは別個のものである。
大石寺の場合は、日興が持仏堂を建立し、弟子が塔中坊を建立していったが、本堂も客殿もなかった。塔中坊も今は本堂と呼んでいるが、近世になるまで「客殿」と呼んでおり、江戸時代に書かれた「富士大石寺明細誌」にも塔中坊の本堂には本堂とは書いておらず「客殿」と書いてある。
その客殿を大石寺門流で創建したのは日有であり、日有以前には塔中坊には客殿もなかった。
大石寺で最初に御影堂を建立したのは12世日鎮であり、今の御影堂は江戸時代初期に17世日精が再建したものである。
西山本門寺も、小泉久遠寺も、保田妙本寺も、富士妙蓮寺も、最初に建立したのは「法華堂」であり、その後、大坊(庫裡)、客殿、御影堂というふうに伽藍が発展した。本堂と呼ばれる堂宇は存在していなかったのである。







■検証51・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した伽藍・本堂2

□大石寺には創建当初から「本堂」と呼ばれる堂宇はなかった2

それでは「本堂」という堂宇は、そもそもどういう堂宇・伽藍なのだろうか。
日本に仏教が伝来した当初の飛鳥・奈良時代の寺院の金堂(仏殿)は、その寺院の中心本尊・根本本尊を祀るための堂宇であったので、金堂(仏殿)の建物の内部は、仏像本尊を安置する壇(須弥壇)がほとんどのスペースを占めている。
これは飛鳥・奈良・平安時代においては、仏教を信仰していたのは、天皇・皇族・貴族・公家ほんの一部の上流階級・支配階級のみであり、この当時の寺院も、ほとんどが天皇・皇族・貴族・公家の財力・経済力で建てられた官寺であった。
この時代において、まだ仏教は一般庶民まで広く流布していなかったのであり、金堂(仏殿)の建物に、たくさんの人を収容するスペースは不要だったのである。
これは、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺の金堂、法隆寺の金堂、夢殿、平等院鳳凰堂の中は、皆そのようになっている。
東大寺の大仏殿(金堂)も、中に祀られている大仏は巨大であるが、大仏殿の前に参詣者が入るスペースはほとんどない。

これが鎌倉時代に入って、鎌倉仏教が興出して仏教が武家から農民、職人、商人、一般庶民まで幅広く流布され、寺院にも参詣者が増えるようになった。そうなってくると、飛鳥・奈良・平安時代に建てられた寺院の金堂のように、参詣者が入るスペースがほとんどない建物では、参詣者を建物の中に収容しきれない、ということになる。

そこで、金堂(仏殿)の前に、参詣者を収容して仏像本尊を礼拝する建物である礼堂が建てられるようになる。さらに時代が下って金堂(仏殿)と礼堂が一つの建物として建てられるようになった。
つまり金堂(仏殿)の須弥壇の廻りの部分が内陣になり、礼堂の部分が外陣と呼ぶようになった。これが今の本堂の原型である。

著述家・渋谷申博氏の研究によれば、中世の寺院の本堂(金堂・仏殿)には、内陣と外陣の間には仕切りや格子戸があって、かつては内陣と外陣は別々の二つの建物であったことを伺わせており、この建て方は、中世の密教系の寺院に多い建て方であるという。

現在の仏教寺院における一般的な本堂は、本尊を祀っている神聖空間と大導師・僧侶が座る所が内陣、信者・参詣者が礼拝をする場所が外陣として区別されているが、明確な仕切りがないことが多い。
内陣と外陣の間には、畳の段差があるだけとか、畳はフラットになっていても、内陣と外陣の間には、可動式の仕切りが置いてあるだけとか、あるいは内陣は畳席で外陣は椅子席とか、そういう形になっていることが多い。





■検証52・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都仏教寺院から輸入した伽藍・本堂2

□大石寺門流にはじめて「本堂」を京都・奈良から輸入して持ち込んだ日有

日蓮正宗大石寺9世法主日有がイメージした「本堂」とは、日有が偽作した文書「百六箇抄」に書いている「富士山本門寺本堂」であり、そこには日有が「日蓮真筆」を詐称して偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を祀ることを想定している。
つまり日有が偽作した「百六箇抄」では
「下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり…五人並に已外の諸僧等、日本乃至一閻浮提の外万国に之を流布せしむと雖も、日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」
と書いており、同じく日有が偽作した「日興跡条条事」の第二条には
「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」
と書いている。「日興跡条条事」で「弘安二年の大御本尊」を本門寺に懸け奉る場所とは、「百六箇抄」で言う、「富士山本門寺本堂」であり、日有が偽作した「弘安二年の大御本尊」を「富士山本門寺本堂」の正本尊として祀るという意味である。

つまりこれはどういうことになったかというと、日蓮正宗大石寺の末寺の曼荼羅本尊、大石寺法主が書写して末寺に下附する曼荼羅本尊は、板本尊だろうが紙幅の本尊だろうが、全てが日有が偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の分身ということになった。
つまり「本門寺の本堂に懸け奉る『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊の分身」を祀るということが、日蓮正宗大石寺の末寺に本堂が勃興する起源になったのである。

これは末寺の場合だが、大石寺には12世法主日鎮がはじめて御影堂を造立し、17世法主日精が現在の御影堂を再建しているが、「本堂」と称する堂宇はなかったのである。
大石寺ではじめて「本堂」と称する堂宇は、1972(昭和47)年10月に落慶した正本堂だが、これも1998(平成10)年に取り壊され、わずか26年で消滅している。

このように大石寺門流の歴史を検証していくと、大石寺創建当初から、大石寺門流には「本堂」という堂宇・伽藍は存在しなかった。もっとも大石寺には、根本本尊・中心本尊そのものが存在しなかったわけだから、「本堂」もなかったのである。
この「本堂」を京都・奈良の仏教界から輸入したのは、日有である。

では日有が本堂を京都・奈良の仏教界から輸入したというのなら、なぜ日有は、「中堂」「金堂」「仏殿」という名称を使わなかったのか、という問題が発生するが、これは「中堂」「金堂」「仏殿」という名称を使えば、これは他宗から輸入したことが容易にバレてしまう可能性が高くなる。
特にこれらの名称は、日蓮正宗が「念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊・天台は過時の迹」と批判する宗派で使われている名称であり、これらの宗派から輸入したことがバレてしまうと、大石寺の信用は失墜してしまう。
よって日有在世当時は、使用頻度が高くなかった「本堂」の名称を使ったと考えられるのである。







■検証53・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都から輸入した堂宇・土蔵(宝蔵)

□日有が京都の土蔵造りを大石寺に輸入して完成させた堂宇・御宝蔵1

大石寺の客殿の後方の杉木立に囲まれた小高い丘の上に、御宝蔵と呼ばれる土蔵造りの堂宇がある。宝蔵とは、辞書(デジタル大辞泉)によれば
「1 貴重な物品として大切に納めておくこと。
2 宝物を納めておく蔵。宝庫。
3 経典を納めておく建物。経蔵。
4 仏語。仏の教え。」
となっている。元々は経典の仏語ということだが、これから転じて、貴重な物品、宝物を納めておく蔵という意味で使われるようになったものである。
大石寺の宝蔵は、日蓮、日興、日目をはじめとする歴代法主の大漫荼羅本尊、日蓮の遺文(御書)である諫暁八幡抄、南条殿御返事といった古文書等々の大石寺の重宝類が納められており、これらの重宝は、毎年4月に行われている霊宝虫払い大法会で虫損を防ぐ風入れが行われ、代表登山(特別登山)で大石寺に参詣した信者の前で披露される。
又、現在、奉安堂に祀られている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日有の偽作から1955(昭和30)年の奉安殿落慶まで、この宝蔵の暗がりの中に格蔵されていたことでも有名だ。

この大石寺宝蔵は、日蓮正宗の公式見解でも日蓮正宗大石寺9世法主日有の創建であるとしている。この後の検証で詳しく述べるが、日有は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作し、これを末代まで長期格蔵するために造立した堂宇である。
さてこの土蔵を日有はどこから輸入したのかというと、これも京都である。日本の土蔵の発祥もやはり京都であり、これは土蔵の歴史を紐解いていくと、解明されることである。

「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」(1993年3月・世田谷区教育委員会編)によれば

「土蔵を記録する資料としては、鎌倉時代初期の延慶2年(1309年)に描かれた『春日権現験記絵巻』がある。そのうち第14巻には火災後の京都市中の風景を描写したものがあり、白漆喰で仕上げられた土蔵が焼け残った姿で描かれている。既に切妻造りの塗り屋根形式を持ち、置屋根が載っていたと思われることから、ほぼ現在の土蔵造りに近い形式が成立していたことが推定できる。
土蔵の歴史は、上図から推定されるように火災から貴重な穀物や家財を守る耐火建築物として変遷してきた。土蔵造りと他の倉の最も大きな違いは、構造である柱・梁を不燃材である土で覆ってしまう塗屋造りと、柱を外部に出す真壁造りの違いにある。しかし本報告からも理解頂けるように、土蔵造りは工事日数が必要であり、財政的負担が非常に大きな欠点となる。そのため、どの家にも土蔵を建てることができたわけではない。また、土蔵の外部を仕上げる漆喰は、高価品として幕府から使用の制限なども加えられたため、特定の階層のみの建物として定着した。
土蔵造り、つまり耐火構造の建物は、農村にも増して、町屋や商家など都市内の建物密集地に多く建設されている。歴史は新しいが、蔵造りの街として有名な川越なども、過去の大火災を通じて土蔵造りの街に変化していくのである。」
(「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」1993年3月・世田谷区教育委員会編p138)
「火災に弱い日本の家屋構造からは、土蔵の持つ意味は大きく、以降、様々な形式に変化しながらも、今日まで存続してきた」
(「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」1993年3月・世田谷区教育委員会編p139)

とある。





■検証54・日蓮正宗大石寺9世法主日有が京都から輸入した堂宇・土蔵(宝蔵)2

□日有が京都の土蔵造りを大石寺に輸入して完成させた堂宇・宝蔵2

富山県伝統的建築技術調査報告書「富山の土蔵」(2003年3月・富山県教育委員会編)によれば、
「土蔵が文献上に姿をあらわすのは中世になるようで、延慶2年(1309年)の春日権現験記絵巻に出てくるとされる。…
室町時代に入ると防火、防犯の観点から畿内の豪商が土蔵を作りはじめ、江戸時代には江戸や大坂等においても、経済的に裕福な商人たちを中心に、土蔵造りの店蔵なども含め瞬く間に普及した。こうした風潮に対して、江戸幕府は一時、贅沢を諫めるため土蔵造りを制限する令を公布するが、たび重なる大火に業を煮やし、享保5年(1720年)には逆に瓦葺きと耐火構造の土蔵造りを推奨するようになる。地方の各藩においても、追随する布令が出されていることが知られる。
こうしたことにより、土蔵の築造技術や、技術者の発展と普及が進み、一般農家や町屋においても土蔵の建造が普及しはじめたと考えられる」
(富山県伝統的建築技術調査報告書「富山の土蔵」富山県教育委員会編p17)

脇田修・脇田晴子著「物語・京都の歴史・花の都二千年」によれば、室町時代の京都には、土倉が400軒弱あったという。土倉とは、元々は1 穀物などを保存するために地下に穴を掘ってつくった倉。あなぐら。2 土で塗った倉。土蔵(国語辞書)のことで、これが転じて、中世の金融業者のことを指している。現在の質屋にあたるもので、これは質物保管のための土蔵を建てていたのでこの名がある。土倉は、鎌倉時代より発生し、室町時代に京都・奈良で発展、室町幕府は土倉役を課して大きな財源としたのだが、室町時代の京都では、土蔵を持つ金融業者・土倉が大繁盛していたことがわかる。
まさに日蓮正宗大石寺9世法主日有が、京都天奏のために上洛したその時代である。

ではなぜ、日有は土蔵を京都から大石寺に輸入したのか。何の目的で輸入したのか。
その答えは、前出の世田谷区教育委員会編の「世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録」、富山県教育委員会編の富山県伝統的建築技術調査報告書「富山の土蔵」の文書の中に言い尽くされていると言えよう。
それはまさに土蔵造りが「火災から貴重な穀物や家財を守る耐火建築物」「耐火構造の建物」(世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録)だったからであり、その目的は「防火、防犯の観点」(富山の土蔵)である。
日有自らが偽作した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を末代まで長期保管するには、日有にとって、どうしても土蔵造りが必要だったのである。
近代以前においては、今のような消防署や消防システムがあったわけではなく、どちらかというと消防よりも、防火、耐火建築が最高の建築としてもてはやされた時代である。しかしその防火、耐火建築の土蔵造りも、
「土蔵造りは工事日数が必要であり、財政的負担が非常に大きな欠点となる。そのため、どの家にも土蔵を建てることができたわけではない。また、土蔵の外部を仕上げる漆喰は、高価品として幕府から使用の制限なども加えられたため、特定の階層のみの建物として定着した」(世田谷の土蔵・旧秋山家土蔵保存の記録)
ということである。
つまり土蔵造りの建物を建てるには、昔から経済力・財力が必要だった。
しかし湯之奥金山の金の供養を受けて莫大な経済力を握っていた日有にとっては、土蔵造りの建物を建てるのに必要な経済力は、難なく有していたと考えられる。否、むしろそれだけの経済力を有していた日有だったからこそ、京都から土蔵造りを大石寺に輸入することが可能だったと言えよう。





■検証55・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を楠木に彫刻したのか?

日蓮正宗大石寺奉安堂に鎮座している「本門戒壇の大御本尊」と称する巨大な板本尊は楠木でできていると、歴代の大石寺法主が述べている。
それでは、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するに当たって、なぜケヤキでもなく樫の木でもなくブナでもなく松の木でもなくヒノキでもなく、楠木を選んだのか、ということである。
これを解明するに当たっては、まず日本や朝鮮半島では7世紀ころまで、楠木を聖樹とする文化が存在していた、ということから検証していく必要がある。
まずは、民俗学研究者・筒井功氏の著書「葬儀の民俗学」の説に沿って、話を進めていきたい。

「日本や朝鮮半島では7世紀ころまで、楠木を聖樹とする文化が存在していた」とする説の根拠は
そのころの日本の木像仏のほとんどが楠木製であったことがその例証である。
日本には、7世紀を中心とする飛鳥時代の木造仏が21体ほど残っているが、このうち朝鮮半島・新羅から渡来したことがほぼ確実な1体を除くと、残りの木造仏はすべて楠木製である。
飛鳥時代の文化は仏教文化が興隆し、法興寺(飛鳥寺)、法隆寺などの寺院造立がつづき、そこに納める仏像が盛んに作られている。仏像は大部分が木製で、21体が飛鳥木造仏として、知られている。その21体の木造仏とは

1救世観音立像(奈良・法隆寺) 2 百済観音(奈良・法隆寺)
3〜6.四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天・奈良・法隆寺)
7虚空蔵菩薩像(奈良・法輪寺) 8薬師如来像(奈良・法輪寺)9観音菩薩像(奈良・法隆寺)
10勢至菩薩像(奈良・法隆寺)11文殊菩薩像(奈良・法隆寺)12普賢菩薩像(奈良・法隆寺)
13日光菩薩像(奈良・法隆寺)14月光菩薩像(奈良・法隆寺)15菩薩立像(奈良・金龍寺)
16菩薩半跏像(奈良・中宮寺)17弥勒菩薩半跏像(通称・泣き弥勒・京都・広隆寺)
18如来立像(東京国立博物館)19菩薩立像(東京国立博物館)
20天王立像(東京芸術大学)21弥勒菩薩半跏像(通称・宝冠弥勒・京都・広隆寺)

このうち21の通称「宝冠弥勒」と呼ばれる仏像だけ、材が赤松になっている。この仏像とそっくりな金銅製の弥勒菩薩像が韓国国立中央博物館にあり、その比較から、新羅渡来が確実視されている。
これを唯一の例外として、残る20体の木造仏はすべて楠木製である。
この時期の木彫り伎楽面19面もことごとく楠木製となっている。
さらに法隆寺金堂の天蓋にあたる奏楽天人像や鳳凰も、楠木製になっている。
さらにこの時代の古墳の木棺に楠木が使われているものがある。
奈良県広陵町の巣山古墳(4世紀前半)から出土した木棺が楠木製になっている。
2005年に韓国・釜山の北西70キロほどにあるソンヒャンドン古墳群(5世紀末〜6世紀初頭)で出土した7号墳の木棺が楠木製であった。

こうしたことについて、多くの学者・研究者が「東アジアに楠木を神聖視する文化があったからではないか」という説を立てている。




■検証56・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」を楠木に彫刻したのか2

ところが8世紀に入ると、日本では楠木製の仏像の遺品がなくなる。
これに代わって造られたのが銅像、塑像、脱活乾漆像による仏像で、8世紀後半に入ると、再び木像に戻るが、木材の素材はカヤ、ヒノキに変わり、9世紀以降の木像仏はヒノキ一色になって近世に至っている。
古墳時代や飛鳥時代にあった楠木を聖樹とする文化は忘却されたかのようであったが、しかしそれは全く消滅したわけではなく、一部の地域では楠神信仰として生き続け、21世紀の今日に至っているのである。
四国・土佐・高知あたりでは、「楠神」「楠神さま」「楠木さま」という言葉が日常的に使用され、地名にもなっている。
四国。高知県高知市弘岡上にある「楠神」と呼ばれている楠木は、幹周り9.2メートル、樹齢800〜1000年と言われる(説明板より)楠木。周辺住民によると、子供が産まれたら、ここにお参りをして楠吉とか楠太郎、クス(女性)といった名前に「楠」をつける習わしがあったという。
民俗研究者の筒井功氏の研究によれば、四国・高知・土佐地方の楠神信仰は、どんなに少なめにみても、600〜700年は経っていることが確実だとしている。

大石寺がある静岡県で見てみると、静岡県伊東市岡の葛見神社の境内には、推定樹齢1000年、環境庁の巨木調査では全国19位の楠木の巨木がある。神社関係者によると、この巨大な楠木は「ご神木」であるという。同神社の祝詞では「クスの大神」とか「クズミの大神」と書かれているようだが「御神体」とは書かれていない。
伊東市岡から伊豆半島を30キロばかり南に下った河津町田中の来宮神社にも、葛見神社の楠木と同じ全国19位の楠木の巨木の他、もう一本の楠木の巨木がある。
静岡県熱海市西山町の来宮神社には、幹周り23.9メートル、環境庁の巨木調査では全国2位の楠木の巨木がある。熱海市の来宮神社の境内には、以前は境内に7株の大楠があったが、嘉永年間(1848〜53年)、大網事件という漁業権を巡る争論が起こり、訴訟費等捻出のために5株を伐採した。旧記によると、この木も伐ろうとしたところ、白髪の老翁が現れて立ち塞がり、樵夫の持つ大鋸を2つに折ってどこかへ消えたので、それ以来神木として崇めるようになったという。もう1株も第2大楠と呼ばれて残っている。まさに「楠木神社」という感じがある。
この来宮神社の楠木は、神社の伝承によれば、和銅三年(710年)に海岸に流れ着いた一株の楠木の樹根を現在の地に祀ったというのが起源ということである。

環境庁の巨木調査による巨木リストでは、上位11本のうちの実に10本を楠木が占めている。30位までだと19本、60%が楠木である。日本の巨樹・巨木に占める楠木の割合がいかに高いかがよくわかる事例である。
とてつもない大木というのは、樹種が何であれ、見る者に畏敬の念を抱かせる。世界各地において、他を圧するような巨木は、たとえ神としてではなくとも、それに近い扱いを受けている。

日蓮正宗大石寺9世法主日有が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するに当たって、楠木を選んだのも、楠木が古くから「楠神信仰」で崇められていたことから選んだと見るのが妥当なところなのではないか。つまり「楠神」「楠神さま」「クスの大神」として崇められていた楠木を使って板本尊を造立することで、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の権威付けを狙ったと言える。
そしてもうひとつは、日有が本門戒壇の大御本尊」偽作にあたってモデルにしたひとつである奈良・法隆寺の救世観音立像が楠木の一木造りでできていること。これも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の権威付けのためであると言えよう。
さらに楠木は、防虫剤・防臭剤として効果的な樟脳を豊富に含んでいるため、楠木材は腐りにくく、枯死したあと何十年も原型をとどめることもある。長期保存が至上命題の板本尊に使う木材としては、これほど好都合な木材は他にあるまい。



■検証57・日蓮正宗大石寺9世法主日有は楠の木をどうやって入手していたのか

□湯之奥金山の金を背景にした経済力で京都の材木座衆から楠木を買い付けた日有

『 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ』 において、日蓮が「本門戒壇の大御本尊」を造れない根拠・証拠として
「日本を含む北半球は13世紀〜19世紀は『小氷期』と呼ばれる寒冷期のサイクルにあった」
「昔も今も身延山周辺、富士、富士宮、富士山周辺には、自生の楠木は存在していない」
「日蓮には、楠木を自力で調達・入手できるほどの経済力がなかった」
ということを論じたが、それでは日有は、漆や楠の木は入手できたのであろうか??

結論から言うと、日有は漆や楠の木を入手していた。湯之奥金山の金を金山衆から供養し、貢がれていた日有は、強力な経済力を有しており、この経済力を使って、漆や楠の木を入手していた。
具体的に言うと、日蓮は経済力がなかったが故に、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を造立できなかった。経済力がなかったが故に、楠木も漆も金箔も入手できなかったし、漆加工、金箔加工もできなかった。
しかし日蓮正宗大石寺9世法主日有は、莫大な経済力を有していたが故に、「本門戒壇の大御本尊」偽作ができたのである。
つまり、日有は、莫大な経済力で、楠木を買い入れ、運搬業者を雇って運搬業者に楠木を大石寺に運搬させ、仏師を雇って「本門戒壇の大御本尊」を彫刻させ、漆を買い入れ、漆職人・金箔職人を雇って、「本門戒壇の大御本尊」に漆加工・金箔加工を施したのである。
その日有の莫大な経済力の源泉とは、大石寺の北方15キロぐらいの所にあり、ちょうど日有が大石寺法主に登座したころに発見された甲斐国(山梨県)の湯之奥金山の金である。日有はこの湯之奥金山が産出した金を入手していた。したがって、最大のポイントは経済力である。

楠の木とは、材や根を水蒸気蒸留し樟脳を得るが、そのため古くからクスノキ葉や煙は防虫剤、鎮痛剤として用いられ、作業の際にクスノキを携帯していたという記録もある。また、その防虫効能から家具や仏像などにも広く使われていた。

日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、楠の木で造られているが、防腐効能のある黒漆が表面に塗ってあることを考え合わせれば、日有は末代万年までの長期保存のために、防虫効能のある楠の木を「本門戒壇の大御本尊」偽造にあたっての木材にあえて選んだと考えられる。

また1432(永享4)年3月、日有は、京都の室町幕府へ国家諌暁の申し状を上呈するために、京都へ上京しているが、当時、室町時代の京都では商工業が発達し、中世の同業者組合である「座」が京都にも多数あり、薬、唐物、綿、酒、味噌、素麺、襖、材木、炭、銅、馬などの商品を扱うだけではなく、銅細工、銀細工、刀鍛冶などの手工業の座も存在した。
湯之奥金山の金による、大きな経済力を持っていた日有は、京都の「材木座」などから楠の木を買い入れるなどということは、さほどむずかしいことではなかったであろう。

これらのことからしても、日有は、室町幕府に国家諫暁するために京都に行ったことで、京都の「材木座」衆などから楠の木の存在を知り、そこから自らの湯之奥金山の金を背景にした経済力で、楠の木を買いつけたと考えられるのである。





■検証58・なぜ日有は「本門戒壇の大御本尊」に漆加工を施したのか

□平安・鎌倉・室町時代の長期保存のための木材防腐加工とは漆加工・金箔加工だった

それではなぜ日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に、高価な漆加工を施したのか。
それはまず第一に、平安・鎌倉・室町時代の長期保存のための木材防腐加工とは漆加工・金箔加工だったこと。
第二に、漆加工を施すことに依る、末法万年に保存・格蔵していく必要性から。
第三に、漆加工を施すことに依る、権威付けのためということができる。

これらのことを証明するためには、歴史的事実をもって論証していくしかない。
中国における漆器の製作は、およそ六千年前と言われ、中国の殷(いん)(紀元前1600年頃 - 紀元前1046年)の遺跡から漆器の一部が発掘されている。
日本では、北海道垣ノ島B遺跡で、約9000年前(縄文時代早期)のものとみとめられる腕輪などの漆製品が発見されている。島根県夫手遺跡(それていせき)では、6800年前という縄文時代前期初めとみられる土器の底に付着した漆が発見されている。
このように日本でも、かなり古い段階から漆工芸の技術を習得していたことがわかる。
漆には光沢や防水性や粘着性があるため、縄文時代晩期(前1000〜前300)になると土器・弓・装身具(→装身具の「日本」)などに塗料としてもちいられた。なかでも晩期を代表する東北地方の亀ヶ岡文化圏では赤色・黒色の漆をぬった土器・飾り刀(たち)・弓・耳飾り・櫛(くし)・腕輪・竹をつかった籃胎漆器(らんたいしっき)などが多数出土している。青森県是川(これかわ)中居遺跡では漆をつめた土器や、漆の色彩料として赤色顔料のベンガラ(酸化第二鉄)をつめた土器などもみつかり、かなり大規模に漆工芸がおこなわれていたことがわかる。

奈良時代の正倉院宝物には、漆絵、平文(ひょうもん)、漆皮(しっぴ)、螺鈿、密陀絵(みつだえ)など、さまざまな漆技法をつかった楽器や調度品が残っており、唐代の漆芸技法が日本に伝わったことを示している。国内でも、当麻寺の「当麻曼荼羅厨子」に金銀泥絵を施し、金平文による飛天文があらわされた例がみえる。また乾漆による仏像や器物も盛んに造られた。 漆塗り加工が成されている正倉院宝物は、全く腐食劣化せずに、今日、当時のままの姿で残されている。
奈良時代になると、蒔絵技法がおこり、貴族の生活調度や経箱などをやまと絵風の文様でかざるようになった。中尊寺金色堂の内陣や須弥壇は、黒漆塗に金銀、螺鈿、蒔絵で名高い。
鎌倉時代になると、浮彫彫刻に漆をかけた鎌倉彫が考案され、また、平蒔絵、高蒔絵など、蒔絵の基本的な技法が完成した。一方、朱漆に黒漆をかけた根来(ねごろ)塗、透漆(すきうるし:透明度の高い精製漆)の春慶塗などの無文漆器や、沈金もこのころ生まれた。

蒔絵(まきえ)とは、蒔絵筆によって漆で模様を描き、その漆が乾かないうちに金粉や銀粉をまき、研ぎ出しや磨きを行うことで模様を作り上げる。平蒔絵、研出蒔絵、高蒔絵などの技法がある。
沈金(ちんきん)とは、沈金刀で漆の表面を線刻し、その彫り跡に金箔や銀箔をすり込んで文様をつくるもの。
これからわかるように、漆加工と金箔が押されるなどの金による加工は一体のものなのである。

国宝や重要文化財として残っている正倉院宝物、中尊寺金色堂の内陣や須弥壇などは、黒漆塗りに金の加工が施されている代表的なものである。このように、縄文時代・弥生時代からはじまった漆加工であるが、平安・鎌倉・室町時代の長期保存のための木材防腐加工とは漆加工・金箔加工と決まっていた。したがって、こういった歴史的事実からしても、大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊を、板に彫刻させた時点において漆加工・金箔加工をその時に完成させていなれれば、教義との整合性に矛盾が出る。
こういったことから、日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に漆加工を施したと考えられるのである。


■検証59・日有は黒漆をどうやって入手していたのか1

日蓮正宗大石寺9世法主日有は、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作するにあたって、黒漆をどうやって、どこから入手したのだろうか?あるいは漆工をどこから招聘したのだろうか。
漆工職人という人は、どこにでもいるわけではない。漆工職人が多いのはまず漆器の産地であり、大都市の大寺院・京都御所、幕府周辺である。
日本各地には、漆工芸を古くからの伝統工芸としている地域が多数ある。それらの主なものを書き出すと、次の通りになる。

青森県・津軽漆器、
秋田県・能代春慶・川連漆器
岩手県・秀衡塗・浄法寺塗・正法寺塗
宮城県・鳴子漆器
新潟県・村上木彫堆朱・新潟漆器
福島県・喜多方漆器(北方地方)・会津漆器
茨城県・粟野春慶
栃木県・日光彫
東京都・江戸漆器
神奈川県・芝山漆器・鎌倉彫・小田原漆器
静岡県・静岡漆器
長野県・木曽漆器
岐阜県・飛騨春慶
石川県・輪島塗・金沢漆器・山中漆器
富山県・高岡漆器
福井県・越前漆器・若狭塗
滋賀県・日野椀
京都府・京漆器
奈良県・奈良漆器
和歌山県・紀州漆器(根来塗、黒江漆器)
岡山県・郷原漆器
島根県・八雲塗・出雲漆器
山口県・大内塗
香川県・香川漆器
愛媛県・桜井漆器 (今治市)
福岡県・久留米籃胎漆器
宮崎県・宮崎漆器
沖縄県・琉球漆器

この中で、日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代から漆器の生産が盛んで、なおかつ日有と繋がりがあると考えられるのは、京都の京漆器、そして岩手県や秋田県の漆器である。
日有と京都の接点は、日有は1432(永享4)年3月、京都の室町幕府へ国家諌暁の申状を上呈するために京都に上洛していること。
日有と東北の接点は、北関東・東北地方に、室町時代からの古い歴史を持つ日蓮正宗寺院の存在があり、日有自身も法主に登座してから、東北地方に巡教しているということがある。
同じように日有との接点が考えられる会津漆器や新潟漆器、春慶塗といったものは、日有の時代にはまだ存在していなかった。
したがって、有力なのは、京都の京漆器、そして岩手県や秋田県等の東北地方の漆器である。



■検証60・日有は黒漆はどうやって入手していたのか2

「漆を科学する会」によると、日本では岩手県や茨城県,新潟県,栃木県などが主な産地で、このうち,岩手県が全生産量の約70%を占めているという。
平成8年度の林野庁の統計によると岩手県(1850.0kg),茨城県(830.0kg),新潟県(281.0kg),栃木県(86.0kg)などで計3189.6kgとなっている。
福島県喜多方市の「喜多方うるし美術博物館」によると、 福島県喜多方市の漆の生産の歴史は、約500年前の昔(1400年代)にまで遡るという。 室町戦国期に大名芦名氏が、漆樹植栽を奨励。さらに1590(天正18)年、蒲生氏郷が近江国(滋賀県)から、漆の生産のために木地師と塗師を招いたという。
永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」によると、1408〜1428年ころ成立したとされる「庭訓往来」という書物から1400年代のころの地方の特産品として「奥漆」が記載されており、東北地方の漆をあげている。

「日本漆工の研究」という本によると、全国各地の漆工芸の歴史についての記述がある。これによると大石寺の地元の静岡県の場合は、静岡漆器は今川氏の時代にすでに生産していたと書いてあるのだが、しかし本格的に静岡漆器が発展の途についたのは、1634(寛永11)年に徳川家光が浅間神社を造営した時に、諸国の漆工を駿河に招集して社殿を建設させたのだが、浅間神社竣工後も駿河に永住する者が出て、この漆工が静岡漆器の基盤となって順次発展の途についたものと書いてある。 となると、日蓮正宗大石寺9世法主日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するに当たって、静岡漆器の漆工を使った可能性は非常に低いといえるだろう。

日有の時代以前から日蓮正宗寺院がある東北・北関東地域は、栃木県、福島県、茨城県、宮城県、岩手県であるが、その中で漆、漆工芸品の生産が盛んだったのは岩手県である。
日蓮正宗末寺はないが、岩手県のとなりの秋田県の川連漆器も1193(建久4)年にはじまったという歴史をもっている。

福島県の会津漆器は、室町時代の芦名氏が領主だった時代に椀類やその他の漆器を生産したことがはじまりだという。
栃木県の日光彫は、徳川家康の日光廟造営の際に、諸国の漆工が日光に集まり、日光廟が竣工後も永住して日光彫の基礎を築いたのがそのはじまりであるという。
茨城県の粟野春慶塗は、1491(延徳3)年、稲川山城守源義明の発明であるという。
宮城県の場合は、仙台市が伊達家の居城となるや東北における文化の中心になり、漆工芸も大いに発達し、伊達家には漆工芸の逸品を多数所蔵しており、伊達家累代の廟所である瑞鳳殿の装飾は蒔絵を施し壮麗を窮め畳下の床も黒漆になっている。したがって宮城県の場合も、伊達家が領主になって以降のことと考えられる。

岩手県の浄法寺椀・正法寺椀の生産は、鎌倉時代にはすでに行われていたとされている。浄法寺椀の起源は浄法寺町御山の天台寺において自家用の漆器を生産したことがはじまりだという。
浄法寺町御山の天台寺という寺は、作家でもある瀬戸内寂聴氏がかつて住職を務めていた寺である。これが日有との直接的な関係を模索してみると、日有の東北巡教が挙げられる。
こうして見ると、漆の生産が多い地域と、日有の時代以前から、東北・北関東に日蓮正宗寺院が散在している地域が、わりと重なり合うのである。
日有の時代以前からある東北・北関東に散在している日蓮正宗寺院とは、奥州宮野(宮城県栗原市)の妙円寺、下総(茨城県古河市)の冨久成寺、会津黒川(福島県会津若松市)の実成寺、下野平井(栃木県栃木市)の信行寺、下野金井(栃木県下野市)の蓮行寺、などである。
実際に、日有は日蓮正宗大石寺法主の在職中に、奥州方面に巡教に出かけていることが日蓮正宗大石寺の文献に載っている。
これらのことから、まず日有は、湯之奥金山の金の経済力を背景にして、これらの地方の日蓮正宗寺院や信者を足掛かりにして、漆を入手していたという説が考えられる。
ただし時系列的に考えると、日有の東北巡教は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊偽作の後に行われた可能性のほうが高いので、東北地方の漆説は、いまひとつ説得力に欠ける。



■検証61・日有は黒漆をどうやって入手していたのか3

さてもうひとつの京都の京漆器説を検証してみたい。

永原慶二氏の著書「日本の歴史10・下克上の時代」によると、室町時代になると、農業生産の向上によって商業や手工業の世界にも、これまでにない活気を呼び起こし、「有徳人」と呼ばれた富裕な金持ち層が京都をはじめ、日本各地に出現。
そして貨幣流通による経済発展によって1400年代の京都の町は、驚くほど変貌したという。このころの京都は、古代都市の殻を完全に抜け出して、新しい装いの中世都市に変貌。
中世の同業者組合である、いわゆる「座」も京都にも多数あり、薬、唐物、綿、酒、味噌、素麺、襖、材木、炭、銅、馬などの商品を扱うだけではなく、銅細工、銀細工、刀鍛冶などの手工業の座も存在した。
中世都市・京都のメインは、なんといっても商人・手工業者などの市民であり、有徳人と呼ばれた人たちだった。彼らはやがて町衆とよばれ、自治的な市政の担い手にもなっていった。
京都が中世都市として急速に発展した理由のひとつは、南北朝・室町時代になって幕府が京都に開かれ、将軍の奉公衆が全国各地から上京し、また多数の守護大名たちが軍隊を引き連れて京都に駐留するようになったことがある。
それによってにわかに多くの消費人口を作り出し、それにともなって京都に流れ込む物資も必然的に急増し、京都の手工業生産・商業活動が強く刺激された。

この中で、材木を扱う座や、刀鍛冶などの手工業の座があったことに着目したい。
1432(永享4)年3月、日有は、京都の室町幕府へ国家諌暁の申し状を上呈するために、京都へ上京しており、その他、日有の時代には、今の富士門流・日蓮本宗本山・要法寺の前身である上行院などの日尊門流の僧侶が、日蓮正宗大石寺に上ったりしている。まだこの時代は、日蓮正宗大石寺と日尊門流の寺院が交流があったようなのである。

京都は、平安遷都以後現在に至るまで、政治・文化と同様に日本の漆工芸の中心地として王朝貴族の祭祀装飾品から茶道具まで特に手間隙をかけた完成度の高い漆器を送り出してきた。
京漆器は全国の漆器産地の中でも、とりわけ薄い木地を用い、入念な下地を施し、洗練された優美な蒔絵が施された、日常的に使う器というよりも「美術工芸品」としての価値観に基づいてつくられる漆器である。
京漆器の顧客は主に公家や商家、武家といった人たちだったが、これら公家・商家・武家と隣接し発達した京漆器は薄く繊細で気品高いデザインをもち、また、代表的な輪島塗の5倍〜10倍と非常に高価であると言われるほどである。
こうした京漆器の工芸品は大名同士の贈答品にも用いられ全国に伝播したことから、地方漆器の起源や生産工程に、大きな影響を与えている。

京漆器の特徴は薄手の木地に漆と澱粉糊で麻布を貼って補強し、その上に京都市山科区から産出する「山科地之粉」「山科砥之粉」等を漆で練り合わせてペースト状にした「地錆漆」「錆漆」という下地材を何層にもわたって塗り重ね、さらに器の角の部分をより鋭角を際立たせ、丈夫にするために補強する「くくり錆」という工程をはさみ、黒や赤のうるしを塗り重ねていくという「本堅地」という漆工芸において最も基本的な製作工程にある。
京漆器では下地材を調合する際に用いる漆の割合が50%以上と、樹脂固形分の高い下地を施すため、コストはかかるが堅牢な器ができる。



■検証62・日有は黒漆をどうやって入手していたのか4

「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作して、末代万年にわたって大石寺の重宝とすることを考えていた日蓮正宗大石寺9世法主日有は、より堅牢な板本尊を製作するためには、京漆器の技術は、まことに都合のよいものとして目に映ったことだろう。
たとえ京漆器が、輪島塗の5倍〜10倍の高価なものであったとしても、甲州・湯之奥金山から産出されていた金の利権を握っていた日有にとっては、それがどれだけ高価なものであったとしても、全く関係なかったものと考えられる。
「カネに糸目をつけない」ほど高価な買い物ができるくらい、当時の「金」の経済力というものは、すさまじいものがあった。

貨幣流通による経済発展によって1400年代の京都の町は、古代都市の殻を完全に抜け出して、新しい装いの中世都市に変貌し、中世の同業者組合である、いわゆる「座」も京都にも多数あり、薬、唐物、綿、酒、味噌、素麺、襖、材木、炭、銅、馬などの商品を扱うだけではなく、銅細工、銀細工、刀鍛冶などの手工業の座も存在した。
中世都市・京都の担い手は、商人・手工業者であり、有徳人と呼ばれた人たちだった。彼らはやがて町衆とよばれ、自治的な市政の担い手にもなっていった。
つまり、室町時代、1400年代当時の京都は、貨幣経済の発達によって「カネさえ出せば、何でも手に入る」街になっていたのである。

そうすると日有の時代以前から漆工芸品の生産が盛んで、なおかつ日有との直接的な関係があるところといえば、それは京都ということになる。
日有との直接的な関係というのは、1432(永享4)年3月、日有は京都に天奏・上洛している。
又、京都の漆工という点で言うと、「日本漆工の研究」によれば、平安時代から安土桃山時代にいたる日本の漆工の歴史は、そのまま京都漆器の沿革であるとすら書いているくらいである。

私が漆加工の専門家や石川県輪島市の石川県輪島漆芸美術館に直接取材したところによると、仮にこうした板本尊を漆加工するとなれば、漆をどこからかから調達して自分たちで漆加工を仕上げるよりも、漆と漆加工職人を工賃を支払って雇い、金銭を支払って雇った職人が板本尊の漆加工を仕上げる方法のほうが、現実性があるという。

また同時に、日有は、京都天奏の旅によって、商人・手工業者、有徳人と呼ばれた人たちで繁栄し、貨幣経済の発達によって「カネさえ出せば、何でも手に入る」街になっていた京都の街中の様子も、とうぜん知っていたはずである。すでに湯之奥金山の金を入手して、大きな経済力を握っていた日有は、その経済力を背景にして、材木座から楠の木を購入し、刀鍛冶などの手工業の座から漆加工・金箔加工の職人を招いて、「本門戒壇の大御本尊」を偽作したとも考えられる。

「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作するための、漆や漆工芸の職人を、日有は京都から調達してきたと見るのが妥当であると結論づけられる。
したがって、日有が黒漆を手に入れた所としては、京都の京漆器が最も有力である。





■検証63・日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っていない1

かつて私が「日蓮正宗大石寺9世法主・日有は大石寺門流で最初に京都天奏を果たした法主である」と書いたら、日蓮正宗の信者とおぼしき人物から「大石寺では4世日道上人と5世日行上人が京都天奏に行っている」という反論が来た。
しかし日蓮正宗の「富士年表」では、1336年の日道の申状については「日道 申状を書す」としており、日道が上洛天奏をしたとは書いていない。1342年の日行の申状については「日行 上洛天奏、又武家に申状を上る」としており、実に曖昧な書き方をしている。

もちろん、日道も日行も、京都に上洛し天奏などしていない。これは歴史的事実として認められないのである。それは以下の理由による。

□(1) 1336年、1342年当時の大石寺は、日郷門流との蓮蔵坊をめぐる七十年戦争の真っ只中のことであり、大石寺法主が大石寺を空けてはるばる京都まで天奏するために上洛するなどということは、物理的、経済的に不可能だった。

京都天奏のために長期間、大石寺を法主が不在になると、日郷門流によって蓮蔵坊が占拠されてしまう恐れや重宝類が日郷門流に強奪されてしまう恐れがあった。
この大石寺と日郷門流の紛争が最終的に終結したのは1405(応永12)年、6世法主日時の時のことであり、それでなくても大石寺は日郷門流に日蓮の御影像を持ち去られていた。

□(2) 1336年、1342年当時といえば、天皇家・朝廷が南北朝に分裂していた。大石寺は、暦応、貞和、文和、延文、貞治、応安、至徳と北朝の元号を使用しているが、その京都北朝の天皇は三種の神器を持っていなかった。

□(3) 1336年2月といえば、足利尊氏の京都入京と、それによる後醍醐天皇の延暦寺移動、さらに足利尊氏の敗走と、京都は南北朝の戦争により戦乱状態の真っ只中にあった。
しかも足利尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されたのは1338年のことであり、1336年の段階では、後醍醐天皇の建武の新政府は崩壊状態になっていた。

□(4) 1342年の京都の政治情勢も、1336年と比べても全く好転せず、京都は北朝・足利軍と南朝派の軍勢により、戦乱が絶えない状態だった。
南北朝が足利義満の明徳の和談で合一して京都の政治情勢が安定したのは1392(明徳3)年のことである。

□(5) 南北朝時代は京都に限らず、武家も北朝派と南朝派に分裂しており、日本各地で戦乱が絶えない情勢だった。
こういった中で京都上洛の旅をすることになると、北朝の元号を使用していた大石寺一行は、南朝派に襲撃されかねないという脅威にあった。したがって、この時代の京都上洛の旅は、安全と治安の面において、非常に危険であった。そういう中を京都に上洛しようとすれば、警護の武士・信者を相当数、引き連れていかねばならない。
日郷門流との紛争の最中にあった大石寺が、この時代に、京都上洛しようとすれば、莫大な経済的費用がかかるのみならず、人的負担が重くのしかかることになる。
当時の大石寺は、それらの経済的負担、人的負担を背負うことは不可能だったと考えられる。

□(6) 日道、日行の時代は、京都・上行院に日尊門流の開祖・日尊がまだ存命していた。日道と日尊、日行と日尊の間に天奏協力依頼文書の往復や交流があった形跡は全くない。

日尊が死去したのは1345(興国6)年5月8日のことである。
日尊は1333年の三祖日目の天奏の旅に随行しただけではなく、1338(延元3)年11月には自ら申状を呈している。しかも日尊は日目の死後、しばらく日道と交流があった。したがって、日道、日行が京都天奏の旅に出るということになれば、京都に滞在している富士門流の日尊の協力を得ようとするのが普通ではないか。よって日道と日尊、日行と日尊の間に文書の往復があっておかしくないはずだが、大石寺と日尊門流の間に、そのような文書の往復や交流があった形跡は全くない。その影も片鱗すらもないのである。
ちなみに1339(延元4)年10月、北山本門寺2代住職日妙が天奏をしているが、この直後に北山本門寺と日尊の間に文書のやりとりがあった記録が残っている。

以上のようなことから、日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っておらず、「富士宗学要集」に収録されている日道申状、日行申状は、申状だけを書いて実際は天奏に行かなかったため申状だけが残っているものか、ないしは実際に京都上洛・天奏をした9世法主日有が、自らの申状といっしょに添えるために偽作したものと考えられるのである。



■検証64・日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っていない2

日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っていない証拠は、他にもまだある。

□(7) 日蓮正宗大石寺4世法主日道が、実際は京都天奏に行っていないということは、日蓮正宗法主が公式に認めていることである。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「富士宗学要集」8巻の「四世日道の諫状」の欄に、次のように書いている。

「道師(日道)は諫状を草案しかけたるも奉呈するの機なし。日寛上人補足して現申状を作りて其志を満せりとの説あり。或いは然らん延元元年二月は蓮蔵坊事件の当時なり。何ぞ上洛の暇あらん。鎌倉すらも覚束なき時なり。然りと云へども寛師(日寛)以前の古目録に猶道師申状あり。」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8巻p338)

堀日亨は、大石寺4世法主日道は、申状の草案(下書き)は書いて完成させたのだけれども、京都天奏に実際に行く機会がなかった。日道の草案に大石寺26世法主日寛が補足・加筆して、今の「日道申状」を完成させたとする説がある。あるいは、日道が申状を上程したとする1336(建武3・延元元)年2月といえば、まさに蓮蔵坊事件の真っ最中のことである。こういう紛争の最中に、どうして京都天奏に行く暇があるだろうか。ましてや鎌倉さえも、騒乱の最中だった時のことである。
そんなことができるはずがないではないか。しかし、日寛以前の古い目録に、この日道申状が収録されているのである。と言っている。
つまり堀日亨は、公然と「日道は1336(建武3・延元元)年2月に京都天奏に行っていない」と言っているのである。

又、日蓮正宗が公式に出している「日蓮正宗富士年表」でも、1336(建武3・延元元)年2月の欄には「日道 申状を書す」とあるだけで、この書き方は、1432(永享4)年3月の日有天奏の欄の
「日有 申状を幕府に程し京に遊化」という記載と大きくちがったものになっている。

つまり日蓮正宗としても、日道が1336(建武3・延元元)年2月には、実際に京都に天奏・上洛に行っていないという見解であることが明らかである。
日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、4世法主日道が1336(建武3)年2月に、実際は京都天奏には行っていないとする理由について
「然らん延元元年二月は蓮蔵坊事件の当時なり。何ぞ上洛の暇あらん。鎌倉すらも覚束なき時なり。」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』8巻p338)
と言って、日道が申状を上程したとする1336(建武3・延元元)年2月といえば、まさに蓮蔵坊事件の真っ最中のことである。こういう紛争の最中に、どうして京都天奏に行く暇があるだろうか。ましてや鎌倉さえも、騒乱の最中だった時のことである。そんなことができるはずがないではないか、という説を唱えている。
それならば、5世法主日行が1342(興国3)年3月に上洛天奏をしたとする日蓮正宗の歴史も、実際は「行っていない」ということになる。日行の場合も、ケースとしては同様である。



■検証65・日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っていない3

日蓮正宗大石寺5世法主日行の場合は、さらに実際は京都天奏・上洛の旅には「行っていない」と考えられる証拠がある。

□(8) 1342(興国3)年3月の日行の上洛天奏の時に、日行が時の天皇と直接面会したなどとウソを説法していた日蓮正宗大石寺9世法主日有が語った「有師物語聴聞抄佳跡上」

日蓮正宗大石寺9世法主日有が語った内容であるとする「有師物語聴聞抄佳跡上」という文書の中に、次のような文がある。

「されば日行上人の暦応年中の御天奏の時、白砂にひざまづき御申状を読給しかば、紫宸殿の御簾の内に帝王御迁有りて揣々と日行を御覧じけるが少し打そばむき給ひける程に、日行上人是如何なる御気色なる覧と在りければ、奏者御袈裟を抜き給へりと在りける程に、其時白砂の上に扇を開き其上に袈裟を置いて御申状を遊しければ、又打向ひ給いて聞かせ給ひけるとなり」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』1巻p226)

難解な古文の訳はさておくとして、問題なのは、1342(興国3)年3月の日行の上洛天奏の時に、日行が時の天皇と直接面会したとしているところである。これは有り得ないことである。
というのは、「伝奏」とよばれる、取次ぎ奏聞(そうもん)することをつかさどる役職があって、申状は「伝奏」が天皇に取り次ぐからである。仮に日行の天奏が事実としても、いくら何でも日行が天皇と直接は面会できない。今も昔も天皇に直接に面会できる人というのは限られており、そこには厳然と身分の差というものが存在している。
したがって、「有師物語聴聞抄佳跡上」の文の内容は、全くの捏造と考えられる。

□(9) 日行申状のみ、日行の名前と「誠惶誠恐」の四字が脱漏している

さらに不審なのは、「日行申状」の冒頭の箇所である。そこには次のようにある。

「日蓮聖人の弟子日興の遺弟等謹んで言す」(『富士宗学要集』8巻p339)

どういうことかと言うと、申状の冒頭は、
「日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す」(日目申状)
「日蓮聖人の弟子日興の遺弟日道誠惶誠恐謹んで言す」(日道申状)
「日蓮聖人の弟子日興の遺弟日有誠惶誠恐謹んで言す」(日有申状)
というふうに、申状を呈する法主の名前と「誠惶誠恐」の四字が必ず入っているのに、日行申状のみ、日行の名前と「誠惶誠恐」の四字が脱漏している。
「誠惶誠恐」とは、辞書によれば
「まことに恐れかしこまること。臣下が天子に自分の意見を奉るときに用いる。▽「惶」は恐れかしこまる意。「惶」「恐」それぞれに「誠」を重ねて、丁寧に強調した言葉。『誠まことに惶おそれ誠まことに恐おそる』と訓読する。」
と書いてある。
したがって、天皇・将軍に対する申状に、申状を呈する法主の名前と「誠惶誠恐」の四字が脱漏しているなどとは、考えられないことである。

以上のことから、「日行申状」は日蓮正宗大石寺5世法主日行の真筆とは認めることはできず、後世の偽作と判定するものであり、日行は実際には、京都天奏に行っていないものと判定せざるを得ないのである。



■検証66・日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っていない4

□小泉久遠寺・保田妙本寺開祖・日郷の京都上洛と実際に天奏をしたかどうかは別問題である
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(日蓮正宗信者の妄説)
小泉久遠寺・保田妙本寺の開祖・日郷が康永4年(1345)2月、貞和5年(1349)12月と二度も京都天奏に旅立っており、しかも康永4年(1345)2月の天奏は、上杉管領を伝奏して、光明天皇から綸旨・嵯峨天皇宸翰の法華経十巻を拝領したと『富士年表』に載っている。したがって、日道上人、日行上人が天奏に行っていないというのは、おかしい。
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日郷が、康永4年(1345)2月と貞和5年(1349)12月に京都に上洛しているのは史実であり、当時は大石寺一門と日郷門流の蓮蔵坊七十年紛争の真っ直中だったが、1338(建武5)年、上野郷の地頭・南条時綱が日郷に蓮蔵坊の寄進状を発行し、さらに南条時綱の子・時長が再び日郷一門に証状を出すなど、南条家が日郷門流に味方していたので、日郷は京都上洛に行くだけの経済力は有していたと考えられる。
日蓮正宗では、「日郷が京都に上洛した」=「天奏をした」と極めて短絡的な決めつけ方をしているが、日郷が京都に上洛したことと、実際に天奏をしたかどうかは、別問題である。

日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、自らが編纂した「富士宗学要集」第8巻に、日郷の京都申状を収録しているが、次のような解説文を載せている。

「日郷の国諫 郷師(日郷)は目上(日目)の意を体して期年ならずして二回の国諫を為した、現存の分は第一回のである。第二回の分は不明である。但し日眷の助力たるや論なし。祖滅六十四年、古写本妙本寺に在り」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』第8巻p371)

日郷は康永4年(1345)2月と貞和5年(1349)12月に京都に上洛して国諫(国主諫暁)を行っているが、「富士宗学要集」第8巻に堀日亨が収録したのは、第一回の康永4年(1345)2月の国諫の時の申状であり、第二回目については不明であると言っている。

それから、康永4年(1345)2月の天奏で、日郷が上杉管領を伝奏して、光明天皇から綸旨・嵯峨天皇宸翰の法華経十巻を拝領したとする『富士年表』の記事だが、根拠としている「富士宗学要集」第8巻の古文書には、次のように書いてある。

「(端裏書)九十八代光明院の詔勅、康永四乙酉貞和元と改む 三月十五日 日郷へ
教法流布の次第を檢へ捨劣得勝の諫牒を録して万機照々の上聞に備へらる、盍ぞ一心冥々の下情を恤まざらんや、然れば則ち仏法の為め弥よ積功累徳の修行を励み須く緇素貴賤の帰依を期すべきの由、天気候ふ所なり仍って執達件の如し。
康永四年乙酉三月十五日  頭の左中弁宗光奉る」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』第8巻p371)

光明天皇の綸旨の正本が残っているわけではなく、日郷申状の写本の裏書きに、光明天皇から詔勅を受けたとの記載があることから、これを日蓮正宗では史実として、「富士年表」に記載しているというわけである。
しかし光明天皇の綸旨の正本が残っておらずに、裏書きとして書いてあるだけでは、史実としては大いに疑わしいと言えよう。

■綸旨(りんじ)

蔵人(くろうど)が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。

歴史学者・井沢元彦氏は著書「逆説の日本史」の中で、後醍醐天皇の「建武の新政」期における綸旨の横行について、概略、以下のように書いている。

「天皇の正式な命令は「詔勅」(しょうちょく)という。これは太政官を経由する手続きが面倒であるため、そのため「宣旨」(せんじ)という略式の命令が考え出された。これは天皇が側近の女官を通じて蔵人(天皇の秘書官)に意志を伝え、それが蔵人から担当官庁の長(上卿)に伝えられて、最終的にその省庁から出されるという形をとる。
しかしこれでは太政官による合議という手続きは省けるものの、機動性を欠き、時間がかかるという欠点がある。
そこで考え出されたのが綸旨である。
綸旨は、天皇の意志が蔵人に直接伝えられ、蔵人が「お上の御意志はこうである」という形で出す文書である。署名するのは天皇自身ではなく蔵人なのだが、こうしておけば面倒な手続きを踏まず、ただちに命令を下すことができる。
後醍醐天皇は、この綸旨を愛用した。
まず平安時代から鎌倉時代にかけて、最も重大な政治課題であった土地所有権についても、北条氏が亡んだわずか十日ほど後に
「既に日本は平和になった。朕(後醍醐天皇)の聖徳が日本全土に及んだのである。これ以後、綸旨を受けた者のみが自由に自己の権利を主張することができるのだ」----
つまり平安、鎌倉を経て営々と積み重ねられてきた土地所有の慣習・既得権を全て白紙に戻し、新たに綸旨を得た者だけが、その権利を主張できると、後醍醐天皇が宣言した。
つまり後醍醐天皇の意志を称する綸旨を、唯一最高の権威とし、実質的に「天皇の言葉が法律だ」状態にしてしまった。
これによって日本の貴族、公家、武家、豪族といった土地所有者は、その所有権を失ってしまった。自分の土地を安堵(保証)してもらうには、後醍醐天皇の綸旨をもらわなくてはならなくなった。
逆に言えば、昔、何らかの形で土地の所有権を失った者も、後醍醐天皇の綸旨があれば、土地を取り戻せるということになる。
土地所有者たちは京都に殺到。又、奪われた土地を取り戻そうとした人たちも京都へと駆けつけた。大領主といえども、後醍醐天皇の綸旨ひとつで土地を失ってしまいかねない事態になった。
これにより京都は大混乱になった。京都に押しかけた人の中には、百年以上も前の承久の乱で失った土地を取り戻そうとした人までいたという。
これにより「ニセ綸旨」が横行。綸旨万能主義になったからこそ、ニセ綸旨が多数作られた。より正式な文書である「詔勅」や「宣旨」に比べて、綸旨はニセモノを作りやすいということもある。
なにしろ綸旨には、天皇の署名も印(御璽)も必要ないのだから」
(井沢元彦氏の著書『逆説の日本史』6巻p454〜457)

井沢元彦氏の見解によれば、綸旨という文書は、ずいぶんといい加減な文書だったようである。
ニセ綸旨までが多数作られて、これが横行したというのだから、鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝時代という日本の政治の大混乱期の象徴的な出来事ということができる。





■検証67・日蓮正宗大石寺4世法主日道・5世法主日行は京都天奏に行っていない5

□小泉久遠寺・保田妙本寺開祖・日郷の申状は京都の天皇の元には伝奏されていない

日蓮正宗大石寺9世法主日有の申状は、朝廷への伝奏を司る比叡山延暦寺をはじめ南都六宗・八宗の京都・奈良の大寺院から宜面なく門前払いにされてしまうという屈辱を味わったということを書いたが、申状が天皇の元に届けられないのは、日郷とて同じである。
当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う官寺の「戒壇」で授戒されない僧侶は、僧侶としてすら認められなかった。
日郷も申状の中で日蓮の遺弟を名乗っているものの、朝廷や朝廷公認の南都六宗・八宗の僧侶からすれば、朝廷公認の官寺での修行経験の全くない日郷は所詮、駿河国の私度僧にすぎないということになる。

日郷の国諫の場合は、上杉管領を伝奏したと「富士年表」に書いてあるが、この上杉管領とは、京都・室町幕府の管領ではなく、鎌倉の関東管領・上杉憲顕のことと思われる。
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職名である。当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。
当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清らが任じられる。関東執事は初期においては斯波氏、畠山氏が就任していたが次第に上杉氏に独占されていき、最終的には上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は上野、伊豆の守護も担っていた。
関東管領は、室町幕府の将軍への伝奏はするが、京都朝廷の伝奏まで行う権限は持ち合わせていない。よって日郷の申状が関東管領・上杉氏によって伝奏されたとしても、室町幕府の足利将軍止まりであり、とても天皇の元にまでは伝奏されないということになる。

保田妙本寺の古文書を研究している千葉大学大学院人文社会科学研究科教授の佐藤博信氏の著書「安房妙本寺日我一代記」の中で、日郷が康永4年(1345)2月、貞和5年(1349)12月と二度、宗義天奏のために上洛したことは史実として書いているが、光明天皇の詔勅の件については一言も書いておらず、佐藤博信氏はこれを史実と認めていないものと考えられる。
ちなみに佐藤博信氏は、宗義天奏の言葉の意味について
「諫暁=宗義天奏(天皇や将軍に日蓮宗の教義を信仰するように奏上すること)」(『安房妙本寺日我一代記』p15)
と書いており、京都の足利将軍に諫暁することも天奏に含めている。
日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「天奏」と云う言葉を使わずに「国諫」(国主諫暁)という言葉を使っているところが面白い。「国諫」と言うと、天皇に奏上するのみならず、将軍に奏上することも含まれる。

ちなみに佐藤博信氏は、貞和5年(1349)12月の二度目の日郷京都上洛の折りには、京都・鳥辺山の日目正廟で日目十七回忌を行ったと書いており、日郷の京都上洛の目的は、国諫のみではなく、京都・鳥辺山の日目正廟で日目十七回忌法要も目的のひとつであると書いている。

よってこれらのことを総合して、日郷の場合も、京都に上洛したのは史実であるが、日郷の申状は京都の天皇の元には届けられずに、伝奏されても足利将軍止まりだったと考えられるのである。

■佐藤博信(さとうひろのぶ・1946〜)

□略歴
1946年生
早稲田大学第一文学部史学科国史専修卒業
早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学 文学博士
□研究内容
東国の14世紀から17世紀にいたる政治・経済・宗教のあり方を研究。
第1は、鎌倉府体制から公方−管領体制をへて関八州国家体制にいたる過程を総合的にとらえること。
第2の課題は、そのなかで在地と権力の間に立って独自の展開を示す宗教勢力に注目し、権力一元論の相対化を試みること。具体的には、房総で顕著な展開を示す日蓮宗に着目すること。
第3は、江戸湾における人と物の流れに注目し、東国の流通経済のあり方を再検討すること。
第4は、東国史研究の基礎を固めるために史料収集と整理を試みること。
□主要な所属学会
歴史学研究会 日本史研究会 千葉歴史学会 戦国史研究会 日本古文書学会
□主要な研究業績
□著書(単著)
『中世東国日蓮宗寺院の研究』 東京大学出版会、2003年 
『越後中世史の世界』岩田書院、2006年
『中世東国足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年
『中世東国政治史論』塙書房、2006年
『安房妙本寺日我一代記』思文閣出版、2007年
□共編著
『戦国遺文古河公方編』全1巻、2006年 東京堂出版
『千葉県の歴史通史編中世』2007年 千葉県
『中世東国の政治構造 中世東国論上』・『中世東国の社会構造 中世東国論下』2007年、岩田書院
□論文
「中世東国における版刻花押について」2007年 千葉県史研究15号
「足利尊氏・同直義所領目録(「比志島文書」)をめぐって」2007年 日本史研究542号
「古河公方家臣本間氏に関する考察」 2008年 茨城県史研究92号
「室町・戦国期の下野那須氏に関する考察」 2008年 戦国史研究55号
「古河公方家臣簗田氏に関する一考察」2008年 千葉県史研究16号
□その他
「富士参詣記」2005年 千葉史学47号
「日向参詣記」2007年 人文研究37号
「常総天台談義所参詣記」 2007年 日本歴史707号
「岡山・鳥取研修記」 2007年 興風19号
「常陸鳥名木城跡と石井進氏撰文の石碑」2008年 日本歴史718号
□社会的貢献
千葉県史専門員、小田原市史専門委員、千葉歴史学会委員、戦国史研究会委員、本佐倉城跡史跡検討委員会委員



■検証68・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治1

□日蓮正宗大石寺9世法主日有の癩病(らい病)説と下部の湯治

日蓮正宗大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を偽作した人物・日蓮正宗大石寺9世法主日有とは、いったいいかなる人物で、どういう人物像だったのだろうか??ということを知ることと、もうひとつ日有という人物がいかに莫大な経済力を持っていたかを証明する傍証として、面白い事例がある。
その傍証とは日有の「下部の湯治」なのだが、しかしこの日有の「下部の湯治」を詳しく検証していく前に、ひとつだけ、日蓮正宗以外の富士門流各本山や日蓮宗などでよく囁かれている「日蓮正宗大石寺9世法主日有は癩病(らい病・ハンセン病)であった」という説との関連を検証する必要がある。

□癩病 (らい病・ハンセン病)とは一体何か

らい病(ハンセン病)とは、抗酸菌の一種であるらい菌 の末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症で、病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン の姓に由来するものである。
日本の古い呼称としては、奈良時代に成立した「日本書紀」、「令義解」には、それぞれ「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」という言葉が出ており、鎌倉時代になると、漢語由来の「癩」(らい)・「癩病」・「らい病」が使われるようになった。
この病気に感染して発症しても、現在の医学では適切な治療を行えば根治が可能であり、重篤な後遺症を残すことも、自らが感染源になることもない。

しかし日有の時代においては、らい病(ハンセン病)は不治の病であり、ハンセン病は見た目により歴史的に差別・偏見の対象となった病気である。
外見上の特徴から、伝統的な穢れ思想を背景に持つ中世以来からの宗教観により神仏により断罪された、あるいは前世の罪業の因果を受けた者のかかる病と思われていた。
特に、鎌倉時代、室町時代などの中世の日本においては、このハンセン病(らい病)という病気は仏罰・神罰の現れと考えられており、発症した者は非人であるという不文律があった。
鎌倉時代の文献によると、患者と家族が相談し、相当の金品を添えて非人宿にひきとられ、非人長吏の統率下におかれた、とある。(横井清著「中世民衆の生活文化」より)
これにより、都市では重病者が悲田院や北山十八間戸、極楽寺などに収容された例もある。
江戸時代には、このハンセン病(らい病)になった人を、家族が四国八十八ヶ所や熊本の加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせた。このためこれらの場所に患者が多く物乞をして定住することになった。(山本成之助著『川柳医療風俗史』より)
旅費が無い場合は、集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落を成して勧進などで生活した。貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。横浜の乞食谷戸(こじきやと)はその一例である。

ただし日本古来からの呼び名である「癩」(らい)・「癩病」・「らい病」には、ハンセン病以外の皮膚病を含んでいる可能性もあると指摘されている。




■ 検証69・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治2
(日蓮正宗大石寺9世法主日有はいたって頑健・壮健な人物だった)

□日有がハンセン病(らい病・癩病)であったとは、とても考えられない

日蓮正宗大石寺9世法主日有は、1402(応永9)年4月16日、富士上野(現在の大石寺近郊)の南条家に出生。1419(応永26)年8月、8世法主日影の死去によって、満17歳で大石寺9世法主に登座。1482(文明14)年9月29日、80才で死去するまでの間、10世日乗、11世日底の時代も含めて63年間にわたって、日蓮正宗大石寺法主として大石寺一門を統率した人物である。
その間、日有は甲州・湯之奥金山の金による経済基盤を確立せしめて、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の偽作の他に、日蓮真筆の「紫宸殿本尊」を模刻した五体の板本尊の造立、大石寺境内地内に客殿、御宝蔵、勅使門を創建した。
1432(永享4)年3月の京都天奏をはじめ、越後、北関東、奥州に巡教に出て、本広寺、要行寺、有明寺を創建している。

科学的、医学的、歴史学的な見地から考えて、室町時代においてこれほど東に西に巡教の旅に出て、しかも63年もの間、大石寺一門を統率して80才という長寿を全うした人物が、仏罰・神罰の現れと考えられ、発症した者は非人の扱いを受けたハンセン病(らい病・癩病)であったなどとは、とても考えられないのである。

第一、ハンセン病(らい病・癩病)に冒されていた人物が、今のように医療・医学が発達していなかった室町時代の古に、80才の長寿を全うできるはずがない。

第二に、ハンセン病(らい病)という病気は、封建時代においては、仏罰・神罰の現れと考えられており、ハンセン病患者は、見た目により歴史的に差別・偏見の対象となり、発症した者は非人であるという不文律があった室町時代において、本当に日有がハンセン病にかかっていたとしたら、大石寺一門の僧侶と信者を統率する法主の座に63年も、絶対にいられるはずがない。

否、日蓮正宗大石寺9世法主日有という人物は、ハンセン病どころか、いたって健康で頭脳明晰、体力的にも頑健で、実に壮健な人物だったのではないかと考えられるのである。
そうでなければ、日有の一連の事跡や足跡、長寿を全うしたことなどについて、説明がつかない。
日有は、頑健・壮健な人物だったからこそ、「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊の偽作、客殿、御宝蔵、勅使門を創建、京都天奏をはじめ、越後、北関東、奥州巡教が可能だったのではないか。
又、日有は、頑健・壮健な人物だったからこそ、63年もの間、大石寺一門を統率して80才という長寿を全うしたのではないか。
頑健・壮健な人物でないと、これらの事跡を残すということは、到底、不可能なことである。日有がハンセン病(らい病・癩病)に冒されていたならば、絶対にできなかっただろう。
したがって、日蓮正宗大石寺9世法主日有という人物は、ハンセン病などではなく、逆にいたって頑健・壮健な人物だったと結論付けられるのである。




■ 検証70・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治3
(科学的・医学的根拠がない東光寺の僧の日有癩病説)

□日有癩病説のルーツ・要法寺日辰の「祖師伝」に出てくる東光寺の僧の日有癩病説

それではそもそも日蓮正宗大石寺9世法主日有が癩病(らい病・ハンセン病)だったとする説は、一体、どこから出てきたのだろうか??それは富士門流八本山のひとつ、京都要法寺19世法主広蔵院日辰の著書「祖師伝」の中に次のようなことが書いてあることを根拠にしているようである。

「永禄元戌午年十一月五日、大輔阿闍梨東光寺僧、重須の本寿坊に来至し日辰に対して云く、日道佐州に入りて日代御筆の本尊十六鋪を焼失す。其の煙、日道の面に当りて癩人と成り之を療治するに平癒する能はず河内杉山に隠居す。大石寺の檀那は龍の口等の御難所参りに代て河内杉山に登りて日道の墓を礼拝すと云々。日有も亦癩人と成り、日鎮は狂気をし、当住日院は中風を患い痴人の如くなりと」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻p38〜39/日辰著「祖師伝」より)

-----1558(永禄元)年11月5日、東光寺の僧である大輔阿闍梨が、北山本門寺本寿坊に来て日辰に次のようなことを言っていた『大石寺4世日道が佐渡に行った時、西山本門寺開祖の日代が書写した大漫荼羅本尊16幅を焼失した。その時の煙が日道の顔に当たって日道は癩病になってしまい、癩病を治療しようとしたが平癒することができずに河内の杉山に隠居した。大石寺の信者たちは、日蓮龍の口法難跡地参りの代わりに杉山にある日道の墓に参詣していた。9世法主日有も癩病になり、12世法主日鎮は頭がおかしくなり、当代の13世法主日院は中風を患い、痴呆のような人になってしまった』---------

東光寺というのは1292年(正応5年)に開創の、駿河国(静岡県)の富士門流の寺院だが、現在は、静岡県富士宮市下条にある北山本門寺の末寺になっている。日有癩病説は、北山本門寺6代貫首・日浄が唱えているが、同じ日有癩病説をょ唱えていることからして、東光寺は、当時から、北山本門寺の末寺だったか、ないしは深い関係にあったと考えられるのである。
戦後、日蓮宗の僧侶らが唱えた「日有癩病説」は、この日辰の著書「祖師伝」の文を根拠にしたものであるが、見てわかるとおり、この東光寺の僧から日辰が聞いたという日有癩病説は、何の根拠もない風聞に過ぎないものである。

しかもこの東光寺の僧の風聞の内容をよく分析すると、間違いだらけであることに気づくはずだ。
日蓮正宗大石寺4世法主日道は、その生涯において一度も佐渡には行っていないし、日代の本尊を焼却したという事実もない。しかも本尊焼却の煙が原因で癩病になるなどというのは、何の科学的、医学的根拠もないものである。
いくらなんでも、こんな科学的、医学的根拠が何一つない風聞を根拠にして日有癩病説を事実と認定するわけにはいかない。
そもそも日有の事跡は、日有がハンセン病に冒されていたとすれば成し得なかったものであり、日有がハンセン病(癩病・らい病)であったとは、とうてい考えられないのである。

■東光寺(とうこうじ)

正式名は富士山東光寺という。日蓮宗・七大本山・法華本門寺根源(北山本門寺)の末寺。
創建は1292(正応5)年。大石寺開創の二年後、北山本門寺よりも古い。
住所は静岡県富士宮市下条で、大石寺とは国道139号線の並びになり、いわば大石寺の「隣」の寺になる。

■ 検証71・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治4
(日有の「宿病」と下部温泉の「湯治」は全く関係ないものだった)

□日蓮正宗大石寺17世法主日精の日有宿病説と日有の下部温泉での湯治

日蓮正宗大石寺9世法主日有についての、日蓮正宗側の史料を繙いてみると、日蓮正宗大石寺17世法主日精が書いた開祖日興、本六僧、新六僧、大石寺歴代法主の伝記である「家中抄(富士門家中見聞)・日有伝」の中に、次のような記述がある。

「宿病有る故に甲州下辺(下部)の湯に入る」(17世法主日精の著書「家中抄・日有伝」/『富士宗学要集』5巻p256より)
-----日有は宿病があったが故に、下部温泉の湯に湯治に行っていた---

宿病とは、辞書によれば、「長い間治らない病気。持病」という意味であり、この時代における「不治の病」と言われているが、これが現代医学でいうところの病名が何かはわかっていない
問題は、「宿病」の具体的な病名の解明ではなく、この日有の「宿病」と「甲州下辺(下部)の湯に入る」の関連性である。

□日有の時代にすでにあった温泉での「湯治」・僧侶の「湯治」

湯治(とうじ)とは、温泉地に少なくとも一週間以上の長期滞留して特定の疾病の温泉療養を行う行為で、日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、本来、区別すべきものである。
湯治という行為は、日本においては古くから行われていた。衛生に関する知識や医療の技術が十分に発達していなかった時代、その伝聞されていた効能に期待して、多くの人が温泉につかったり、飲泉することで病気からの回復を試みていた。
体の特定の部位に対する効能が良いとされた温泉には、例えば貝掛温泉の異名である「目の湯」のように、特にその部位名を冠した名称も持ち合わせ、多くの湯治客を集めた。
「室町時代の湯治が行われていたのか」「僧侶が湯治を行っていたのか」という疑問を抱く方もいるかもしれないが、日蓮正宗大石寺9世法主日有が生きていた室町時代、僧侶が温泉で湯治をしていたことは歴史的事実として、史料に記載されていることである。
1472(文明4)年、浄土真宗本願寺法主・蓮如が上州(群馬県)・草津温泉に湯治に来て入湯していたことが文献に出てきており、1491(延徳3)年、相国寺の僧侶・万里集九が湯治のために同じく草津温泉に入湯し、「梅花無尽蔵」という書物を著し、摂津国(大阪府)の有馬、飛騨国(岐阜県)の湯島と並んで、上州(群馬県)・草津を日本の霊湯の最たるものと記している。
蓮如の湯治、万里集九の湯治は、まさに日有が生きていた室町・戦国時代での史実である。

□下部温泉の湯治の効能は疲労回復、外傷、火傷等であり「宿病」の湯治ではなかった

何か持病があって、温泉の湯治に行くというのは、昔から行われていたことであり、何の不思議なことでもないと思われがちだ。
ところがである。
甲州(山梨県)・下部温泉においても、古くから湯治が行われていたことは事実である。
『甲斐国志』に拠れば、承和3年(836年)に熊野権現が出現して温泉が湧いたといわれ、鎌倉時代の日蓮書状『三沢抄』や『抜隊語録』によると、室町時代には塩山向嶽寺の開祖「抜隊得勝」が湯治をしたと伝わり、甲府の一蓮寺過去帳にも名前が見られる。
戦国時代に下部村は湯之奥金山や木材伐採など河内地方の産業を支える拠点にもなり、武田信玄の隠し湯であるとする付会伝説が加わって、湯治場として、甲州・湯之奥金山の金山衆や身延山久遠寺の参詣者も利用していた。

しかし、下部温泉が湯治場や武田信玄の隠し湯として利用された湯治の効能は、疲労回復、外傷、火傷、やけど・切り傷などであり、室町時代・戦国時代において傷病兵や、近くの湯之奥金山で働く人足たちが傷を癒したり、疲れを癒していたのであり、「宿病」の湯治などではないのである。


■ 検証72・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治5
(日有の「宿病」と下部温泉の「湯治」は全く関係ないものだった2)

□日有宿病は疑わしいが下部温泉へ湯治に行っていたのは事実

では日蓮正宗大石寺9世法主日有は、下部温泉の湯には行っていなかったのか、といえば、そうではなく、下部温泉へ湯治に行っていたのは事実と考えられる。
日有が大石寺と有明寺の往来に使っていたルート「有明寺〜下部温泉・湯之奥〜毛無山・湯之奥金山入口〜朝霧高原・大石寺」の途中に、下部温泉がある。
しかも「日蓮正宗入門」p197には次のように書いてある。

「日有上人がおられた大杉山は、本山大石寺から約十里(40キロ)も離れています。しかし(日有)上人は、七日、十三日、十五日と本山の御講には、険しい山道を、石がはさまらない一本歯の下駄で歩き、必ず参詣していたと伝えられています。
この山道は今でも『上人路』と言われています」(『日蓮正宗入門』p197)

日蓮正宗はこの中で、「大石寺と有明寺は約十里(40キロ)離れている」「日有は大石寺と有明寺を往復するに当たって、険しい山道を歩いていた」と述べていることだ。
日蓮正宗は、日有が通っていた『上人路』の具体的なルートがどれであるかを特定していないが、しかし大石寺と有明寺を約40キロで結び、なおかつ「険しい山道」のコースと言えば、有明寺〜下部湯之奥〜中山金山入口・毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートしかないということである。
河内路(身延道)を通るルートでは絶対にない。
この「日蓮正宗入門」に書いてある文は、実質的に日有が大石寺と有明寺を往復するルートを、有明寺〜下部湯之奥〜中山金山入口・毛無山〜朝霧高原・大石寺(富士宮市)のルートであると認めているに等しい。
そもそもこのルートが大石寺と有明寺を結ぶ最短コースであるからであり、さらに下部温泉での湯治に使っていた。
したがって、大石寺〜湯之奥金山〜有明寺の往来にあたって、下部温泉を通過していたとは到底考えられず、日有は温泉の湯に入るために、下部温泉を訪れ、滞在していたのは事実と考えられるのである。

□日有の下部温泉での「湯治」と「宿病」は全く関係ないものだった

しかし、下部温泉が湯治場や武田信玄の隠し湯として利用された湯治の効能は、疲労回復、外傷、火傷、やけど・切り傷などであり、室町時代・戦国時代において傷病兵や、近くの湯之奥金山で働く人足たちが傷を癒したり、疲れを癒していたのであり、「宿病」の湯治などではないのである。
したがって、、日有は下部温泉には行っていたのは事実であるものの、日有の下部温泉での「湯治」と「宿病」は全く関係ないものだった。
こういったところからも、日有が「宿病」があったとする大石寺17世法主日精の「家中抄」の説は、ますます怪しいものになってくる。

否、日有は何らかの宿病があったとしても、「宿病」と下部温泉での「湯治」は、全く関係ないものだった。ましてや、日有は「宿病」など全くない、いたって健康・壮健な人物であったとすれば、日有は「湯治」ではなく、別の目的で、下部温泉に行っていたと結論付けざるを得ないのである。
では、日有は、何の目的で下部温泉の湯に入りに行っていたのであろうか。


■ 検証73・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治6
(日蓮正宗大石寺9世法主日有の下部温泉湯治の目的は湯女風呂か?)

□室町時代・戦国時代において湯治をしていた人たちは裕福で経済力のある人たちだった

湯治という行為は、日本においては古くから行われていたが、古くは湯治を行っていたのは権力者など一部の人に限られていた。一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになったのは、江戸時代以降である。
これは、街道が整備されたことにより遠方との往来が容易になったためである。大名と大名の合戦が行われなくなったことにより、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようにもなった。

室町時代・戦国時代において、下部温泉で湯治をしていた人たちといえば、甲斐の国の大名、武田氏や穴山氏、大名の家臣、武士、近くの湯之奥金山で金を掘っていた金山衆(かなやましゅう)たちといった、裕福で経済力のある人たちだった。日蓮正宗大石寺9世法主日有も、甲州・湯之奥金山で金を採掘していた金山衆からの供養により、かなり大きな経済基盤を保持していた。

湯治とは、本来は、温泉地に少なくとも一週間以上の長期滞留して特定の疾病の温泉療養を行う行為であり、日帰りや数泊で疲労回復の目的や物見遊山的に行う温泉旅行とは、別のものである。したがって、当時は長期滞在を前提とした湯治客のみが温泉宿に宿泊できたため、一泊のみの旅行者は温泉宿には泊まることができなかった。しかし、一泊宿泊の温泉客は後を絶たず、その抜け道として、一日だけ湯治を行うとする一泊湯治などと称して温泉宿に宿泊したという。

□室町時代の風呂の男女混浴と温泉宿にいた「湯女」

さてもうひとつ温泉宿で特筆すべきことは、この当時、温泉宿においては、すでに「湯女」(ゆな)と呼ばれる女性たちがいたということである。
湯女(ゆな)とは、銭湯で垢すりや髪すきのサービスを提供した女性のことで、中世には有馬温泉など温泉宿において多く見られ、次第に江戸、大坂、京都などの都市に移入された。
当初は、銭湯男性客の垢すりや髪すきのサービスだけだったが、次第に飲食や音曲のサービスに加え、サービスが徐々にエスカレートして、現在の特殊浴場・ソープランドに相当する過激な性的サービスを提供するようになっていった。

そもそも銭湯というものは、鎌倉時代に僧侶たちが身を清める為に、寺院に設置されていた「浴堂」を、一般庶民にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊して守護大名や地頭が支配する世の中になると、寺院の浴堂が入浴料をとるようになり、これが本格的な銭湯の始まりと言われている。
そして温泉宿の風呂を含めた銭湯は、長い間、老若男女が混浴であった。しかも蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために、場内は暗く、そのために盗難や男女の性交など風紀を乱すような状況も発生しており、湯女の性的サービスといったものも、こういった中から産まれたものと考えられている。

なお、温泉や都市の銭湯における男女混浴が禁止されたのは、何と江戸時代の後半になってからのことで、寛政3年(1791年)に、老中・松平定信のいわゆる「寛政の改革」で、江戸幕府が出した「男女入込禁止令」がその最初と言われている。その後の「天保の改革」によっても男女混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。
日有の時代は、当然のことながら、温泉宿の風呂・銭湯は、当たり前の常識として、「男女混浴」の風呂であった。それは下部温泉の場合も同様である。

甲州・湯之奥金山の発掘調査によると、女郎屋敷跡と伝えられる金山造成地(テラス)もあるが、具体的な跡地は発見されていない。しかし湯之奥金山のすぐ近くに温泉宿があり、湯女がいたとすれば、湯之奥金山のテラス群に女郎屋敷があったとしても、金山衆たちも下部温泉の湯に浸かりに行っていることからして、下部温泉の湯女風呂に圧されてしまっていただろう。



■ 検証74・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治7

□日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代はすでに公然化していた僧侶の女犯

日蓮正宗大石寺9世法主日有の下部温泉での“湯治”は、宿病の治療などではなく、湯女風呂の性的サービスを目的にしていた、と言うと、日蓮正宗の信者たちから「僧侶の女犯は禁じられていた」「日有上人は聖僧だった」などという反論が飛んできそうだ。

しかし釈迦牟尼が僧侶の女犯厳禁を説いた「邪淫戒」なるものは、日有が生きていた室町時代、すでに有名無実化していた、というのは歴然とした史実である。僧侶の「女犯」(男女性交)は、半ば公然の秘密であり、僧侶は女人禁制だった寺院の外へ出ては、秘かに女犯に勤しんでいた。中には、寺院境内地内に女人を連れ込んできては、女犯をする僧侶までいた。それどころか、浄土真宗のように、公然と僧侶が妻帯する宗派まで出現し、日本国内に広く流布していた。

僧侶の女犯で有名なのは、奈良時代の僧・道鏡と孝謙天皇(女帝)の関係である。「続日本紀」「日本霊異記」「古事談」「日本紀略」には、道鏡と孝謙天皇の肉体関係が露骨に表現されている。
「日本霊異記」には「弓削の道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を相摂りて、天の下を治む」とあり、あたかも道鏡と孝謙天皇の閨(ねや)の中で政治が行われていたような表現がなされている。ただし、仮に女性と通じていたというなら、相手が天皇でなくても仏教の戒律を破ったとして僧職を剥奪されるはずであるとして、これは俗説であるとする学説もある。
しかし、女犯を理由に僧侶が権力によって厳罰に処せられたのは江戸時代のことである。日本に仏教が伝来した際に伝わった戒律は不完全なものであり、当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない私度僧も多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かったのは事実だ。しかも道鏡の女犯の相手が女帝なら、道鏡のなすがままだっただろう。

1207(承元元)年に、浄土宗の宗祖・法然の高弟・法本坊行空と安楽坊遵西は後鳥羽上皇の寵妃松虫、鈴虫姉妹と密通(上皇に内緒で性交)し、これが後に後鳥羽上皇に露顕して後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、遵西は京都・六条河原で男の急所・男根を先に切断されてから死刑になるという残酷な刑に処せられた。

1571(元亀2)年9月、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたが、信長は比叡山焼き討ちを決行する理由を
「行体行法するのが出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄にも恥じず、天道のおそれもかえりみず、淫乱にふけり、魚や鳥を食らい、金銀の賄賂を取り放題、しかも浅井や朝倉に加担し、われらに戦いいどむとは、大敵に値する」
と述べ、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗山門派の腐敗堕落と女犯乱行の様をあげ、焼き討ちをするのだと家臣たちに説明した。
当時の比叡山延暦寺の有様は「多聞院日記」に次のように批判されている。
「檜皮葺きの大堂本尊は拝まれず、灯明も二、三、形だけとぼされており、堂も舎坊も一円は荒れ放題の体である。嘆かわしいことだ。僧衆のほとんどは坂本に下って、乱行不法のかぎりをつくしている。修学の廃頽はこの有様なので、一山は、もはや果てたと同じである」

この批判は「信長公記」の記事とほぼ一致する。とすれば、当時の延暦寺は信長のいうとおり、破戒僧が増加し、淫乱、乱行、その他、精進潔斎を怠っていたことは明らかであろう。
当時の比叡山延暦寺とは日本の仏教界の最高権威。そこがこれだから、他の仏教各宗寺院は、比叡山延暦寺に「右にならえ」で、推して知るべし。
日蓮正宗も含めた日蓮宗諸派は、末法無戒(まっぽうむかい)を教学的に標榜している、末法無戒とは、末法の世には細かい戒律は必要がないという教学であるが、これは日蓮宗諸派だけではなく、浄土真宗も同じ考え方があり、この理由から浄土真宗の僧侶は公然と肉食妻帯をしていた。しかし浄土真宗だけではなく、他の宗派の僧侶も平然と肉食し、女犯を行っていたことは半ば公然のことであり、「所化の身持は渡り中間の如し」と言われていた。「坊さんだって、人の子だ」と人々は敢えて咎めもしなかった。日有とて、これらの例外ではなかったのである。



■検証75・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治8

□日有が湯治に行っていた下部温泉で性的サービスをしていた湯女

中世の日本で、遊郭や宿場で男性に性的サービスをした売春婦といえば、遊女(ゆうじょ、あそびめ)が有名である。売春はおそらく人類の発達の非常に初期の段階から存在しただろうとされる。未開社会でも売春とみなされていた男女関係は見られる。しかし社会の認識の違いや、乱交と売春のみわけがつきにくいなどの理由により、売春の起源ははっきりしない。
「遊女」という呼称は古くからあり、元来、芸能に従事する女性一般を指したものであり、とりたてて売春専業者を意味するものではなかった。古来より数多くの呼称があり、古く『万葉集』には、「遊行女婦(うかれめ)」の名で書かれている。中世には、 「遊女(あそびめ)」「傾城(けいせい)」「上臈(じょうろう)」などと呼ばれていた。その他「女郎(じょろう)」、「遊君(ゆうくん)」、「娼妓(しょうぎ)」といった呼称もある。奈良期から平安期における遊女の主たる仕事は、神仏一致の遊芸による伝播であり、その後遊芸伝承が次第に中心となる。

日本に於いては、母系婚が鎌倉時代の初期まで続いたが、男系相続の進展と共に、母系の婚家に男が通う形態から、別宅としての男性主体の住処が成立し、そこに侍る女性としての性行為を前提とする新たな女性層が生まれる。これは、原始から綿々と続いた、子孫繁栄のための対等な性行為から、性行為自体を商品化する大きな転機となる。
それまで、財産は母系、位階は夫系であった秩序が壊れ、自立する拠り所を失った女性が、生活のために性行為を行う「売春」が発生するのは、正にこの時期である。

『万葉集』には「遊行女婦」として現れる。平安時代に「遊女」の語が現れ、特に大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口・神崎の遊女が知られ、平安時代の文章家、大江匡房が『遊女記』を記している。
諸外国の神殿娼婦と同様、日本の遊女もかつては神社で巫女として神に仕えながら歌や踊りを行っていたが、後に神社を去って諸国を漂泊し、宿場や港で歌や踊りをしながら、一方で性も売る様になったものと思われる。一方で遊女と宮中の舞踊・音楽の教習所である「内教坊」の「伎女」に なんらかの関連があると考える研究者もいる。
同じ頃、鎌倉時代には白拍子・宿々の遊君といった遊女が現れたが、鎌倉幕府・室町幕府も遊女を取り締まり、税を徴収した。

□日有の下部温泉“湯治”の目的は宿病の治療などではなく湯女風呂のサービスだった

「花魁(おいらん)」は江戸時代の一時期の遊郭における最高ランクの遊女を指す言葉である。温泉などの湯屋で働く女性「湯女(ゆな)」、宿場で働く女性「飯盛女(めしもりおんな)」は、より大衆的な売春婦であった。宿駅で性的サービスをする女性は傀儡女とも言われ、さらにその下には街頭で体を売る夜鷹も存在した。
一般的には、宴会席で男性客に踊りを始めとする遊芸を主に接待し、時代、及び立地により、客の求めに応じて性交を伴う性的サービスをする事もあった。
日蓮正宗大石寺9世法主日有の時代に、甲州・下部温泉等々の温泉宿の湯屋にいた「湯女(ゆな)」も、当然のことながら、性的サービスをする売春婦という側面があった。
こういった歴史的事実、客観的史実と照らし合わせる時、日有の下部温泉“湯治”は、宿病の治療などではなく、湯女風呂のサービスを目的にしていたのではないかと考えられるのである。日有は、これらの温泉宿の高価な湯女風呂に使う充分な経済力を保持していた。
日有は「宿病」など全くない、「仮病」で下部温泉“湯治”と言って湯女風呂に行っていたのではないかと考えられるのである。





■検証76・日蓮正宗大石寺9世法主日有の莫大な経済力の傍証・下部の湯治9

□日有の莫大な経済力を証する傍証「下部の湯治」の女犯

日蓮正宗大石寺9世法主日有が、下部温泉の湯屋で性的サービスを受けていたことに関連して、見逃せないことがもうひとつある。それは、飯盛女(めしもりおんな)又は飯売女(めしうりおんな)と呼ばれた女性たちの存在である。

飯盛女とは、宿駅、宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼のことである。
宿場とか宿駅というと、江戸時代の東海道五十三次をはじめとする主要街道に発達した宿場町が有名だが、宿駅・宿場そのものは、古代、奈良時代・平安時代から駅馬・伝馬の制度によって次第に整備されていったものであった。宿場には公家や武家・大名などの宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などの他に、一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並んだ。
旅籠というのは、一般旅行者用の食事付き宿泊施設。 木賃宿というのが、一般旅行者用の自炊宿泊施設であるが、旅籠には接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、飯盛女を置かない平旅籠に別れていった。ただし、全ての飯盛女が売春をしたわけではなく、単純に現在の仲居と同じ内容の仕事に従事した女性も存在した。飯盛女とは、現在の旅館の仲居とは全く異なる職業である。又、売春をせず寝食の世話だけをする飯盛女も存在していた。

日有は、1432(永享4)年の京都上洛・天奏の旅をはじめ、越後巡教、奥州巡教の旅に出ている。甲州・湯之奥金山の金による莫大な経済力を持ち、随行の弟子の僧侶や護衛の信者を引き連れ、法主の威厳を保とうとしていた日有が、大部屋で自炊が原則であり、寝具も自己負担が珍しくなかった木賃宿に宿泊していたとは、考えられない。

普通に考えれば、経済力を持っている人物なら、当然の如く、食事や接客サービス付きの旅籠に宿泊する。当然のことながら、接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠ということになるだろう。こう考えると、日有の場合は、下部温泉の「湯治」と照らし合わせると、浮かんでくる共通のキーワードは「女犯」なのである。

□室町時代においては経済力を有した者しか、でき得ないことだった「湯治」と「女犯」

それならば、数え年81才まで存命して下部温泉へ行っていたが、81才の年齢まで「女犯」をしていたのか、という疑問が涌くかもしれない。
1472(文明4)年、59才で上州(群馬県)・草津温泉に湯治に来て入湯していたことが記録に残っている浄土真宗本願寺8世法主・蓮如は、85才で死去するまでのあいだに5人の妻をむかえ、あわせて13人の息子と14人の娘をもうけている。最後の十三男にいたっては、蓮如84歳の子であったという。この浄土真宗本願寺8世法主・蓮如(1415〜1499)という人物は、日蓮正宗大石寺9世法主・日有(1402〜1482)とほぼ同じ時代を生きた人物である。
江戸幕府の11代将軍・徳川家斉(1773〜1841)は、特定されるだけで16人の妻妾を持ち、一説によると40人にものぼる妾がいたという。その妻妾との間に男子26人・女子27人を儲け、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもいた。それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫し、幕府財政は破綻へ向かう。
1918年東京生まれの性風俗研究家、安田義章氏は、89才の年齢まで現役のAV男優を務め、さらに七十才を過ぎてから人妻に子どもを産ませていたほどの性豪であった。「女犯」「性交」に年齢はないようである。

そもそも「湯治」も「女犯」も、室町時代においては、経済力を有した者でしか、でき得ないことであった。もちろん僧侶として草津温泉に湯治に行っていた蓮如も、多くの信者を持っていた京都の浄土真宗本願寺法主であり、経済力を有していたことは明らかである。
つまり下部温泉に「湯治」と称して湯屋に行き、湯女の手厚いサービスを受けていたという「女犯」も、日蓮正宗大石寺9世法主日有が、湯之奥金山の金を源泉とした莫大な経済力を持っていたことを証する事例のひとつなのである。



■検証77・「日有癩病説」を根拠とする「本門戒壇の大御本尊」日有偽作説は誤りである

古来から 大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮正宗大石寺9世法主日有が偽作したのではないかとする「日有偽作説」を唱えてきた人は、何人も居る。
しかし古来の「日有偽作説」はどれもこれもが皆「日有は大石寺の板本尊を偽作した。だから癩病になったのだ」という「日有癩病説」と直結しており、日有が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した仏罰・悪因によって癩病になったのだ、という説が当たり前のように説かれている。
つまりこの「日有癩病説」は、「日有は晩年に癩病になったことは、板本尊偽作の証拠であり、板本尊偽作の仏罰だ」という説に発展している。
驚くべき事に、この「日有癩病説」は、戦国・安土桃山・江戸時代という昔だけの話しではなく、何と昭和30〜40年代の現代にかけても、これが論じられてきているのである。
昭和20年代後半〜40年代といえば、創価学会の折伏大進撃の時代であり、創価学会の強引・執拗な折伏によって多くの人が既成仏教界を離れて日蓮正宗に入信し、日蓮正宗の信者が大幅に増加した時代であった。
創価学会は、現世利益論・功徳論・罰論を前面に押し出して強引な折伏を進めていたため、これに対抗するほうも、仏罰論で対抗していったのではないか。1956(昭和31)年に出版された「板本尊偽作論」の著者・安永弁哲氏も「日有癩病説」と直結した「日有偽作説」を唱えている。

しかし「日有は大石寺の板本尊を偽作した。だから癩病になったのだ」という「日有癩病説」は、日蓮正宗VS日蓮宗とかの宗派論争でやる分にはお互いに好都合なのかもしれないが、世間一般に対しては、全く説得力が欠ける。
というか、それ以前の問題として、日有偽作説を立証せんがために、日有癩病説や仏罰論などを言うべきではないのである。私は仏罰論そのものが、倫理性を欠いた非常識極まりない仏教教義であるとして、仏罰論そのものに反対である。
日有偽作説は、検証71〜125において12の証拠と3の傍証を挙げて、これで日有偽作説の論証は可能である。わざわざこんな非人間的な仏罰論など言う必要など全くない。
さらにそれに加えて、検証62〜70で論じたように、日有が晩年に癩病になったという「日有癩病説」そのものが誤りである。日有は、生涯において癩病にはなっていないのである。

したがって、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」日有偽作説は正しいのだが、「日有癩病説」は誤りである。よって「日有癩病説」は、偽作説から完全に削除すべきなのである。
それでは日蓮正宗大石寺9世法主日有が癩病(らい病・ハンセン病)であったとする「日有癩病説」というものが、一体いつから、どこから出てきたものなのであろうか。
一番古い者ものは、1493(明応2)年に北山本門寺六代貫首・日浄(?〜1493)が書いた「富士山本門寺文書集日浄記」の文であろう。日浄の文には、次のように書かれている。

「日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊を彫刻し、猶己義荘厳の偽書を造る。併て邪智謗法の現罰を蒙り已に癩病(らい病)人と成て甲斐国杉山に隠れ入りて死し畢ぬ。もし、日有の誑惑世間に流布せば、興門の道俗共に無間に堕ち、将来悲しむべし云々」
(「大石寺誑惑顕本書」p6〜p7)
-----大石寺法主の日有は、御開山・日興上人の御本懐に背いて、今まで見たことも聞いたことも全くない板本尊(『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊のこと)を彫刻・偽造した上に、なおかつ大石寺の教義を荘厳するための偽書を造った。こういった、とんでもない邪智謗法を行った報いによって日有は現罰を蒙って、癩病に成りはて、法主を隠退せざるを得なくなり、甲斐国の杉山の寺院に隠居して、そこで死んでしまった。
もし日有の板本尊偽造・偽書偽造の誑惑があたかも本当のことであるかのように世間に流布してしまったら、日興門流の僧俗は、日有と与同罪で無間地獄に堕ちてしまうことになり、これは将来、まことに悲しむべき事になるであろう。------


■検証78・北山本門寺6代貫首・日浄の「日有癩病説」は誤りである

「日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊を彫刻し、猶己義荘厳の偽書を造る。併て邪智謗法の現罰を蒙り已に癩病(らい病)人と成て甲斐国杉山に隠れ入りて死し畢ぬ。もし、日有の誑惑世間に流布せば、興門の道俗共に無間に堕ち、将来悲しむべし云々」
(「大石寺誑惑顕本書」p6〜p7)
-----大石寺法主の日有は、御開山・日興上人の御本懐に背いて、今まで見たことも聞いたことも全くない板本尊(『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊のこと)を彫刻・偽造した上に、なおかつ大石寺の教義を荘厳するための偽書を造った。こういった、とんでもない邪智謗法を行った報いによって日有は現罰を蒙って、癩病に成りはて、法主を隠退せざるを得なくなり、甲斐国の杉山の寺院に隠居して、そこで死んでしまった。
もし日有の板本尊偽造・偽書偽造の誑惑があたかも本当のことであるかのように世間に流布してしまったら、日興門流の僧俗は、日有と与同罪で無間地獄に堕ちてしまうことになり、これは将来、まことに悲しむべき事になるであろう。------

これは、1493(明応2)年に北山本門寺六代貫首・日浄(?〜1493)が書いた有名な日浄の「日有の『本門戒壇の大御本尊』偽造の告発」である。
北山本門寺6代貫首・日浄とは、1450(報徳2)年に5代貫首・日昌の死後、貫首になった人物で、1493(明応2)年に死去するまで約43年間、北山本門寺6代貫首の当職にあった。
片や、日有は1419(応永26)年から1482(文明14)年までの約63年間、大石寺法主ないしは隠居法主として最高指導者の地位にあった。したがって、日浄という人物は、日有とほぼ同じ時代を生き、同じ時代に日有と対峙していた人物だったと言うことができる。
その日浄の告発の中に、「日有癩病説」が織り交ぜられて、書いてあるというわけである。

この日浄の「日有癩病説」をそのまま受け継いでか、北山本門寺の末寺・東光寺の僧が、京都・要法寺貫首・日辰が北山本門寺に来寺した時に、「日有癩病説」を語ったとされる。

「永禄元戌午年十一月五日、大輔阿闍梨東光寺僧、重須の本寿坊に来至し日辰に対して云く、日道佐州に入りて日代御筆の本尊十六鋪を焼失す。其の煙、日道の面に当りて癩人と成り之を療治するに平癒する能はず河内杉山に隠居す。大石寺の檀那は龍の口等の御難所参りに代て河内杉山に登りて日道の墓を礼拝すと云々。日有も亦癩人と成り、日鎮は狂気をし、当住日院は中風を患い痴人の如くなりと」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂『富士宗学要集』5巻p38〜39/日辰著「祖師伝」より)

-----1558(永禄元)年11月5日、東光寺の僧である大輔阿闍梨が、北山本門寺本寿坊に来て日辰に次のようなことを言っていた『大石寺4世日道が佐渡に行った時、西山本門寺開祖の日代が書写した大漫荼羅本尊16幅を焼失した。その時の煙が日道の顔に当たって日道は癩病になってしまい、癩病を治療しようとしたが平癒することができずに河内の杉山に隠居した。大石寺の信者たちは、日蓮龍の口法難跡地参りの代わりに杉山にある日道の墓に参詣していた。9世法主日有も癩病になり、12世法主日鎮は頭がおかしくなり、当代の13世法主日院は中風を患い、痴呆のような人になってしまった』---------

日浄の告発が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の日有偽作の証拠の一つとして数えられるのは、日有とほぼ同じ時代を生き、同じ時代に日有と対峙していた人物が日有の「板本尊偽造」「偽書偽造」を告発したことなのであり、「日有癩病説」を唱えたからではない。
したがって、北山本門寺6代貫首(住職)・日浄の「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の告発そのものは「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の証拠だが、その中にある「日有癩病説」は、何の根拠もないもので、これは誤りなのである。




■検証79・安永弁哲氏の「日有癩病説」は「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の証拠ではない

昭和に入って以降において、「日有癩病説」を唱えて、これが「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が、日蓮正宗大石寺9世法主日有によって偽作された証拠とした代表的な人物が、「板本尊偽作論」の著者である安永弁哲氏である。
安永弁哲氏は著書「板本尊偽作論」の中で、「日有癩病説」が「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の証拠であるとして、次のように書いている。

「昔は、この(「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の)彫刻は、大石寺9世日有の作と広く一般的にも言われ、『宝冊』や『祖師伝』『大石寺誑惑顕本書』等の著書にも日有彫刻説になっているからである。
これらの諸文献が日有彫刻説であるのに、日蓮正宗や創価学会が日法彫刻説を主張せねばならぬのは、この日有は板本尊を彫っているうちに癩病になって、晩年、甲斐杉山に隠棲して、祖滅後201年に当たる文明14年9月29日に亡くなっているためである。そしてこの日有の癩病は、この地方の人は知らぬ者のないくらい有名なことである。それを顕本書(大石寺誑惑顕本書)には
『猶群中の諸人日有彫刻して癩病になりたりと云う事、昔より今に至るまで云い伝へり』と明瞭に記載されているのである。だから板本尊は、祖滅後200年近い頃に日有によって彫刻されたものであるということになる」(安永弁哲氏「板本尊偽作論」p126〜127)
「今日に至るも、此の板本尊偽造説は、日有癩病説とともに繰り返し繰り返して論議されているのである。この歴史的事実は何よりも雄弁に、板本尊が日有により偽造されて、世に出されるに至ったことを証明している」(安永弁哲氏「板本尊偽作論」p137)
「法華経を受持する者の過悪を出してさえ、現世に白癩の病を得るのである。まして況んや、大聖人の真筆を偽作悪用して、大石寺を有利ならしめんとして、曼荼羅を偽造するが如き大悪業を犯した者が、現世に白癩病を蒙るべきことは、当然すぎる当然である」(安永弁哲氏「板本尊偽作論」p140)

「日有癩病説」については、第一に科学的、医学的根拠が何一つない風聞であること。
第二に、ハンセン病(らい病・癩病)に冒されていた人物が、今のように医療・医学が発達していなかった室町時代の古に、80才の長寿を全うできるはずがないこと。
第三に、ハンセン病(らい病)発症した者は非人であるという不文律があった室町時代において、本当に日有がハンセン病にかかっていたとしたら、大石寺一門の僧侶と信者を統率する法主の座に63年も、絶対にいられるはずがないこと。
こういったことから、「日有癩病説」そのものが、史実と認定することができない。

したがって、こういった「日有癩病説」を根拠として、「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の証拠などとしている安永弁哲氏の説は、感情的な暴論と言うべきでものである。ましてや、
「大石寺を有利ならしめんとして、曼荼羅を偽造するが如き大悪業を犯した者が、現世に白癩病を蒙るべきことは、当然すぎる当然」と言っていることからして、安永弁哲氏の説は、かなり感情的なものと言えよう。
もっとも安永弁哲氏の著書「板本尊偽作論」は、現世利益を前面に押し出していた日蓮正宗・創価学会の勃興期であった1950年代に書かれたものであり、そういったものに対抗する意味があるのかも知れないが、しかし学術的な研究の成果とは認めがたいものがある。
したがって、安永弁哲氏の説に代表されるように、科学的、医学的根拠が何一つない風聞にすぎない「日有癩病説」は、「本門戒壇の大御本尊」日有偽作の証拠ではないと断言しておく。







■検証80・昭和の時代に「日有癩病説」を否定した木下日順氏の著書「板本尊偽作の研究」

過去に、日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」批判した人物、著書は数多く存在するが、それらの全てが科学的、医学的根拠が何一つない風聞に過ぎない「日有癩病説」を肯定しているわけではない。
安永弁哲氏の「板本尊偽作論」が刊行された後、昭和の「日蓮正宗・創価学会勃興」時代に大石寺の「本門戒壇の大御本尊」批判を展開した著書「板本尊偽作の研究」を書いた木下日順氏がその中の一人である。
木下日順氏は著書「板本尊偽作の研究」の中で、次のように述べている。

「過去の因縁か、宿習のいたす所か、北山(本門寺)をはじめ、その他から云われる言葉に『日有、板本尊を偽作し、癩病になった』と云うのである。
日有の晩年、甲州下部温泉へ入浴に行ったり、下部から近い、大杉山有明寺にて入定した事は史実であろうが、その病気が何病であるかは不明である。
熱海の湯や常陸の湯に行かずに下部の湯に行ったということは、地理的な関係か、わからぬけれども、下部で良く効くという神経痛か、リュウマチの如き、身体が不自由になる長い病気ではないかと思う。大石寺に対して最大なる功労者・日有が癩病とは、考えたくないのである。」
(木下日順氏の著書「板本尊偽作の研究」p19)

安永弁哲氏の「日有癩病説」がほとんど感情論なら、こちらもそれと大差がない「日有が癩病とは、考えたくない」という感情論と言わなくてはなるまい。
「日有が癩病とは、考えたくない」という感情論を持つことは木下日順氏の自由であろうが、しかし木下日順氏の著書の題名が「板本尊偽作の研究」とあるように、「板本尊が偽作かどうか」ということを明らかにすると同時に、「日有が癩病だったのか、癩病ではなかったのか」ということについても、論理的に明らかにすべきなのではないか。
したがって「研究本」として出版している以上、「日有が癩病だったのか、癩病ではなかったのか」ということについて、明確な根拠を示して結論を下すべきところを、それが為されておらず、感情論として「日有が癩病とは、考えたくない」で終わってしまっていることについて、いささか疑問を感じざるを得ない。
又、日有が下部温泉で湯治をしていたことについても、なぜ下部温泉だったのかについては「わからぬ」といい、日有の「宿病」についても、「下部で良く効くという神経痛か、リュウマチの如き、身体が不自由になる長い病気ではないかと思う」と述べていることも、いささか的外れと言わざるを得ない。
下部温泉が湯治場や武田信玄の隠し湯として利用された湯治の効能は、疲労回復、外傷、火傷、やけど・切り傷などであって、神経痛やリュウマチではない。
又、当時、下部温泉をはじめとする温泉地には「湯女」がいたという大きなポイントについても、何ら掘り下げて研究していない。
したがって、木下日順氏が「日有癩病説」について否定的な見解を示していることは辛うじて評価するとしても、しかしながらその内容については、「日有が癩病とは、考えたくない」という感情論で終わってしまっていること。
日有の「宿病」や「湯治」について、何ら掘り下げて研究していないことなどを勘案すれば、まことに不充分かつ不足極まりない見解と言わざるを得ないのである。





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